千時千一夜

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 宗像三宮、すなわち沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、田島の辺津宮に、宗像大神の三分身(分神)である三女神が個々にまつられます。これが宗像三女神の祭祀の基本ですが、各宮の中心神(主神)には他の二神が「配祀」されていて、けっきょくは三宮がそれぞれ三女神(宗像大神)をまつっているという印象を受けます。
 三宮の中心祭祀の神(主神)を三女神のどの神に見立てるかは、そもそも記紀の記述にしてからが一定しておらず、祭祀者側の頭を悩ませてきたようです。たとえば、三女神のなかで唯一異称神名をもたないタキツヒメ(湍津姫神)の祭祀宮を例にみますと、『古事記』は辺津宮とし、『日本書紀』本文は中津宮、紀の一書(第一)は中津宮、一書(第二)は辺津宮、一書(第三)は中津宮といった具合です。なお『先代旧事本紀』は、神祗本紀・地神本紀ともに辺津宮の神としています。
 このように、三女神の祭祀宮の不定性がみられるのは、宗像における三女神の祭祀が、もともと確たるものではなかったゆえだろうと想像されるところです。しかし、書紀という「正史」に三女神祭祀が記載されていたことは、宗像側からすると、呪縛ともいえるような大きな祭祀制約となったはずで、三女神三宮祭祀は、その不定性の揺らぎを抱えながらも具体化されることになります。これは奈良時代の前半期のことでしょう。
 ところが、奈良時代の末には、三女神を三宮に配するといった祭祀が、新たに複雑化したようです。辺津宮内に「惣社」が設置されたからです。このあたりの事情については、次のように解説されています(神道大系編纂会『神道大系』神社編四十九「宗像」解題)
 
奈良時代末に、当社の三神奉斎の状況に変化を来した。即ち元来の辺津宮はその域内の第三宮といわれるに至ったものであるが、天応年中、辺津宮の地に、従来の第三宮とは別に、新たに惣社が設けられ、ここに三神を合祭した。従って左のような奉斎状況となった。
 
沖津宮 (主神)田心姫神 (配祀)湍津姫神・市杵島姫神
中津宮 (主神)湍津姫神 (配祀)田心姫神・市杵島姫神
   辺津宮(現在辺津宮の第三宮) (主神)市杵島姫神 (配祀)田心姫神・湍津姫神
   惣 社(現在辺津宮本社)   (主神三座)田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神
 
 沖津宮・中津宮については、まだしもシンプルな祭祀とみることができますが、かつての辺津宮は、新たにやってきた「惣社」に、その祭祀場を譲ったかたちとなったようです。したがって、従来の辺津宮は、「惣社」(現在の辺津宮本社)の境内社という位置づけとなり、この旧辺津宮は、「第三宮」とも「地主宮」とも呼ばれることになります。
 以上の概要は、鎌倉時代末に成る『宗像大菩薩御縁起』中の「宗像三所大菩薩一所仁御遷座事」に記載されていることでもありました。解題は、惣社の誕生を「天応年中」としていましたが、『御縁起』は、「氏男大宮司之時代」、つまり「光仁天皇御宇〔或桓武天皇御宇、云々。〕天応元年辛酉有御託宣」と、天応元年(七八一)に、宗像大神(表記は「宗大神」)による宗像氏男大宮司への託宣(神託)があったことを告げています。
 大神のこの託宣はなかなか迫力に満ちていて、大宮司の驚愕の様は半端ではなかったようです。
 
虚空仁声有天云、為示吾宗大神之居、号始此所於宗像畢。早氏男之屋敷仁造社、可崇吾。以汝開発田、為当社領、而可致祭祀。即以汝垂迹以来為氏人、致子々孫々、可執行社務。執印者任相伝之理、社務者不可有他家之望。若背此旨者、吾必去社、可住虚空矣。氏男驚此御音、即点屋敷於社壇、以茅草葺之、奉崇三所之神明於一所之処仁、依光仁天皇叡夢之告、被造厳重之社以来、為鎮護国家之霊神矣。
 
 虚空にいた大神は「宗大神」と名乗り、ここを「宗像」と名づけると、氏男の屋敷に、自分を崇め祭る社を造れと託宣したようです。さらに、汝(氏男)の開発田を社領にあて、「氏人」たる汝は、子々孫々に至るまで、「他家之望」を交えることなく、その社務を「相伝之理」によって司れ(執行せよ)とも託宣しています。大神の託宣が強烈なのは、もしこれに背いたならば、自分(吾)は社から去って虚空に住む(帰る)ぞと釘を刺していることでしょうか。
 大神の託宣を聞いた氏男の驚きは余人の想像を超えますが、彼は、ともかくも屋敷に社壇を造り、屋根には茅を葺いて、その「一所之処」に「三所之神明」を「奉崇」したようです。この大神の強烈な託宣は、おそらく大宰府から光仁天皇のもとへと伝奏されたとみてよく、氏男の驚愕は光仁天皇のそれでもあったのでしょう、天皇もまた「叡夢之告」という夢告のもとに、氏男が急拵えでつくった茅葺きの社壇を「厳重之社」に造りかえさせ、大神を「鎮護国家之霊神」とみなしたようです。
 以上、拙い要約ながらも、この「宗大神」の託宣を読みますと、三女神のいずれかの神の託宣とはどうも考えられないようです。これは、やはり、とても異様な託宣だなという印象が残ります。おもえば、宗大神の「宗」は、主とすることとか中心となるものといった意味ですから、この虚空の謎の「宗大神」を、三女神の主神・中心神あるいは大元神と読みかえてみますと、託宣の主旨は、わが分身(分神)たちをばらばらにまつるな、一緒にまつれ、いいかえれば、「宗大神」を宗大神のままにまつれといった「神勅」だったのかもしれません。
 これは辺津宮「惣社」誕生の秘話ともいえそうです。しかし、この託宣以後、「惣社」の名のもとに大神が三分身(分神)されたままの祭祀はつづきますし、現在の辺津宮本社の祭祀にまでそれは変わりありません。「宗大神」の託宣の主旨は、はたして充分に実現したのだろうかという小さな疑問が残るようです。
 この疑問は、わたし一人のものなのかどうか──。
 宗像氏男大宮司の時代のことか、そのあとのことかははっきりしませんが、辺津宮惣社(本社)境内の大宮司屋敷の鬼門(丑寅)には、惣社(本社)の宗像三女神とは別個に、貴船大明神をまつることを記していたのも『宗像大菩薩御縁起』でした。しかも、この貴船神は「氏人擁護之誓」のもとにまつるとされます。
 辺津宮惣社(本社)の宗像三女神を「氏人擁護」の神とすることなく、宗像大神とは一見無縁であろう貴船神を、自ら(氏人・大宮司)の守護神(鬼門除けの神)としてまつるというのは、いったいどういうことなのでしょう。宗像大神(三女神)は、異敵降伏の最強の神威をもっていたはずです。それをさしおいての、大宮司自らによる貴船神祭祀ですから、これは一考するに値することのようです。

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