|
宇奈己呂和気[うなころわけ]神社(郡山市三穂田町八幡字上ノ台七六)は、『延喜式』神名帳に「陸奥國安積郡 宇奈己呂和氣神社名神大」と記される古社です。また、「名神大」(名神大社)とあるように、朝廷からは、その祭祀が特に重視されていた社でもあります。当時の名神大社は全国で二二四社、うち陸奥国には一五社あり、宇奈己呂和気神社はその一社です。
全国の名神大社二二四社のなかで、瀬織津姫神の異称表示、たとえば、「天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)」を祭神名とする摂津国・
福島県神社庁郡山支部編『あさかの神社誌』記載の宇奈己呂和気神社由緒を読んでみます。
宇奈己呂和気神社
祭 神 瀬織津比売命、誉田別命
鎮座地 郡山市美穂田町八幡字上の台七六
社 格 延喜式名神大社、奥州二ノ宮、安積三十三郷総社
由 緒
当社旧記によれば、宇奈己呂和気神社創草は第四九代光仁天皇代、陸奥国の蝦夷はびこり騒がしきために朝廷は天応元年(七八一)一月、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を任命し下向させるが実効なく、翌年延暦元年(七八二)六月、新た
宇奈己呂和気神社の創祀は延暦元年(七八二)六月、「陸奥出羽按察使兼鎮守府将軍」に新任した大伴家持によるとのことです。家持は「蝦夷平定」の神力を宇奈己呂和気神に求めたというのが由緒の記載概要です。
ところで、この由緒は、祭神を「瀬織津比売命、誉田別命」と並記しています。誉田別命(応神天皇)は八幡大神と解釈されるのが通例ですが、この八幡大神と「瀬織津比売命」が一緒にまつられているというのは珍しいケースかもしれません。宇奈己呂和気神社で
大伴家持は、『万葉集』の原・編纂者でもありますが、その彼が、桓武天皇の命により「蝦夷平定」のため陸奥国に下向し、その祈願を「高旗山頂」にておこなったとされます。家持は、瀬織津姫という神の別格の神威・神力をよくよく認識していたようです。
以上は、神社庁公認という、いわば公的な由緒表現から読み取れることですが、郡山の郷土史家・田中正能氏は、「あさかの神々」で、次のような別「社伝」を再録し、さらに、瀬織津姫神と蝦夷平定との関係についても一つの推測を書いています(『あさかの神社誌』所収)。
宇奈己呂和気神社の社伝には、欽明天皇十一年(五五〇)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の垂跡があって祭祀され信仰が続いた、とある。この神は伊邪那岐命が黄泉の国から帰られ筑紫、日向の橘の小門の阿波岐河原にて禊祓のとき、河の中ツ瀬にて禊祓のとき降誕の八十禍津日命(ヤソマガツヒノミコト)と名付けられた神で、世の中の罪とけがれを清め、凶事を除き去る神として伊勢皇太神宮の荒御魂であるが、反復常ない陸奥国における政策として祭祀になったものであろう。同じく社伝に延暦三年(七八四)、大伴国道(七六七〜八二八)が高旗山より現在地の美穂田村八幡字山崎の地内に遷座された、とある。
ここには、瀬織津姫という神についての「辞典」的解説(通説的解釈)が記され、その「伊勢皇太神宮の荒御魂」という神威を蝦夷平定の「力」に結びつけようとする解釈がなされています。しかし、やはり注目すべきは、「欽明天皇十一年(五五〇)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の垂跡があって祭祀され信仰が続いた」とする別社伝があったことでしょう。伊勢皇太神宮は、欽明時代には成立しておらず、したがって、「伊勢皇太神宮の荒御魂」などという概念もまだ存在していませんでしたが、公的な由緒では、この欽明時代の創祀と信仰の継続を記す社伝が伏せられていたようです。
田中氏はさらに、宇奈己呂和気神社を取り巻く陸奥国の歴史解説をしていて、これも神社紹介の参考となりますので引用します。
陸奥国の古社、安積郡の名神大社として崇敬され「続日本紀」に見られる。宝亀十一年(七八〇)三月、陸奥国に伊治公呰麻呂(アザマロ)の反乱が発生して、陸奥出羽按察使紀広純を討ち取る騒ぎが天下を震わす。天応一年(七八一)一月に藤原小黒丸が後任を命ぜられ下向し、翌延暦一年(七八二)六月、大伴家持と交替、八月に都に凱旋しているが、陸奥国の蝦夷反乱はこのあとも坂上田村麻呂、百済俊哲などまで、永い年月を要するに至り鎮定することなく続く。この間は陸奥出羽の諸社に神階奉幣がさかんに行なわれた時代であった。
当社の伝承に、藤原小黒丸が延暦三年(七八四)現在地に高旗山上より勧請とあるが誤りで、藤原小黒丸の赴任下向時のことであろう。現社に祓川、化粧坂などの伝承、祭礼毎に社人が高旗山上の古祠に奉幣行事が伝わっている。昔から安積郡の総社として国司、領主の崇尊と保護を受け、古い安積郡地域全般住民の信仰をあつめた神社である。
宇奈己呂和気神社の創祀伝承には、古いところでは欽明天皇十一年(五五〇)の降臨(出現)説、次に大伴家持による延暦元年(七八二)の創祀説の二つがあり、ここでは、(家持が高旗山の頂きで感得→創祀した)神霊を、藤原小黒丸(小黒麻呂)が里(現在地)に「勧請」したと書かれています。先の引用箇所では、「延暦三年(七八四)、大伴国道(七六七〜八二八)が高旗山より現在地の美穂田村八幡字山崎の地内に遷座された」とあり、「里宮」創祀にしても、伝承の混乱があるようです。
里宮創祀の正確な時期についてはともかく、瀬織津姫神の創祀時期における二つの社伝の存在──、そのどちらを信ずべきかは判断がむずかしいのですが、わたしは、大伴家持の時代よりも前に、この神の祭祀が当地にあったとしてもなんら不思議はないとおもっています。
ところで、当地方の信仰的霊山について、『郡山の歴史』という本には「安積郡の人々は、安達太良山を神霊のやどる山として崇敬した」、「安達太良は、郡山地方の心のよりどころであり、またその生活を支えてくれる豊かな資源の山」という記述があります。先年、宇奈己呂和気神社宮司(故大原康朝さん)から、宇奈己呂和気神は安達太良山の神でもあるという話をうかがったことがあります(社殿は、たしかに背後の安達太良山を拝するように建立されています)。
安達太良神社由緒書はさらに、「当社は久安二年(一一四六)四月朔日近衛天皇の御代、安達太良山に鎮座されていた飯豊和気神、飯津比売神、陽日温泉神、禰宜大刀自神、俗に甑明神、矢筈森明神、剣山明神、船明神と、大名倉山に鎮座されていた宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神とを合わせ祀って安達太良明神と称し奉り、本目村を本宮と改め、安達郡総鎮守として尊崇され、現在におよんでいる」としています。「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」は、安達太良山の一角「大名倉山」に鎮座していたとのことです。
それにしても、安達太良神社においては、宇奈己呂和気神社の「瀬織津比売命」、相殿(配祀)神とされる「誉田別命」も、ともに祭神名には表示されておらず、「高皇産霊神、神皇産霊神」、「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」と、神名の著しい相異が認められます。宇奈己呂和気神社側の主張を信ずれば、安達太良神社側の祭神主張は否定的にみるしかありません。式内明神大社という由緒が認められていた宇奈己呂和気神社が、明治期、もし自社祭神をほかに変更することといった交換条件を受容すれば、最低でも県社以上の社格を認定されたにちがいなく(戦前は郷社)、それ
ところで、宇奈己呂和気神社の前には真言宗の八幡山護国寺があります。ここは、室町時代まで宇奈己呂和気神社の神宮寺でした。本尊は虚空蔵菩薩とのことです。瀬織津姫神の本地仏として虚空蔵菩薩があるとしますと、これは、白山(別山)・高賀山や伊勢の朝熊山と同じにみえます。神仏習合時代、当地にも明星信仰があったのかもしれません。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年04月26日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


