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▼宗像大社(辺津宮)境内図(平成十八年『むなかたさま』所収)
我皇大神波、掛毛畏岐大帯日姫[ママ]乃、彼新羅人乎、降伏賜時爾、相共加力倍賜天、我朝乎救賜比崇賜奈利。
宗像大神は、天皇・朝廷からは「我皇大神」と尊称される神であり、神功皇后の新羅「降伏」へ向けての出征においては、神助をもって日本(「我朝」)の危機を救ってくれたという認識が示されています。この「宣命」には、天照大神荒魂と宗像大神を同体とみなしていた朝廷内の認識が図らずも露呈されていると読むしかないのですが、しかし、この認識は宗像祭祀側も内々に抱いているものでもあったはずです。
時代は鎌倉末期(あるいは室町期)にまで下りますが、この「宣命」の認識を縁起化するように、「宗像大菩薩」の名ではあるものの、神功皇后の新羅征討に積極的に加担する宗像大神の姿が描かれることになります。宗像祭祀における最古の縁起書『宗像大菩薩御縁起』の誕生です。
ただし、『宗像大菩薩御縁起』の全体からいえば、宗像大菩薩の新羅征討への加護といった縁起譚は、その核を構成するとはいえ、それ一色で書き上げられたわけではありませんでした。
たとえば、『御縁起』が記す、宗像辺津宮の「惣社」祭祀において、湍津姫の下に「小神」と小さな字で記載されていたのが「織幡」、つまり織幡神で、このように、記述は宗像祭祀全般に及んでいます。
ところで、この織幡神についてですが、『御縁起』は、神功皇后紀の新羅征討譚を独自にアレンジした「強石将軍〔今宗像大菩薩〕依神功皇后勅命、三韓征伐事」という強石将軍=宗像大菩薩の活躍譚を仮構する中で、「武内大臣赤白二流の旗を織り持ちて」云々と、皇后の船に駆けつけた武内大臣を描いています。武内大臣が織ったとされる「赤白二流の旗」は、潮満珠・潮干珠の霊力と一体となって、新羅降伏に重要な役割を果たします。この『御縁起』の記述に基づいて、織幡神社の主祭神は武内大臣とみなされることになりますが、武内大臣となる前の織幡神がどんな神の名をもっていたかを明記する史料はみられないようです。なお、織幡神社は九二七年に成る『延喜式』神名帳には式内「明神大社」とされたように、朝廷が破格に重視する社でした。『御縁起』は、この破格の「明神大社」の神を「小神」の名で湍津姫の下に置いていたわけですから、宗像三女神それぞれに付属する「小神」には、「小神」という字面通りには受け取れない神が眷属神化されていた可能性があります。
先に、貴船神としての瀬織津姫神が、宗像地方では浪折(波折)神と表示されていた事例を紹介しましたが、この浪折神もまた、第三宮(地主)の「左間」にまつられる田心姫の下に「小神浪折〔本地観音〕」と記載されていました。
その後、正平二十三年(一三六八)の宗像宮の年中行事の記録では、「小神」は「眷属小神」と記されることになります(『宗像神社史』)。
さらに時代は下って、「明治」と改元される慶応四年(一八六八)の「宗像大宮司書上帳」では、「眷属小神」は「従神」と書かれることにもなります。同書上帳は、辺津宮惣社(第一宮)・辺津宮第二宮(中殿)・辺津宮第三宮(地主)における、各々の三女神(主神)に対して、「従神」の名で、それまでの小神(眷属小神)に対して、移動・取捨等の整理をしています。
この明治期の整理では、主神(三女神)の個々に対して「従神」をそれぞれ二神、計六神を配することがなされます。以下に一覧してみます。
田心姫命………【従神】織幡大明神・許斐権現
湍津姫命………【従神】地主明神・所主明神
市杵島姫命……【従神】浪折明神・正三位明神
従神にみられる権現・明神号は、明治四年にはすべて「大神」に変更されることになります。それはおくとしても、たとえば織幡神をみますと、中世(『御縁起』)には湍津姫の眷属神だったのが、ここでは田心姫のそれに変わっていますし、浪折神にしても、かつては田心姫の眷属神、それが、明治になると市杵島姫の従神へと変更されていることがわかります。眷属神がこのように流動・移動してしまうのは、もともと三女神祭祀の不定性に因があるとみるしかないようです。
小神→眷属小神→従神といった名称の変遷後、一覧のように眷属神の配置が整理されるわけですが、そもそも「眷属」というのは、辞書的にいえば、①「血のつながっているもの。親族。一族」、②「従者。家来。配下の者」といった意味をもちます(『日本国語大辞典』小学館)。
中世、「眷属小神」として、織幡神は湍津姫の下に記載されていました。「明神大社」という織幡神の別格的神格を考えますと、②の従者・家来というよりも、①の親族・一族に類する神とみるのが自然でしょう。としますと、湍津姫と類縁の神とみなされていたのが織幡神だったということになりそうです。
『筑前国続風土記拾遺』は「織幡神社、古へは御池の中島に社在しと云」と書いていて、辺津宮惣社境内の御池の中島に勧請・祭祀されていたのが織幡神でした。また、「田島宮社頭古絵図によると、楼門の西南方にある小池の中島に鎮座されてゐる。鐘崎の織幡神社とは古くから密接な関係があった」ともされます(『宗像神社史』)。池中の中島にまつられるというのは弁財天あるいは水神祭祀の特徴で、宗像宮と「古くから密接な関係があった」織幡神を、神功皇后の側近・武内大臣とみなすのは、やはり不自然の感は否めません。
明治期、主神との類縁(一族)の神としての「眷属小神」は、②の従者・家来の意を多分ににじませた「従神」というように表記変更がなされます。しかし、『宗像神社史』は、この「従神」を主神に対する家来神といった下位の神というように単純にみなすことなく、逆に、その重要性への喚起をうながしていて好感がもてます。
第三宮(地主宮…引用者)の主神に付属する小神としては、浪折明神と正三位明神との二神がある。浪折明神は正平年中行事及び応安神事次第によると、辺津宮三社(第一・第二・第三宮)の神幸の際には、必ず供奉するといふ特殊な関係を結んでゐる。第一宮の殿内小神たる織幡・許斐二社の祭祀上における位置と同じ在り方にある。また正三位明神は正平年中行事に「大行事」といはれてゐるやうに、これまた辺津宮祭祀の執行に重大なる地位を占めてゐたもので、それはあたかも第二宮の地主・所主と同じやうな関係にあつたといへよう。思ふに第一・第二・第三宮とも、その殿内にあつて、従神の地位にある神々は、本社の祭祀上、これに特別に参加するか、それとも地主(所主)的存在として重んぜられる神々である。かくの如く従神は、それぞれの宮と特別な関係のある神々に限られてゐる点は注目に値しよう。
「応安神事次第」にみられる従神六神(あるいは、中世にはみえるも、「応安神事次第」では消えた小神=従神)のすべてを個々に検証することはかないませんけれども、本稿の流れからいいますと、主神では湍津姫命、従神では浪折明神に、やはり関心が集中します。理由は、両神が、宗像大宮司が「私祭」していた貴船大明神と同体の瀬織津姫神を明らかに秘めた神名だからです。
ここで、あらためて湍津姫命に着目しますと、この神の「従神」には、抽象的な名ではあるものの、ほかとは明らかに異なる地主明神・所主明神が配置されている特徴に気づきます。神社史は、「従神の地位にある神々は、本社の祭祀上、これに特別に参加するか、それとも地主(所主)的存在として重んぜられる神々である」と、「地主(所主)的存在」を重要度の基準として挙げています。それらを「従神」としているのが湍津姫命であることは、やはり注目してよいようにおもいます。
ところで、第三宮(地主宮)の主祭神は、明治期から『宗像神社史』(上巻)の発刊時点(昭和三十六年)までは市杵島姫でした。しかし、その後「第二宮・第三宮を再建」とされる昭和四十九年(一九七四)のときとおもわれますが(宗像大社発行『むなかたさま──その歴史と現在』年表)、第三宮祭神は湍津姫と変更され、第二宮(こちらは田心姫と変更)と社殿を並べてまつるというように大きな変動がみられ、これが現在の第二宮・第三宮の社殿配置です。
このように、辺津宮惣社(本社)における三女神三宮祭祀の配置の不安定性は戦後現在にまでみられるわけですが、ただし、第三宮(地主宮)祭神にかつての第二宮(中津宮)の湍津姫を移動させたことは、現在、宗像三女神祭祀における地主神をどう認識するかという点で、本流に立ち戻ったとみえなくもありません。また、宗像大社(辺津宮)本殿(主祭神:市杵島姫神)の背後には境内末社の祠群がまつられていますが、本殿の真裏に相当するのは、多くの末社のなかでも特に浪折明神(浪折神社)の祠が配置されているというのもなにごとかです。
以上は、社殿配置からみえる湍津姫神および瀬織津姫神への祭祀重視の傾向を拾ってみたものですが、宗像大社(辺津宮)を実際に訪れても、たとえば浪折神社の祭神として瀬織津姫という神の名が表示されているわけではありませんし、境内の「祓舎」においてさえそうです。下調べ(事前の知識)なくただ参拝したならば、瀬織津姫という神が宗像大社と深く関わっていることなどはだれにも想像しようもないことで、これは、伊勢神宮ほかも同様といえます。
当事者祭祀の内部では仮に崇敬の「誠」をもって接するも、祭祀外部(一般の眼)からは、まったく伏せるという日本の神まつりの二重方法に、たとえば、外国からみたときの日本人のわかりにくさ、つまり、本音と建前が大きく異なる日本人といった不可解さの原点が象徴されているようです。天皇というシステムがもっている「陰圧」の浸透を理解できたとき、やっと「日本」(人)がみえてくるといったところでしょうか。
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2010年05月13日
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