千時千一夜

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イメージ 1 遠野三女神の母神あるいは中心神である瀬織津姫神は、早池峰の山霊(山神)であると同時に「滝」の神でもあります。この滝神としての瀬織津姫神が習合するのが不動尊(不動明王)で、たとえば多藝神社(陸前高田市横田町字小坪)の由緒は、この神の本地仏を「不動明王」と明記さえしています。不動尊(不動明王)は修験者の絶対的守護神とされ、早池峰信仰圏の滝々においては、不動尊と瀬織津姫神は二重化されてまつられる姿をよく確認できます。
 ところで、遠野三山・三女神伝説がつくられるのはいつごイメージ 2ろのことかについては、わたしは、八戸南部氏(南部直栄[なおよし])が、阿曽沼氏が衰亡した遠野へ国替えされる江戸時代初期(寛永四年=一六二七年)より前にさかのぼるものではないだろうとおもっています。この八戸からの国替えによって誕生した遠野南部氏は、しかし、南部氏の主流ではなく、南部藩の実権は盛岡南部氏、つまり、豊臣秀吉の「奥州仕置き」(九戸政実の滅亡)に加担した南部信直にありました。
 秀吉の天下統一に貢献した信直が、紫波郡・和賀郡のほかに稗貫郡をも正式に拝領したため、岳妙泉寺(大迫妙泉寺・稗貫妙泉寺とも)は盛岡南部氏(祈願寺の永福寺)の支配下にはいります。円仁(慈覚大師)による早池峰祭祀の神宮寺としてはじまった遠野妙泉寺も永福寺の支配下にはいりますが、両寺の優遇度には露骨な差があったようです。『嶽妙泉寺文書』(花巻市教育委員会)の解題(小野義春氏)は、次のように書いています。
 
 新義真言宗豊山派盛岡山永福寺は南部家の祈願寺であり盛岡藩の冠寺として城下寺院の筆頭に位置、岳妙泉寺はその支配下として席順は城下七箇寺目とされ、盛岡城においては御敷居内に入ることを許されたが、遠野妙泉寺は平土の座に据えイメージ 5られている。豊山派は奈良長谷寺を総本山とする。
 
 奈良・長谷寺を総本山とする新義真言宗豊山派で想起されるのは、郡山の宇奈己呂和気神社の神宮寺・護国寺も同派ということです。真言宗豊山派が二つの瀬織津姫祭祀に神仏習合的に関わっているのは偶然ではないようですが、それはおくとしても、遠野妙泉寺からすると、藩政時代にはかつての分寺の岳妙泉寺の下位におかれていて、これは、早池峰祭祀権にも影響を及ぼしかねない事態を想像させます。
イメージ 6 遠野妙泉寺が岳妙泉寺に対して、自身をあらためて「本寺」と主張せざるをえない状況があり、これは、早池峰山頂の祭祀に対して自らの存在主張をする必要に迫られていたということでもあります。それが、早池峰開山における四角藤蔵の単独行為という縁起(岳妙泉寺側は藤蔵と田中兵部の二人による開山縁起をもつ)に表れましたし、一方で、早池峰を含む遠野三山・三女神伝説を創作した理由とみえます。
 早池峰はもともと太陽神と習合する薬師如来の山で、その早池峰の前立ての山といってイメージ 7よいかつての鶏頭山は、ゆえに『遠野物語』(第二十九話)では鶏頭山を「麓の里では又前薬師と云ふ」と書かれていました。この前薬師は、現在、薬師岳と呼ばれますが、早池峰に薬師如来、鶏頭山=前薬師に十一面観音をまつったのが最古の神仏習合の姿でした。したがって、遠野側が三山三女神を主張するならば、鶏頭山=前薬師と六角牛山・石神山を遠野三山というのが自然で、早池峰は、この遠野三山に対して奥院・奥山というのが信仰的位置づけだったとおもわれます。
 しかし、南部藩政時代になりイメージ 8ますと、この奥山祭祀が遠野妙泉寺から離脱しかねない危機が出来し、それが岳妙泉寺との本末寺論争へと発展することになります。
 以上、遠野三山三女神伝説の創作動機を概覧してきましたが、わたしがここで問題にしてみたいのは、遠野側が決して一枚岩の祭祀思想を通したわけではなかったということです。なぜそうおもうかといいますと、三女神伝説では、遠野三山には母神・瀬織津姫神の分身・分神がいるとされるも、伊豆権現と早池峰山の信仰ラインにおいてはそれはいえるにしても、ほかの二山(六角牛イメージ 9山・石神山)においては、分身・分神祭祀が徹底されていたわけではなかったからです。
 その揺らぎがもっともよくみられるのは六角牛山の祭祀でしょうか。
 六角牛山には、その登拝口に二つの祭祀規模の異なる神社があります。また、社名についても、一つは六角牛神社、もう一つは六神石神社といっています。
 大槌街道側からの登拝口にある六角牛神社には、その石碑に三女神伝説を刻んで、「遠野郷三山の三姉妹」の姉神を、敬意をもってまつるとしてイメージ 10います。社殿の背後には六角牛山が聳え、ここは早池峰神社と同様に、山岳遙拝の信仰ラインがあります。
 一方の六神石神社は南の釜石街道からはいりますが、社殿は東方を拝むように建立されていて、その信仰ラインの先には六角牛山はないという特徴があります(六角牛山は社殿の北東に聳える)。また、現由緒では「六神石(ろっこいし)神社は、大同二年(八〇七)時の征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷地平定のため人びとの信伏を願い、六角牛山頂に薬師如来、山麓に不動明王、住吉三神を祀ったのが始まり」としています。ちなみに、昭和十四年に発行された『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)には、同社祭神は「大己貴命、誉田別命」と記載されていて、六神石神社の祭神の不定性が目立ちます。
 神社を訪ねてみますと、本殿の千木は平削ぎ、鰹木は四本で、これは一般的には女神の祭祀を告げるものですが、わたしが特に興味深くおもったのは、本殿の真裏にまつられる境内社が「大瀧神社」だということです。説明板には、次のように書かれています。
 
大瀧神社
イメージ 3大同年間坂上田村麻呂将軍が六角牛山麓に祀られたのがはじまりと云われる。
祭神は日本武尊で、昔は不動明王と云いお不動様と親しまれて来た。
邪悪、病魔、災難を除し活気を与えて呉れる酉年生れの者の守本尊である。
御縁日 毎月二十八日
 
 早池峰信仰圏、しかも遠野三山の一角を構成する六角牛山の祭祀で、不動尊(不動明王)と習合する滝神が「日本武尊」と表記されています。このザラザラとした読後感覚は何なのでしょう。
 田村麻呂による滝神勧請を伝える社に、一関市滝沢の滝神社があります。同社由緒には「大同年間(八〇六〜八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安」とあり、この滝神・祓戸大神は「瀬織津姫命」、つまり、早池峰大神と同体です(ブログ・岩手県「滝神社」参照)。
 六神石神社は六角牛山を拝むようには建立されておらず、しかも、本殿真裏には大瀧神社をまつり、その大瀧神を「日本武尊」としているという奇異さが気になり、神社近くの古老に尋ねてみました。すると、六神石神社は四百年ほど前は別の所にまイメージ 4つられていた、大瀧は不動滝といっているが、その旧社地の奥にあるとのことです。
 こういう話を聞いてしまいますと、やはり訪ねないわけにいきません。目印はなにかありますかと尋ねると、六角牛山中の旧参拝道沿いに大きな一本杉があり、そこが旧社地だとのことです。
 一本杉は初めてでもわかりそうだとおもいましたが、滝の場所については少し不安もあり、別の方に尋ねると、谷底の滝へ降りる道はたぶんわからないだろうからといって、親切にも案内してくれるとのことで厚意に甘えました。
 六角牛山の大瀧(不動滝)の神が「日本武尊」であるはずがないと呪文のように心に呟いていましたが、旧社地の一本杉は中沢川沿いに聳えていて、この川の上流数百メートルのところに大瀧(不動滝)はありました。
 旧参道(山道)から下をみながら歩いていきますと、谷底に大瀧神社の廃屋と化したような社殿と滝がみえてきます。たしかに道なき道でしたが、谷へどうにか降りると、小振りながらも品のよい滝で、山頂への参拝者が、かつてはこの滝で禊ぎをしてから登頂しただろうことはまちがいないと確信しました。
 六角牛山にも、遠野三山三女神の母神である伊豆大権現(瀬織津姫神)の分神がいるとみてよく、遠野三女神伝説が、たんに伝説ではない祭祀を告げていることもみえてきたようです
 
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