|
尾張国一ノ宮・真清田[ますみだ]神社(愛知県一宮市真清田)は天火明命をまつる、尾張氏ゆかりの社というのが一般的な認識だとおもいます。「真清田神社御由緒」という無料案内には、「御創祀神武天皇三十三年」とうたっていて、こういった表示が意味することは、垂仁時代に創祀されたとされる伊勢神宮よりも真清田神社のほうが古く、由緒があることを暗に主張していると理解できます。
同案内の境内図をみると、本殿の真裏らしきところに三明[さんみょう]神社という「本宮荒魂」をまつる社があります。神職の談によると、内宮・荒祭宮に準ずる神とのことです。女神さんですねと念をおすように尋ねるとにっこり顔で「そうです」とのことです。熱田神宮の禁足地には「天照大神荒魂」をまつる一之御前神社が秘祭され、尾張氏は、天火明命のほかに、神宮祭祀枢要の神を秘かにまつることに共通性があるようです。
この三明神社の写真撮影を願いでると「どうぞ」とのことで、門の鍵をあけ、敷地内へ案内していただきました。小さな社殿ですが、たしかに本殿真裏に、とても大切にまつられています。
田中卓監修『真清田神社史』(平成六年)から、三明神社の関連記事を拾ってみます。
近世初頭の真清田神社境内社に「祓除殿社」があります。同社の説明は、「楼門内側の西方に東面する。祓殿神の瀬織津姫・速秋津彦・速秋津姫・速佐須良比売[ママ]・本宮荒魂の五柱を祀る。古くは八十八末社の一つ」という記述が眼にとまります。
三明神(本宮荒魂)は瀬織津姫たちと並んで「祓殿神」とみなされていたようです。また、「三月三日の桃花祭の祭礼車もこの社(祓除殿社)の前にて祓殿囃を行ふ慣例であつた。大正元年十月二十二日に愛鷹社に合祀した」と書かれ、桃花祭という真清田神社の最重要な祭礼時には「祓殿囃を行ふ」というように、真清田神から厚い礼を尽くされるのが「祓除殿社」であったことがわかります。
佐分清円『真清探桃集』(享保十八年〔一七三三〕)に記載とのことですが、ここには三明神社は「三明神宮」、真清田神社の「第一別宮」とされ(現在は摂社)、別格祭祀がなされていたことがわかります。『真清田神社史』の記述を読んでみます。
三明神宮(第一別宮)
当社は別名、「印珠宮」「三明印珠宮」とも称され、三種の印珠を秘蔵することに由来するといふ。四所別宮の中で最も重視されて別宮の第一とされた。祭神は本宮の荒魂であり、古来、神官林三之権が担当した(『真清探桃集』巻二)。三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた。
室町時代の『真清田神社古絵図』によれば、この社は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物であるといふ。この社殿も享徳四年(康生元年、一四五五)の火災によつて焼失したらしい。江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御になつてをり、いつしか本宮の中に御正体が祀られるに至つたらしい。『古代建物調書指出』(明治十八年八月)によれば、「三明神又ハ印珠宮ト云。地蔵寺第四世成海法印、本宮之内陣ニ遷座ス。永享八十一月沙門成海ト書付置。」とあり、その遷座は永享八年(一四三六)十一月に地蔵寺の成海法印によつて執り行はれたものと推測される。この三明神の遷座が地蔵寺の僧侶によつて行はれたことは、同社が地蔵寺・般若院の管理下にあつたとも解せられるもので、注意する必要があらう。江戸時代には拝殿の西側で北より三番目に祀られ、独立した社殿を有してゐたが、大正元年に末社犬飼社に合祀されるに至つた。由緒のある当社は平成五年三月に再建された。
祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀には変遷があったことがよく伝わってきます。しかし、真清田本宮神(天火明命)と同格祭祀がなされていたことは、「三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた」、「江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」という記述によく表れています。
桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。
真清田神社の神仏混淆時代、同社境内には二つの神宮寺(東神宮寺・西神宮寺)がありました。東神宮寺は真清田神社「本宮」に対応するも、本尊は東西神宮寺とも阿弥陀如来、脇に地蔵尊と観音を配していたとされます。室町時代の社殿配置、つまり「この社(三明神社)は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物」とされる『真清田神社古絵図』の記録は貴重です。また、地蔵寺の存在が示唆していますが、三明神の本地仏は阿弥陀如来でもあったものの、どうやら地蔵尊ともみなされていたと考えられます。
『真清田神社史』は、「なほ三明神と称される社が当社の近くの丹羽郡・中島郡等に集中して分布してゐることとの関係は十分注意する必要があらう」とも付記しています。
三明神に関する短い説明のなかに「注意する必要があらう」という文言が二つみられます。『社史』は「注意」の具体的内容を詳細に語りませんが、丹羽郡・中島郡等への集中分布に関する「注意」は、祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀ではあるものの、当地域(丹羽郡・中島郡等)において、むしろ真清田本宮神よりも広く(深く)信仰されていたことを示すことへの注意喚起と読めます。『尾張国神名帳』には、「正一位」の神階をもつのは真清田大明神・大縣大明神・三明神大明神・熱田皇太神宮・八剱明神の五神とあります。この「三明神大明神」は尾張国二之宮・大縣神社の別宮とされる三明神のことですが、いずれにしても、真清田神や熱田神と並ぶ正一位という極位の神階にあったのが三明神でした。
もう一つの「注意」は、神仏混淆に関するものとみられます。『真清田神社史』も指摘していることですが、当社の神仏混淆は平安時代初期、天台宗によってはじまります。これは、境内に天台宗ゆかりの「常行堂」があったことに端的に表れています。天台宗における「祓殿神」の本地仏について、比叡山「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)に「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とあり、神仏混淆の天台宗的方法が真清田神社の三明神(祓殿神)の本地仏・地蔵尊に反映していることがわかります。室町期にまとめられた『神道集』にも「尾張国一宮、真清田大明神是也。本地々蔵也」とあり、三明神こそが「真清田大明神」であった可能性もあるようです。
真清田神とはなにかという問いもあらためて喚起されるところです。『真清田神社史』によれば、真清田神を天火明命(天照国照火明命)とするのは明治以降のことで、その前はというと「ほぼ中世に大己貴命、ほぼ近世には国常立尊とする説が強かつた」とされます。『社史』は、『諸社根元記』所引の『諸国一宮神名帳』には「伊射波神社 号真清田大明神、大己貴命也俗国玉ノ社ト云ハ是也 尾張国中嶋郡」とあり、神宮文庫所蔵の『大日本国一宮記』には「伊射波神社 真清田大明神此也、大己貴命 志摩国答志郡」と、これも貴重な記録を再録しています。
内宮別宮・伊雑宮の「伊雑[いぞう/いざわ]」は「伊佐波」「伊射波」からきたもので、志摩国一ノ宮・伊射波神社(鳥羽市安楽島町字加布良古)は伊雑宮の元社とみられます。伊射波神社の主祭神は、多紀理比売、配祀神は多岐津姫、狭依姫、つまりスサノオとアマテラスの「誓約三女神」がここにまつられています。加布良古[かぶらこ]崎に鎮座するこの伊射波神は、志摩大明神、加布良古さんと、地元の海の民に今でも親しく呼ばれています。江戸期に伊雑宮の祭神として伊射波登美命の名がみられますが、伊射波神=伊雑神がもともと宗像神でもあったことをよく伝えているのが伊射波神社です。
この伊射波神=伊雑神と真清田神が同神とみられていたというのは、示唆することあまりに大きいといえます。
伊雑宮と関わりある「祓殿神」ならば、これは祓戸三女神化される前の瀬織津姫神とみるしかありません。その「祓殿神」が「真清田大明神」と呼称されていることはとても重要です。真清田神社において、本宮神(天火明命)と三明神(本宮荒魂神)は、東西神宮寺の存在や「本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」とあったように、一対の関係祭祀がなされていました。これは、伊雑宮や神宮の基層祭祀の姿でもありました。
室町時代後半期に成立したとされる『真清田神社縁起』の「一年中神事記」には、六月と十二月に「千度祓」(中臣祓を千度くりかえし唱える)という大祓の重神事が記されています。近世の真清田神は国常立尊、中世は大己貴命とされるも、その前については「平安時代初期の承和十四年(八四七)までは、真清田神社についての確かな史料は皆無」とのことで、神社側の文書記録に具体的な祭神名は確認できません。しかし、社に継続・伝統化された神事・祭礼や本地垂迹の関係をみるかぎり、真清田神の性格が「祓神」とみなされていたことだけは色濃く伝えられています。
古縁起(『真清田神社縁起』)には、文武天皇時代に義淵が勅命によって来社・祈祷をし、桓武天皇時代には同じく勅命による最澄の来社があり、そして嵯峨天皇時代には空海がやってきて雨乞い祈祷をし「霊雨」を降らせたことが記録されています。
文武天皇(持統太上天皇)時代に祭神の曖昧化がすでにはじまっていたことも考えられますが、より決定的なのは、平安期初頭、天台宗の関係者(最澄に象徴される)が真清田神社へ下向して、おそらく勅命の名のもとに真清田大神(の女神)を、いかにも仏教的神名である「三名神」という「祓殿神」と呼称したことでしょうか。以後、三名神は社内で流浪的に変遷祭祀がなされるも、現在は、天火明命(本殿)背後の最重要な場所に復興祭祀がなされているといえそうです。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年03月22日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



