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. . . . ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ Cafe Cucciolo ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ 聞いていたのは単気筒エンジン特有の排気音だった。粒の揃った乾いた連打音が、身体の周りにまとわり着いては風に絡め取られていく。追い越し車線を走っていた奥村恭平は、心地よい排気音が風に流されていかないように、少しアクセルを開けた。対向車のない青信号の交差点を右折する。自分の手足が出す要求に、完全なる応えを返してくれたことに心が浮き立つ。このオートバイのスリムさが際立つ瞬間だ。恭平は目的の店が見えてくるとゆるやかに減速し、ひらりと左に車体を傾けてオートバイを店の敷地に導いた。入口横の石畳が敷かれた駐車スペースに入ると、すでに停車していた二台に並べてオートバイを停める。車体を両足を伸ばして支えたまま、その店を見上げた。 白壁から伸びる黒い金属製の支柱にぶら下がる木のプレートは、イタリア国旗の色に塗り分けられ、白いペンキでCafe Cuccioloと文字がある。それがこの店の名だった。 地中海風にモルタルで鏝塗りされた白壁には無数の蔦が絡んでいた。緑色の蔦は夏の陽射しに色を奪われて所々茶色に変色している。太陽にはすでに真夏の威力はなかったが、店全体を照らしている陽光は、恭平の目もまた鋭く射した。 隣に佇む二台のオートバイに目を向けると、アルミ製のフェンダーやメッキを施されたパーツが陽光を照り返して輝いている。懐古趣味を身にまとうカフェレーサーたちは、店の情景に趣意を与えると共に常連客の在店を告げていた。 恭平はサイドスタンドを蹴り出してキーを抜くと、脚を伸ばしたまま大きな振りでオートバイを降りた。誰も見ているはずはないのに、エンジニアブーツの先で描く弧の美しさに拘るのは悪い癖だ。ジェット型のヘルメットを脱いでミラーを覗くと、悪癖もまた善しとする男の顔が映っていた。会心した恭平は、大きな歩幅で店の入り口へ向かった。 ドアを押すと籠もった丸い金属音のベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」反射的な声が届く。 声に一瞬遅れて向けられた顔を、暗順応しつつある恭平の目が捉える。 「なんだ恭平かぁ」 綻んだ顔が正常な濃淡で像を結ぶ。ウエイトレスの優子だ。 「なんだじゃねえよ。お客様だよーん」 芝居がかった物言いでおどけてみせると、優子は少し呆れた表情を返した。 小さめの窓から射し込んで来る陽は、カーテンを透過してテーブルの一部を柔らかく照らしていた。適度な照明で落ち着いた雰囲気であることも、恭平が店を気に入っている点のひとつだ。店内にはカウンター席が七つと四人がけテーブルが八つ並んでいる。突き当りの壁際の一段高くしたスペースに、古いオートバイがディスプレイされていた。可愛らしく華奢なそのオートバイは、この店のマスターが惚れこんで探した末に、ロンドンのコレクターから譲り受けた、ドゥカティ・クッチョロだった。イタリアを代表するオートバイメーカーであるドゥカティ社が、1946年に最初に世に送り出したオートバイであり、クッチョロとは仔犬を意味している。マスターの愛してやまないオートバイが店名の由来なのだ。恭平はイタリア仔犬に視線を送ると、カウンターに向かって板張りの床をブーツで踏み鳴らした。 「よお」 カウンター席に陣取る二人の常連客に挨拶しながらスツールを跨いだ。返してくれるいつも通りの小さな挨拶にほっとする。 「いらっしゃい」 髭を蓄えたマスターが控えめな声で迎えてくれる。 「ホットください。それと、マスター、またチラシ貼らせてもらってもいいですかっ」 ジャケットの内ポケットから丸めたチラシの束を取り出し、大仰に頭を下げる。 マスターが頷くのを見計らって恭平は顔を上げた。 「優ちゃん、オッケーだって。これこれ」 「はいはい、ただいま。横柄なお客さまだこと」 優子はチラシを受け取ると、早速、壁のコルクボードに貼ってくれた。寡黙なマスターだけだったこの店が、春に短大を卒業した優子が加わって雰囲気が一変してしまったことを、常連客は容易く受け入れた。恭平は、屈託のない彼女の笑顔を見ると、マスターの姪でもある彼女は、言わば看板娘だなと思う。 「健とヤスにも。ささ、どうぞ。俺の雄姿を観てやっておくんなまし」 押し付けるように二人にチラシを渡す。気心の知れたオートバイ仲間に遠慮することはない。 「どれどれ。今度の日曜か。お題は『イカロスの落ちた日』だって。ひょっとしてお前がイカロス?」 チラシと恭平の顔を交互に見ながらヤスが訊く。 「おう。記念すべき俺の初主演だ。ま、イカロスったって現代劇だけどな」 「何かピンとこないなぁ」 「健も来てくれるよなぁ」 声色を変えた恭平は、意外と鋭い健の眼差しに怯む。お前に主演なんてできんの、という疑いの眼だった。 「俺の休みは月曜だけだっての。それも講習だコンテストだって、休みにはなりゃしないんだからな。今日だってここに来るのが精一杯だよ」 「カリスマ美容師ってのも大変だなぁ」 フリーターのヤスが暢気な台詞を口にした。 恭平は不意に芳ばしくも柔らかい香りに鼻腔をくすぐられる。マスターの長年の経験と探究心が到達したオリジナルブレンドのものだった。漂う芳醇なコーヒーの香りは幸福感をお裾分けしてくれる。健の態度で波立っていた心が少しだけ凪いだ気がした。 「あたし、行きたい。ねっいいでしょマスター? 今度の日曜」 コーヒーカップを恭平の前に置いた途端、優子が顔を輝かせて言った。 「やっぱ、優ちゃんだけは俺の味方だよね。初主演のプレッシャーなんてふっ飛んじまうな」 「恭平様は俺様なんでしょ。プレッシャーだなんて。それにあたしが興味あるのは恭平じゃなくて沙希さん。だって素敵なんですもの」 初主演の恭平をサポートする今回のヒロイン役が沙希だった。優子は沙希を前回の公演で観て以来、大のお気に入りだ。時には可憐なスイートピーであり、時には大胆なダリアのような、という沙希を評した優子の弁を恭平は思い出す。 「何だよ、それ。せっかく楽屋にも招待しようかと思ってたのによ」 「ほんとっ? お願い。沙希さんに会わせて」 「ねぇねぇ、ちょっとボリューム上げてくれるかな」ヤスが会話に割って入る。 見るとヤスの指はカウンター越しの壁に掛けられた小型液晶テレビを差していた。二人が同時に視線をテレビに向けると、マスターが黙ってリモコンでボリュームを操作してくれた。 『……先々週起きましたオートバイによる死亡事故を調査し、対策を検討しました結果、見通しの良かった緑山バイパスの合流地点に見通しを悪くする為にフェンスが設置されました』 ニュース番組のキャスターが淡々とした口調で、隣県のオートバイ事故の概況と設置されたフェンスについて、現場の映像と共に伝えていた。 「わざわざ見通しを悪くしてどうすんだよ」 恭平は、ついテレビに向かって文句を言う。『他人の振り見て』の言葉を思い出しても後の祭りだと気付く。 「それがさぁ、あんまり見通しがいいと早くに確認しちゃって、実際合流する時には安心しきって、よく見てなかったりしてさ、そんでもって合流される側は流れがいいからスピード出てて間に合わないんだよ。でだ。見通しが悪いと、つまり合流するその時でないと確認できないようにするとだな、どっちも気を付けるから事故になりにくい。とそういうわけだ」 解説者を買って出たヤスはしたり顔だ。 「なんでそんなによく知ってんだよ」 健があからさまな不信顔をヤスに向ける。 「新聞記事の何とかって先生の受け売りだけどな」 「そういうことか。ヤスはよく新聞読んでるもんな」 「時間だけはたっぷりあるんでね」 「俺は求人欄しか読んでないかと思ってたよ」 恭平が軽口を叩いたがヤスは乗ってこない。一呼吸おいて、代わりにヤスは追加情報をくれた。 「そう言えばさあ。そのきっかけのバイク、年配夫婦のタンデムだったらしいよ。確かどっか大きな会社の社長さんだって書いてたぜ」 オートバイ乗りたちは一様に真顔だった。テレビの中の出来事でしかなかった死亡事故に、実像が加わり居たたまれなくなったのだ。 「かわいそうになぁ」 ヤスの声も一段低い。 「みんな気を付けてよ。お葬式なんて、あたし行かないからね」 「事故はヤだよな。バイク乗ってると、たとえ相手が悪くても、死んじゃったりしたら終わりだもんな」 恭平はそう呟くとコーヒーを一口すすった。 「ま、恭平は殺しても死なないタイプだけどな」 今度は健が軽口を叩いた。 「すみませーん」 唐突な女性の声がみんなの耳目を引く。 優子は「はーい」と返事をすると、雑談に興じた自分を恥じるような表情で、そそくさと奥のテーブル席の方へ歩いていった。その時初めて自分たち以外に客がいたことに思い至った恭平は、声の主のほうに顔を向けた。少し騒ぎすぎたという小さな後悔が、会話を聞いていただろう人物への興味に変わっていく。 「あの娘、初めてみる顔だけどさ、もう一時間以上も独りでボーっとしてんだよね。誰か待ってるわけでもなさそうだし。それに月曜昼間のセーラーときた。訳ありな感じ」 健の耳打ちでスイッチが入った恭平は、残っていたコーヒーを一口で飲み干し、立ち上がった。 「ちょっと行ってくらあ」 大股で奥の窓側のテーブル席に近付いた恭平は、彼女のテーブルを挟んだ反対側の椅子をくるりと回転させて座わり、正面から見据えた。 「お前、家出だろう?」 いきなり挨拶抜きでそう言った。 物憂げに窓の外を眺めていた彼女は、恭平を一瞥したが動じない。返事もなしだ。意思の強そうな目に肩まで伸ばした黒髪。十七か、十八だと見当をつける。少女ではなく大人でもない年齢だ。 「高校生、だよな?」 戻った視線は真っ直ぐに恭平の目を見つめたままで、答えはない。 「高校生でなきゃ、コスプレかな?」 恭平の言葉に小さく噴き出した。出来た笑窪が、澄ました顔を少し親しみ易くしたことを、恭平は見逃さなかった。 「セーラー服ですものね」 顔の印象に似合った澄んだキリッとした声だ。 「見掛けねぇ制服だな。三つ葉女学院あたりか?」 恭平は隣県にある有名なお嬢様学校の名を口にした。 「どうかしら」 ホットコーヒーのお代わりをトレイに乗せて持ってきた優子は、恭平をキッと睨むと、少女の前にカップを置いた。恭平の軽薄な行為が気に入らないのだろう。そんな優子の反応がいたずら心を刺激する。 「お待ちどうさま」 「あれ、俺には?」 「これはサービスじゃありません。お客様のご注文です」 「冷たいこと言うなよ」 「それともお客様、ご注文ですか?」 「何だよ他人行儀に。じゃあ、コーヒーください。これでよろしあるか?」 恭平は、返事をせずにぷいと踵を返した優子のほうへ、自分の頭の上に両手の人差し指を立てて見せると、少女のほうへ向き直った。 「それで誰か待ってんの?」 カップを両手で取った彼女が、湯気の立ち昇るコーヒーを美味しそうに一口飲むのを眺めながら、恭平は答えを待つ。期待しているのではない。楽しんでいるのだ。 「さっきから質問ばかりなんですね」 「そして何にも答えてねぇ」 恭平は犯人を追いつめていく探偵を演じているつもりでいる。 「家出少女って何となく雰囲気で判っちゃうんだよな。前に家出少年の役やったからさ。こう見えても俺、勉強熱心な役者だから」 唐突に探偵が恭平に戻る。 「そろそろ行かなきゃ。送ってくださらない? おじさん」 話を聞いているのか聞いていないのか、突然立ち上がって言う。 「おじさんって、これでも二十四なんだからな」 「苦労してるんですね」 「大人をからかってんじゃねえよ」 はぐらかすように窓の外へ目をやる少女は、どこか凛とした雰囲気だった。 「駅はすぐそこだろうが」 「電車代、ないんです」 「ほんとに家出かよ」 「家出少女を放り出すんですか?」 言葉に詰まる。 「バイク、乗せてください」 「送って行ってあげなよ。メット貸すからさぁ」 カウンター席のほうからじっとこちらの様子を窺っていたらしいヤスの声が届く。後押しはいらない。迷ったときは直感に従うのが流儀だ。今までもそうしてきた。そう帰結した恭平は止めていた時間を動かす。 「わかったよ。来いよ」 恭平はヤスのところまで来るとお椀型のヘルメットを受け取り、ついて来た少女の胸にそれを押し付けるとドアの方へ向かった。 「恭平、コーヒーどうするのよ」 恭平が店を出ようとしたその時、優子が引き止めるように慌てて言った。 「この娘送って行くからさ。後でもらうよ」 「もう」 店を出てオートバイに歩み寄った恭平は、何となしに出入り口を見やる。ドアを半開きにした少女が振り返り、店の奥に目を向けている。視線の先は静かに佇むクッチョロだ。ほどなく前に向き直った少女は、店を出て恭平のほうへ足を向けた。 |
Cafe Cucciolo 改稿
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【バイク小説】 Cafe Cucciolo 【短編小説】 再改稿
<前編> <後編>カフェレーサー達が集うカフェクッチョロ。 恭平は見ず知らずの少女とタンデムランすることに。
売れない劇団員の恭平はそこである少女と出会う…… 二人を乗せたSRは何処へ向かうのか……
(全文400字詰 37枚)
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. . 恭平の乗るヤマハSRは三十余年前に発売されて以来、新車として造り続けられているロングセラーモデルだ。健やヤスのオートバイと同じく、カフェレーサーとしてのチューニングが施されている。細身だが長いガソリンタンク、低く構えたセパレートハンドル、ノーマルより後退した位置にあるステップやセミダブルのシート、キャプトンタイプのマフラーなどあらゆるところに手を入れている。二台と同じ車輌はない。恭平は先日交換したばかりのハンドルバーに手を伸ばす。二人乗りによって変わってしまったミラーの角度を合わせると、シフトペダルを踏み込みクラッチミートした。SRはマフラーから薄紫の排気を吐きながら、単気筒のリズムで路面を蹴り出すように発車した。 店の前を通る往復六車線の道路を南へ下ると、すぐに県庁所在地と同じ名前の駅がある。地方都市とはいえ百万人が暮らす街の駅周辺は、正午近いこの時間でも人や車の往来が途切れることはなく、賑わいをみせていた。駅前を通過して街路を何度か右左折した後、赤信号の交差点で停止した。 「次の信号、右です」 顔を近づけた後ろの少女が大きな声で言う。恭平はヘルメットを大げさに上下させ頷いて見せた。信号が青に変わり、前を行く車の後に続き右折レーンへ車線変更した。いつもの単独でのライディングだったら、車を追い越して右折待ち車両の先頭へ出るところだが、今日は極端に大人しい運転に徹していた。なにせスカートを履いた女の子を後ろに乗せているのだ。上手くたくし上げ、お尻と足できれいに押さえてはいたが、やはり少しバタついている。 交差点を右折し終わるとすぐに左のウインカーを点け、路肩に停止した。 「どこ行かす気だよ。この道そのまま行ったら戻っちまうだろうが」 恭平はヘルメットのバイザーを跳ね上げ、振り向きざまそう言ったが、返答はない。 「どうすんだよ?」 「海、見たいんです。連れて行ってください」 「だめだめ。帰るんだろ」 顔を覗き込む。暗い淵を覗く目に恭平の心臓が小さくトクンと跳ねた。 「ただでさえセーラー服乗っけてて目立ってんだからな」 「あら、役者さんてみんな自意識過剰なひとばかりだと思ってたわ」 さっきの表情はもう消えていた。 「悪かったな。役者らしくなくて」 恭平が言い終わると同時に、脇を通り過ぎる長距離輸送トラックの轟音が耳をつんざく。 「連れて行ってください」 「だめだ」 「連れて行かないと叫ぶわよ。助けてー、この人ストーカーですーって」 冗談めかした言葉とは裏腹に、光りが戻った真剣な目だった。なぜ? 恭平は逡巡する。どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。少しずつ大きくなっていたが、姿を見せることなくサイレンはやがて小さくなった。 「わかったよ、行くよ。山越えなきゃなんないんだからな。怖いつっても知んないぞ」 「はい」 「しっかり掴まってろよ」 そう言うと恭平はバイザーを下ろした。ウインカーを点けて車体を右へ傾けると後方確認し、今来た道をユーターンする。傾き始めた秋の太陽がきらりとバックミラーに反射した。眩しさに少し目を細めながら、恭平はアクセルをじわりと開けて加速した。 * SRを南へと走らせていた。様々な種類の車両が混合して走っている市街地は、オートバイにとって決して走り易い道ではない。このまま南下すれば次第に開けていき、やがて緑山バイパスへと繋がる。バイパスのほうが市街地よりも安全度や快適度が高いのは明白だ。バイパスは隣県の市街まで通じているが、恭平は海へ出るために途中から県道へ入っていくつもりだった。そこからは曲がりくねったアップダウンを伴った道がずっと続いていく。 バイパスは開通してからまだ日が浅いためか予想より交通量が多かったが、恭平は流れに乗って法定速度より少し速いスピードでSRを巡航させていた。 いくつ目かの合流地点が見えてきた。合流してくるレーンと本線の間に黄色い仮設のフェンスが立てられている。ニュースで言っていた場所だ。恭平は事故のあった場所であることを意識するあまり、減速しすぎたようだ。あっという間にミラーの中で後続の車が大きくなり、慌ててアクセルを開けた。SRはギクシャクして挙動を乱す。その瞬間、腰に触れている少女の手に力が込められたのを感じた。タンデムであることは常に意識していなければならないのだ、そう思いながらミラーを覗く。丸い鏡面の内端には、変わることなく、スカートに包まれた彼女の足が映っていた。 バイパスを下りて県道と交わる交差点を左折した。バイパスからすでに山がちな風景だったが、この辺りは人家も無く、街とは別世界のツーリングゾーンだ。片側一車線の県道は比較的に見通しもよく、オートバイ乗りが言うところのワインディングロードだった。海へ出るルートなら整備の行き届いた国道もあるが、こちらの県道の方がオートバイには向いている。なにせ平日だろうが日曜だろうが、昼夜を問わずほとんど車通りがない。 恭平はワインディングロードを丁寧にトレースしていく。カーブが近づくとアクセルオフで減速し、車体を傾ける切っ掛けとしてソフトなブレーキを使い、カーブを抜ける立ち上がりでは、徐々にアクセルを開ることで車体を起こしながらゆるやかに加速する。身体に染み付いたオートマティックな動作だった。 オートバイを操り次々に現れるカーブを一心にクリアしていると"無"が訪れることがある。それはいつも突然のことだ。望もうと望むまいとやってくる"無"を恭平は嫌いではなかった。"無"によって時の流れを止めてしまった恭平は、次第に心が内向きになっていくのを自覚する。普段の思考では表面に現れることのない、奥のほうにある感情がぼんやりと見えてきた。しかし、形ははっきりしない。恭平は心の奥底を探ろうと精一杯手を伸ばす。やっとで掴み出したのは、漠然とした不安だった。外から来るものなのか、内から来るものなのかは分からないが、少なくとも今走っている状況に感じている不安ではなかった。見つけてしまった途端に不安はどんどん大きくなり、あっという間に恐怖と言っていいほどに成長した。自分は楽天家なのだと信じていた恭平は、恐怖を見つけたことに困惑する。止まった時間の中で、動揺がオートバイの傾きのように左右に傾いては戻りを繰り返す。 急に道幅が狭くなり、恭平は慌てて"無"を押しやると、少しペースを落とした。山の斜面を蛇行しながら登っていくその道は、色づき始めた楓の間から差し込む光によって、まばらに照らされている。雨の匂いに似た濡れた葉っぱの匂いが鼻につく。鼻腔から侵入したその匂いは、胸の辺りに留まっていた動揺を体外に排出してくれた。 恭平はほとんど直線の部分がないその道を、右に左にひらりひらりとリズミカルに駆け抜けていく。リアシートの少女は、積まれた荷物のようにじっとしていた。タンデムライディングに慣れているのだろうかと思う。上手くオートバイと一体化してくれていたので、単独のライディングより寧ろ走り易いのではないかとさえ恭平は感じていた。ただ、彼女が楽しんでいるのか恐がっているのかを背中から感じ取ることは出来なかった。タンデムで走るというのは、どこかでお互い信頼していないと到底出来ることではない。少女が自分のことを信頼してくれているのだと恭平は理解したからこそ、ここまで走ってきたのだ。信頼してくれたことに応えられているだろうか。事故現場で挙動を乱したことを思い起こしながら、恭平は自問していた。 峠を越え下り道になってしばらく走ったその時だった。今まで両側を林に覆われ、草木しかなかった視界が突然開けた。見えたのは、静かに青い海だ。オートバイでの海との出会いは、慣れるということを知らない。いつもその瞬間に感じるのは、得も言われぬ開放感だ。恭平は、それが走り続ける理由かもしれない、という考えが浮かんだが、それ以外の理由が見つからないまま、ゆるやかになった海へと続く道をSRでなぞって行った。 堤防に沿った狭い道を低速で走ってきた恭平は、道が少し膨らんだところを見つけるとSRを停めた。少女は言葉を発することなくタンデムシートから降りると、堤防の方へ歩いていった。それを見届けた恭平はエンジンを切る。単気筒のアイドリング音が止むと、静かだった海が、テトラポットに波が当たって砕ける音を、意外と大きく響かせていたことに気付いた。 恭平もオートバイから降り、少女と並んで立つ。 少女は海を見つめたまま動かない。他者の存在など気付いてもいないような振る舞いに、恭平は自分のすべきことを見つけられないでいた。波音は聞こえても彼女の息遣いは聞こえてはこない。何者も寄せ付けない雰囲気だった。恭平は声を掛けることを躊躇い、繰り返す波の音に身を任せるしかなかった。 違う時間が流れているのだと恭平は思った。時の流れはみな同じではないのだ。それぞれの自分の中にある時間を生きている。それは心のありようでも違えば、その時々でも常に変化する。他人には犯すことの出来ない領域だ。ほんの数時間前に出会ったばかりの二人が、互いに踏み込むべきではないことは恭平にもよく分かっていた。しかし、その禁を解いたのは恭平のほうだった。 「あのさ、バイク乗ったの、初めて?」 少女は話し掛けられたことが意外だったような目を向けた。 「初めてです」 「あ、そう。乗り慣れたカンジしたんだけど。慣れてない奴ってカーブで傾いた時に恐くて体が反対に逃げたりしてさ、バランス取りにくかったりすんだけど、そんなことないしさ。堂々としてるっつうか、肝が据わってるっつうか」 「それ、褒めてるんですか?」 「ん、まあな」 「それはどうも。ありがとう」 「なんだよお前、お姫様みたいな口の利き方だな」 恭平は少女の頬にうっすらとできた笑窪をつい凝視してしまう。 「今日、あのお店初めて行ったんです。コーヒー飲んだのも初めて。ついでに言うと男の人とこうして二人で居るのも初めてなんです」 「珍しい高校生だな」 頭に浮かんだことをそのまま口にした。それが美徳ではないことは恭平も知っている。本当に驚いたのだ。 「お前、名前は? まだ訊いてなかったな」 「ケイ。手紙の拝啓の啓。あまり好きじゃないんです。だって男か女か判らないんですもの」 「そうか」 「父が男の子を欲しかったらしいんです。でも結局私だけ……」 「まあ、それは親にも色々都合とかあるしさ」 ケイの瞳から意思が遠ざかり、淵に沈んでいくのを見た。海を見たいとせがんだときの目だった。 「でも何で突然バイク乗せてなんて言い出したんだ?」 「似てたんです。父の背中に」 「乗るんだ、親父さん」 「ええ。でも、もう父がオートバイに乗ることはありません。……この間、亡くなったんです」 「お前いいのかよ? こんなとこふらふらしてて」 「大丈夫です。周りの人たちは大変そうですけど。それに……もう一生泣けなくなりました」 「そんなもんかよ」 水平線近くに浮かんだ細長くたなびく雲の端々が、薄く金色に縁取りされていた。太陽の位置はいつの間に雲の向こう側へ移動していたのだろう。そう思いながら眺める雲は、静止しているように見えても、僅かながら水平方向に移動していた。 再び訪れた沈黙が、どこか遠くから船のエンジン音を運んできた。また二人の時間の流れにズレが生じていくのだと思ったとき、ケイが言葉を発した。 「わたし、怖かったんです。まだ何にも始まってないのに」 「バイクが?」 「後に乗って、風を受けて、実は今すごいスピードで移動してて。でもそれは全然怖くはなくて。身体ひとつで木漏れ日のトンネルを抜けるなんて、信じられないくらいに素敵で。それでわたし思ったんです。始めてしまえば怖くない。本当に怖いのは、始めることとか終わることではなくて、始まらないことなんじゃないかって」 「始まらないこと……」 舞台だって同じかもしれない。もし始まらなかったら? それまで一生懸命稽古を重ねて、時間も想いもすべてをつぎ込んで、たくさんの仲間と皆で準備して、それで幕が開かなかったら? 演じることで得られるはずだった経験も充実感も快感も喝采も、開演できなければすべてが無きものになってしまう。それほどの恐怖はない。 思いを巡らす恭平は、口を閉ざしたまま広がる海を眺め続けた。寄せては返す規則的な波の音を聞いていると、知らず知らずに呼吸が波と同調し、鼓動さえも地球のリズムと一体になっていく。生命活動が同調し、さらに顕在意識もリズムが合ってくると、考えていたはずなのに、徐々に思考は平坦化し、いつの間にか思考を手放している。解き放たれた心はどこまでも自由だ。空間も時間も越えていく。 沖へ向かう大型貨物船が汽笛を鳴らした。 我に返った恭平はケイのほうを向く。 「そろそろ、行くか」 「はい」 丸みを帯びた小さな声だった。 * 帰宅ラッシュが始まるにはまだ早いにも関わらず、駅前通りは混雑していた。恭平はロータリーに低速で進入し、駐車車両の隙間にSRの鼻先を突っ込んで停車した。ケイはスカートが捲れないように手で押さえながら、器用にタンデムシートから降りた。傍らに立ってヘルメットを脱ぐと、両手で持って突き出した。その姿を正面から見ると、やはり少女か大人かどちらなのだろう、と恭平は改めて思う。 「ちゃんと家帰れよ。電車乗るまで見てるからな」 ヘルメットを受け取りながら言った。 「大丈夫です。もうここからだったら駅三つですもの」 「この後お前が悪い奴にとっつかまったりしたら俺が疑われちまうんだからな」 「そんな時はちゃんと証言します。いいおじさんでしたって」 「だから、おじさんじゃねぇって。……そう言や、お前電車代は?」 「ご心配なく。電車のカードだったら持ってます」 「嘘つきやがったな」 返事代わりの笑窪は何度目だろうか、と恭平は思う。 「貸しにしといてやるよ」 「まあ。大人気ない」 気の利いた台詞を探したが、うまく言葉が見つからなかった。 「早く行けよ」 駅舎に向かって歩き出したケイを見送る。 「もし何かあったら、俺いつもクッチョロにいるからな」 「ありがとう」 一度振り返ってそう言ったケイは、人ごみの中を小走りに駅舎まで行くと、改札へとつながる階段を駆け上がり、やがて見えなくなった。 * 「大変だったよ公演」 恭平がいつものカウンター席に腰を下ろすと、隣で新聞を読んでいたヤスが手を挙げて挨拶した。テーブル席には数名の客があったが、健の姿は見えない。 「あれ、健は?」 「あいつ、今日カットのコンテストだって。朝、それだけ言ってもう帰ったよ」 「そうか」 「それより、何がどう大変だったんだよ」 「それがさぁ、聞いてくれよ。俺、舞台の上で頭真っ白になっちまったんだよ。初めてだよ、そんなの。経験してわかったんだけどさ、多分ほんのちょっとの時間なんだろうけど、もの凄く長く感じるのな、あれって」 「そこに沙希さんが助け舟。あれがなかったら恭平の初主演、どうなってたかしら」 楽しそうな優子の声が頭上から降ってきた。テーブル席の客にサンドイッチを運んでいたはずの彼女が、聞きつけてやってきたのだ。恭平は傍らに立つ優子を見上げた。 「優ちゃん、そんな傷口に塩を擦り込むようなこと言うなって。これでも俺、結構へこんでんだからな」 「でも、素敵だったなぁ。沙希さん」 トレイを胸に抱えたまま遠くを見ている優子は心ここに在らずだ。 「俺は? かっこ良かった、だろ?」 「恭平は、ねえ。今回のでだいぶファン減ったかも」 「そりゃねえだろ」 「また始まったよ」 恭平がヤスのぼやきに目を向けると、直ぐに読みかけの新聞に戻っていた。 「俺のかっこ良さが解らねえなんて、女じゃねよ」 「いいの。あたしには沙希さんがいるから」 「お前らどういう関係だよ」 「うん。また観に来てくださいねって」 「おいっ、これ見ろよ恭平」 ヤスが驚いた様子で会話を遮り、恭平のわき腹を肘でつついてきた。 「何だよ?」 新聞を覗き込む。 『上場のアパレルメーカー新女社長就任』 と見出しが躍っていた。 ― 記事 ― イタリアンブランド・アレッシオで知られるアパレルメーカー・ツカモトインターナショナルでは、先月社長夫妻がオートバイ事故で亡くなって以来、後任の社長を発表していなかったが、このたび、前社長のひとり娘で十八歳の現役女子高生である塚本啓氏が社長に就任したと発表した。なお、新社長就任に伴ない、新規事業として若年女性向けイタリアンカジュアルブランド・クッチョロを展開することも併せて発表された。 「店の名前と同じじゃん」 「そこじゃないよ、これこれ」 ヤスの指先は写真を差していた。小さく四角に切り取られた新社長の顔写真だ。 「あっ、あの娘じゃんよ」 セーラー服でこそなかったが、うっすらと笑窪を湛えたあの少女の顔だった。 「お前、逆玉のりそこねたか」 写真を凝視していた恭平は、ヤスの声が届いても何と言ったのか分からなかった。恭平の時間が巻き戻されていく。海を見ていたケイ。タンデムランでのケイ。店のクッチョロを名残惜しそうに見つめていたケイ。そしてケイの言葉。シャッフルされた記憶の断片が、無作為に脳内時空に浮かんでいる。停止した時間を再び動かすことさえできない。 「あーあ。俺が送って行きゃよかったよ」 視界の端でヤスが天井を仰いでいた。 * 低く垂れ込めた灰色の雲が空を埋めつくし、海と空の境目を曖昧にしていた。空の色を映した海は色彩を失い、そのせいでいっそう静かに思えた。磨りガラスの様に凪いだ海の表面は均一化され、僅かに湾曲した地球の表面を覆っている。 何の前触れもなく、分厚い雲に出来た小さな裂け目から一筋の光が降りてきた。光の筋は少しずつ少しずつ確実に大きくなっていき、次第に束となり海面に明るい円を広げていく。天使が還って往くために天から降りてきた梯子が、灰色の濃淡でしかなかった世界に輝かしく浮かび上がる。 恭平は腰掛けていた堤防から降りると、傍らに停めてあったSRに歩み寄った。脚を大きく回して跨ると、バックミラーに掛けてあったヘルメットを被る。イグニションキーを回し、ハンドルに取り付けられたデコンプレバーを握ると、キックスタータを足で軽く上下しエンジンの上死点にピストンを合わせた。そこから一気にキックスタータを体重を掛けて踏み抜いた。単気筒エンジンの息吹が還り往く天使にさよならを告げた。 (了) |
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