紙の媒体が表現の場であれば、そこには多かれ少なかれ「他者」の眼が光っていて、盗作問題が起こる可能性は少なかったようにおもいます。一般の雑誌・書籍では、この「他者」の代表は編集者が演じますし、同人誌レベルにしても、書き手(同人)は、互いに顔が見える関係にありますから、ここではほかの同人が「他者」の視線をもっていたといえるかもしれません。
ところが、インターネット上の表現空間においては、だれもが即物的な表現者となりうる利点があるも、その分、ノーチェックのままの自己表現が「公」の眼にさらされることになります。表現者個々が自らの内部に他者(編集者)を抱えていないと、ときに自らが盗作者を演じてしまっていることさえ自覚もないままに、盗作(的)表現を自己表現と倒錯する事態が発生することになります。盗作と倒錯──、だじゃれですまない事態が、この新しい表現空間で日常化されている感さえあります。
つい先日のことですが、ある読者の方から、次のようなメールをいただきました。
この文面のあとに、問題の記事の複写がつづくのですが、それはあとでふれるとして、わたしの返信と読者からの応答は次のようなものでした。
このたびは貴重なお知らせをありがとうございました。
「simon」なる方からは掲載許諾の問い合わせもなく、文面を拝見するかぎり、明らかに著作権を侵犯している、つまり「盗作」といってよさそうですね。
mixi 世界からはすでに脱退していて現物を拝見できませんが、このmixi 世界というのは会員制秘密クラブみたいな印象をもっています。
閉じられた親和的な関係を心地よくおもう人も多いのかもしれませんが、その分、他者の批評の眼(視線)も廃除されがちで、野放図な甘えの表現世界ができる傾向にあり、今回などはその典型かもしれません。
「気をつけた方がいいですよ」というアドバイスをそっとできる人がsimonさんの周りにいるといいのですが……。
お返事ありがとうございます。
最近mixiは招待制ではなくなったのですが、キャッシュには残らないので書き放題なところがあります。〔後略〕
メールのやりとりはもう少しつづくのですが、「キャッシュには残らないので書き放題」という、この「キャッシュには残らない」云々の業界用語がわたしにはまったく理解できていないことを告白しておきます。
さて、問題の盗作記事は、mixiという部外の者が閲覧できない世界に書かれたもので、表現者は「simon」と名乗る人物、記事(日記)アップの日付時刻は2010年8月1日12:42です。念のためスタッフのT君にも出力してもらい確認した、当該の日記記事全文を引用します。「アイヌが信仰していたという『理訓許段[りくこた]神社』に続いて『氷上神社』の由来を尋ねてみよう」として書かれたものです(写真は削除、段落間の一行アキは詰めて引用)。
既に、ご案内した通り、延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳の陸奥国気仙郡には、理訓許段[りくこた]神社・登奈孝志[となこし]神社・衣太手[ころもだて]神社の三社が記載されています。
これらは「気仙三座」とされるも、その元の祭祀地は不明、現在、三社まとめて氷上神社(冰上神社)とされます(陸前高田市高田町)。
氷上神社の社頭には、石川啄木の「命なき砂のかなしさよさらさらとにぎればゆびの間よりおつ」という歌碑が建立されています。
また、境内の神池の小島には朽ちかけた祠ではあるものの、まるで弁財天(厳島神・宗像神)の祭祀のごとくに、なぜか信州の「戸隠神」(戸隠ノ明神)が勧請されてまつられています。
さてさて、氷上神社は、本殿の東御殿に衣太手神、中御殿に登奈孝志神、西御殿に理訓許段神をまつり、「郷民氷上山を信仰の聖地として、三峰理訓許段・登奈孝志・衣太手の三宮を鎮祭し、氷上霊峰と称え尊崇す」とのことです(『岩手県神社名鑑』参照)。
延喜式時代、氷上山は「気仙山」と呼ばれていましたが、この氷上山頂の三宮に対する里宮として、現在の氷上神社はあるのです。
祭神の衣太手神・登奈孝志神・理訓許段神ではどんな神様かわかりませんので、衣太手神=天照太神、登奈孝志神=稲田姫神、理訓許段神=素戔嗚神とも表示されるように承ります。
ここに出雲ゆかりの二神が配されているのは興味深いところですが、これは、昭和十七年に発行された『冰上神社』(氷上神社社務所)に記載された神名です。
然し、『陸前高田市史』第七巻によりますと、こういった記紀の神名を気仙三座にあてようとした最古の文献は、文化十二年(一八一五)四月に京都・吉田家に提出した「差上候社記」です。
同年暮れには神道裁許状と免許状が下され、勅許の名のもとに「氷上三社大明神」は「正一位」の神階を得ることになりました。
しかし、『市史は、「当氷上三社の由来」については、気仙郡三座の「理訓許段神社」「登奈孝志神社」「衣太手神社」に比定する論争は、実は藩政時代からその賛否をめぐって、多くの学者によっておこなわれている』と、その賛否両論の説を紹介しています。
この両論の説の詳細は脇におくとして、そもそも氷上神とはなにかを考える上で参考になるので、市史のまとめの記述を読んでみます。すると、
「ひのかみ」「ひかみ」は火神、更には氷上(ヒノカミ)に通じています。
「日神」とあるのが『気仙風土草』、「火伏之神」と記しているのが『邦内風土記』、そして「水徳鎮火之神」としているのが『邦内名蹟志』です。
そしてまた、最近まで氷上神社の神札を氏子の各家では、これを授けられ、火除けの神札として台所のカマド付近に貼る風習があったことは、地元住民のよく知るところです。
氷上神は「日神」「火伏之神」「水徳鎮火之神」の三説によって語られる神のようです。しかし、同社氏子(地元住民)の信仰を元にすれば、氷上神は「火伏之神」「水徳鎮火之神」というのが生活の実感に根づいた神徳とみられます。
文化十二年(一八一五)初見の氷上三神(天照太神・稲田姫神・素戔嗚神)が、その後の氷上神社祭神として現在に至るのですが、江戸時代初期、まさに「水徳鎮火之神」を奉祭する分社が創建されます(奥州市江刺区梁川字舘下)。その名も氷上神社といいます。
ここは、室町時代作の聖(正)観音との同居祭祀がなされていましたが、神社の由緒標識には、以下のように意外なことが記されています。
元和三年(一六一七)気仙高田氷上神社より分霊奉遷 祭神瀬織津姫命
本社・氷上神社は、明治期を待たずに自社祭神から瀬織津姫命の名をはずしたようですが、分社・氷上神社は、この祭神の名を現在にまでよく伝えたものです。
『岩手県神社名鑑』によると、本社・氷上神社境内社の項には、雷神宮・稲荷神社・清神社・道祖神社・風宮神社・八千矛神社・森神社・御禊神社の八社が記載されています。
分社祭神の瀬織津姫命がまつられる社として考えられるのは、その最有力社としては「御禊神社」、次に「清神社」の可能性があるのですが(境内社としては不記載の戸隠社もありえますが)、いずれにしても、氷上神社のかつての祭神であった瀬織津姫命の名は、本社祭祀からは消えています。
これも「陰気」の話の一つですが、各地に散見された明治期以降の露骨な「陰気」は、その前へさかのぼっても確認できることを、この分社・氷上神社は告げているようです。
本社・氷上神社の由緒記録からは消去されるも、気仙川河口流域には、かつて、瀬織津姫命の祭祀があったことは事実とみられます。この神の祭祀を、もし延喜式内の気仙三座(氷上三社大明神)のいずれに比定しうるかを想像しますと、やはり「衣太手神社」が相当するのかもしれません。
その様に思う由縁は、この衣太手神が「天照太神」とされていること、および「衣太手[ころもだて]」という社名・神名が「機織」とゆかりありそうだとおもわれるからですが、むろん、このことに強くこだわるものではないと思われます。
因みに、分社・氷上神社境内には、「憲法公布記念」と刻まれた「大年神」の石碑が建立されています。
これは全国的にみてもとても珍しい石碑です。「憲法公布記念」には、日本の歴史上、初の民主社会(民主憲法をもつ社会)の到来を寿[ことほ]ぐ意識が刻まれているとおもわれます。
それにしても、なぜ「憲法公布記念」として「大年神」(男系太陽神「日神」・稲作初源神の異称神名)が、瀬織津姫を祭神とする神社境内に勧請・建立されるのかを考えると、これはとても意味深長だなあと思えてきます。
かかる石碑建立者は、日本の民主社会到来を「記念」して、それまでの瀬織津姫命の単独神祭祀に、かつての伴侶神を奉納したものともみられるからでしょう(岩手県紫波郡・早池峰神社の項を参照)。
分社・氷上神社の氏子衆あるいは関係者に、こういったリベラルな信仰・感情があったことと、自社祭神を本社のように変更することなく現在まで伝えてきたこととは、おそらく無縁ではないと思われます。
源流部から河口流域まで、瀬織津姫祭祀の影や思い(信仰)が濃厚にみられる「気仙川」を眺めてみましょう。
(つづく)
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