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瀬織津姫という神を霊感・妄想・狂騒的に語らないこと──。
これは自分に戒めていることの一つですが、瀬織津姫祭祀を取り巻く「陰気」があまりな場合を眼にすると、ややもすると「冷静」さを逸脱しそうになる自分があることに気づきます。
日本の主導的な祭祀思想(神宮を中心とする神社神道の思想)は、瀬織津姫祭祀に対して、ときに露骨な仕方で「陰気」を演じます。この祭祀思想が表立って語らぬ最大の根拠は、天皇(の安泰)のために、ひいては、その祖神をまつる神宮の安泰のために、神宮祭祀を脅かす神は排除・消去するという妄想的執着にあります。これが「味の素」ならぬ「陰気の素」の真因といえます。
しかし、瀬織津姫という神の立場からいえば、天皇といえども国内に数ある祭祀者の一人で、つまり、村の一神官と本質的に差異があるわけではない、となりましょう。この一祭祀者である天皇を神聖視・絶対視し、ときに死守しようとさえする祭祀思想・妄想が幾重にも取り巻いていて、瀬織津姫祭祀との間に軋轢の痕跡を残すことになります。
もし自分が藤原不比等であったならば、あるいは、明治期の神祗政策の最高責任者であったならばと仮定してみますと、自分ならば、瀬織津姫祭祀の消去をもっと徹底的にやっただろうとおもいます。具体的には、この神を「祓戸大神」という性格以外でまつっている場合は「祓戸大神」の祭祀への説得的変更を徹底化し、それがかなわぬならば、この神の祭祀を完全に消去しただろうとおもいます。
これは、天皇と神宮の安泰・永続という「大義」に生きようとする仮定での極端な話ですが、日本の神祗政策は、この点において不徹底であった、あるいは失敗したというしかありません。一例を挙げれば、東北の山中、遠野郷の一神社、江戸期までの伊豆権現を神社化した伊豆神社の祭神「瀬織津姫命」を、そのまま残したことが象徴しています。
全国各地に、この「伊豆神社」の類例が四〇〇社以上あることを述べれば、日本の神祗政策の不徹底・失敗はより明瞭となってきます。これらの祭祀が個々具体的に明かされることは、瀬織津姫という神を考える上でも大きな意味があるものとおもいます。
インターネット世界の出現は、情報の公開・共有化を大きな特徴としています。藤原不比等の時代をいわずとも、明治期初頭、コピー機もまだない時代に、こんな新世界が誕生するとはだれも想像しえなかったはずです。
瀬織津姫祭祀の消去側からすれば、「社録ノ没収」(「早池峰神社昇格申請書」昭和三年)をすれば事足りたと考えても仕方のない時代でした。しかし、この消去思想(日本の主流的神祗思想)がただ一点見逃していたのは、神(の名)を神社祭祀から消すことができても、そこには氏子(人間)の「心」の反映としての神は残るということです。つまり、たとえ神(の名)を消せても、人の「心」までは消すことはできないということです。このことをもっともよく伝えてくれているのが、富山県高岡市の速川神社でしょうか(富山県の項を参照)。
早池峰─遠野郷の守護神としての瀬織津姫という神を、試行的に探索した『エミシの国の女神』という本の初版発刊は二〇〇〇年一〇月で、それからすでに九年近くになります。この間の時間は、インターネット世界の本格的普及の時間と重なっています。
現在の視点からいえば、この本がもつ、瀬織津姫という神を論じる上での功罪がみえます。この本がもつマイナスの面はいくつかありますが、ここで内省を込めて一つ明らかにしておきたいことがあります。それは、当時、瀬織津姫に関する先行的研究書が皆無の時代だったとはいえ、この神を「縄文の女神」であるかのごとくに曖昧に記述している点です。
水は人が生きるのに絶対不可欠ですから、水の神は縄文時代から生と生活の場面で最重要な一神であったとはいえるとおもいます。記紀神話は、この積年の水の神の系を重視するのとは対極的に書かれていて、そういう意味では、縄文からの水神の系に連なる神々を内蔵・内包する神として瀬織津姫をみることは可能です。しかし、この連綿とつづく「水神の系」を想像することなく、瀬織津姫という神をストレートに「縄文の女神」とみなすなら、これは大いなる錯誤となりましょう。
冷静に考えるなら、縄文時代に「瀬織津姫」という神名があったはずもなく、したがって、瀬織津姫への讃辞として「縄文の女神が復活する」といった論は成り立ちようもないことは、やはり指摘しておく必要があります。
「瀬織津姫」という漢字表記の神名は、その音の美と相俟って、相当によくできた神名です。あるいは「できすぎ」といっても過言ではない神名ですが、こういった神名表記は、かなり漢字文化のセンスをもっていないと創作しえないものです。
瀬織津姫という神の創祀で、最古の伝承をもっているのは欽明天皇の時代でしょうか(新潟県・長瀬神社、福島県・宇奈己呂和気神社)。つづく敏達天皇の時代にも、この神の創祀を伝える社があります(静岡県・池宮神社)。少し時代が下って、斉明天皇時代の齶田[あぎた]浦神(秋田浦神)を瀬織津姫と伝えるものや(秋田県・住吉水門龍神社)、天智天皇時代の前にさかのぼる瀬織津姫祭祀を伝える大川神社(のちの唐崎神社、滋賀県)など、記紀が成立する八世紀以前をみても、瀬織津姫祭祀を伝える神社は各地に存在します。
神功皇后を卑弥呼のことと偽装しようとしたのが日本書紀でしたが、彼女が「天照大神荒魂」(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)をまつらせたとされる広田神社(兵庫県)の祭祀を史実とみなすと、瀬織津姫祭祀の歴史は一気にさかのぼることになりますが、これは後代(記紀の創作時代)の付会的由緒といえそうです。
瀬織津姫という神名創作(漢字表記)のセンスのよさを考えますと、漢字文化の倭国への流入を視野に入れる必要がありそうで、それは、やはり仏教文化の伝来とセットであろうとおもわれます。欽明・敏達時代が瀬織津姫という神の創祀の上限ではないかと考えるのは、この時代から、倭国中枢(支配者層)に仏教の受容と格闘のはじまりがみえるからです。
瀬織津姫という神の創祀を、歴史時間的に、どこまで遡上して考えうるかということで、欽明・敏達時代を想定してみたのですが、この神の祭祀が、さらに弥生を飛び越えて縄文時代にまで一気にさかのぼることは、やはりありえないことでしょう。
欽明・敏達時代以前、倭国の最重要な神は、まったく別の名で呼ばれていたものとおもわれます。
瀬織津姫という神は、神宮創祀以後、たしかに歴史的に長い受難の時を生きてきて、にもかかわらず、この神は重なる「陰気」をはねのけ、桜松神社の歌のことばを借用すれば、現在まで「すずやかに」健在をつづけています。瀬織津姫神に「何かを期待する」といった自己の心放棄の姿勢で臨むのではなく、この神をあるがままに、つまり「神は神のままに」理解しようとすることがむしろ大切ではないかとおもっています。これは、人間の「心」を理解することと、必ずや通ずるものとおもわれるからです。
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