千時千一夜

お読みいただき深謝します。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9

イメージ 9

 遠野郷の瀬織津姫祭祀を語ろうとするとき、この愛宕神社が抱えている問題はとても大きく根深いものがあります。
 岩手県神社庁編『岩手県神社名鑑』(昭和六十三年刊)は、県内の神社由緒・祭神を記録したものですが、まずは、ここに記載されている愛宕神社に関する由緒を読んでみます。

愛宕神社
  旧社格 無格社
  鎮座地 遠野市綾織町上綾織三六地割一二番地
祭神 軻遇突智命
例祭 旧七月二十四日
由緒
 寛治年間(一〇八七〜一〇九四)の創建と伝えられるも不詳。
主要建物 本殿七・二五坪、拝殿一〇坪
境内地 一七六坪
氏子  一〇〇戸
崇敬者 二、〇〇〇人〔後略〕

『岩手県神社名鑑』は公刊されたもので、ここには、愛宕神社祭神は「軻遇突智命」、由緒は「寛治年間(一〇八七〜一〇九四)の創建と伝えられるも不詳」と書かれています。
 全国愛宕神社の総本社は、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山(京都市最高峰の霊山)に鎮座しています。山頂の若宮(奥宮)の祭神(主神)が「軻遇突智命」(火産霊命と同神…日本書紀)で、遠野・愛宕神社も本社祭神と同神であることがわかります。
 しかし、遠野郷は、名鑑が記す祭神「軻遇突智命」および由緒「不詳」に対して、明確に「否」とする史料を保持しています。綾織村教員会編『綾織村誌』(昭和七年刊)が記すところを読んでみます。

愛宕神社
社格 無格社  祭日 旧七月廿四日  氏子 九五
 石階段百余級その中間に鳥居あり。上りつむる処に神楽殿あり。更に上りて本殿あり。南面して松樹の間より綾織平野を望む。祭典には神楽獅子踊等を奉納し参拝者多し。
 本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し。ここに至り里人相協りて、寛治年間(一七四七〜一七五三…【注】神武紀元)火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり。
 本社を拝すれば感応最も多し。赤阪家にて家人眠り居りしに夢に愛宕神社の神霊を見たり。驚きて起き上りしに、誰人か放火して既に大事に至らんとす。急ぎて之を焼(消)しとめ霊験のあらたかなるに感じ、本社に石檀を献納せり。〔後略〕

 祭日の「旧七月廿四日」の二十四日というのは地蔵尊の縁日ですが、この地蔵尊は、本社・愛宕神社の本地仏とされてきた「勝軍地蔵」に対応しているようです。本社・愛宕神は火防の神として、つとに知られます。
 村誌は、この「火防」を最重視していた氏子のご先祖たちの思いを伝え、その火防の神を「火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり」と明記しています。さらに、赤阪家の伝承から、「愛宕神社の神霊」のあらたかなる「霊験」も添えています。
『綾織村誌』は昭和七年(一九三二)の刊行ですが、愛宕神社祭神を「瀬織津姫神」とし、堂々たる由緒まで記録しています。『岩手県神社名鑑』は昭和六十三年(一九八八)の刊行で、戦後の公刊です。しかし、ここには、祭神「軻遇突智命」、由緒「不詳」とされ、村誌に記されていた祭神「瀬織津姫神」が「軻遇突智命」に変更されていることがわかります。
 昭和十四年(一九三九)、岩手県神職会によって、県内神社の社格と祭神の一覧を含む『岩手県神社事務提要』が編纂されます。同書にも、愛宕神社は「無格社」、祭神は「瀬織津姫命」と明記されています。
 これら戦前の二史料のいずれもが、愛宕神社祭神を瀬織津姫と記しているにもかかわらず、戦後の編纂となる『岩手県神社名鑑』では、祭神がいつのまにか変更されています。これはとても奇異・奇天烈な話で、念のため、愛宕神社氏子役員の方に、こういった祭神変更があったことについて確認してみたところ、大変驚かれて、そんなことは何も知らされていないとのことでした。これは由々しきことで、関係神職および岩手県神社庁は、愛宕神社氏子の方々に、こういった祭神変更の理由・経緯を納得が得られるように説明する責任があるはずです。また、納得のゆく説明が不可能ならば、祭神をもとの「瀬織津姫神」または「瀬織津姫命」に戻す必要がありましょう。
 わたしは愛宕神社の氏子ではありませんので、こういった、氏子の知らぬところで祭神・瀬織津姫が勝手に変更されているという事実を指摘するくらいしかできませんけれど、もし、わたしが同社氏子ならばと仮定してみますと、氏子九五戸(名鑑は一〇〇戸と記載)の総意を確認し、場合によっては法的訴訟も視野に入れてのアクションをおこしそうだなとおもったものでした。
 それはともかく、愛宕神社境内には昭和四十年の記銘をもつ「早池峰山」の石碑が建立されています。江戸時代初期(慶安〜承応時代〔一六四八〜一六五五年〕)に成る「早池峯大権現本地本仏並びに二十末社」(『早池峰山妙泉寺文書』所収)によれば、早池峯大権現の「二十末社」には、「白山大権現」を筆頭とするも、なかに「愛宕」も記載され、これがどこの愛宕権現かは分明ではないものの、愛宕神と早池峰神は無縁というわけでもなさそうです。
 早池峰神社の鎮座地・旧附馬牛村に、「愛宕様」の話があります。『定本附馬牛村誌』は「エダコ(巫女)」と題して、次のような不思議な逸話を記しています。

エダコ(巫女)
「口寄せ」と云つて巫女(多くは盲目である)を頼んで、死人の霊を呼び出して話を語らせる。仏が云い残したことや気がかりなことを聞いてやつて、仏へ供養するものであるが、紛失したものの行方とか、病気の時の障り、吉凶などを占う外に、御祈祷して貰うこともある。〔中略〕
 変つた例では坂の下の某氏の家によくない事が続くのでおがんで貰うと、愛宕様のお社を毀しつ放しにしているからだと云われた。しかし附近に愛宕様を祀つたことは無いと云うと確かにあるから探して見ろと云われた。探したが判らない。古老たちも知らなかつたが、その中に近くの山の頂上附近に神宮の土台石らしい石の並んだところを見つけて其処に祠を建てて神官を頼んで祝詞をあげると、髪を長く垂れ、胸に丸い光るものを抱いた女神の姿の顕現を見たと云うことである。

 ここで語られている「愛宕様」は綾織の愛宕神社のことではありませんが、イタコ(巫女)の託宣によってようやく再建された「愛宕様」の祠で、神官が祝詞を奏上すると「髪を長く垂れ、胸に丸い光るものを抱いた女神の姿」が現れたとされます。これは、女神の感謝の気持ちが伝わってくる話ですが、この愛宕の神様が「女神」として「顕現」したというのは、愛宕神の真姿を伝えていて実に興味深いです。
 綾織・愛宕神社の祭神・瀬織津姫は早池峰大神でもあります。この神が「胸に丸い光るものを抱いた女神の姿」をしていたというのは、遠野郷にだけみられる空想話ではありません。
「丸い光るもの」とは円鏡とみられ、この鏡を胸に抱く女神は、飛騨国では「日抱尊[ひだきそん]」(乗鞍岳の神)の名で崇敬されていました。日神の象徴である円鏡を子神のようにして胸に抱く、この「日抱尊」という大いなる女神は、円空が彫った神像の一つでもありましたが、それは乗鞍大神こと瀬織津姫神の姿でもありました(詳細は『円空と瀬織津姫』下巻「円空の意志表示─両面宿儺と瀬織津姫神」を参照ください)。
 両面宿儺の国とエミシの国の早池峰─遠野郷が、瀬織津姫という神を媒介として結ばれる、このイタコ(巫女)の「心力・霊力」に関わる話には脱帽です。村誌の記述に、作為性が微塵も感じられないところがいいです。

全1ページ

[1]


.
風琳堂主人
風琳堂主人
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事