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4月14日に徳之島亀徳のなごみの岬公園で輸送船富山丸で移動中に犠牲になられた皆様の慰霊祭が
行われ関西・四国・九州 の各地から遺族の皆様
131名と徳之島の関係者
が参列した。 黙祷から始まり、 徳之島混声合唱団女性コーラスの合唱、 開式の辞、 慰霊の詞、 三角光雄様手記朗読、 県毎の顕花 徳之島から疎開船武州丸で鹿児島に移動中に犠牲になられた皆様の碑への参拝、 お礼の詞、 『ふるさと』合唱、 閉式の詞、 とすすんだ。 遺族の皆様は、この慰霊祭の前に海上で船上からの献花もおこなつたようです。 14日は曇りで強い日差しもなく慰霊祭は滞りなく すすんだ。 武州丸の参拝では歴史を伝える意味もあり小学校高学年の代表の生徒の参拝が行われる。 武州丸には徳之島の子供達が多く乗っていて犠牲になつた、井之川や亀徳の人がふぁたんちぃ(多かった)。 翌15日は生憎のアムィ(雨)ながら富山丸遺族の皆様はなごみの岬の海に来ていた。 歴史は伝えなければ伝わらない。 富山丸は 7089トンの 輸送船で、昭和19年6月29日将兵ら約4千人を乗せて沖縄守備のため南下中、徳之島の亀徳沖約3キロで米軍潜水艦の
魚雷攻撃を受けて沈没し
た。ドラム缶1500百本分
のガソリンを積んでいたた
め、周囲は火の海となり、
約3700人が犠牲にな
った。将兵は四国、九州
の方が殆ど。
生存者の故三角光雄氏 が1964年(昭和39年)沈没地点を望む丘に慰霊碑を建立した、碑は同氏が土地や道路は徳之島町が提供し整備した、それから毎年、慰霊祭が行われている。戦後徳之島などは昭和28年まで米軍のせんりょう下にあつたためになくなられた方の住所確認などに時間をようしたと聞く。
第一回の慰霊祭の案内は 徳之島町が出した秋武町長の時代と聞いた。 ○徳之島含む奄美南部に は波浪注意報がぁいじとう
(が出ています)
きゆう(今日)は
○ひのととり 四緑 赤口 ○科学技術週間12日(月) 〜18日(日)
○春の土用17日(土)〜5 月4日(火)
徳之島井之川の書き込み
時点での気温、水温、湿
度、気圧と天気予報
なぁやぁなぁなてい(今家
の中で)22度(誤差+−そ
れぞれ10%)
水温20度(誤差不明、こ の水温は海水温とは違い
ます。陸上の小さな容器
に入れたみじぃ(水)の水
温なあてぃ)
気圧1011hPa(ヘクトパス
カル)(誤差不明)
湿度74%誤差+−それぞ
れ10%)
鹿児島県大島郡徳之島
町井之川限定天気予報
きゆうやぁ(今日は)晴れ一時曇り きぬう(昨日)の天気は
ほぼ当たり曇り一時晴れ 気象庁・国立天文台 天文
情報センター 暦計算室・
ヤフー天気情報とニュー
ス、大辞泉、の各サイト、
慰霊碑、ネット、識者の話
など参照。
画像は犬田布岬の慰霊塔
の沖に停泊するイージス
艦ちょうかいと新しく出来
た『あゝ犬田布岬』の歌詞
の碑と通路
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天候がかわりやすいこの頃
2010/4/17(土) 午後 0:08
太平洋戦争時の1944年(昭和19年)6月29日早朝、奄美大島の大島海峡(古仁屋港)を沖縄へ向けて出港した富山丸を含む13隻の船団は、徳之島亀徳沖で待機していたアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
富山丸には沖縄本島へ応援のための兵員4,600名の他、ガソリン入りのドラム缶1,500本等が搭載されていた。
通常は兵員と大量の燃料とを一緒の船に乗せることはしないが、この時は止むを得ない状況があったものと思われる。
潜水艦から発射された魚雷は、富山丸に命中して船は大爆発を起こして沈没した。搭載していたガソリンに引火して、その後何度も大爆発を繰り返し、海上はまさに地獄絵のような惨事となった。
奄美大島側と徳之島側から多くの人が救出に向かったが、約3,700名が戦死。約600名が救助された。
救助された兵員のうち、健康な者約400名が後に沖縄へ向かった。
当時、富山丸の沈没事故は軍部により緘口令が布かれ、人々の間で語られることは禁止された。
2017/9/17(日) 午前 11:02 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]