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▲鳥海山
秦氏には、秦始皇帝を祖とする系と、徐福を祖とする系の二つがみられるも、前者には、秦氏本流の秦河勝を中祖としながら、始皇帝ではなく徐福を「竜祖」(始祖)と主張する長曾我部(長宗我部)氏がいます。これはほんの一例ですが、しかし、官製『新撰姓氏録』が語る始皇帝系秦氏の系譜は額面通りに受け取れないことを告げています。それと、秦河勝の名は出さないものの、秦徐福を祖とする「内伝」と、神饒速日命を祖とする「外伝」(『新撰姓氏録』)をともに語る越智─河野氏がいます。
秦氏あるいは物部系氏族と瀬織津姫祭祀には、とても深いつながりがあります。このことの傍証として、複数の神社祭祀の事例を提出することができますが、それらが「傍証」以上でないのは、そこに、現在からはみえにくい「祭神差替」の問題(中央の祭祀思想にとっての必然的問題)が秘められているからです。しかし、同一的傍証が集積されて共通のベクトルがみられるとき、個々の事例はパーツ的な傍証でも、その集積の総体が指し示すことには大きな意味があります。
せっかくの機会ですから、このパーツ的「傍証」事例をいくつかみてみます。
大和岩雄『秦氏の研究』は、膨大な史料の紹介・読み込みをしながら、五世紀以降の渡来人としての朝鮮系(加羅・新羅系)秦氏と限定するも、秦氏の像をかなり説得的に提示している労作です。
本書には「秦氏の祀る神社と神々」の章があり、香春神社・宇佐八幡宮・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・蚕養神社・松尾大社・白山神社など計十三の神社と関係社が取り上げられています。ここには大山祇神社は含まれていませんが、収録の神社と秦氏との抜き差しならぬ関係が考証されていて、なかには、瀬織津姫祭祀をつよく示唆する言及も散見されます。
大和氏は、京都府向日市向日町北山に鎮座する向日[むこう]神社(『延喜式』神名帳では「向[むかへ]神社」と表記)の向日神について、次のように書いています。
「向日二所社御鎮座記」は、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺[たださ]す地、夕日の日照[ほで]る地、天離[あまさか]る向津[むかつ]日山」と書き、(向日神は)この山に鎮座したと書いているが、『日本書紀』は神功皇后摂政前紀に、伊勢の度会の五十鈴宮の神を天疎向津媛[あまさかるむかつひめ]と書く。この神は、一般に天照大神の荒魂といわれているが、天照大神を『日本書紀』が「大日孁貴[おほひるめむち]」、『万葉集』が「天照日女[ひるめ]之命」と書くように、天照大神は向津媛が日神に成り上がったものである。
引用の「向日二所社御鎮座記」は「元慶三年(八七九)、神祇官に提出された」もので、いわば公的な由緒書ですが、向日神が「天離る向津日山」に由来する神名であることを告げていて貴重です。向日神社の現在の由緒書は、向日神は御歳神のことと説明していますが、最古の由緒記の記述を尊重すべきでしょう。
大和氏は、この「天離る向津日山」から「天疎向津媛」(『日本書紀』の表示は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」)を考え、この神は「天照大神の荒魂といわれている」と、瀬織津姫祭祀の世界に踏み込む一歩手前までは書いています。しかし、「天照大神は向津媛が日神に成り上がったもの」という解釈を添えるだけで、踵[きびす]を返すことになります。こういった「成り上がり」の言説は読み捨てるわけにいきません。もしこの語をつかうならば、ここは、「天照大神は向津媛の性格・神格を収奪して皇祖神・日神に成り上がったもの」というのが正確な言い方です。
ところで、御鎮座記の「向日二所社」ですが、一社は向日神社、もう一社は乙訓坐火雷神社のことで、後社の火雷神は松尾大社の大山咋神のこととされます。『古事記』の大年神の神統譜は、大年神と天知加流美豆比売の子神として大山咋神の名を記していて、御歳神(御年神)については、大年神と香用比売の子神としています。向日神(天疎向津媛命=瀬織津姫神)を御歳神(御年神)に置き換えて、大年神の神統譜で語ろうとしているところに、秦氏とこの神の親縁性が表れています。
大年神の祭祀は秦氏と深く関わっていて、それは、たとえば松尾大社の祭祀氏族として秦氏がいることにみられますし、『古事記』は、大年神と神活須毘神の子神として、大国御魂神・韓神・曽富理神・白日神・聖神といった神々の名を連ねています。秦氏ゆかりの新羅系の神々として、少なくとも、韓神・曽富理神・白日神・聖神の名はあります。
大和氏は「向日神社の祭祀氏族は天照御魂神の火明命を祖とする六人部[むとべ]氏だが、当社の北隣を物集女[もづめ]といい、『和名抄』の山城国乙訓郡物集郷の地である。物集連は『新撰姓氏録』では秦氏系」、「この秦氏系氏族が、向日神社のすぐそばにいることは、無視できない」と、秦氏系氏族が向日神社の祭祀に関わっていることを、その氏族的観点から推定しています。「向日二所社」には秦氏がまつる神の社が含まれていますから、向日神(天疎向津媛命=瀬織津姫神)もまた、秦氏と無縁とみなすことはできませんし、物部系氏族といってよい尾張氏同族・六人部氏と秦氏の関係も同様です。
なお、向日神が鎮座していた「天離る向津日山」は、「朝日の直刺[たださ]す地、夕日の日照[ほで]る地」と形容されていました。この形容句は、『古事記』の天孫降臨段における、「此地[ここ]は韓国[からくに]に向ひ、笠沙[かささ]の御前[みさき]に真来[まき]通りて、朝日の直刺[たださ]す国、夕日の日照[ほで]る国」に正確に対応しています。九世紀に神祇官に提出された「向日二所社御鎮座記」は、天孫(ニニギ)が降臨したとする記紀神話の地は、もともと「天離る向津日山」であったことを示唆してもいます。これは、日向国の地名譚にも関わってくるものでしょう。
秦氏と瀬織津姫祭祀には深い関連があることを示す「傍証」はまだあります。たとえば、大和氏は次のように書いています。
愛宕五坊の内の高尾山寺だが、愛宕山の開山について、愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中(七〇一〜七〇四)に役小角と雲遍上人が愛宕山に登り、禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峯に神廟を造立したのにはじまると書く。雲遍上人は白山開山の泰澄上人のことである。
泰澄は秦氏出身であるが、泰澄(雲遍)開山の愛宕山を、「白山[はくさん]」というのは、山城秦氏の本拠地の木島神社(木島坐天照御魂神社)や広隆寺(太秦寺)のある太秦の西南(西北の誤記…引用者)に、この山はあり、秦氏の山岳信仰の対象になっていた聖山だからである。
ここには、実に興味深いことが圧縮されて書かれています。曰く、愛宕山は「秦氏の山岳信仰の対象になっていた聖山」で、この山には「白山[はくさん]」の異称があること、また、愛宕山「開山」のあと、養老元年(七一七)、加賀・越前・美濃の境界山である白山の「開山」に関わる泰澄は「秦氏出身」である──。
秦氏が「聖山」と仰ぐ愛宕山には愛宕神社の本社がありますが、全国的視野からいえば唯一の例外となるものの、東北の山深い里である遠野郷においては、戦前まで、愛宕神は瀬織津姫神と伝えられていました(『綾織村誌』)。
また、泰澄は「鎮護国家法師」の名のもとに白山の本源神を十一面観音に置き換えて伏せるも、そこには、愛宕山と同じく瀬織津姫神がいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。
秦氏と白山神祭祀が濃密な関係にあることについては、滋賀県の園城寺(三井寺)の鎮守神に三尾明神・新羅明神・白山明神がみられ、このうちの三尾明神に関する『寺門伝記補録』に決定的ともいえる記述があります(『秦氏の研究』所収)。
三尾神、在於北道 現白山明神 彼此一体分身神也〔中略〕社司秦河勝之胤 有臣国ト云者 始任当社神職 自厥以来 秦氏連綿相継
中世に成る『寺門伝記補録』ですが、三尾明神と白山明神は「一体分身神」とあり、いつのことかは不明であるものの、秦河勝の末裔「臣国」なる者が初めて神職となり、それ以来、秦氏が「連綿相継」いで神職をつとめているという内容です。
大和氏は、秦氏の本拠地における祭祀社として木島神社(木島坐天照御魂神社)の名を挙げていましたが、同社は「蚕の社」と親称されています。これは、天照御魂神社と蚕養[こかい]神社が並んでまつられているからですが、秦氏のさまざまな殖産技術の一つに養蚕・機織があります。
白山・愛宕山の表層祭祀からは消えていますが、瀬織津姫神もまた養蚕・機織の神であり、東北においてはオシラ神でもあったことは『エミシの国の女神』がすでに考証していることです。『秦氏の研究』は、オシラ神の研究者でもあったニコライ・ネフスキィによる柳田國男宛ての書簡を引用していて、そこにも、決定的なことが書かれています。
「東北地方のオシラ神はよく養蚕の神だと云はるゝ理由は、仰せの如く当地方では蚕の事をシロコとかシラコとか云ふ為でせう。米沢城三の郭の中の白子大明神之社、一名宮城子[みやきこ]、白子村の名有、宮城郷是也云々。白子大明神記因に云〔中略〕大物忌之神之社の垂跡なり。和同[ママ]年中、此御神之示現に依て、此地の桑林へ蚕を降らす。其白き事雪の降るがごとし。故に号て此地を白子村と云ふ、云々。右の神社の末社の中には子玉の社あり蚕神殿を祭ると云ふ(右は米沢里人談に依る)」
白子大明神(オシラ神)の縁起書(「白子大明神記」)には、この神は「大物忌之神之社の垂跡」だとあります。米沢城の地の桑林へ蚕を雪のごとくに降らせたとされる大物忌神は、ニギハヤヒの降臨伝承をもつ出羽の鳥海山の主神です。この神が、奥羽山脈を越えた陸奥国(宮城県)側へやってくると、そこでは大物忌神の異称として瀬織津姫神の名が明かされることになります(『玉造郡誌』)。蛇足ながら、鳥海山においては、瀬織津姫神は現在、一之瀧神社・二之瀧神社に「滝神」としてまつられていることを添えておきます。
▲鳥海山一之瀧
▲鳥海山二之瀧
以上は、氷山の一角のような事例ですが、秦氏の神まつりに、瀬織津姫神が深く内在されていただろうことは想像しうるものとおもいます。
なお、瀬織津姫神は白山や伊勢の表層祭祀から姿を消しただけではありません。秦徐福と物部氏ゆかりの熊野の祭祀においても同じくです。新宮市の阿須賀神社の境内には徐福之宮がまつられていますが、その社号からすれば、この境内社の祭神は徐福だとだれもがおもうでしょう。しかし、『徐福の研究』(新宮市・徐福研究会)は、江戸時代の紀行集(『熊野巡覧記』寛政元年)を徐福関連史料として収録していて、そこには、次のように書かれています。
飛鳥神社 新宮巽方下馬より十六町側にあり、飛鳥一に作明日香、土俗飛鳥社と称す。
飛鳥社 速玉男命、事解男命 合社
並之宮 三荒神、日月星神荒魂を祭る。
同河面之宮 秦徐福所祈之霊神
▲阿須賀神社
ここに記されている「秦徐福」は、紀元前三世紀に渡来した徐福のことではないでしょう。ただし、徐福は熊野の民に深く崇敬されていて、その徐福でさえも祈りまつるところの霊神が、こ
秦徐福と神饒速日命という二つの祖をもつ越智─河野氏です。越智氏は、秦氏かつ物部系氏族ですから、越智氏が代々奉仕してきた大山祇神社にも、秦氏ゆかりの神がいると考えるのが自然です。 |
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2010年12月08日
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