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明治二十七年に刊行された栗田寛『新撰姓氏録考證』には、いくつかの重要氏族が洩れていると指摘し補完したのが大槻如電でした。この脱漏氏族のなかに「越智直、石上同祖」があり、大槻は『新撰姓氏録考證』への「補遺」として補足し、そこに解説を加えています(『神道大系』古典編六、所収)。大山祇神社の祭祀氏族としての越智氏ですが、大槻は、この越智─河野氏の盛衰興亡を、次のように手際よくまとめています。
さて越智は伊豫の著姓にて、其末流は河野となり、稲葉となる、〔中略〕
文武帝の時に越智玉興といふ者あり、越智郡大領となり、其弟玉澄が河野(風早郡)といへる地に住みて河野氏を称し、二十一世の孫通清は、寿永の乱に源氏の方人して殺され其子通信は承久の役に官軍に属して伊豫守護を失ひしが、蒙古の寇に曾孫通有戦功ありしかば、旧領を復せり、されば元弘の役に、其子通盛は北條氏に附従して、家は亡ひぬ、得能土井の両氏は、河野の一族なれど勤王の軍に加り建武中興の勲臣たるは、世の知る所なり、足利氏の時に、通盛再び伊豫の守護となり、子孫世襲して、天正中長曾我部元親に滅さる、応神帝の時より通計すれば、一千三百余年に及ふ名たゝる旧族なり、〔後略〕
文武天皇の時代に「越智郡大領」として越智玉興の名があり、その弟の玉澄の名がみられます。この文武時代である大宝時代に、大山祇神社の新たな社殿祭祀がはじまります(「大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十二日正遷座が行なはれた」…『大三島詣で』)。
大宝時代には秦氏による松尾大社が官命によって新たな祭祀をはじめていて、この大山祇神社の新たな祭祀も官命によるものとみられます。現在、大山祇神社の境内案内「日本総鎮守大山祇神社由緒」には、祭神は「大山積大神一座」と明記され、また「祭神の子孫 小千命」ということばがみられます。越智氏は大山積大神の「子孫」とあることには注意がいきます。越智氏の「外伝」的祖神は「神饒速日命」のはずで、この重要な祖神の名、あるいは系を記すことなく、大山積大神の「子孫」だというのです。
越智氏の祖を大山積大神とするのは、大山祇神社一社に限定される特殊主張というべきで、こういった不可解さを垣間見せているところに、越智氏(玉興・玉澄)の官命祭祀受容の苦衷が表れているといえます。
大山祇神社には、このような不可解あるいは理不尽ともいえる官命祭祀を受容した姿がみられるものの、それとは対極的な祭祀を手放さなかったのも越智氏でした。社号は八幡神社であるにもかかわらず、主神は「乎致命」と主張しつづけている社があります。大濱八幡大神社といいます(今治市大浜町)。その境内社には、『今治市誌』にも『愛媛県神社誌』にも記載がないものの、祭神を「瀬織津姫神外三柱」とする潮富貴神社もまつられています。境内案内を読んでみます(表示形式を改め、由緒文については適宜句読点を補足して引用)。
大濱八幡大神社
祭神
主神 乎致命(おちのみこと)
相殿 饒速日命・天道日女命・仲哀天皇・応神天皇
神功皇后・武内宿禰・市杵島姫命・大穴牟遅命
由緒
天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀し、仁和元年神位従五位の下を賜う。
貞観元年宇佐八幡宮より八幡神を勧請して大濱八幡宮と改め、壱千一百余年の間、歴代の国司崇敬厚く、守護職河野氏を初め武将の崇敬深く、海上史に有名な瀬戸の海賊衆は八幡大菩薩と斎き祀り、一国の鎮守或は一の宮と称える。〔中略〕
祭日
例大祭 十月十日
開運祭 旧一月二十七日
境内社
杵築神社 祭神 大穴牟遅命
潮富貴神社 祭神 瀬織津姫命 外三柱
境外社
美保神社 祭神 事代主命
杵築神社 祭神 大穴牟遅命
『新撰姓氏録考證』補遺の解説では、越智氏は「応神帝の時より通計すれば、一千三百余年に及ふ名たゝる旧族」と書かれ、ここでは「応神天皇の御代小千国造に任ぜられ」とあります。この応神天皇時代云々については、『先代旧事本紀』国造本紀の「小千国造、軽島豊明朝(応神)御世、物部連同祖大新川命孫乎致命定賜国造」を承けたものですが、乎致命を「伊予一国の中心門族越智・河野氏の産土神なり」とし、その相殿の筆頭神に、八幡関係神ではなく「饒速日命」(とその天上の妻神「天道日女命」)を配しているところに、大濱八幡大神社の小さな気概が読み取れます。
同社境内の中心には「乎致命」の大きな石像が建立されていて、その台座部分には越智氏の系図が刻まれています(初代内閣総理大臣・伊藤博文は越智氏族との記載もあります)。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
『先代旧事本紀』天孫本紀では、出石心大臣は出雲醜大臣命、大矢口宿禰は大水口宿禰命と記されていますが、こういった小さな差異にこだわる必要はないでしょう。ここで再確認できるのは、越智氏の正統系図に、大山祇神社がいうところの祖神としての大山積大神の名がみられないということです。
では、大山祇神社の主張がでたらめかとなりますが、そうではないという仮定のもとにいうことがあるとすれば、それは、越智氏にとって饒速日命が父系祖神であるとき、大山積大神は母系祖神ではなかったかということがあります。これは改めてふれますが、天孫降臨→瓊々杵尊婚姻神話における『日本書紀』の記述は、大山積大神「男神」説を語る複数の別伝・異伝を配するも、その本文においては、大山積大神は「女神」とされていたことを添えておきます。越智氏の母系祖神Xは、オオヤマツミの名で語られている可能性があります。
国の命令で愛媛県の神社調べがなされた記録(昭和十二年頃に成る「神社に関する調査」)の大濱八幡大神社の項をみますと、主祭神・相殿神は現行表示と同じですが、「其他参考と
官報不明ノ神社ナル門島神社(仁和元年従五位下ヲ賜ハル)ハ古ク海上門島(津島或ハ中戸ノ島トイフ)ニ鎮座セシガ天智天皇御宇王濱宮(当社)ニ合祀セシモノナリ
門島は「津島或ハ中戸ノ島トイフ」とあります。現在の島名表記は「津島」で、大三島南の大島の西の沖合にある小島ですが、門島神社は津島神社の名で、同じく「神社に関する調査」の津島・大山積神社の欄に記
大山積神∴(瀬織津比売命、来名戸祖命、
(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴
大山積神と天道日女命のあとの「∴」など、とても不思議な表示がなされていますが、大濱八幡大神社に合祀されたのは津島(=門島)神社でした。ここで気づくのは、「饒速日命、天道日女命」はたしかに大濱八幡大神社相殿にまつられてはいま
大濱八幡大神社は「天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀」と明記し、天照大神の名を自社祭祀から削除・不表示としています。記紀神話を盲信するかぎり、天皇の祖神は天照大神となりますが、大濱八幡大神社は、その祖神を「饒速日命・天道日女命」と語っています。これは考えてみると、途方もない歴史証言とも読めます。なぜならば、天照大神が天皇の祖神となるのは、天智天皇のあと、つまり壬申の乱(六七二年)のあと、天武・持統天皇以降、伊勢神宮の創祀と連動するもので、天智天皇の時代までは、天照大神は饒速日命のことだったといえるからです。饒速日命を、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という最大賛辞の神名で語っていたのは、越智氏同族物部氏の文書(『先代旧事本紀』)でした。
大濱八幡大神社境内の由緒表示には、越智氏の歴史的気概といったものが垣間見えるようです。この「気概」は、境内社の潮富貴神社の祭神表示「瀬織津姫命外三柱」にも表れています。この境内社は『愛媛県神社誌』等の公的な記録には記されておらず、にもかかわらず、境内の由緒板には明記され、しかも、「瀬織津姫命 外三柱」なのです。この「外三柱」は、瀬織津姫ほかの祓戸三神をいったものでし
ところで、大山祇神社境内の十七神社に合祭されている早瀬神社ですが、この神社の元社地はどこかということで、大山祇神社の根本由緒書の一つ「三島宮社記」は、次のように書いています(安永五年=一七七六年頃の書写、『神道大系』神社編四十二、所収)。
早瀬神社一座 瀬織津姫命〔一説木花知流姫命〕
此御社者、同越智郡之内鎮座于津嶋。
早瀬神社一座の祭神は瀬織津姫命とするも、一説には「木花知流姫命」ともいわれるというのは興味深いですが、それはおくとして、早瀬神社は越智郡のなかの津嶋(津島=門島)に鎮まりますという内容は、やはり重要でしょう。
昭和十二年の時点、津島には早瀬神社の社号はみられず、大山積神と「∴」の関係で、瀬織津姫の名は記されていました。また、大濱八幡大神社においては、津島=門島神の一神「天照大神」を表示することなく、境内に潮富貴神として瀬織津姫の名を出現させています。大濱八幡大神社から消えた津島神「天照大神」は、あるいは、瀬織津姫神の異称とされる天照大神「荒魂」のことだったのかもしれません。
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2010年12月17日
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