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大山積神の本地仏・大通智勝仏の子に十六王子がいて、それに対応させるように十六王子神が神仏習合的に設定されているということは、これら十六王子神は大山積神の分身ということにもなります。
『大山祇神社略誌』は、「正安四年(一三〇二)本社境内にまつられてからの祭神は、奉斎の順位とともに不動のものとして県内各地に勧請された」、その勧請社「十六神社の祭神ならびに奉斎の順位が不動であったこと」を強調しています。
ここでいわれている「奉斎の順位」というのは、先の一覧で番号を付した「順位」をいうようです。たとえば、宇津神社の文保二年(一三一八)の棟札には「七郎王子宮御社」とあり、この「七郎」が、一覧表の宇津神社が七番目に記されていることに対応しています。
こういった「奉斎の順位」が「不動」であったかどうかについてはあまり意味があるとはおもえませんが、ただ勧請された十六王子神の「祭神」もまた「不動」であったとされることを念頭において、略誌の次のような記述を読みますと、いささか棘[とげ]の刺さった印象を抱くのはわたしだけではないでしょう。
別表(省略)伊予三島市(現四国中央市)三島神社の十六神社、北条市(現松山市)高縄神社の十六王子社、松山市阿沼美神社の十六皇子神社と本社大山祇神社の十六王子神それぞれの祭神を比較すると、神名の用字法にわずかな相違が、また阿沼美神社に瀬織津姫神を欠くが(諸山祇神を一柱に数えて十六柱とする)、まず同一の神々を順位もそのままにまつられたと見て間違いない。
略誌の著者は、十六王子神の分霊祭祀において、軽い例外のように「阿沼美神社に瀬織津姫神を欠く」、具体的には「諸山祇神を一柱に数えて十六柱とする」と書いています。阿沼美[あぬみ]神社一社だけが、なぜ十六王子神の祭祀法則を逸脱してまで、瀬織津姫神を諸山祇神に変更しているのかは、やはり大きな問題を秘めているようにおもいます。
阿沼美神社は松山市に二社あり、いずれも『延喜式』に載る「伊豫國温泉郡 阿治美神社 名神大」を自社のことと主張していますが、境内に十六皇子神社を抱えるのは、松山市平田町に鎮座する阿沼美神社です。
阿沼美神社の十六皇子神社は、「諸山祇神」をもって瀬織津姫神の代行神としているわけですが、大山祇神社境内社の十七神社は「一の王子、十六王子」の構成で、筆頭の「一の王子」に相当するのが諸山積神社でした。祭神は「大山祇命、中山祇命、麓山祇命、正勝山祇命、志藝山祇命」と表示され、一見、複雑さがみられますが、これは、諸々の「山祇命」を寄せ集めた集合名を「諸山祇神」といっているにすぎません。この諸々の山神の筆頭に「大山祇命」の名があることに象徴されますが、つまるところ、大山積神のことといえます。瀬織津姫神を「大山津見神」に差し替えた北海道・樽前山神社と同じ事例がここにはみられます。
阿沼美神社の十六皇子神社一社のみ、なぜ瀬織津姫神を消した(差し替えた)のかを直接語る資料は未見ですが、瀬織津姫神を表に出したくない祭祀心理が阿沼美神社に働いていただろうことを想像しますと、逆説的にみえてくることがあります。
阿沼美神社は、古来、阿沼美神をまつってきたが、中世、河野氏によって「三島神」の分霊が勧請され「阿沼美三島大明神」を名乗ることになります。河野氏の没落後は「三島新宮」とのみ称したという社号の変遷がみられます(『愛媛県神社誌』)。
現在の主祭神は「大山祇命」、配祀神は「月読命、高靇命、雷神」とされますから、大山祇神社の本殿・上津社・下津社の祭神を除きますと、「月読命」が阿沼美神ということになります。阿沼美神は月神という根本性格があるゆえに「月読命」と祭神表示がなされているとしますと、ここは「景行天皇の裔、別王が阿沼美の神を奉祀」という古祭祀を由緒にもっていますから、月神は記紀神話において仮構された男系神の「月読命」ではなく、海人族が奉斎する月の女[ひめ]神であった可能性があります。もっと端的にいえば、九州・豊前国においては宇佐氏が奉斎する比売大神に相当する神が阿沼美神の原像であった可能性があります。
阿沼美神社は、自社境内社の十六皇子神社から瀬織津姫神を消去しているという断定的仮説からいえること、あるいは考えられるのは、以上のようなことです。あるいは一歩引いて、十六皇子神の勧請において、最初から瀬織津姫神を除外していたという第二の仮説を立ててみますと、それはそれで、いずれにしても阿沼美神とは何かという根本的な祭祀問題に関わってくることでしょう。
しかし、これは、阿沼美神社一社に限られる問題かといえばそうではなく、伊予国においては、大山祇神社の祭祀にこそ、より淵源の問題は横たわっているはずです。大山積神の分身・分神としての十六王子神が設定され、そのなかに、阿沼美神社からは消去された瀬織津姫神がいること、これは、大山積神と瀬織津姫神の分身・分神関係を、大山祇神社が暗に主張していることを意味しています。
大山積神と瀬織津姫神が至近の関係にあることは、たとえば、昭和十二年の愛媛県の「神社に関する調査」に拾い出すことができます。国によるこの「調査」は、愛知県においても確認でき、全国的になされたものとみられます。その調査意図は、明治期に神宮祭祀と抵触する神まつりの変更がなされたものの、それが全国的に徹底されているかどうかの再々確認にあり、不具合の発見は以後の祭神変更につながっていきます。
愛媛県の「調査」にみられる、越智郡渦浦村津島字向山(当時)に鎮座する「大山積神社」の項は貴重な歴史的証言をなしています。この大山積神社の祭神欄には「大山積神∴(瀬織津比売命、来名戸祖命)」とあり、次に「(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴」とあります。合祀された津島神社の問題も大きいですが、大山積神と瀬織津比売命・来名戸祖命が無縁どころではないという証言記録は重要です。祭神欄に付された「∴」の記号は意味深長といわねばなりません。
このように、大山積神と瀬織津姫神の至近・類縁の関係がみえてきますと、先に少しふれた伊予市の三島神社の祭祀も再考の余地があるようです。
瀬織津姫神を主祭神・大山積神の配祀神とするとは『愛媛県神社誌』の記載でしたが、現地の拝殿に掲げられた由緒表示板には、この配祀神の名はみられず、参拝者の誰一人、ここに瀬織津姫神がまつられていることなどは気づきもしないでしょう。
神社誌は、この三島神社の創建について、「元明天皇和銅五年八月勅詔により、神亀元年八月二二日越智郡大三島鎮座大山祇神社より勧請奉斎」と書いていました。和銅五年(七一二)は『古事記』が成った年で、その年に元明天皇は「勅詔」(勅命)を発したというのは示唆すること多いですが、それはおくとしても、正規由緒では、自社の創建年月日を「神亀元年八月二二日」と明記しています。神亀元年(七二四)は元正女帝が聖武天皇に譲位した年で、養老から神亀への改元は「白亀」出現の瑞祥によるものとは『続日本紀』が記載するところです。
神社の創建年月日については、由緒表示板は一日ちがいの「神亀元年八月二十三日」としていて、神社誌の記載とは少し異なりますが、これはいずれが正しい日かといった詮索は無用におもいます。わたしの関心は、正規の創建伝承とは別の異伝、つまり、次のような記載に、やはり注意がいきます。
伝説三島宮由来には、神亀改元春正月、亀の背に金幣を輝かし浮遊して渚に走り上り森の中に入る。万民この地に社を建てて祀ると伝える。
この謎の亀は「渚に走り上り森の中に入る」とあり、どこか切迫した表現がなされています。これは、亀の行為というよりも、亀に乗ってきた「神」の行為と読んでみたいところです。
神亀元年八月に大山積神がまつられる七ヶ月前に、謎の神(大三島ゆかりの謎の神)の創祀がすでにあったとは何を告げ
以下は聞き書きです。わたしが会った複数の氏子さんは、大山積さんは亀に乗ってここへやってきたということをそろって口にします。だから、うちの狛犬は「亀」で、ほかの神社にはみられないだろうと、なかば得意げに語ってもいました。また、愚問とはおもいながらも、本殿の千木が平削ぎで女神仕様だなということもありましたので(ただし鰹木は奇数本で、正確には男女神祭祀兼用仕様ですが)、こちらの大山積さんは女神さんですねと尋ねますと、あきれ顔で、男神に決まっているといわ
亀と縁ある神は、大山積神と瀬織津姫神のどちらかという問いも浮かびますが、これも愚問というべきでしょう。
このとっておきの創祀伝説にちなんで建立された一対の亀が、狛犬よりも迫力のある表情で参拝者をにらんでいるのが印象的でした。あるいは、今にもかみつかんばかりの表情でにらんでいるのは、別のもっと巨きなものかもしれないなとふとおもいながら、神社をあとにしたのでした。
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2010年11月14日
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