千時千一夜

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伊豆山祭祀と空海

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(つづき)
 走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の勢いよく流れるさまを表したことばです。『伊豆国風土記』(逸文)の「走湯[はしりゆ]」の記載を読んでみます。

普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。(吉野裕訳)

 わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はうまく撮れませんでした(写真1)。この走り湯はかつては「滝」となって熱海の海に落下していましたから(古絵図には「瀧湯」として描かれる)、走湯の霊神は滝神でもあります。
 文武三年(六九九)、「妖言」の罪で伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。「伊豆山略縁起」は、次のように描写しています。

四十三代文武天皇三年戊戌、役行者、当国大嶋に配流の時、此山の巓[いただき]、常に五彩の瑞雲たなびくを遙[はるか]に見て、霊神の在[います]ことを知り、其年竊[ひそか]に此磯部に渡り来て、まづ霊湯に浴せんとしけるに、波底より金色八葉の蓮華湧出し、千手千眼の尊像、其中台に坐し玉ひ、菩薩天仙囲繞せり、又波間に金文の一偈[げ]浮び現れぬ、其偈に曰[いハく]、
  無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄
行者、此文[もん]を感得し、諸[もろもろ]の法を聴聞して、瑞喜[ずいき]に堪[たへ]ず、権現を崇尊し、三仙斗藪[とさう]の旧典を慕ひ、修歴遍路しければ、是を当山第四祖とす、〔行者、初到之地建草堂祀之、寛政中遷於下之檀上〕、此偈の意[こゝろ]をいはゞ、無垢霊湯ハ清浄の義、大悲心水は誓水のこゝろ、されば眼耳鼻舌身意[げんにびぜつしんゐ]の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽[ことごと]く消滅し、心の底までも垢を除くの謂[いはれ]あり、豈[あに]身にある病をや、況[ま]して深信[じんしん]の輩[ともがら]、いかなる三業の病にても、容易[たやすく]除愈[じよゆ]せざらんや、走湯[はしりゆ]の古歌数多[あまた]あり、鎌倉右大臣の歌に、
玉葉集  伊豆の国山の南にいつる湯のはやきは神の験[しるし]なりけり
金槐集  はしりゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也けり

 役小角が感得した「金文の一偈[げ]」については、この走湯は無垢霊湯の誓水(「大悲心水」)で、「眼耳鼻舌身意の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽く消滅し、心の底までも垢を除く」という縁起の作者の解釈はそのとおりでしょう。
 小角は「(走湯)権現を崇尊」し、この権現が宿る、あるいは司る「霊湯」は、すべての罪滅と心身の清浄化を果たすものだと、「偈」に込めたようです。この罪滅清浄を神道的にいいかえれば、すなわち禊祓[みそぎはらえ]となり、走湯の霊神、あるいは走湯権現(の性格)を、小角はぶれることなく理解していたようです。
 なお、役行者は走湯山の「第四祖」とされていました。ちなみに、第一祖は松葉仙人、第二祖は木生仙人、第三祖は金地仙人、第五祖は弘法大師(空海)とされます。
「走湯山之記」は、走湯山には「八またのおろち」がいて、役小角が「金杵」で「おろちをつたつた(ずたずた)」にしたあと「磐石」にて地下に封印したとする逸話を「偈」の話に加えています。スサノヲと役小角がだぶる話ですが、この「おろち」は、走湯山の地主神の龍体(大龍)をいったもので、出雲においても同じことなのでしょう。
 役小角による「八またのおろち」退治譚のあとには、次のように書かれています。

是よりさきに松葉・木生・金地とて、ミたりの仙人次第に来り、御やつことなりて、数百年有しか、後には皆脱体羽化せしかは、人のめにこそ見えねとも、定て今も猶此山に徘徊して、神にミやつかへ奉らんかし、しかれは此小角を、第四代の別当とす、其後弘法大師詣て給ふに、御神現形ましまして、妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ

 万治二年に松軒なる人物の手になる「走湯山之記」ですが、この記載を信じるならば、役小角の時代までは、走湯山(伊豆山)には大きな祭祀変動はなかったようです。伊豆の「御神」に、「妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ」た空海でした。空海によって、一方的な「神道の深秘、仏法の奥儀」を「かたみ」に授けられ封じられた神こそ、役小角の時代までは健在であった走湯(伊豆)の霊神(御神)だったとおもわれます。
「走湯山之記」は、「(走湯)権現を崇尊」していた役小角の心を後世に残そうとしたのでしょう。次のような文面もみられます。

彼偈(役小角の偈)を見れは、此湯(走湯)ハ、薩埵の大慈・大悲のミちあふるゝ所より流出くる瀧なれは、一たひゆあひかミあらふものは、うちつけに身もつよく心もすくやかに成て、諸病立ところに愈、後の世ハ無始劫来のつみとか、うたかたとともに消て、南方無垢世界に生ん事、疑あるへからす、かほと妙なる霊験をしる人、稀に成ぬれは、あはれ此文を瀧殿にかけて、普参詣のともからにしめさまほしき事也、

 走湯の「瀧」は、諸病に効き、過去の一切の罪咎(「無始劫来のつみとか」)を消す、それほどの稀にみる霊験をもつとされます。松軒はまた「はやきハ神のしるしそと、音に聞へし走湯の瀧津流」とも書いていて、「走湯の瀧」は、罪滅浄化(禊祓)に顕著な霊験を有しているのでした。
 この罪滅浄化(禊祓)に関わる走湯権現あるいは滝神をいうなら、空海以前に遠野郷へやってきた伊豆権現(瀬織津姫命)をおいてほかにありません。
「伊豆山略縁起」における「善悪・邪正を裁断し玉ふ」神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる、いわば正邪を糺す神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、さらに、『古事記』允恭天皇条に記載の、古代の真偽裁判法「盟神探湯[くがたち]」を司る神が「言八十禍津日」の神であったことを挙げてもよいです(八十禍津日神は瀬織津姫神の貶称神名)。
『伊豆国風土記』(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」としていました。この風土記がいつの時点の成書かは不明ですが、ここで「祭る」といっているのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは、伊豆山祭祀に朝廷の力が暗に行使されたことを表すものとも読めます。
 風土記に天忍穂耳尊ではなく「瓊瓊杵尊の荒神魂」と書かれていたことは、縁起を神道的に解釈・書き直しをしようとする者たちにとっては、かなり難儀な創作・改稿となっただろうことが想像されます。
 空海以前の走湯神・伊豆御神の神徳の残像は、これまでみてきたように、縁起の全体からすべて消し去ることは不可能でした。縁起において罪滅浄化(禊祓)の神徳が強調されるとき、その上で祭神が忍穂耳尊や瓊瓊杵尊とされることになりますと、これはとても理にあわない、不自然なことになります。
『神道体系』神社編二十一は「走湯山秘訣氏人上首一人外不口伝」上・下(以下「秘訣」と略称)という秘伝書も収録しています。これは、空海の影響下につくられた各縁起とは一線を画すもので、伊豆山祭祀に携わってきた地元の「氏人上首」ならではの伊豆権現への思いがぎりぎりの表現となって書かれています。
 記紀神話では、月神はツクヨミ(月読)とされますが、「秘訣」では、日神と並ぶ月神は天忍穂耳尊で、この神は湯の泉を「家」とし、月の鏡を「心」としているとされます。日神・天照大神は「国の皇主」、月神・天忍穂耳尊は「くにの政主」と役割が異なることが記されるも、日月が相並ぶとすれば、天照大神と天忍穂耳尊とが同格となります。「秘訣」上巻の作者は、「みつ(水)はもと月の精なり、火はもと日の精なり」として「水火和合」の思想を説いてもいます。記紀神話を念頭においてこれを読みますと、かなり不自然な話となりますが、天忍穂耳尊を仮に伊豆本来の神(瀬織津姫神)に置き換えて読んでみるなら、ここで述べられている月神のこと、また水火和合の思想はじゅうぶんに肯定できる内容です。「秘訣」の語りの主体は、月神の子である月光童子とされます。なお、月神は天忍穂耳尊でしたから、その子神・月光童子は瓊瓊杵尊ということになります。
 以上は、後半が「白紙」となっている上巻の概要ですが、この文書の真骨頂はどうやら下巻にあります。
 月光童子は、氏人の祖とされる日精・月精とともに久地良山(伊豆山の古名)巡りをするのですが、「久地良の山の巌窟」に入ってゆくと、そこには「みかつくのとの(三日月の殿)」と「みつ葉の殿」があり、前者には「御とし五十あまり」の謎の男神がいて、後者には「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。
「秘訣」は、男神にはあまり関心がないようで年齢にふれるのみですが、この女体神については「十五はしらの神子」を従え、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」としています。この神徳は、先にみたところでいえば、地底における早追権現、および、地上における伊豆権現のそれでもあります。つまり、この謎の女体神は、早追権現・伊豆権現・走湯権現が共通して秘めている神と、等質の神徳をもっていることになります。
 また、日金山(久地良山)の地底には、千の鱗に千の「明眼」をもつ「生身千手千眼」の大龍がいるとされていましたが(「走湯山縁起」第五の裏縁起)、「秘訣」においては「その身に千々のいろこ(うろこ)あり、いろこにしなしなの絵あり、耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる(流る)」と描写されます。走湯の湯瀧の根源が久地良山(伊豆山)の地下にあることを、ここでも述べたものでしょう。
 この「秘訣」の巻末は、「日精・月精の氏人と共に、権現をかしつきたてまつる、これは氏人の中に、上首一人はかり、面授口伝すへし、筆のあとにもとゝめさるならひことなり、ゆめゆめしらすへからす」と閉じられます。ここで「かしつきたてまつ」られている「権現」は女体神(伊豆山の本源神)ですが、ではこの女神の名は何かといえば、それは「面授口伝」すべきもので、筆の跡にも留めることはない、つまり、書き残すことはしてはならないとのことです。「走湯山秘訣」の絶対的秘伝性は、ここに極まるといえます。明治期「祭神之事、古来一定仕ラス」とされた理由は、この「面授口伝」の絶対的秘伝性にあったのでした。
 さて、「配流」という罪人の立場でありながら走湯の霊神(面授口伝の秘神)を尊崇した役小角と、「勅命」を奉じ「神道の深秘、仏法の奥儀」によって走湯の霊神を封印した空海は、あまりに鮮明な対極関係にあったようです。
『日本霊異記』によれば、小角は、昼は伊豆にいるものの、夜には富士山で修行したとされます。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)は、伊豆山(日金山)の「八穴道」の一路が通じている聖地として富士山頂を挙げていました(「六路は富士山頂に通ず」)。
 役小角は、飛行の仙術を駆使して伊豆から富士山へ通っていたのではなく、この「八穴道」の一路を通って富士山頂へ出かけていたのではないか──と、そんな想像もできなくはありません。あるいは、伊豆山の地主神(走湯の霊神)とともに、地底を疾走する小角さえイメージできそうです。
 富士山頂には、富士山の天女がいて、伊豆山には、天扇をもつ天女(女体権現)がいて、さて、これらの天女神は、はたして異神であったかどうかという問いがやはり残りそうです。

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(つづき)
 さて、空海が伊豆山へやってきた弘仁十年(八一九)の記録には、引用において「中略」とした部分に、次のような逸話が挿入されていました(最初の部分から引用します)。

弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ時、二人の神童現れて曰[いはく]、吾は是権現の王子なり、世澆季[すへ]に及び、人弊漫[へいまん]を懐[いだ]くが故に、権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ、和尚[くわしやう]こゝに来る事さいはひなりといひて、秘所八箇の神穴に誘引しければ、大師乃[すなハち]神鏡を赤色[しやくしよく]の九條衣につゝみ(「つゝみ」は当該漢字がなくひらがなにて表示…引用者)、南の窟[いはや]に納め、神体をば東の窟に蔵[をさ]め、法華経二部を書写して、前[さき]の両窟に安置す、こゝにをひて又、宝珠・霊剣を埋[うづ]めて、邪徒を降伏[かうぶく]し、四域を結界し、神窟の前にをひて、心経[しんぎやう]秘鍵[ひけん]を講誦[こうじゆ]し玉ひければ、窟中[くつちう]鳴動すと、云云、〔豪忠記、縁起第三之大意〕、(大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り云々とつづく)

 空海(弘法大師)が「三夜に及ぶ」社殿での「結檀念誦」のとき、「二人の神童」が出現したとされます。彼らは「(伊豆)権現の王子なり」と自己紹介し、空海の来訪を歓迎する旨を述べます。神童たちは「(伊豆)権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ」ゆえに、その納品を空海に託すとして、「秘所八箇の神穴」に案内し、空海は、南の窟と東の窟にそれぞれ「神鏡」と「神体」を納め、さらに「法華経二部を書写して」、南・東の両窟に「安置」したとされます。空海はまた、「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏し、四域を結界」し、そこで心経(般若心経)の奥義を講説すると「窟中鳴動す」と書かれ、この逸話は終わります。
 これを空海の夢想譚として読み飛ばすことも可能ですが、しかし、「秘所八箇の神穴」や「南の窟」は、伊豆山のほかの縁起書にも重要な聖域として散見されますので、神童(権現の王子)たちの出現をわざわざ仮装した空海の夢想譚は、それなりに重要な意味があったものとおもわれます。
 たとえば「秘所八箇の神穴」については、「走湯山縁起」第五(の表縁起)が記すところの、「根本地主」の一神「早追権現」が「日々夜々」往来しているとされる日金山(久地良山…伊豆山)地底の「八穴道」のことでしょう。
「走湯山縁起」第五(の裏縁起)では、龍体が「生身千手千眼也」と明かされたあとに、この「八穴道」がどういうものなのか、具体的に書かれています(以下、筆者読み下しで引用)。

この山(日金山)は、これ補陀洛山九峯院の内別院、明鏡これなり。この山底に八穴道がある。一路は戸蔵(戸隠)第三重巌穴に通ず、二路は諏訪の湖水に至り、三路は伊勢大神宮に通ず、四路は金峯山上に届き、五路は鎮西阿曽(阿蘇)の湖水に至り、六路は富士山頂に通ず、七路は浅間の巓に至り、八路は摂津州住吉(に通ず)、

 日金山(久地良山…伊豆山)の地底(山底)にある「八穴道」が通じているとされる八所(の聖地)が書かれています。先に、伊豆権現が伊豆山から失踪して籠っていたとされる戸隠山も「戸蔵第三重巌穴」と書かれています。
 ここには、全国の数ある聖地から特にセレクトされたであろう八所が書かれています。これら八所(の聖地)すべてをここで検証することはできませんが、たとえば空海が、自らの密教的聖地として大日如来を習合させた「伊勢大神宮」をみますと、その「根本地主」は、伊豆権現=走湯権現に秘されている(封印されている)神と同神であるとはいえます。戸隠山については先にふれましたが、「諏訪の湖水」をみるなら、ここと通底している伝承をもっているのが遠州の桜ヶ池で、この池神・水神をまつるのが池宮神社(主祭神:瀬織津姫神)です。つまり、「根本地主」の位相にまで降りるならば、伊豆権現(の地主神)と、これら八所(の聖地)の祭祀は、まさに「通底」している可能性があります。
 各地の表層祭祀とは異なる、いわば「根本地主」(神)の祭祀をみようとするとき、この「八穴道」の記載は、途方もないことを示唆しているのかもしれません。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)が「深秘」「不可披見」とされる所以は、おそらくここにあるのでしょう。
 さて、空海が神鏡を埋めたとされる日金山中の「南の窟」についてですが、「走湯山縁起」第五(の表縁起)に、「密伝曰」として、「松岳南麓之地底十二丈」に「宮闕之閣」があり、その中心に「七星台」があって、そこに「千手観音」が坐す、すなわち「補陀洛山九峰の別院是也」との記載があります。
 この表縁起の作者(延尋)は、「この一ヶ条は、弘法大師が真済に語る口伝である」と記していて、そういえば裏縁起の「八穴道」云々にしても「已上高雄寺清涼房真済之記也」とありましたから、空海の夢想と密教理念は真済を媒介として「走湯山縁起」に多大の反映をもたらしているようです。
 それにしても、「補陀洛山九峰の別院」は表裏の両縁起に記されていますから、この二つの縁起からみえてくるのは、「根本地主」の一神であり、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定する「早追権現」(女形)は、その姿態は龍体とも千手観音(「千手千眼」観音)とも表現されていることです。
 延喜四年に記されたという「走湯山縁起」巻第三には、「夢中異人」のお告げとして「吾是走湯権現也、本地千手千眼」とあり、「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」(「伊豆山略縁起」)という神徳をもつ伊豆権現=走湯権現と早追権現は、その神徳ばかりでなく仏の姿態においても共通しています。
 ところで、「根本地主」二神のうち白道明神は「男形」、早追権現は「女形」でした。「走湯山縁起」巻第五(表縁起)は、「権現女体(の)事」の項を設けるも、その本性については「幽玄にして、人、これを知り奉らず」、また本地は「弥陀如来(阿弥陀如来)」だとしていて、ここでは千手観音ではありませんから、読む者を一瞬混乱させます。縁起は、権現が日金山頂にいるとき、嶺の東南に「女体社」を営み、そこに「弥陀如来」を安置し、山頂から「湯浜上」へ降りたとき、頂上の古社檀を「本宮」と号し、女体権現の御在所を「新宮」と呼んだとしています。また、この女体権現は、その形像は天女の如きで、手には天扇をもち、白蓮の花に坐していると、観音を連想させる美化の形容も忘れていません。
 縁起は、つづけて、この女体権現にまつわる不思議な逸話も記しています(筆者読み下しで引用)。

応和元年辛酉夏、ここに神託ありて、女体、雷電御宮に入御す、その後五箇年を経た康保二年、御本社に還御す、これ皆(女体権現の)神託によりて執行するところなり、

 女体権現がなぜ「雷電御宮」(本社若宮)に入御し、五年後にまたもとの「御本社」にもどったのか、その行為の理由がただ「神託」とされるのみで、もやもやとした話です。しかし、縁起の作者は、「女体、雷電御宮に入御す」のあとの割注で、「走湯権現、早追権現と通い交わるため、その嫉妬云々」と、これも歯切れのわるい注ではあるものの、走湯権現と早追権現の親交に、女体権現が「嫉妬」したらしいことが書かれています。
 ここには、神を神のままにまつらずに、それを権現に置き換え、さらに走湯権現と早追権現というように二様の権現へと分化させ、この二様の権現化に取り残された、元の神(女神)にもっとも近いイメージをもつ女体権現が「嫉妬」をしたとされています。こういった分化分身の発想は、空海が大日如来を二分身化した発想をベースとしています。このように、真言密教には、一つの単体(神)があるがままの姿を封じられ、部外の者には恣意的としかいいようのないものですが、無限分身化の発想があります。その結果、それぞれの分身が独自の存在理由・感情をもつとさえみられることにもなります。ここでは、そういった分身権現が独自の感情をもつと想像されたがゆえに、つまり「三角関係」といってよいのですが、そこに生じた「嫉妬」の感情関係が述べられているようです。
 権現たちの三角関係・嫉妬の話は、根本地主(神)に焦点を定めて読もうとすれば、もともと陰気な封印の上での話となりますから、下世話に笑う気にはなれません。
 ところで、空海の夢想譚には、神窟に「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏」したと書かれていました。伊豆山には「邪徒」がいたことがわかりますが、ここでいう「邪徒」とは、空海の密教理念あるいは鎮護国家の思想に異を唱える者たちをいうのでしょう。もともと、伊豆権現=走湯権現の神体である「円鏡」は「東夷境所」を示現する「神鏡」だとありました。また、伊豆山の最古の縁起書である「走湯山縁起」にしても、その書き出しは、「走湯山は人王十六代応神天皇二年辛卯、東夷相模国唐浜礒部の海辺に三尺余の一円鏡現る」で、走湯権現の神体とされる「円鏡」は、「東夷」ゆかりの「神鏡」でした。
 空海が「邪徒」とみなした人々は、もともと「東夷」であったゆえに、「勅命」を奉じた空海は、王化のための仏法をもって教え諭す必要があったのでしょう。これは、いいかえれば、伊豆権現=走湯権現に封印されている「神」は、「邪徒」「東夷」の人々が信奉する神でもあったことを示唆しています。この鏡が「東夷境所」を示現する「神鏡」とされるのは、伊豆山が西からの王化と「東夷」との境界に位置する重要な祭祀場であったゆえとおもわれます。
 空海は、この「邪徒」(「東夷」)を「降伏」するために、神窟に「宝珠・霊剣」を埋めたとされます。この「宝珠・霊剣」をもつ女神の神像を有するのが北海道の滝廼神社や川濯神社ですが、両社ともに、遠野・伊豆神社と同神(瀬織津姫命)をまつっているというのは偶然とはいえないはずです(写真:滝廼神社神像、中心の女神像の両手の持ち物を参照ください)。
 伊豆山の根本縁起(最古の縁起)が「走湯山縁起」なのですが、その表題は伊豆山ではなく走湯山としていて、この「走湯」、つまり「走り湯」こそが伊豆山祭祀の要諦にある聖域観念、いいかえれば絶対神域の観念かとおもわれます。
 これまでにみてきたところでいっても、「根本地主」早追権現の龍体を述べたときのことば、つまり、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)にあるとするも、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされていました。この「温泉沸所」に龍体(地主神)の頭があるという観念[イメージ]に「走り湯」という神聖観念の淵源があります。
 この「走湯[はしりゆ]」(の神)に、もっとも親近・崇敬の感情をもって相対したのは、空海が伊豆山に「勅命」でやってくる弘仁時代の百年以上前、文武三年(六九九)、空海の立場とはまるで対極的ですが、伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。
(つづく)

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『神道体系』神社編二十一には、伊豆山祭祀に関する縁起書が複数収録されていて、それらを読んでいると、全体にかなり高度・複雑な神仏習合、また神々習合のさまが、さながら曼荼羅模様のごとくに展開されている印象を受けます。
 この高度・複雑な習合思想を伊豆山に持ち込んだ人物は、平安期・嵯峨天皇の時代に鎮護国家の最前衛の仏教徒として頭角をあらわしてくる空海をおいてほかにいないだろうとおもわれます。
 わたしがこのように空海を名指しするのは、以下のような文面が縁起書(「伊豆山略縁起」)に確認できるからです。

弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ〔中略…後述〕大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り、詳[つまびらか]に清規を定め、初[はじめ]て密法を修して、深秘を高雄の僧正及[および]杲隣[こうりん]大徳に附属し玉ひ、其後天長二年乙巳、中本宮・其余社頭・僧房を経営して、永く鎮護国家瑜伽の道場と成せしより、今に其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし、

 弘法大師こと空海は、弘仁十年(八一九)に伊豆山にやってきて、それも「勅命」によって伊豆山を管轄し、こまかな社則(「清規」)を定めたとされます。また、ここで初めて「密法」を修め、その「深秘」の極意を弟子たちに伝えたようです。空海は天長二年(八二五)にもやってきて、伊豆山の「中本宮」ほかを経営し、ここを「鎮護国家瑜伽の道場」と定めたとされます。
 縁起の作者は、空海が定めた「其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし」と、空海の教えを忠実に継承していることを、半ば誇りをもって書いてもいます。空海が「鎮護国家」のために定めた「法則」や「深密の行業」・「神殿の秘事」が具体的にどのようなものかは、部外の者には、うかがうことが容易ではありません。
 しかし、「勅命」を奉じた空海による伊豆山祭祀への干渉といった視点で再読してみますと、伊豆山祭祀は、空海の登場を画期として、大きな変動を蒙っただろうことは想像できます。
 遠野郷に伊豆権現(瀬織津姫命)が伝えられたのは大同元年(八〇六)とされます。この伝承を信じるならば、空海が伊豆山祭祀に手を加えた弘仁十年(八一九)から天長二年(八二五)という時間の「前」に相当していますから、空海以降、伊豆山から「瀬織津姫命」の祭祀が消えたのではないかという仮説を立ててもそれほど無理はなかろうとおもいます。
 明治四年(一八七一)に国家に提出された「伊豆国加茂郡伊豆山神社書上」は、「社伝ニハ、正殿ヲ忍穂耳尊、相殿二座ヲ栲幡千々姫命・瓊々杵尊ト称シ来リ、其外区々之諸説等モ御座候」、しかしながら「祭神之事、古来一定仕ラス」とし、正殿は火牟須比命、左相殿は伊邪那岐命、右相殿は伊邪那美命とすることを「右確定支度(右確定したく)」と申請しています(結果、受理されます)。
 平安期から江戸期までの神仏・神々習合の各縁起の内容は、ここで全否定されることになりますが、そもそも「祭神之事、古来一定仕ラス」の淵源はといえば、やはり空海にまでさかのぼって考えてみる必要がありそうです。
「神社書上」は、社号については「旧称」として伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現の三つがあったとし、さらに「社地沿革」の項では、「上古ハ日金山鎮座」、「次牟須夫峯ニ遷座」、「次亦今之社地ニ遷座」と、その変遷を記しています。また、それぞれに割注のかたちで、以下のような補足説明をしてもいます(個々の鎮座・遷座ごとに改行、それぞれの割注を〔 〕で記します)。

上古ハ日金山鎮座〔本宮ト称ス、是所謂伊豆ガ根ニテ、今之社地ヨリ乾六十町許山嶽上、今ニ至リ、小祠存ス〕
次牟須夫峯ニ遷座〔中ノ本宮ト称ス、社地ヨリ北八町許山中、今ニ至リ、鳥居礎・敷石等存シ、且小祠アリ、祭日六月晦日〕
次亦今之社地ニ遷座〔因テ新宮ト称ス〕

 これを読みますと、社地の変遷ばかりでなく、それに対応するように社名の変遷もあったことがわかります。曰く、本宮→中ノ本宮→新宮(現在の伊豆山神社)の順です。ここで想起されるのは、「伊豆山略縁起」の記述です。縁起は、空海が「中本宮」ほかを経営し、「永く鎮護国家瑜伽の道場」となしたと書いていました。この「中本宮」は「中ノ本宮」のことですが、「神社書上」の割注(補足説明)は、この「中ノ本宮」の項の末尾に「祭日六月晦日」と記しています。つまり、空海が「鎮護国家瑜伽の道場」とみなした中本宮は「六月晦日」を祭日としていたのでした。
 この「六月晦日」は、いうまでもなく「六月晦大祓」の日です。伊豆山の社則(「清規」)を定めたのは空海でしたから、この大祓の日を、新たな伊豆御宮(中本宮)の祭日と定めたのも空海ということになります。
 明治期、たしかに「祭神之事、古来一定仕ラス」だったかもしれませんが、「古来」、本殿あるいは山頂から降格祭祀がなされ、しかも大祓の神と限定されてきたのが瀬織津姫という神でした(岐阜県・野宮神社、白山史料にみる瀬織津姫神の項を参照)。伊豆山においても同じことがいえるだろうと考える理由は、空海の登場以前に、自身の守護神として伊豆権現(瀬織津姫命)をもって伊豆から遠野までやってきた四角藤蔵がおり、今もこの神をまつりつづける遠野・伊豆神社の存在があるからです。
 空海は「勅命」によって伊豆山へやってきて、そこで「鎮護国家」の名のもとに新たな社則(「清規」)を定め、しかも「密法」の「深秘」まで伝えたとされます。
 空海の真言密教の全体像を解読するのは至難ですが、そのエッセンスを抽出することは不可能ではないとおもわれます。「走湯山縁起」巻第五は、巻末に、空海による「真済面授口伝」なる名で、次のように記しています(筆者読み下しで引用)。

海底大日印文五箇口伝、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日〔已上中台〕、南方高野丹生大明神〔宝珠〕、西方熊野〔蓮花〕、北方羽黒〔羯磨〕、東方走湯権現〔円鏡〕、
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏を四方に安じ、天照大神を中心に処す、此海底印文、皆大龍の背に在るなり、

「走湯山縁起」巻第五の作者(延尋)は、弘法大師が弟子「真済」に語ったことは「面授口伝」(の秘伝)で、今廃忘を嘆くがゆえにこれをおそれながら注すとしています。
 最澄というよりも円仁といったほうがよいでしょうが、天台密教は、内宮の秘神を神仏習合の方法でどう封印するかに腐心しました。これはまだ単純といえなくもありませんが、空海の真言密教は、同じ封印でも、自身の密教理念の中心にまず大日如来を据え、しかも、この大日如来を胎蔵界と金剛界の二種に分化させるという複雑な仮構をなしたというのが大きな特徴です。さらにいえば、胎蔵界大日如来を内宮に、金剛界大日如来を外宮にあてはめ、四方東西南北に守護神・権現を配することをしたようです。これは、四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)の外来思想を空海流にアレンジした印象を受けますが、それはともかく、空海は、南に丹生大明神、西に熊野権現、北に羽黒権現、東に走湯権現を配したのでした。いや、正確には「四仏を四方に安じ」とあり、走湯権現の本地仏についてのみいえば、これは千手観音だったようです。
 それにしても、この「真済面授口伝」を読みますと、空海が「伊勢大神宮」をいかに重視していたかがよく伝わってきます。この「伊勢大神宮」あるいは「天照大神」は、少なくとも東方においては走湯権現(本地仏:千手観音)を守護神・守護仏とする必要があったわけで、ここに「伊勢大神宮」「天照大神」を根本的に脅かす伊勢の地主神がそのままにまつられつづけることはあってはならぬことでした。空海の「鎮護国家」の思想をありていにいえば、こういうことになります。
 ところで、引用の「海底大日印文五箇口伝」という深秘の印文は「皆大龍の背に在る」とされていました。この「大龍」とは何なのでしょう。
「走湯山縁起」巻第五は実は二種類あって、先に引用した縁起とは別の「裏縁起」とでもいうべき、「深秘」につき「不可披見」の添書きをもつ別縁起に、この「大龍」が出てきます。
 内容を要約していいますと、日金山(久地良山…伊豆山)の地底には「赤・白二龍」がいる、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)に、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされるように、まさに「大龍」です。この龍は背には「円鏡」があり、これは「東夷境所」を示現する「神鏡」だとのことです。また、この龍には「千鱗」があり、その鱗は「千手持物之文絵」を表すもので、それぞれの鱗の下には「明眼」があるともされます。そして、その正体は「生身千手千眼也」と明かされます。
 伊豆権現=走湯権現の本地仏・千手観音は、ここでは「千手千眼」と記されるも、これは、白山における十一面観音の前身として現れた九頭竜神と酷似する発想です。要するに、伊豆山においては、地主神の謂いとして「大龍」があるようです。
 この地主神「大龍」については、表縁起のほうでは、「根本地主」として二神あり、一は「白道明神」、本地は地蔵菩薩、その体は男形である、二は「早追権現」で女形、本地は大威徳明王であるとされ、この表縁起では龍体の表現は消え、神仏習合の複雑な表現に置換されます。ちなみに、大威徳明王は、不動明王を中心とする五大明王の一つで、六面六臂六脚の異形明王です。
 天平元年(七二九)に伊豆権現が善光寺如来ゆかりの戸隠山に失踪したとき、霊湯(走り湯)は涸渇したとされ、権現が伊豆山からいなくなったのは「当山の人、信力薄きが致す処なり」と、伊豆権現に代わって託宣したのが白道明神でした。この白道明神(男形)と一対の関係にあるのが早追権現(女形)で、この早追権現が伊豆権現と重なってきます。
 縁起第五(の表縁起)は、早追権現は、日々夜々、日金山地底の「八穴道」を往来しているから「早追」といい、この権現は、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定するとされ、早追権現がただならぬ神徳を有していることを伝えています。
「伊豆山略縁起」は、「山中の秘所は、八穴の幽道を開き、洞裏の霊泉は、四種の宿痾を愈[いや]し、二六時中に十方[じつはう]の善悪・邪正を裁断し玉ふ事、是権現の御本誓なり」と明記していて、ここでいう「権現」は伊豆権現=走湯権現のことです。
 この「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、早追権現のものでもあり、伊豆権現と早追権現という等質の神徳を有する二つの権現の名がみられることに、伊豆山における権現祭祀の複雑さが象徴的に表れています。これらに、異なった本地仏をあてはめ、さらに複数の眷属神を配し、それらにもさまざまな本地仏をあてはめてゆきますから、その権現祭祀の複雑度はいや増すことになります。
 しかし、伊豆権現と早追権現がもつ「善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、もともとをいえば、空海が自身の「鎮護国家」の思想と密教(「深秘」の「密法」)理念を融合させた必然として、伊豆山祭祀の表層から消去した「神」のものでした。
 この「神」が、地底で(まさに「地主神」ですが)、権現として表現されるときは「早追権現」、地上で(走り湯の)権現として表現されるときは「伊豆権現」または「走湯権現」となるということなのでしょう。
 伊豆山における、空海が伝えた「習合の秘訣」(「伊豆山略縁起」)はたしかに複雑怪奇とさえいえるものですが、少なくとも、伊豆権現と早追権現については、地上地底という明暗の位相における「神」を基体とした上での「権現化」をいったもので、この両権現に秘されている(封印されている)神が異神であるということではありません。
(つづく)

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伊豆権現と善光寺如来

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 天平元年(七二九)、東国に疫病が蔓延したとき、伊豆権現の神威では病から人々を救う術[すべ]がないとして、ピンチヒッターのごとくに伊豆山に勧請された白山神(白山権現)でした。「伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起」(通称「伊豆山略縁起」、『神道体系』神社編二十一所収)の作者は、このとき、伊豆権現は信州に「臨幸」していて伊豆山にはいなかったと割注していました。では、伊豆権現は何をしに信州に出向いていたのか、あるいは、伊豆山を留守にしていた伊豆権現とはなんだったのかという問い・関心も湧いてきます。
「伊豆山略縁起」(元書は「走湯山縁起」)は、伊豆権現の事蹟をほぼ編年で記述するといった編集方法で編まれています。天平元年からすれば十九年ほどさかのぼりますが、ここに伊豆山からいなくなった伊豆権現の逸話が記されています。

四十三代元明天皇和銅三年庚戌二月、社殿震動し、扉自ら開け、神鋒・霊鏡雲に入り、北方をさして飛去[とびさり]しかば、神部・僧侶驚愕して精誠懇祈せし時、神あり託していはく、我は是地主白道明神なり、権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ、固[もと]是当山の人、信力薄きが致す処なり、我[わが]力の能く留[とゝむ]る処にあらずと、云々、爾来四十余年の間、山中草木萎爾[いし]し、霊湯涸竭[こかつ]して、烟気[ゑんき]をも挙[あげ]ずと、云々、

 和銅三年(七一〇)二月、権現(伊豆権現)は、「当山の人、信力薄き」を理由に、伊豆山から信州の戸隠山に移ってしまったといいます。その不在時間は「四十余年」とあり、この間、「三業の病」にも霊験あらたかであった走湯[はしりゆ]の霊湯は涸れ、湯煙も立つことはなかったとされます。東国の疫病は天平元年(七二九)のことで、このとき、なるほど伊豆山には走湯権現=伊豆権現はいませんでした。白山神(白山権現)は、本来の伊豆権現と等格の神威をもつ神で、ゆえに代替が可能との判断(神託)がなされたのでしょう。
 伊豆権現が伊豆山からいなくなったことを、権現になりかわって託宣した「地主白道明神」とはどういう神なのか、また、伊豆権現との関係はどうなっているのかがはっきりしませんが、それは今はおくとして、伊豆権現は、「四十余年」もの長きにわたって伊豆山に不在をつづけるも、けっきょくは帰ってくることになります。「伊豆山略縁起」のいうところを読んでみます。

其後四十六代孝謙天皇天平勝宝元年己丑十一月、山中鳴動し、林樹花開き、温湯本[もと]乃[の]如く湧出、霊鏡・神鋒飛[とび]帰りて、復[また]宝殿に入らせ玉ひ、託しての玉はく、我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり、今大菩薩京師に入り玉ふ、我亦行[ゆき]て、大菩薩に謁せんと欲す、汝等宜しく神鏡・宝鋒を捧げ、都に到るべしと、云々

 天平勝宝元年(七四九)十一月、伊豆権現は「四十余年」(正確には三九年)ぶりに伊豆山に帰ってきたようです。この帰還時の託宣は伊豆権現のもので、「我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり」と、ここでは善光寺如来ではなく八幡大菩薩との「宝契」が語られます。それも「鎮護国家」のためとされます。
 また、「今(八幡)大菩薩京師に入り玉ふ」とあり、これは、八幡大菩薩がはるばる九州の宇佐から東大寺大仏の完成式典のために入京してくることを指しています。ただし、『続日本紀』は、八幡大菩薩ではなく八幡大神と比弯世瞭鷽世瞭京としています。伊豆権現にとっては、「比弯澄廚梁減澆鷲毀笋防佞靴董八幡大神すなわち八幡大菩薩との「宝契」関係こそが大事なのでしょう。
 伊豆権現の伊豆山への帰還は、当地の人々による「信力薄き」が厚くなったからだとはされておらず、ただ八幡大菩薩との「宝契」として語られる「鎮護国家」を帰還の動機としているようです。伊豆権現の伊豆山からの失踪の動機と帰還のそれとが微妙にずれていることからいえるのは、一言でいえばですが、「四十余年」の間に、伊豆権現の信仰・思想的な「転向」があったということでしょうか。厳密にいえば、伊豆権現の祭祀者自身の「転向」があったことの反映として、この託宣のことばはあるようにみえます。
 藤原不比等が右大臣に就任するのは和銅元年(七〇八)のことで、これは元明が天皇位に就くのが前年七月のことでしたから、二人は同じ時期に朝廷の最高位の舞台に立ったといってよいでしょう。不比等が亡くなるのは元正天皇養老四年(七二〇)で、元明・元正両女帝の背後で、つまり和銅から養老時代にかけて、朝廷の政治と祭祀に対する実質的権力を掌握していたのは藤原不比等だったといえます。
 この時代、不比等が各地の神社祭祀に少なからず干渉の手を差し向けていたことはいくつか事例が報告されています(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。「当山の人、信力薄き」と託宣された和銅三年(七一〇)も、そういった不比等の時代にあたっています。白山が泰澄によって、その祭祀が仏教化の名の下に秘祭化されたのは養老元年(七一七)で、また、その山頂の瀬織津姫神は勅使出迎えの川濯神へと降格され、白山における大祓の神事がはじまったのも養老時代でした(岐阜県・白山史料にみる瀬織津姫神【下】の項を参照)。
 伊豆山においても、朝廷からの祭祀干渉があったはずで、それを不本意にも受け容れた氏人が大勢を占めたとき、当山の人々の「信力」が薄くなったと、伊豆権現を嘆かせたのではなかったのでしょうか。
 ところで、伊豆権現と「深く度生の悲願を契り玉ふ」とされた善光寺如来(阿弥陀如来)ですが、勅撰和歌集『玉葉集』(一三一二)に、「善光寺阿弥陀如来の御歌」として、次のような意味深長な一首が収録されています(長野市教育会『善光寺小誌』昭和五年)。

  伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ

 清濁の対比において、善光寺如来が「伊勢」と反面的に関係する仏であることがよく伝わってくる歌です。善光寺如来は、「我」は濁世にあって(濁れる水に宿って)、衆生を救わんといった歌意かとおもいます。伊豆権現が「善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふ」とされるのも、この歌の意を共有するものでしょう。
 善光寺阿弥陀如来は絶対秘仏とのことで、衆生が拝めるように前立仏(本尊のコピー仏)がつくられていますが、寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」もつくられ、そこには、『玉葉集』の歌を本歌取りした、次のような歌もあります(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)。

  五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん

 前歌の「伊勢の海の清き渚」を「五十鈴川きよき流れ」といいかえ、善光寺如来が宿る「濁れる水」を伊勢の五十鈴川の清き流れに対比させています。五十鈴川の清き流れに沿ってまつられているのが伊勢神宮(内宮)で、そこに宿る神(皇祖神)は、あくまで「清き渚」「きよき流れ」、つまり清浄なる空間にいる、しかし「我は濁れる水に宿らむ」というのが善光寺如来の歌です。伊勢の地を皇祖神(アマテラス)に譲り、自身は善光寺如来として生きようとする伊勢の地神の歌といってもよさそうです。
 善光寺の年中行事をみてみると、「盂蘭盆[うらぼん]六月祓」という盆の行事があって、寺にしては奇妙な行事をしていることがわかります。『善光寺小誌』は、同行事を「六月三十一日[ママ]夜参詣通夜夥し(焼餅道者と云ふ)。妻戸鼓鐘打ち礼堂百万遍念仏数珠廻し行ふ。旧事記三宝記等に六月祓とす。翌日大施餓鬼会行ふ」と記していて、善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫神がいます。
 また、善光寺本覚院境内にある阿闍梨[あじゃり]池は今は小さな池跡しかみられませんが(写真1)、この池は遠州の桜ヶ池と通底しているとされます(写真2・3)。この桜ヶ池の神(現在の池宮神社主祭神)は瀬織津姫神で、この神と善光寺の関係はかなり深いものとおもわれます。
 ところで、善光寺・阿弥陀如来の「奥之院」は駒形嶽駒弓神社とされ、ここは水内[みのち]神社の「奥社」でもありました(写真4〜6)。小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』(岡谷書店)は、この善光寺「奥之院」の社について、次のように述べています。

 長野市の上松には駒形嶽駒弓神社という社があり、村人の口碑によればこの社は、「昔、水内神社の祝詞殿より裏、正北方の森々たる樹木立の中にあって奥社であったが後世仏教盛んなるに及んで善光寺仏によって水内神は湮滅せり」といい、しかし「現在でも善光寺へ参詣の砌、如来の奥之院なりしとて当社へ参詣する者絶えず、如来堂裏、年越宮に飾る所の注連を本社境内に持ち来り、旧暦二月一日を以て焼き捨てるの例あり」と。この神社は、字駒形嶽にあり、祭神に建御名方富命、彦神別神、相殿に保食命を祀るとしている。尚注連を交番に焼く十五防[坊]は往昔水内神社の神官であったともいう。いわば駒形神社は仏教以前からの社であったというのであろう。

 善光寺如来の祭祀がはじまる前の地主神として、水内神、つまり駒形嶽駒弓神(駒形神)の祭祀があったとされます。また、『善光寺小誌』は、この駒形嶽駒弓神(駒形神)は八幡神であるとの伝承も記していて、現祭神との整合性は成り立ちませんが、しかし、遠野郷においては、早池峰大神つまり瀬織津姫神は「早池峰山駒形大神」でもあり(写真7)、また、八幡神にしても、その男神ではなく比弯澄僻翡篆澄砲箸澆襪覆蕕弌△修譴論タツ塗運世里海箸箸靴禿舛┐詈現顱陛鏤ァ砲發垢任乏稜Г気譴討い董△い困譴砲靴討癲∩姥寺如来背後の神、あるいは、引用の歌が象徴していますが、この如来と習合している神は伊勢ゆかりの神とみられます。
 伊豆権現が善光寺如来と衆生済度の悲願を共有するのは、遠野の伝承が訴えているように、伊豆権現もまた、瀬織津姫神を秘めているからなのでしょう。
「伊豆山略縁起」は、「権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ」と記していて、善光寺如来(に秘められた神)と戸隠山とが深いつながりにあることを示唆しています。
 戸隠神社の主祭神は「天手力男命」ですが、善光寺の地主神・水内神が本来の戸隠神とみられます。奥社境内には九頭竜社(祭神:九頭竜大神)がまつられ、この神が「地主神」と表示されています。この九頭竜神は水神・水源神といわれ、白山においては、泰澄が白山主尊・十一面観音を感得・念出する前に出現したとされる神でもあり、いわば、白山神の変相神あるいは眷属神でもあります。
 伊豆山を一度捨てた伊豆権現は、その「幸[みゆき]」先の善光寺如来ゆかりの戸隠山においては、旧知の白山および善光寺の地主神と再会(自己再会)し、それぞれが共通して置かれた歴史の不条理をともに語らうことをしていたのではないかなどと想像されてもきます。
 円空歌に、この戸隠山を詠んだ一首があります。

  ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸蔵の神(歌番五六一)
  (ちはやふる天岩戸を引きあけて権[かり]にぞ代わる戸隠[とがくし]の神)

 天岩戸神話は記紀神話の一節として描かれています。重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出したとされる天手力男神ですが、この歌から、天手力男神を信濃国の戸隠神とみなすという祭神の通説化が、円空の時代(江戸時代初期)にはすでに定着していたことがわかります。しかし、円空は、天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと詠んでいて、つまりは、アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識だったようです。

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