琥珀酔ものがたり

奥深い熟成酒の世界をご紹介いたします

税と日本酒

現在は免許制度となっている酒造りですが、
明治期以前には家庭でどぶろくを造ることが禁止されておらず、
自家用ならば清酒であっても醸造が許されていました。
 
しかし明治政府は、江戸幕府が定めた複雑な酒造株を没収し、
免許料を払えば自由に酒造りができるように改めました。
そのため全国で3万を超える酒蔵が一気に醸造を始めました。
 
明治初期には日本酒は国内で最も生産量の多い商工業製品であり、
当時の日本人にとっては
生活の必需品であったとも考えられます。
 
そこに目を付けた明治政府は酒蔵への課税を度々重くしていき、
明治32年にはそれまでの地租を抜いて、
酒税が歳入のトップとなりました。
 
日露戦争前の明治35年(1902年)には酒造税だけで
国税収入全体の42%を占めるまでになっていき、
「日清・日露は酒で戦った」という言葉が残っているほどです。
 
厳しい課税に堪えられない酒蔵は廃業に追い込まれ、
一時は3万を超した酒蔵は、
明治15年には半分近くにまで減少してしまいました。

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明治後期の小弓鶴

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小弓鶴は、明治17年に「酒類製造業免許鑑札」を、
明治29年には「清酒・味醂・焼酎製造の免許」を受け、
明治42年に個人経営から合資会社吉野家酒店に改編いたしました。
 
明治41年の酒造米高は三百七石余りで、
酒造石高に換算すると四百石程度、
創業当時から四倍近く石高を伸ばしてきました。
 
そのころ蔵では、杜氏(当時は杜父)7人、精米8人、
焼酎係2人、桶屋2人が働いていたとの記録があります。
往時の蔵ではさぞ賑やかに酒造り唄が響いていたことでしょう。
 
杜氏(蔵人)は酒造りの技術をもった職人集団のことであり、
まだ酒造りが科学的に解明される以前から、
豊富な経験と勘によって現在の日本酒の原型をつくり上げてきました。
 
小弓鶴の昔ながらの酒造りの様子は、
復刻された錦絵からも知ることができますが、
厳しい寒さの中での重労働が伺えます。
 
こうした明治以前からの酒造りも、
徐々に科学的な醸造法が研究され、
さらに戦後の技術改革によって、近代化されていきます。

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明治初期の小弓鶴

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尾張藩勘定奉行所から酒造米高八十八石二斗の承認を受けて
正式に酒造りを始めた小弓鶴は、
明治初期には、百三十石程度まで酒造米高を伸ばしました。
 
酒造米高とは酒を造る際の原料米の単位で、
一方、酒造石高はその米を使って生産された酒の量であり、
米高と石高とは当然ながら一致しません。
 
酒造石高の一石は180リットル、一升瓶なら約100本分、
当時の小弓鶴の年間生産量は石高換算ならば、一升瓶で約13,000本、
記録は酒造米高なので、実際にはそれ以上の数量だったと考えられます。
 
明治期には羽黒村だけで7軒の酒蔵があったと言われており、
それぞれの蔵で石高に差はあるにせよ、
ごく狭い地域で一体どれだけの酒が生産されていたのでしょうか。
 
酒といえば日本酒、
他のアルコールの選択肢がない時代とはいえ、
さすがの生産量…という気がします。
 
そして輸送手段などない時代、
地域の酒は、ほぼ地域で消費されていたはずです。
もちろん「地酒」などという言葉すらなかったことでしょう。

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幻の犬山藩お墨付き

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嘉永6年(1853年)の黒船来航に遡ること5年、
嘉永元年(1848年)に正式に酒造りを始めた小弓鶴ですが、
やがて徳川幕府は終焉を迎え、時代は明治へと移っていきます。
 
年号が改まった明治2年(1868年)に、
吉野家は犬山藩物産局から酒造りの承認書、
いわゆるお墨付きを受けています。
 
犬山城主の成瀬家は、尾張藩の付家老でしたが、
明治元年の維新立藩により
尾張藩から独立して犬山藩となりました。
 
しかし、明治2年の廃藩置県で犬山県となり、
明治4年には名古屋県に合併されてしまったので、
犬山藩はわずか4年で消滅してしまったのです。
 
そのため幻の犬山藩からいただいた承認書は、
古文書としてもたいへん稀少であり、
現物は吉野家で大切に保管されています。
 
この承認書のレプリカは、
酒造りに関する資料のひとつとして、
博物館明治村の「菊の世酒蔵」で展示されています。

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はじまりは どぶろく?

江戸時代の吉野家は代々庄屋を勤めておりました。
天保12年(1841年)の羽黒村の絵図に押されている庄屋印は、
現在も吉野家で大切に保管されております。
 
この時代の庄屋の役割は、年貢米を集めるだけでなく、
不作や飢饉の緊急時に備えて、
毎年の収穫から一定量の米を備蓄していました。
 
一方で豊作が続くと米が余り、
その米を無駄にしないために、
庄屋が酒を造るということがあったようです。
 
江戸時代には、酒といえば清酒のほかに、
「どぶろく」も広く浸透していたようで、
各地で「どぶろく」が造られていたようです。
 
明暦3年(1667年)に幕府により酒造株が制定されましたが、
文化3年(1806年)には勝手造り令が出され、
届出をすれば酒造株がなくとも酒造りができたようです。
 
こうした歴史的背景からみて、
小弓鶴も嘉永元年の酒造株取得の以前から
庄屋の副業として、「どぶろく」を造っていたかもしれません

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