千時千一夜

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▼並祭社殿(朝熊神社・同御前神社)
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 読者から非公開の質問を二ついただきました。一部個別に返答したことではありますが、ほかにも同じか近い疑問を抱いている方もいそうな気がしましたので、公開のかたちで少し書いておこうとおもいます。
 まずは質問内容から──。
 
質問一、瀬織津姫様は神格のとても高い神様、風琳堂主人はどうおもっているのか?
質問二、ホツマツタヱだけが瀬織津姫を肯定的に描いている、その理由は何か?
 
 いずれの回答も瀬織津姫神についての関連書にはくっきりと書かれていないことで、また、相互に関連する問いでもありますので、これらは考えてみる価値がありそうです。
 質問一については、瀬織津姫神の「神格」の高さが認められるとして、では、それは何によってそういいうるのかということがまずあるようにおもいます。
 平成二十五年(二〇一三)は、伊勢神宮の第六十二回めの式年遷宮の年にあたります。現在は東に建つ内宮正殿ですが、この年には西の古殿地(空地)へ「遷宮」します。正殿背後の荒祭宮は現在、西に建立されていて、こちらは、東の宮地(現在の空地)へ「遷宮」することになります。平成二十五年の遷宮後の両宮の関係は、荒祭宮の前に正殿がつくられた最初に近いかたちが再現されることになります。
 荒祭宮と正殿が東西交互に遷宮するというのは変則にみえます。これに関しては、 山崎闇斎[あんさい]の『中臣風水草』(中臣祓に対する研究の集大成の書)中に「私記曰」として、次のような、きわめて重要な伝承・記録を載せています(『大祓詞註釈大成』上巻、内外書籍、所収)。
 
元ハ荒祭宮一所ニ並坐ス。東多賀宮。西荒祭宮。此ノ故ニ今ニ至リテモ、荒祭東西遷宮ハ本宮遷座ノ例ニ違ヘリ也。
 
 荒祭宮は西に、多賀宮は東に「一所ニ並坐」していたのが、本宮(正殿)ができる前の姿でした。参拝者がどれほど意識しているかどうかはわかりませんが、本宮(正殿)を拝むことは、背後の荒祭宮を拝むことと同じだということになります。そういった信仰ラインが、よりはっきりとわかるのが平成二十五年といえます。
 荒祭宮あるいは神宮祭祀と瀬織津姫神を無縁とみなす言説、つまり、瀬織津姫神はあくまで祓戸四神の一柱にすぎないという論調は現在でもみられます。(藤原享和「『延喜式』巻第八「六月晦大祓」の祝詞に見える祓戸四神について」、岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』塙書房、所収)。
 伊勢神宮から直接その分霊を勧請したとする山口大神宮(旧社号:高嶺神社)は、荒祭宮祭神を「天照大御神荒魂・瀬織津姫命」としていて、瀬織津姫神が神宮祭祀と無縁とする主張は成り立たないことを雄弁に告げています。また、神宮祭祀と無縁の祓戸神だとするならば、識者は、瀬織津姫神の各地における祭祀消去の理由を明確に説明する必要があります。
 皇祖神を拝むことは「天照大御神荒魂・瀬織津姫命」を拝むことと同じだというのが、この神の「神格」の高さを示唆しています。しかし、こういった「神格」の高さで瀬織津姫という神をみるのは、この神を新たな「聖域」に封じることにもなりかねません。ここからわたしの瀬織津姫イメージの話となりますが、わたしは、「神格」の高さ云々よりも、この神が「水祖神」とも称されるように、「水」と深く関わっていることを重視しています。また、和泉式部が熊野詣でのときに熊野大神を仮装して詠んだ歌に、この神の魅力はよく表れています(『風雅和歌集』所収)。
 
もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき
 
 この歌は、「月のさはり」で熊野詣でをためらった和泉式部に、自分(熊野神)は「もとよりもちりにまじはる神」(もともと俗世・庶民と交わって生きている神)であり、「月のさはり」(不浄の観念)など気にせずにどうぞお参りにいらっしゃいという意味です。俗世・庶民と等身大の場を生きて、なおピュアであるのは、この神が水の霊性を内に秘めているからだとおもえます。瀬織津姫神は、皇祖神のように高みの聖域に封じられると、おそらくその魅力は半減されます。また、この聖域思想は、大は天皇制発生の温床でもありますが、これは排除の思想を伴っていて、小は村八分・イジメの発想とも地続きといえます。自覚せずにいると、つい排除側を演じてしまうこともあり、あらゆる聖域思想・思惑と一線を画して自らを保つのは案外大変なことかもしれません。それはともかく、俗を生き、しかし俗を超えるピュアの魅力をもっている「ちりにまじはる神」というのが、わたしの瀬織津姫神に対する基本イメージです。
 さて、質問二については、ホツマツタヱ(秀真伝)一書のみが、ほかの諸書にみられる貶称、つまり、瀬織津姫神を天照大神荒魂や八十枉津日神(八十禍津日神)とみなす貶称規定を無視していて、しかも、この神を天照大神の正后・中宮とする仮構をしていたのはたしかに特異です。なぜホツマの作者は、讃辞の意を込めて、このように瀬織津姫神を描くことができたのでしょう。
 これは難問にちがいないのですが、「自分はこう考える」という、おおよその道筋だけは書いておこうとおもいます。
 昨年の夏、遠野の知人・千葉富三さんが『甦る古代 日本の誕生』(文芸社)という全一二二七ページという分厚い本を出版しました。そのサブタイトルは「ホツマツタヱ──大和言葉で歌う建国叙事詩」と付され、第一部には秀真伝の対訳が収められています。訳文は千葉氏のそれを使わせてもらいます。
 ホツマツタヱ(秀真伝)の序は「秀真伝を述ぶ 大直根子[おおたたねこ]」と題され、序には大直根子が景行天皇に本書を捧げたことが書かれています。大直根子は、崇神天皇紀に、祟りをなす神の三輪山・大物主大神をまつることになる「大田田根子」と同一人物とおもわれますが、この大直根子(大田田根子)がホツマの奉呈者兼「人の巻」の作者(と仮構されていること)はやはり大きなヒントのようにおもえます。
 せっかくですから、天照大神が瀬織津姫を正后にする場面を読んでみます(第六章)。
 
宮仕え その中一人
素直なる 瀬織津姫の
[みやび]には 君(天照大神)も階段[きざはし]
踏み下りて 天離る日に
向津姫 終に入れます
中宮[うちみや]に
 
 ここは、宮中に数ある妃がいるにもかかわらず、天照大神が瀬織津姫の素直とあまりの雅さに感動・一目惚れして中宮に入れる場面です。かつて、瀬織津姫神を祓戸神とし、一方で禍津日神とみなす否定的な文献ばかりを目にすることがつづいていて多少ウンザリしていたときに、ホツマのこの場面を読んだときはおもわず喝采したことを思い出します。ホツマの作者、やるじゃないかというおもいだったようです。
 秀真伝を「偽書」とみなすかどうかはまったく問題ではありません。偽書をどう定義するかという問題はありますが、直観的にいうなら、瀬織津姫神にとって『日本書紀』こそ最高かつ陰険な偽書ですから、問題の本質は、そこにどれだけ「真」に迫る伝承が内在・記載されているかどうかで、書の外部からの検証に耐えられた部分が真書的伝承となります。
 ホツマは、天照大神と瀬織津姫を対偶関係のもとに物語化していて、また、瀬織津姫を「向津姫」とも称していて、これは書紀いうところの撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]の「向津媛」と重なります。
『新撰姓氏録』河内神別地祗の条に「宗形君 大国主命六世孫阿田片隅命之後也」、また右京神別下地祗の条には「宗形朝臣 大神[おほみわ]朝臣同祖。阿田片隅命之後也」とあります。宗形君・宗形朝臣と大神朝臣は「阿田片隅命」を共通の祖とする同族というのが系図上からいえます。大和国神別の条では「大神朝臣 素佐能雄命六世孫、大国主命之後也」とも書かれますが、興味深いのは『先代旧事本紀』地神本紀の系図です(系図は『宗像神社史』下巻から孫引き)。
 
素戔嗚命──大己貴神(大国主神)──都味歯八重事代主神──天日方奇日方命──健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──大御気主命──阿田賀田須命(胸肩君祖)
 
 阿田賀田須命は阿田片隅命のことですが、旧事紀は、この阿田賀田須命の兄弟に「健飯賀田須命」がいるとし、その子に「大田田禰古命」の名を記しています。つまり、ホツマの奉呈者(オオタタネコ)は、胸肩君と同族だという系譜になります。
 パソコンの機能制約から、男系の系譜のみを記しましたが、旧事紀は、大己貴神(大国主神)には配偶関係の二柱神がいたとしています。一神は田心姫命で、この神との間には味耜高彦根神が生まれ、もう一神は高津姫神で、この神との間の子を都味歯八重事代主神としています。オオタタネコは事代主神の系譜上にありますから、オオタタネコからみますと、その母系祖神は高津姫神ということになります。
 田心姫命はいうまでもなく宗像三女神(アマテラスとスサノオの「誓約三女神」)の一神ですが、では高津姫神はどういう「神」なのでしょう。
 旧事紀は、「先(に)宗像の奥都嶋に坐す神田心姫[たこりひめ]命(多紀理毘売命と同神…引用者)を娶りて一男一女を生む」とするも、「次に辺都宮に坐す高津姫神を娶りて一男一女を生む」と書いています。この「一男一女」の一男は「都味歯八重事代主[つみはやへことしろぬし]神」、そして、その妹神(一女)は「高照光姫大神[たかてるひめおほかみ]命」というのが、旧事紀の記載ですが、「辺都宮に坐す高津姫神」は「宗像三神の内の湍津姫命の別名」とされます(大野七三『先代旧事本紀』脚注)。
 神統譜一般はあまり真に受けるわけにいかないのですが、オオタタネコの母系祖神に高津姫神がいて、この神が湍津姫命と同神というのは、やはり立ち止まらざるをえません。なぜなら、この湍津姫命は三女神の一神でありながら、大分県の八津島神社の由緒が示すように、三女神の根本神でもあり、さらにいえば、滋賀県の長澤神社や和歌山県の熊野本宮などが伝えるように、湍津姫命と瀬織津姫神は同神関係にあるとみられるからです。
 ホツマの奉呈者兼作者(オオタタネコ)は、自らの母系祖神を、天照大神(男系日神)の正后・中宮として物語化するなかで、諸書の貶称をすべて反転させて大いに称揚したということがいえそうです。オオタタネコは、あるいは、オオタタネコを仮装した作者もまたオオタタネコにつながるはずで、自らの母系祖神を肯定的に描く切実な動機があったものとおもいます。
 持統天皇六年(六九二)、女帝の謎の伊勢行幸を「職を賭して重ねて諫め」た重臣にオオタタネコの末孫「中納言大貮三輪朝臣高市麻呂[たけちまろ]」がいます。その二年前の四年(六九〇)は、持統が天皇に即位した年で、この年、神宮(正殿)の第一回遷宮が行われています。持統女帝は、新たな神宮の姿が気になっていたとも想像されますが、新神宮が誕生するというのは、背後の荒祭宮・多賀宮(高宮)の祭祀が改竄されたということを意味してもいますから、そのことと関連しての三輪朝臣高市麻呂の「諫め」だった可能性があります。オオタタネコにつながる三輪氏の末裔が、ホツマの真の作者だろうというのが私見です。
 いずれにしても、秀真伝一書のみが、既成の神道世界に一矢報いるように、オオタタネコの母系祖神でもある高津姫神(湍津姫)=瀬織津姫神を断固肯定的に描いていたことは事実です。本書に、これまでの貶称にまみれた瀬織津姫観を反転させる先駆的栄誉をみることは、やはり動かないとおもいます。

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