
杵築市大田町は、町村合併前は「西国東郡大田村」でした。ここは、国東半島・両子[ふたご]山の南西麓に位置するも、六郷満山の「六郷」には含まれていなかったようです。この旧大田村小野地区に鎮座する比枝[ひえ]神社の「ひえ」は、「日吉」の古訓「ひえ」にちなむものです。ここは、本殿背後ほかに立派な石垣を組むなど、山奥の小社一般のイメージとはだいぶ趣を異にしています(写真1〜9)。
氏子衆の厚い信仰を感じさせる小野・比枝神社ですが、ここは明治期の神仏分離以前は「山王権現宮」と呼ばれていて、これは古鳥居(二の鳥居)の額字にまだみられます(写真2・3)。『大田村誌』所載の由緒を読んでみます。
比枝神社
祭神 大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊
伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊
猿田彦尊・事代主尊
大山祇尊・中山祇命・林鹿山祇命・木花佐久夜姫命・句々廼智命・罔象女命
由緒
当所(小野)は往古より多くは水田と雖もかんばつのため取入れることが出来ず、村民は云うべからざる困難に遭遇すること連年なりしかば、
弘仁元年(八一〇─平安時代)庚寅十月十五日、近江国滋賀郡坂本村鎮座の日吉神社(旧社号は山王権現と称せり)の御分霊を(同社より供奉の僧名は旧記紛失に付不詳と雖も、境内に浄心禅門天長三(八二六─平安時代)丙午二月の碑石あり)勧請して鎮守と奉斎す。〔中略〕
旱ばつの時は、村民こぞって、本郡高田村(現在の豊後高田市)より潮を汲みて祈雨をなす、その都度霊験著しく、降雨忽然たり、故に五穀豊熟民庶各々飢餓を免るるの幸福を蒙るに至れり。
爾来これを例として祈雨の時は、村民ことごとく海浜に出て潮を汲み、高田村より小野瀬(小野瀬とは当小野村より出し地名にして、近古まで鳥居も同所に存在せし由なり)を経て川に沿うて、神前にその潮を奉りて懇祈する時は、顕著なる神験あること普く人の知るところなり。〔後略〕
比枝神社の本社は近江国の日吉神社(山王権現)で、そこからの分霊勧請は弘仁元年(八一〇)十月十五日とされます。現表記の祭神は全一六柱とにぎやかです。このうち、二柱(猿田彦尊・事代主尊とおもわれる)は旧神職の奉祭してきたもの、また、六柱(大山祇尊・中山祇命・林鹿山祇命・木花佐久夜姫命・句々廼智命・罔象女命)は明治四十二年(一九〇九)に比枝神社へ合祀された神々で、村誌が「往古」は八柱の祭祀だったとするように、残る八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)が日吉神社(山王権現)からの勧請神です。
近江の日吉神社(山王権現)は、比叡山・天台宗の鎮守・守護神とみなされ、当初は大比叡神・小比叡神という二所権現(両所明神)からはじまるも、宇佐神ほか関係神を神仏混淆化・眷属神化していきます。総称「山王権現」の名のもとに、上七社・中七社・下七社、いわゆる「山王二十一社」が整備されてゆくわけですが、それら一社一社に本地仏をあてはめ、また、本地垂迹による神々の定義(あてはめ)がなされますので、部外の眼からみると、とても奇異・複雑な神仏混淆祭祀の展開と映ります。これら二十一の垂迹神についても、文献によって異なるものも散見され、天台宗内部にしてからが、垂迹神の解釈に統一性を欠いていたようです。こういった恣意的ともみえる神仏混淆と本地垂迹による神(神名)の新たなあてはめは、結果的に本来の神の「価値」の下落に加担したといった指摘もできそうです。
このように、統一的な神名をたどることが困難な山王権現(の思想)ですが、ただいえるのは、さまざまな垂迹神が語られるも、そこに「瀬織津姫尊」の名が記録されることは一度もなかったということです。にもかかわらず、比枝神社は、その勧請神のなかに、この神の名を入れているというのは興味深いことです。
「山王二十一社」のなかで、これまでみてきたところで「瀬織津姫尊」が秘祭されていた可能性がある社を抽出するなら、上七社のうち樹下神社(樹下宮)と(本ブログ・岐阜県「野宮神社【補遺】」を参照)、下七社の巌滝社(竹生島弁財天をまつる)があります(『円空と瀬織津姫』下巻)。その他、上七社には宇佐宮や白山姫神社も含まれていて、いずれも関係なしとはいえないのですが、現在、「山王二十一社」のどの「社」に「瀬織津姫尊」の元祭祀があったかを特定するのは、新たな史料でも出てこないかぎり、やはり不可能というしかなさそうです。
そういった「不可能」の上で、村誌記載の比枝神社由緒を再読してみますと、その勧請動機は「往古より多くは水田と雖もかんばつのため取入れることが出来ず、村民は云うべからざる困難に遭遇」とあり、つまり、この「かんばつ(旱魃)」による生活苦難の克服への願いが、ここに「神」(山王権現)を勧請した最大の動機だったことがわかります。
日吉神社(山王権現)からの勧請神は、村人総意の「祈雨」の願いに、失望させることなくよく応えたようです。村誌の由緒にみられる、「旱ばつの時は、村民こぞって、本郡高田村(現在の豊後高田市)より潮を汲みて祈雨をなす、その都度霊験著しく、降雨忽然たり、故に五穀豊熟民庶各々飢餓を免るるの幸福を蒙るに至れり」といったことばから、勧請神への村人の深い感謝の気持ちが伝わってきます。
こういった「祈雨」に神威あらたかな神が比枝神でしたが、このことを念頭において、山王権現の垂迹神八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)を眺めてみますと、「祈雨」の神徳を顕著に有する神が一神いることに気づきます。いうまでもなく「瀬織津姫尊」です。
たとえば、瀬織津姫命を単独神としてまつる瀬織戸神社の由緒には、「古くより「雨乞い」の神として、近郷近在の信仰を集め」云々と書かれていました(静岡県・瀬織戸神社の項を参照)。
また、近いところの豊前国においては、同じく瀬織津姫神を主祭神としてまつる闇無浜[くらなしはま]神社(江戸期までの社名は「豊日別国魂神社」、大分県中津市)の縁起にも、「雨乞い」の顕著な神徳が語られています。『闇無浜神社─由緒と歴史』(同社社務所)には古伝縁起「豊日別宮伝記」が収録されていて、そこには、弘仁八年(八一七)のこととして、次のような「雨乞い」の記述がみられます。
嵯峨天皇弘仁八〔丁酉〕年夏五月、大旱[おほひでり]す。国中の四民甚だ愁[うれ]ひて、当宮に雩[あまご]ひす。五日にて雨ふらず、因りて辰麿(神主…引用者)、中御崎より神体を船に乗せ奉り、分間崎[ままのさき]に到り、三日三夜神人相ひ共に誠情を抽[ぬきん]じて祈る。■(■は日に之)に陰雨厚く布[し]き、其の雨国中に洽[あまね]し。諸民大いに悦[よろこ]びて幣料を進[たてまつ]り、郡吏飾鉾[かざりほこ]を献ず。
闇無浜神社そのものの紹介は稿を改めますが、比枝神「瀬織津姫尊」が「祈雨」に並々ならぬ神威をもっていることは、瀬織戸神社や闇無浜神社の二例にとどまるものではありません(東北の早池峰山ほか)。
また、先の村誌の記述とこの伝記に共通しているのは、祭神へ雨乞い祈願をするとき、必ず「海」(潮)が重要なファクターとして語られていることでしょうか。これは、瀬織津姫という滝神・水源神が、その原郷を「海」にもっていることを告げているようにみえます。八戸市・御前神社に伝わる瀬織津姫讃歌「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」も海浜(「浪打」)をうたっていました(青森県・川口神社の項を参照)。
なお、『大田村誌』は、霊蹟「下馬石」の項で、この比枝神の神威のただならぬ強さを記してもいました。
下馬石
神殿の真向に当り、霊石あり、乗馬するもの、ここにて墜落す、よって神のたたわりと称し、一の柱石を祭りしものと古老よりいい伝う、旱ばつの時は松かがりを焚き祈念の場所とす。
ここの比枝神は、神殿の前を乗馬のまま過ぎようとする者(庶民ではありません)を無礼として落馬させるほどの神威強烈な神だったようです。ゆえに「たたわり(祟り)」の神とも伝えられていたようですが、この祟り神ゆかりの「下馬石」は、「旱ばつの時は松かがりを焚き祈念の場所」でもありました。
「祈雨」と「たたわり(祟り)」という二つの神徳・神威を兼ねもつ神を、比枝神八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)にあらためて探ってみますと、いよいよ「瀬織津姫尊」一神がそこから浮かび立ってくるようです。
六郷満山の諸寺はすべて天台宗でした。近江国では、この天台宗(比叡山)の守護神が山王権現(日吉神)です。比枝神社は、瀬戸内海(周防灘)へ流れ込む「桂川」最上流部の谷間[たにあい]に開けたかつての小野村に鎮座していますが(「小野」は「近江国滋賀郡坂本」の北にもみられ、ここは小野氏の本貫地でもあります)、この桂川を下ると、仁聞[にんもん]菩薩開基の草創六寺の一寺「馬城山伝乗寺」(本尊:阿弥陀如来)がありました。馬城山は、宇佐・比売大神ゆかりの御許[おもと]山の異称でしたが、「伝乗寺」はすでに廃寺、現在は「真木王堂」の名で、その法灯を継いでいます。
小野村の村民による「祈雨」神勧請の懇望を受けて、当村へ「山王権現」を勧請したのは、あるいは、その勧請の縁をとりもったのは、今はなき馬城山伝乗寺の僧であったのではないかと想像されます。もっとも、村誌は「供奉の僧名は旧記紛失に付不詳」としていて、これも今は幻の想像ということになります。
小野・比枝神社本殿の真裏には、古い石祠が大切にまつられています(写真9)。この祠にまつられる神がとても気になるところですが、村誌の記載からは、ここにどんな神がまつられているのかはわかりません。
現在の氏子・村民の方々が、瀬織津姫という神をどれほどご存じかはわかりませんけれども、宇佐神宮の強大な祭祀・経営の影響下にある地で、また、天台宗の神隠しの思想をかいくぐるようにして、小野・山王権現の中心神は、人々の切実な「祈雨」の願いによく応えていたことだけはたしかなようです。(資料提供・写真:豊国の風)
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