佐世保紀行
西門付近
ハウステンボスのフリーゾーンの敷地内に
温泉施設ができた
というニュースを聞きつけて
西門から歩いてきたのに
見つからない
園内のバスで行けるらしいけど
宿泊者しか乗れない
そんなばかな
いったい何処に
つづく
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潮風の街
港を眺めながら時を過ごす
5番街モールにも灯りがともり
カフェには勤め帰りのOLたちが集う
この変わりよう
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夜の静寂がそっと舞い降りる
ベイエリアのマンション群が防波堤のように見える
●一寒村から一気に市へ昇格それはなぜ?
本日は佐世保の歴史の勉強よ
なぜ佐世保に鎮守府開庁 外洋から攻められにくい立地
長崎、伊万里も熱心に誘致
旧日本海軍佐世保鎮守府が1889(明治22)年7月1日に開庁されてから、今年で130年を迎える。長崎や佐賀も名乗りを上げ、誘致合戦も繰り広げられたという。鎮守府の設置後、佐世保は村から市に急速に発展した。市が2002年に刊行した「佐世保市史 軍港史編」の執筆委員長を務めた防衛大名誉教授、田中宏巳氏(76)=神奈川県鎌倉市=を訪ね、佐世保に決まった背景を探った。 1872年に海軍省が発足した。2年後に佐賀の乱や台湾出兵が勃発。海軍の軍備強化・艦船増強は喫緊の課題となった。こうして東西に鎮守府を置く構想が出た後、東西南北の4鎮守府構想が浮上した。
九州では長崎と伊万里が誘致に熱心だった。鎮守府を造るには、本庁や港湾施設など膨大な施設が必要になり、郷土を盛り上げる意味合いが強かったとみられる。田中氏は「今で言う産業誘致だ。長崎と伊万里の有力者らは関係省庁に船で向かって陳情したと思われる」と推測した。 長崎は江戸時代から港が開かれ、台湾出兵の際に遠征軍の出発地になった。石炭が入手しやすく、東シナ海に面している立地条件の良さも強調した。幕末以降、海外の船は横浜港に多く入港するようになっていた。田中氏は「長崎は危機感を持っていたのではないか」と分析する。伊万里は東シナ海の防衛のための立地条件だけでなく、石炭や水の補給に都合がいいことを主張した。
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九州では長崎と伊万里が誘致に熱心だった。鎮守府を造るには、本庁や港湾施設など膨大な施設が必要になり、郷土を盛り上げる意味合いが強かったとみられる。田中氏は「今で言う産業誘致だ。長崎と伊万里の有力者らは関係省庁に船で向かって陳情したと思われる」と推測した。 長崎は江戸時代から港が開かれ、台湾出兵の際に遠征軍の出発地になった。石炭が入手しやすく、東シナ海に面している立地条件の良さも強調した。幕末以降、海外の船は横浜港に多く入港するようになっていた。田中氏は「長崎は危機感を持っていたのではないか」と分析する。伊万里は東シナ海の防衛のための立地条件だけでなく、石炭や水の補給に都合がいいことを主張した。 ◆
佐世保鎮守府開庁後、佐世保は日清戦争で軍港としての機能を果たしていく。田中氏は「佐世保港は軍艦が停泊できる十分な場所があり、守りやすい。軍港としての機能は佐世保が一番。実にいい港だ」と評価した。
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