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			<title>九州戦国ブログ～室町末期から江戸初期まで～</title>
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			<title>九州戦国ブログ～室町末期から江戸初期まで～</title>
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		<item>
			<title>【相良頼房４５＿４再び朝鮮の役】</title>
			<description>&lt;div&gt;南藤曼綿録より&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;赤国（全羅道）を攻める前に、太閤秀吉が高麗人を討ち取った手柄を示すために鼻をそいで差し出すように命令した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;諸大名はそれぞれ鼻を納め、相良家からも千八百の鼻を納めた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;太閤秀吉は納められた鼻の数を帳面に付け、京都東山の大仏殿の楼門の前に鼻を埋め、その上に五輪の石塔を立てた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;現在、鼻塚と呼んでいるのがそれである【※】&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;【※】京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で、耳塚という呼称が一般的。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;慶長三年（一五九八）正月から組中の諸大名はそれぞれ古仙（固城）という所に陣を構えた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこへ又、広南人が大勢で攻めて来た。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;組中のどの大名も激しく戦って広南人を防御した。手痛い合戦で、日本勢は数百人討死にした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家も六十人以上が討死にした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;このようであったが、広南人が負けて後退したので、その後は古仙（固城）の城代を柳川（立花宗茂）殿へ任せて、その他の諸大名は釜山海へ帰陣した。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「文禄の役」の時は、組リーダーの清正がガンガン進軍したので、相良兵も明国との国境あたりまで進軍していた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（激戦だったので清正に「頼房が討死した」と早トチリされた）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「慶長の役」の時は、基本として釜山海の防備で、要請があると援軍として派兵されるようなスタイルだったようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;通算７年間の出陣に於ける相良勢の討ち死には47人、病死は13人、討ち取った鼻は1,800です。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201305142103181fb.jpg&quot; alt=&quot;&amp;#228;&amp;#186;&amp;#186;&amp;#231;&amp;#137;&amp;#169;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#187;&amp;#231;&amp;#155;&amp;#184;&amp;#232;&amp;#137;&amp;#175;&amp;#233;&amp;nbsp;&amp;#188;&amp;#230;&amp;#136;&amp;#191;&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;幸麿さま作画：相良頼房公～イメージ画&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;文禄年間には人吉の城下町の整備が行われたらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、他家同様に相良家でも朝鮮から連れてきた者たちを「唐人町エリア」に住まわせた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;戦後に捕虜返還があるのだが、相良にいた朝鮮人が全て帰国できたのか管理人には判らん＾＾；&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、捕虜返還時に母国へ帰らず頼房の元に残った者もおり、頼房が死去した時に殉死している。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;１５９８年８月１８日に秀吉が死去した事が知らされると、頼房ら諸大名は帰国することになる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして過去記事にあるように、帰国後に相良頼房と秋月竜子が結婚する＾－＾♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;大好きな武家同士が縁組によって結ばれるのは、ファンとしては非常に嬉しい＾＾♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼房には武家当主の常として側室はいるのだが、嫡男の生母は竜子なんで自分的には満足＾＾♪&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;これで相良家の「朝鮮の役」は終わった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でもって次は「相良家にとっての関ヶ原の役」に入ります＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;全部読む奇特な人がいるか分からないが相良の関ヶ原はネタばれしてて、それがカテゴリ「関ヶ原大垣城編」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;関ヶ原以降の相良は「人吉藩初代藩主編」になります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良から見た南九州は、これで終わります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ありがとうございました＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14825543.html</link>
			<pubDate>Sun, 24 Mar 2019 16:19:08 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房４４＿３再び朝鮮の役】</title>
			<description>&lt;div&gt;同二十日(慶長2年(1597年)8月)、南門をお立ちになり、赤国（全羅道）府中（全州）にお着きになった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;府中の城は説得して開城した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;府中に五日間ご滞留され、その後、府中をお立ちになり押し進まれると、奥にもチャント中城（機張？）がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これも説得して開城した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;また、その奥にハマンという城（咸安城？）がある。これも説得して開城した。&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、相良家臣の中に小田又兵衛という優れた者がいました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;彼は城普請が得意で、人吉城の谷の清水石垣は彼の縄張り(設計)によるものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そんな又兵衛さんの朝鮮の役エピが以下の部分です＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それより(上記のハマンという城の)奥に大きな穴がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;軍勢たちは様子がわからないので、その穴の口へ行こうとしたら、半弓で射られてしまい、負傷・死人が多数でてしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;高麗の通事(通訳)を呼び寄せて大将達が尋ねられたところ、だいたい一国分程の人数が籠もっており、男女二万人ばかりいるそうである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;兵糧と輸送馬を置き、伊東殿・秋月殿・島津殿・高橋殿・森殿・相良頼房公たちの軍勢が集まって、いかがすべきかと評議していたところ、当家（相良家）より小田又兵衛が進み出て言った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「我々は生まれ故郷で狩猟をしますが、狸が穴に引きこもってしまったとき、焼草で穴を燻すと、煙たさに耐え難く、狸は穴の口に出てきます。また、出てこないときは、穴の奥を燻して殺します。どうかこの穴を燻してみては。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と言ったところ、軍勢はみな「そうしよう」と手に手に焼草を調達し、穴口に山ほどに積み立て、それに火をつけてしばらく燻したところ、三町離れた山の上に煙が見えた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこで、また違う穴口があるということで、上に材木を引き渡して焼草を積み上げて火をつけると、穴の中はとても動転していた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それより一日一夜燻すと、穴の中から叫び声を挙げたように聞こえた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さては煙たさに耐え難くて息絶えるときに、一気に呻く声だということだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、火を消して一日過ぎてから穴の口の中に入って見たところ、中々の煙たさで耐え難かったために軍勢は退き、また三日過ぎた頃に穴の中に入ってみると,死人たちは算木を乱したように無秩序に散らばっていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;馬も人も、精々強いものにはまだ息を通わせているものもいた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本人の肺に取り付き、だんだん一町ばかり入ったところで皆逃げ出してしまい、それより奥には入らなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;何千人死んだかもついにわからなかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;二万人も隠れられる穴というと、鍾乳洞かな？＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;伊東祐兵・秋月種長・島津豊久・高橋元種・毛利勝信・相良頼房・・・管理人的ドリームチーム～ｳｯﾄﾘ(人´∀｀)．☆．。．:*･&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（伊東氏と島津の交戦関係を想うと、どうにも「親友」の二文字に吹いてしまうｗｗｗ)&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、この年の年末から正月にかけて、蔚山で加藤清正や浅野幸長が籠城戦で死ぬ思いをするのだが、管理人的ドリームチームは、これには直接は関わっていない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;彼らは泗川から蔚山へ援軍に向かってるんですが、着いた時には敵兵は引き上げた後だったんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;んで、することが無い～～ってことで釜山に戻ってます＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ちなみに蔚山には例の深水頼蔵が参加して討死し、コアなとこでは阿蘇惟善も従軍してます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;阿蘇惟善は阿蘇氏の生き残りでして、まだこの頃は浪人として加藤清正の軍に参加です＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;あ～～～～～～～～～～～～大名としての阿蘇氏の最期を書くの忘れてたぁぁぁ！！！！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/img_1020151_30226945_0.jpg&quot; alt=&quot;&amp;#229;&amp;#174;&amp;#xb6;&amp;#231;&amp;#xb4;&amp;#139;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#187;&amp;#233;&amp;#152;&amp;#191;&amp;#232;&amp;#152;&amp;#135;&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;（ロン様作成：阿蘇家紋ロゴ）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;遅ればせながら伏線回収～～～～～～～～ ｱﾀヽ(´Д｀ヽ ミ　ノ´Д｀)ノﾌﾀ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;甲斐宗運の死後、阿蘇当主は惟将が死亡、その跡を継いだ惟種までが死亡と喪中のズンドコ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;家督を継いだのは、惟種の子で僅か２歳の惟光ちゃま。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;惟光ちゃま＆生母は、豊臣秀吉に保護を求めて僅かながらの領地を与えられ、阿蘇神社宮司としての地位も認められたが、大名としての特権は全て剥奪された。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さらに「肥後国人一揆」で、亡き甲斐宗運の息子が一揆に加担し敗れて死に、阿蘇氏筆頭家老の甲斐家も滅亡。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;秀吉は肥後人に影響力のある阿蘇大宮司を潰すチャンスを狙っていたのだと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５９２年の「梅北一揆」で、阿蘇惟光が加担していたとして処刑(斬首)したんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;惟光ちゃんは数え１２歳の若さで、自力で旧家臣を扇動したとは思えません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むしろ惟光が成長し、自我に目覚めて「何事かを為す」前に、その芽を摘み取ったとみるべきでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これにより阿蘇氏嫡流は断絶しました・・・・が、一人だけ生き残った子がいたんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが殺された惟光クンの弟・惟善クンです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;阿蘇兄弟は、おそらく年子だと思うので、朝鮮の役の頃なら惟善は数え16歳くらいかな。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;初陣が「蔚山の戦い」とはヘビーすぎる～(((((( ;ﾟДﾟ)))))ｶﾞｸｶﾞｸﾌﾞﾙﾌﾞﾙ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でもって意外なことに阿蘇惟善は雑兵３０００も率いてます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;若年＆浪人が自力でそれほど集められたかチト疑問なので、加藤清正から預かった兵かもです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;預かるとすれば阿蘇氏と所縁のある肥後人だろうから、やはり阿蘇大宮司オーラの残光は侮れませんね＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;惟善も異国の戦場で相当苦労したと思われますが、阿蘇氏御家再興の夢は叶いませんでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その代わりといってはなんですが、関ヶ原の戦いの後に阿蘇惟善は加藤清正から所領を与えられ「神職・阿蘇大宮司」として復活するんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;現在の阿蘇大宮司は、この惟善からの系譜です＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも秀吉が往年の英気を失わず存命だったとしても、阿蘇氏の旧領復活は無理だったでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;全ての宗教勢力を武装解除し、神社系武家を潰すのが秀吉の本音だからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;阿蘇大宮司職を諦め、四国か東北あたりの領地・２～３万石程度で手を打って、家康を通じて交渉すれば上手くいけば何とか・・・ってとこでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それでも転封の引っ越しなんかで、ウッカリ旧家臣を集めたりしたらヤバイと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;九州とか小田原等々で没落⇒関ヶ原で没落orリベンジ化⇒大坂の陣でリベンジいけちゃう？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・という流れからは欠落してますが「朝鮮の役」でリベンジ「御家再興」の夢を追った若者もいたということです＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良の朝鮮の役も幕を閉じようとしています。それは　またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14825519.html</link>
			<pubDate>Sun, 24 Mar 2019 15:57:48 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房４３＿２再び朝鮮の役】</title>
			<description>&lt;div&gt;慶長2年(1597年)・・・相良頼房は再び「朝鮮の役」で渡海～釜山海で勤務した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;或る時、番船（敵船）が現れたとの報告に出陣し、これと交戦したのだが防ぎきれず、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;同じ組の日向衆に被害が出て、さらに敵は意気揚々と巨済島に引き上げる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;猛将タイプの相良家20代目当主・頼房は、歯噛みして悔しがったに違いない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;同年７月１４日～「唐島の番船を崩すべきである」と評議して決定されたので、大名衆は出陣。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;藤堂佐渡守(高虎)殿、加藤左馬介(嘉明)殿の二人を大将として、唐島に番船が三百艘いたところへ、日本勢も船で攻め寄せて番船に乗り移り朝鮮人を一人残らず斬り捨てた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;〔敵の〕番船も防戦したが、日本勢に対して打つ手がなくなり勝負にならなかった。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;頼房公は船を一番先に進ませて攻撃し、しきりに勇みたっておられたので当方(相良)の兵は勇んで進み、がむしゃらに番船に乗り移って番船三艘を奪い取った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼房公が「見せしめのためにテルマを一人その船に乗せて、そのテルマの本陣に帰すように」とおっしゃるので、（そのように）安骨浦へ返された。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;高麗では男をテルマと言い、女をカクセイと言う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;南藤曼綿録より&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;藤堂高虎と加藤嘉明が不仲になったのって、おそらくこの時の戦いじゃないかなぁ～と思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼房は、相当張り切ってたみたいですね＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、全羅道へ軍勢を進める、ということで釜山海にいた頼房らへも出陣命令が届いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;８月１１日から、釜山海その他もろもろの部隊の見張り所にいる大名たちを動かして、前回(文禄の役)と同様また軍勢を進めた。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;８月１１日南門（南原）の城に着くと、諸大名は我も我もと陣地を取った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５日の夜半に城を攻めた。その夜は名月で昼のように明るかったそうだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;諸方から一斉に鬨の声を発して、がむしゃらに攻めかかった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;城からも防戦して半弓で射て軍勢を崩し、さらに石を打ってきたので負傷者や死者が数多く出た。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;けれども日本勢は少しも引き下がらずに攻めかかったので、城はたまらずに攻め取られてしまった。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;相良家の馬印（戦場で大将の場所を示す目印）は白い吹貫【※】なのだが、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;【※】吹貫～幾条かの長い絹を円形の枠に取りつけ、長い竿の端に結びつけて風になびかせるもの&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;中間（奉公人・召使い）の弥七という者が差して一番に馬印(白い吹貫タイプ)を城に掲げ上げ、南門の蔵の前に立てた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後諸大名がみな城に入ってきて、南原に二日滞留した。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;その間諸大名衆らは「相良家に許可を得て、頼房の印判状によって八木（米）等を出した。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは弥七さんのお手柄です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;いの一番に相良家の馬印を蔵の前に立てた・・・つまり蔵を相良家が接収したと宣言したことになります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;従って諸侯らが米などの糧秣を現地調達するためには、蔵を押さえた相良家に「お願い(-人-)」しなきゃならないんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家は大いに面目を施したことでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼房は自慢げに鼻を膨らましながら書面に花押したんじゃないかしら(*´pq｀)ｸｽｯ&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;こうして記録を見ていくと、身びいきを割り引いても頼房と相良勢はかなり活躍してますね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むろん元々の動員兵力が少ないので大勢に影響を与えるほどの局面ではないのですが、キッチリと戦果を挙げてます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ島津義弘や加藤清正の活躍が派手すぎて、小大名・相良家の武功は地味になっちゃいますね＾＾；&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;これだけの働きをしてるんですから、頼房は家臣である頼兄の才覚に嫉妬する必要は全くありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むしろ家中で孤立しつつある頼兄にとって、頼房からの信頼のみが支えだったかもです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家の働きを見て、秋月種長が「妹（竜子）の再婚相手に～～」って考えたって不思議じゃないですよﾈｰ(*´･д･)(･д･｀*)ﾈｰ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ実際は外交上の配慮が色々あったでしょうけど。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さてさてマニアックな「朝鮮の役」ネタですが、もう少し続きます。それは　またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14825499.html</link>
			<pubDate>Sun, 24 Mar 2019 15:29:29 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房４２＿１再び朝鮮の役】</title>
			<description>&lt;div&gt;相良家と秋月家の接点は、もう一つあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは朝鮮の役です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;話を慶長4年から慶長元年に戻します＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;豊臣秀吉は慶長3年8月18日（1598年)に亡くなるのですが、当時一つの噂が囁かれていました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは朝鮮との講和の折に毒を盛られた・・・というものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;出典は例によって「南藤曼綿録」＾＾/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;**************************************************************************&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;慶長元年（一五九六）六月二十七日から朝鮮国・遊撃将軍（沈惟敬）が来朝して、講和の会談が始まった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;太閤秀吉は伏見にいたので、惟敬は秀吉に面会して講和の内容を述べ、しばらく伏見に滞在した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その間に秀吉に近づき、毒を進上したという噂が広まった。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;進上した毒は三年ほどで効き目をあらわすもので、毒を丸薬にして絶えず持ち歩き、御前で服用して見せるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;秀吉はこれを見て｢(惟敬に)それは何か」と尋ねれば「(惟敬は)これは良く効く補薬です」と答え、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「もし秀吉が服用しても効くものであれば差し出せ」との要求に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;惟敬は喜んで「いかにも年齢相応に効き目がある」と奉じて提出した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、惟敬は本国に帰ったが、三年過ぎて慶長三年（一五九八）に秀吉は死んだ。沈惟敬も死んだ。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;まことに大国のやり方とはいえ、人を殺そうと毒薬を調合し自分も服用して見せるとは、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深い謀略による殺人だと、そのころ世間の取り沙汰をそのまま書き記しておく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;***************************************************************************&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;似たような話を聴いたことあるようなぁ～～&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;とにかく朝鮮との講和は破談となり再び諸大名は出陣します。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;慶長元年5月、加藤清正の帰国命令に伴い、組下の頼房も帰国（共に伏見屋敷に居た模様）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;7月12日に伏見大地震。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;10月、相良頼房は高麗（朝鮮国）へと渡海する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;が、風に恵まれず壱岐島で年を越すことになった。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;家臣らは平戸で年越し～翌年の酉年元日から海上の天気がよくなり壱岐へと渡った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;正月３日に頼房公のもとに参上し、ｍ(＿＿)ｍ＜明けましておめでとございます～と挨拶。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その頃から船が進むのによい風が出てきたので、一同船出し高麗のセツカヒ（西生浦）に船が着いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;同年の5月2日にセツカヒ（西生浦）から釜山海に移動～そこに滞在。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;今度は森壱岐守殿（毛利吉成）の組で、頼房、島津叉七郎(豊久)、高橋九郎(元種)、伊東民部太輔(祐兵)と秋月種長が加わり、この６人は釜山海で勤務することとなる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;個人的ドリームチーム～～～ｳｯﾄﾘ(人´∀｀)．☆．。．:*･&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;さて、アン高麗（安骨浦）に番船（海上警備の船）が寄って来たという報告があったので、先の６人は皆それに向かい、まず鉄砲で打ち崩し、船からも半弓を使って激しく防いだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;けれども防ぎきれずに数艘の番船はカラ島（唐島・巨済島）へ立ち退いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この時、稲留惣左衛門が討ち死にした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日向衆（椎葉姓の者がいるので那須13人衆の手勢か？）の三人も討ち死にした。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;番船というのは敵船のことです＾－＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;敵側の攻撃を防ぎきれず被害が出た・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;猛将タイプ・相良頼房はリベンジに熱く燃えるのだが、それは・・・またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14818308.html</link>
			<pubDate>Sun, 17 Mar 2019 09:48:05 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房４１＿独り・・・】</title>
			<description>&lt;div&gt;相良家家老・犬童頼兄・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;彼の「幸福」は、関ヶ原という戦国最高の檜舞台で、思う存分自分の器量を活かせたことだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;同時に彼の「不幸」は、余りにも大きな功績を立てたことだった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;彼の主君・相良家20代目当主頼房は、剛毅な猛将タイプで、家臣である頼兄の才覚に嫉妬するような狭量な人物ではない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むしろ「ワシだからこそ頼兄を召し使う事が出来るのだ」という自負があったんじゃないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だからこそ「ワシの死後、犬童一族をコントロール出来る者がいない・・・」と後の禍根を恐れたと推測している。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201305142103181fb.jpg&quot; alt=&quot;&amp;#228;&amp;#186;&amp;#186;&amp;#231;&amp;#137;&amp;#169;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#187;&amp;#231;&amp;#155;&amp;#184;&amp;#232;&amp;#137;&amp;#175;&amp;#233;&amp;nbsp;&amp;#188;&amp;#230;&amp;#136;&amp;#191;&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;（幸麿さま作画：相良頼房イメージ画像）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;法廷からトンズラ？ドタキャン？こいた深水頼蔵は加藤清正の庇護の元、第二次朝鮮の役で加藤軍に従軍して行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;半ば自業自得なのだが、もはや相良家には深水頼蔵親子の居場所は無く、加藤清正と共にあるしかない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;同じ組（陣）に所属する相良と加藤の関係は・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と思わないでもないが、何しろ清正は太閤の親戚で子飼いで肥後半国の領主だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;2万石の相良家とは勝負にならない。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;相良家が多少　|何か言いたそう|x･`)ﾁﾗｯ　としてても、清正が石田三成と敵対している限りは三成への嫌がらせの為に深水頼蔵親子を匿い続ける。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（三成は深水頼蔵の捕縛命令を出してた）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;てか家中の対立が外に漏れるのは決して外聞の良いものではなく、相良家にとっても騒いで恥の上塗りは避けたいだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この問題が尾を引かずに済んだのは、当の深水頼蔵が蔚山城で戦死したからです。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;当事者不在では話にならない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家と清正の間にどうこうは無いが、清正の三成への遺恨が増しただけで終わった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・・なんか三成が気の毒な気ガス・・・・ここまで嫌われるってどうなんだろう・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;三成に限らず、権力の頂点にある者は孤独だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水一族というライバルを退けたのと引き換えに、相良家中で頼兄は急速に孤立していった。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;慶長2年(1597)2月・・・深水頼蔵出奔後に頼兄が東喜兵衛(主君・頼房の祐筆）に宛てた言上書には、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「諸人が憎しみを持っても、顧みない程の御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者だ」と書かれており、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;またその翌月には、頼兄が 東・犬童・稲留の三氏宛てた書状には、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「自分には御家中では気心の知れた人は一人も居ない」とある。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;魯鈍とはいえ上司に何も言わせない状況を作ったほどだから、もともと同僚としての頼兄は近寄りがたいムードがあったかもです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが相良家の主導権を握ったのだから、気安く声をかけられたりとか、屋敷飲み会にも声がかかることが無くなったんじゃないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;後年の頼兄の失脚は、この孤独が招いたものだろう。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;ちなみに頼兄が手紙を書いた3人が誰かなぁ～と監修様に尋ねた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;★手紙を出した相手・・・可能性として一番高いのは、頼房の祐筆・東喜兵衛（朴河内城での失態を演じた東頼一ですね）、犬童は犬童弥助、稲留は稲留宗左衛門でしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;犬童と稲留は共に、竹下監物征伐の際の使いの役を務めています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;話の本筋には全く関係なかったんだけど、記録として残しておきたいので、ここに記します。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;ん～～～なんか空気が重いなぁ～なんかパｧっと騒げるネタないかしらぁ～～～～～&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#a040ff&quot;&gt;豊臣秀吉・・・慶長3年8月18日（1598年9月18日）に死亡&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;騒げない・・・　il||li ＿|￣|○ il||lｽﾞｩｩ~ﾝ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot; size=&quot;3&quot;&gt;慶長４(1599)1月11日～相良頼房が従五位下に叙されました～～&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;御祝い御祝い～～φ(-ω- )ｶｷｶｷ_φ( -ω-)ﾉ[才×〒├-]ﾍﾟﾀｯ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#a040ff&quot;&gt;同年閏3月3日～前田利家が死去～&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;(　ﾟдﾟ)ﾝﾏｯ!&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;#407f00&quot;&gt;同年6月8日～秋月家の息女・竜子と相良頼房が祝言・結婚・婚儀～～&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;祝言～～♪同じアホなら♪ヽ(^^ヽ)♪(/_ _ )/♪踊らにゃソンソン♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ｹｺ~ﾝ～～√(￣‥￣√どじょうすくい！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;高砂や～へ(´∀｀へ)ヨイヨイ♪(ノ´∀｀)ノヨイヨイ♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;あぁ～～～～～～～～～ここまで長かったぁ～～～～～～～～～～～～～～～&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;やっと相良家と秋月家が繋がったぉ～～～&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;そもそも国人オタの管理人が、相良家に目をとめたのは「秋月竜子が相良頼房と再婚」してたからなんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ﾈｯﾄ検索では婚儀の日時も不明だったし（監修様、資料提供感謝！！）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;竜子の再婚相手を探すことに超苦労（相良頼房から検索すれば一発なんだけどね）したのも懐かしい思い出です＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、関ヶ原～その前に相良家の「第二次朝鮮の役」です＾＾ｂ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは　またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14812251.html</link>
			<pubDate>Mon, 11 Mar 2019 18:24:59 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>混乱してます。</title>
			<description>ヤフーブログがサービス停止する！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちょっと考えがまとまりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブログ移行するか迷っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
セカンドブログ=FC2ブログがあるから&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもブログ友の皆さまとバラバラになるし、、、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はぁ、どうしましょ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14800770.html</link>
			<pubDate>Sat, 02 Mar 2019 15:29:39 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>寒中お見舞い申し上げます！</title>
			<description>正月休みが長かったせいで&lt;br /&gt;
やぱり仕事に追われてます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも会社が忙しいのは良いことですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先日は吹雪が続き、&lt;br /&gt;
ホワイトアウトで遭難するかと思った(・・;)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１日三回も雪かきしたのに、&lt;br /&gt;
晴れたら雪が融けるのがムカつく。&lt;br /&gt;
雪かきの労働力返せ～(TдT)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなこんなで記事が遅れてますが、管理人はインフルにもならず元気です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予告としては相良編完結まで残り５話です。&lt;br /&gt;
後少しで、まとまりますので宜しくお願いします(^o^)v</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14749860.html</link>
			<pubDate>Sun, 20 Jan 2019 09:42:26 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１９年挨拶</title>
			<description>遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
&lt;div&gt;今年も宜しくお願いします。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今年、元号が変わるのが決まってるので、巷のカレンダーは西暦表記のみですね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;管理人といえば、１２月は滅茶苦茶忙しく平日も日曜もヘロヘロだったので、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;正月はガッツリ休みました＾＾&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;去年は大河は最後まで視聴してたけど、疲れて半分寝てたので記事は挫折。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今年は管理人苦手なスポーツ関連なので感想記事は無理かな～&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;てか今年こそ相良編を完結させねば、いや本当。本当に後少しだから＾＾；&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;とにかくアチコチ手をつけては半端になってる書庫を整理する一年になりそうです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（同時進行で進めようとして挫折ｗｗｗ）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;末筆ですが今年一年が皆さまにとって充実した一年になりますように。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14733274.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Jan 2019 19:10:41 +0900</pubDate>
			<category>OL</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房４０＿法廷闘争？】</title>
			<description>&lt;a href=&quot;https://history.blogmura.com/his_sengoku/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://history.blogmura.com/his_sengoku/&lt;/a&gt;　にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;今回は（池田こういち著『肥後 相良一族』＆人吉市史）を参考資料とさせて頂きました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水頼蔵が石田三成へ訴状を出した正確な時期は解ってません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;慶長元年（1596）年10月13日に深水頼蔵が相良家を出奔し、加藤清正に匿ってもらってます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実父・織部も息子に続き出奔し、二人を追って出奔しようとした深水一族73人を犬童頼兄がバッサリ成敗&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（詳細経過は前回既出）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それを憤った深水頼蔵が公儀（この場合は豊臣政権）へ訴状を出した。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;これだけ書くと「犬童ＤＱＮ」って思われるかもですが、戦国も江戸期も出奔（脱藩）は基本許されることじゃありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だって主家の内部＋軍事情報を抱えてるし、郎党を引き連れていれば主家の兵力減にもなります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから勝手に出奔の誰かさんは追手や刺客を放たれたり、某氏は「奉公構え」くらったりと、それなりの報復を受けるものなんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;加藤清正の保護下にある頼蔵・織部親子が無事な代わりに、相良領内に残る深水一族にトバッチリが来るのは政争の常。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;とにかく訴状は慶長元年（1596）10月13日以降で、第二次朝鮮の役出兵までの間に起きたんです。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;石田三成は訴状の確認の為に犬童頼兄を召して、深水頼蔵と共に詰問した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼兄は「深水一族への処断は、法に照らしてなされるもので、個人の勝手な判断で行ったものではない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;主君の命により成したものである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と述べると、主君・相良頼房からの指令が書かれた文書を提出した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼蔵「ｶﾞ━━━(ﾟﾛﾟ；)━━ﾝ!!」&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;実は・・・初めのころ、相良頼房と犬童頼兄の衆道関係を疑いました，;.:ﾞ:..:;ﾞ:.:: (ﾟ∀ﾟゞ)ﾌﾞﾊｯ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（頼兄は美形で寺の稚児上がりの経歴なんで、つい腐女的発想を・・・ｺﾞﾆｮｺﾞﾆｮ）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;主君・頼房にしてみれば「アタシ（深水一族）と、あの女（犬童一族）のドッチを取るのよ！」と究極の選択を迫られた状態なわけで、頼房「魯鈍ちゃんより、仕事の出来る方が (・∀・)イイ!!」となるのは当然の帰結。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;亡き深水宗芳が生きていれば、頼房も頼兄だけを選ぶことは無いだろうし、そもそも両派の争いは起きてないだろう。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;なんとなくなんだけど、深水頼蔵は深水一族の過去の功績から「自分は大丈夫」って、根拠レスな思い込みがあったんじゃないだろうか＾＾；&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;で、不利を悟った頼蔵が何をしたかと言うと・・・法廷からトンズラ｡･ﾟ･(ﾉ∀`)σ･ﾟ･｡ｱﾋｬﾋｬ&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;妄想１：三成・頼兄の前を頼蔵が脱兎の如く逃走～三成・頼兄 (　ﾟдﾟ)ぽかーん&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;妄想２：頼蔵が「イテテ～持病の癪が・・・ちと休憩」と言って退出遁走&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;具体的に、どうやってトンズラしたか記録に残ってれば面白かったのに～&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼蔵がトンズラしたと知った時の三成の顔を見て見たい（大爆）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして改めて三成は頼兄に、頼蔵追捕の許可状を与えたそうだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その追手は山井五郎により殺害され、深水頼蔵は事無きを得た。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「石田三成が捕縛しようとした」と聞いて、加藤清正は増々意地になってしまったらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水頼蔵を匿った（伏見屋敷か？）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水一族と犬童一族の争いが、加藤清正と石田三成との争いにまで発展？それは　またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14684736.html</link>
			<pubDate>Thu, 29 Nov 2018 06:48:35 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>【相良頼房３９_亀裂】</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cb-40/tokino_siori/folder/360567/93/3214393/img_1?1415513144&quot; alt=&quot;&amp;#227;&amp;#130;&amp;#164;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#161;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#188;&amp;#227;&amp;#130;&amp;#184; 2&quot;&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;https://history.blogmura.com/his_sengoku/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://history.blogmura.com/his_sengoku/&lt;/a&gt;&amp;nbsp;にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;文禄4年(1595年)1月・・・朝鮮にいる相良頼房の元へ「石田三成家臣・黒川右近が検地の為に下向した」旨が伝えられた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家も島津家と同じく、当主が朝鮮出兵で留守の間に検地が実行されたようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その時に主君・頼房は、犬童頼兄を帰国させている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;どうやら前年の竹下監物（深水一族）誅殺以降、深水一族と犬童一族の対立は如実化しており、それを懸念した頼房が、頼兄を帰国させたらしい。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;石田三成家臣・安宅秀安は5月に犬童休矣へ下記のように伝えた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（安宅秀安～石田家において主に島津・相良との折衝にあたった家臣）&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;頼房の在陣は大事（竹下監物誅殺）の前のこと。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;犬童休矣・頼兄父子と深水織部・頼蔵父子の諸事に渡る熟談を勧める。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;両者の対立は大人げなく、第一に頼房の為にも宜しからず、&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;検地の実施に於いても、休矣・織部（ダディ同士）で熟談の上で、頼兄を上方に差し向けたのであろう。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;そうでなければ、三成も非常に心配している」&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家中における深水一族と犬童一族の相克は奉行たちの耳にも達しており、相良の御家取り潰しの可能性が示唆されていたらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;文禄４乙未年(1595年)黒田甲斐守（長政）が帰国し、その陣所が空いたので(相良頼房は)そこに移って翌申年まで在番した。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;そのうちに、清正の陣に自分勝手な振る舞いが秀吉の耳に入ったので、その申し開きのため清正は帰国した。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#407f00&quot;&gt;頼房も翌年５月に帰国し、直に京都に上り、太閤秀吉にお目見えのうえ事情を説明して、同年９月に球磨郡に帰着した。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;(出典：南藤蔓綿録）&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;明との和平交渉について、小西行長・石田三成らから弾劾された清正は、秀吉の怒りをかい、慶長元年(1596年)６月に帰国を命じられ、京都伏見屋敷に謹慎となった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;朝鮮から帰国してるのに、地元の土を踏まずに自ら京都へ報告・・・律儀なんだなぁ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;いや、そのくらいしないと宮仕えは務まらないか・・・。。。( ﾟДﾟ)y─┛~~&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;とにかく相良勢は９月にやっと故郷に戻り、戦塵の垢を落とし、ﾏﾀ~ﾘお茶 ~~旦(-^ )頂きます♪&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;じゃなくって、その前に出陣前に参詣した社に御礼参詣ﾃﾞｼｮ！　(._+ )☆＼(-.-メ)ｵｲｵｲ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;母上(義陽の正室)＆ママン(生母)に帰国の挨拶した？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;留守中の検地の報告に目を通して！　ｱﾀヽ(´Д｀ヽ ミ　ノ´Д｀)ノﾌﾀ&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;忙しいながら、日常を取り戻しつつある時に「事件」が起きた。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;慶長元年(1596年)10月13日～深水頼蔵が加藤清正の元へ出奔！&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cb-40/tokino_siori/folder/360567/56/4947556/img_7?1345976891&quot; alt=&quot;&amp;#227;&amp;#130;&amp;#164;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#161;&amp;#227;&amp;#131;&amp;#188;&amp;#227;&amp;#130;&amp;#184; 3&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;（監修様作画による、深水頼蔵と犬童頼兄のイメージ画像）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水一族と犬童一族の確執は、抜き差しならぬものとなり、ついに最後の一線を越えて「頼蔵出奔」に至った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水頼蔵の実父・深水織部も息子に続いて出奔。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;[球磨]ε=ε=(*￣ｰ)ﾉﾉ[佐敷(現：熊本県葦北郡芦北町）]に住んだ。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;家老の犬童頼兄は、頼蔵・織部の妻子を捕えて監視させたが、これに深水一族は反発。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;恨みから町屋を殺掠する事件にまで発展する。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（犯行に及んだ9人が討ち取られ、残りは逃亡）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;また頼蔵の移り住んだ佐敷が深水氏縁故(★)の土地であった為に、出奔を企てる深水一族が後を絶たず、犬童頼兄はその通路に待ち伏せさせ、一挙に73人を殺害した。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（★葦北は亡き深水宗芳(頼蔵の叔父で養父)が、豊臣秀吉に抜擢されて郡代官を務めた地です）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;相良頼房は朝鮮の役で、加藤清正の陣に所属した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;頼房が国境の城を守り抜いたことに感動していた清正が、相良家を出奔した深水頼蔵・織部親子を匿った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは加藤清正と石田三成の確執・政争が絡んでしまった事によるらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;朝鮮でも加藤清正は（頼房が戦死した）と、早とちりしたりするあたり、意外と思い込みが激しいっぽい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;深水親子と対立している、「犬童頼兄に大嫌いな石田三成が肩入れしている」とでも思ったのだろう。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;あるいは深水頼蔵が清正に対し、そのようなことを言外に匂わせたかもです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家の検地は石田三成（正確に言うと家臣を派遣）が行っており、その時期に頼兄も帰国してるので、傍から見れば「一連ﾅｶﾏ!((( ^-^)爻(-)))ﾅｶﾏ!托生」に感じたかもです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;主君・頼房が案じて頼兄を帰国させたのに既に関係が拗れまくってたので、悪意でしか物事を判断できなくなってた。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;一族が殺されたことを知った頼蔵は「頼兄の深水一族への行為は私怨によるものである」として石田三成に訴え出た&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;相良家中の争いが「公儀の俎上」に乗っただが　それは　またの話＾－＾&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/14683280.html</link>
			<pubDate>Wed, 28 Nov 2018 06:39:36 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
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