千時千一夜

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 早池峰開山伝承は、遠野側の四角藤蔵による大同元年(八〇六)、大迫側は藤原成房と四角藤蔵の同時開山で大同二年(八〇七)とされます。この大同時代から少しさかのぼりますが、延暦十四年(七九五)、紫波郡の北上川流域に、のち(明治期)に早池峰神社(写真1〜7)を名乗ることになる神々の降臨・創祀があったようです。社頭の案内板に詳しい由緒が記されていますので、まずはそれを読んでみます。

早池峯神社
通 称  新山社    旧社格 村社
鎮座地  紫波郡矢巾町大字土橋第五地割字新山野四十番地
祭 神  瀬織津姫命  例祭 八月十七日
由 緒
 本神社は平安時代前期延暦十四年(七九五)に三柱の姫神を新山大権現として、創祀したと伝えられ、古より土橋地域また地域を超えて広く崇敬されている。社地広大で樹木鬱蒼と繁茂し、参拝者は自から荘厳の気に満たされる。往古社殿のない時代の斎場と推察される岩石三箇が本殿の後方にあり社殿のない神社の神跡を今に伝える当地方稀に見る古跡である。土橋村廣田家の祖先、廣田宗実が漢学修業のため早池峰山に籠り文学を研究し、その後天文二年(一五三三)八月十七日社殿を此の地に建立し早池峯神社と改め創祀した。天保十年(一八三九)に社殿を再興し、明治十二年十二月村社に列格された。〔中略〕
略縁起
「そもそも新山大権現の本地を申し伝え奉れば、人皇五十代桓武天皇延暦十四年(七九五)乙亥三月十七日三柱の姫神天降り坐し坐す、新山と申すは、古き松杉苔むし老木の枝にはつる草茂り、かすかに、洩月の見える、木魂ひびき鳥の声あたかも深山幽谷の如し、南に北上川の底清く水音高くして御手洗水の雲井に栄え、登る月影浪に光を浮べ北は千尋に余る広野に萩薄生い茂り是を名付けて新山野と申すなり。四方青垣山にして宮殿棟高く御床津比の動き鳴る事なく、豊明に明らひ坐しまして、祢宜の振鈴弥高く声あらたし、今も生え茂変らぬ三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也……」略
 この略縁起は天保十年(一八三九)に当社再建の際写されたものである。

 現由緒にしても天保十年(一八三九)の「略縁起」にしても、延暦十四年(七九五)における「三柱の姫神」の降臨伝承を伝えています。
 この延暦時代というのは、宝亀五年(七七四)にはじまる、朝廷による蝦夷[えみし]征討(三十八年戦争)時代の最中にあたっています。ただし、朝廷軍によって胆沢城が構築されるのは延暦二十一年(八〇二)、さらに北の紫波城が構築されるのは翌年の延暦二十二年ですから、「三柱の姫神」の降臨があった延暦十四年(七九五)という年は、紫波の地は、まだ戦乱前の平穏な時間に包まれていただろうことが想像されます。
 ところで、この由緒書きには、その内容において、とても大事なことが書かれていることがわかります。と同時に、とても大事なことが書かれていないことも気になるところです。妙なものいいかもしれませんが、この「書かれていること」と「書かれていないこと」について少しこだわってみます。
 まず、「大事なこと」で書かれているのは、祭神が「瀬織津姫命」と表示されるも、その創祀は「三柱の姫神」の降臨伝承をもっていることです。そして、「大事なこと」で書かれていないのは、この「三柱の姫神」がなぜ「瀬織津姫命」となるのか、その経緯について、あるいは、「三柱の姫神」と「瀬織津姫命」との関係について、由緒は一行の説明もしていないことです。
 また、天保期の略縁起は「三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也」、現由緒も「往古社殿のない時代の斎場と推察される岩石三箇が本殿の後方にあり社殿のない神社の神跡を今に伝える」としています。ところが、本殿背後の「影向三神石」「岩石三箇」は、実際は四箇の「神石」で(写真6)、これも謎めいているとはいえそうです。
 神道世界において、一般的に「三柱の姫神」とされるのは二つの場合しかありません。一つは宗像三女神、もう一つは祓戸三女神です。前者は記紀神話、後者は大祓祝詞(六月晦大祓)を出典としています。いずれにしても、両者に関わってくるのが瀬織津姫神ですが、延暦十四年の創祀にこだわれば、朝廷の祭祀思想とはまだ無縁な紫波地方ですから、ここに瀬織津姫神が祓戸神としてまつられる必然は少なかろうとおもわれます。
 考えられるのは「三柱の姫神」を宗像三女神とみなした場合ですが、こちらの仮定に立ってみますと、いくつか符合する事例がみえてきます。
 神が「石」に降臨する、あるいは神が「石」の姿となって降臨するというのは、どこまでさかのぼりうる古い観念なのかはわかりませんが、しかし、紫波・早池峰神社が「影向神石」の伝承をもっていることは重要におもえます。祓戸三女神が三つの「神石」に「影向」したという伝承は寡聞にして知りませんが、しかし、宗像三女神ならば、これはあります。
 大分県速見郡日出町に八津島神社があります。社名の「八」は、アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」によって誕生したとされる五男三女神の総柱数「八」に由来します。しかし、「八津嶋宮 影向山八石宮八津嶋大明神縁起」によれば、天平六年(七三四)九月八日、「津嶋宮霊地」に空から八つの霊石が天下ったとされます。この「八つの霊石」にはそれぞれの名が付けられていますが、縁起は、祭祀者を宇佐朝臣高春とし、この五男三女神の降臨とは別に、「昔日湍津姫命量知降臨影向旧跡」として、「御神降石[ミヲキイシ]」の先行祭祀があったことを伝えています。
 この「御神降石」に宗像三女神の一神「湍津姫命」が憑依していたようで、この神の祭祀は「津嶋宮」の名でなされていました。しかし、天平六年、そこに五男三女神の神石(霊石)が新たに降ってきて、社名は「八津嶋宮」へと変更されたようです。
 ここで気づくのは、先行降臨していたはずの「湍津姫命」は、天平六年にも新たに降臨していて、二度の降臨をしていることでしょうか。
 これは一見奇妙な話なのですが、宗像三女神というも、その大元神は「湍津姫命」一神であり、あるいは、総称神として「湍津姫命」があったと理解すれば、この二度の降臨という奇妙な話が示唆していることは、それほど奇異な話ではなくなってきます。つまり、津嶋宮→八津嶋宮という社名変更が象徴していますが、天平六年、記紀神話に準ずるように宗像三女神という分化神に五男神を合わせた新たな祭祀が津嶋宮にはじまったと理解できます。これは、中央からの強制による祭祀変更であった可能性が高いですが、そう断じる決め手の文献は存在しませんから、祭祀者・宇佐高春が、こういった祭祀変更を受容したであろうことが想像されるのみです。しかし、縁起は、五男三女神の八霊石の降臨を記すも、ここには「湍津姫命」の先行祭祀があったことを書き残さずにはいられなかったとはいえます。
 現在、「湍津姫命」ゆかりの「御神降石」の所在は不明ですが、もしこの神石が現存確認できれば、石は八つではなく九つとなり、「八」の数字はいよいよ怪しくなってくることでしょう。わたしはここで、紫波・早池峰神社の「影向三神石」が三つではなく四つだということを想起せざるをえません。なぜなら、湍津姫命と瀬織津姫神は、もともと異称同体だからです。あるいは、瀬織津姫という神名のルーツがこの湍津姫(タキツヒメ・セツヒメ)であったとおもわれるからです。
 紫波・早池峰神社由緒の行間沈黙部分が語ることを想像すれば、おおよそ以上のようになりますが、そもそも五男三女神の誕生神話そのものがとてもいかがわしいといえなくはありません。「伊豆山略縁起」は、五男神の一神・天忍穂耳尊を「伊豆大権現」とし、その他の七柱神(四男三女神)を「七尾七社大明神」と呼んでいます。その説明には「天照太神、素盞烏〔嗚〕尊と誓盟[ちかは]せ給ひし時、化生[なりいで]玉ふ所の五男三女の御神なり、別当一人の外[ほか]、他の人に伝へざるの神秘口訣あり」としていて、五男三女神の創作動機、あるいは真相の動機は、まさに「神秘口訣」だったのでしょう。
 ところで、紫波・早池峰神社は、通称「新山社」、また由緒では「三柱の姫神を新山大権現として、創祀した」と書かれていました。この「新山」ですが、由緒は「深山幽谷」から転じたような書き方をしていましたが、早池峰信仰を中心にみますと、円仁創建の妙泉寺、その境内の「新山宮」が本拠とおもわれます。それが「新山大権現」という権現呼称をもっていたことから、いかにも仏教的(神仏混淆的)です。
 明治期、この新山権現背後の神を「瀬織津姫命」とする新山神社が誕生しますが、権現呼称を踏襲、社名を新山神社とし、祭神を「瀬織津姫命」と表示しえたのは、紫波郡南の旧和賀郡・江刺郡に絞れば五社が確認されます。このうち、最古の由緒伝承をもつのは現・奥州市江刺区広瀬鎮座の新山神社です。その由緒内容は、以下のようになっています(『岩手県神社名鑑』岩手県神社庁)。

新山神社(奥州市江刺区広瀬)
由緒:文政九年(一八二六)九月の風土記によると、当時は新山権現であり、本地仏は千手観音で慈覚大師の作と伝えられている。
 嘉祥年中(八四八〜八五一)慈覚大師の開基、本体は七体の観音像で大師が浅井の毘沙門像の末木で彫刻したといわれているが、その形体は今は定かではない。
 棟札によれば、嘉祥三年(八五〇)九月初九日、国君の武運長久と五穀成就、村内安穏の祈願をこめて創祀したもので、一間四面南向の社であった。
 元禄三年(一六九〇)九月九日、大檀那藤原の朝臣綱村卿により再建された。

 慈覚大師(円仁)の名がここでもみられますが、彼は「新山権現」の本地仏を「千手観音」とみなしていたようです。円仁と新山権現との関係は濃厚とみるしかなさそうです。奥州市水沢区(旧胆沢郡)姉体の新山神社にも円仁伝承がありますが、こちらは現在、筆頭祭神を「天津彦穂邇邇芸命」としています。その由緒を読んでみます。

 桓武天皇、延暦二十一年(八〇二)に坂上田村麻呂東奥を鎮定し、胆沢城に関東より四千人を配して当地方に郷村を開発せしとき、郷中に肇国の神霊を勧請して開拓発展の守護神とする。
 大同二年(八〇七)に郷中の新山林の地に初めて社殿を建立し、新山神社と尊称して郷村民崇敬す。
 嘉祥三年(八五〇)に慈覚大師が東奥巡錫のとき新山大権現と改め、天台の寺格を創立して城脇山新山寺と称す。以来両部をもって奉仕す。

 円仁の関与は、ここでも「新山大権現と改め、天台の寺格を創立して城脇山新山寺と称す」に表れていますが、当初、田村麻呂がまつったとされる「肇国の神霊」「開拓発展の守護神」は、はたして最初から「天津彦穂邇邇芸命」であったかどうか──、その真は、今は闇の中といったところでしょうか。
 紫波・早池峰神社拝殿内には天照皇大神の祠が勧請されていて、そこには「瀬織津姫大神」(の神札)も同居しています。この祠の下には、「豊年守護」と題して大年神と御歳神の絵がかけられています。絵の上部には、穂を咥[くわ]えている鳥が描かれていて、今にも穂を落とそうとしているかのようです。稲作のはじまりを告げる、この「穂落とし」が大年へと転じることを絵の作者は熟知していることがわかりますし、一般的に大年の子神とされる御歳神にしても、ことさらに女神として描かれています。両神は一対の姿をとっていて、これらは、上檀祠の天照皇大神と瀬織津姫大神の関係を匂わせる演出がなされているようです。大年神は、かつては志摩の伊雑宮にまつられていた男神でしたし、御歳神は、早池峰信仰では「厄を落とす」という御歳神の札として年末に氏子に配られていました(『エミシの国の女神』)。紫波・早池峰神社には、その由緒内容ばかりでなく、日本の神まつりの基層をさまざまに照らしだそうとする仕掛けがなされているようです(写真8・9)。

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