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2015.6.29のブログに「キリストも神に捨てられた」という記事を書いた
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」である。
「キリストの生涯、著:遠藤周作」には
キリストが正午に手と足を釘で十字架にはりつけになった。
奇跡は何一つとして起こらなかった。
口を開く力さえ失って身じろがなくなって、
午後三時、彼は突然小鳥のように首垂れていた頭をあげて叫ばれた。
エロイ、エロイ。ラマ・サバクタニ(主よ、主よ。なんぞ我を見棄てたまうや)
詩篇二十二篇のはじめの一句である。
詩篇二十二はこのあと「私は汝のみ名を告げ……人々のなかで汝をほめたたえん」という神の賛歌に転調していく
更に詩篇三十一篇では
「我 わが魂をみ手に委ねたてまつる
主よ まことの神よ
汝は我をあがなわれたり」となる
これこそがキリストの愛
自らは、ハリツケで痛さ・モウロウトなりながらも
この決して疑わない「わが魂をみ手に委ねたてまつる 」と
信じて疑わない
このことが愛である!
絶望ではなかった。
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神霊
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ラファエロの傑作「キリストの変容」
「プラド美術館の師」と言う本を読んだ
絵画を読めるようになる?本
キリストの変容の解説(部分)
「キリストの変容」には、他の絵にはない叡智が隠されている
双方の世界が人間を媒体としてどのように関り合っているのか、
そのあり方を説明しているからだ。
12歳ぐらいの少年を囲んで議論しているイエスの弟子たち。
何かに憑かれたかの少年は”変わった目つき”をしているが、
右手で天を左手で地を指している。
マタイが書を開けた状態で座っている。足を地に着けることなく。
マタイの視線はひとりの女性に注がれている。
背を向けひざまずいているその女性は”ソピアー”叡智”の寓意。
彼女は人差し指で霊に憑かれたと思しき少年を示している。
まるで絵を見る者に対し、叡智は、この世から別の世界へ跳躍する鍵 がどこにあるかを知っている、と指摘しているようだ。
その鍵とは少年だ。
誰もが理解しているわけではない.ユダは不信の表情で情景を眺めているし、シモンや小や小ヤコブ、トマスもしかり。バルトロマイだけが天に昇っていくイエスを指差しているが、彼もまたイエスを見てはいない。
てんかん持ちの少年と神の子イエスは密接に結びついている。
そんな説明だった
恐山のイタコも金縛りにかかったようになる。
コンバージョンというのも似ているように思う。
洋の東西が同じような事を言っている。
詳しくは書籍にて!
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「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
イエス・キリストは十字架に架けられてこの言葉を叫んだ
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の意味
イエスはたくさんの人を救ったと言う記憶しかないが
そのキリストが
神の子のキリストなのに
神に見捨てられたとの意識があった!
本当に驚き!
(福音書に記載がある)
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展望が開けたところに神が降臨し石碑に詩を書かせたところがあった。
山登りの記録をたどったら平成11年4月10日に赤城山の黒檜山に登った
大洞-黒檜山‐駒ケ岳-覚満淵-鳥居峠-大神水-大洞のコース
何かとてつもない気を感じるところだった
そんなことを思い出し、
多分鳥居峠だろうと検討をつけ車で行ってみた
まさしくその場所だった
神が降臨し行者に筆を取らせて書いた石碑 石碑の説明文 峠から覚満淵を望む、遠くに大洞 |
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キリストの顔がどうだったか分からないが
仏像の顔は慈悲深い顔も多い
やわらかい微笑み、そんな仏像も有る
何故笑顔は無いのだろう?
笑顔も人を救うと思うが?
キリストの場合は
必死に祈り、信じ頼ってきたものの病を癒したようだ。
祈り、頼り、願うことが自分が救われる術か?
そんなことを考えた
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