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特攻0号と呼ばれた男。第11期海軍飛行予備学生出身、久納好孚(こうふ)。
 
何故0号なのか。
 
神風(しんぷう)特別攻撃隊での出撃「未帰還」が、日付では彼が一番最初であったのにもかかわらず、海軍の正式な発表では、敷島隊の関行男大尉が1号ということになっています。
(カミカゼはアメリカからの逆輸入の言葉です。正式にはシンプウと呼びました。さらにゼロセンもアメリカ生まれのようです。当時はレイシキなどと呼んだそうですね…。なんだかすごく皮肉。)
 
また久納中尉が突入した翌々日、もう一人佐藤馨上飛曹も帰りませんでした。
同じくレイテ湾に突入したといわれています。
 
この矛盾は何なのか。
これは兵学校出の士官にまずは第1回目を!という、エリートびいきな海軍の思惑とも言われたり、電報が遅れたからなど、何だかよくわからない理由まででています。
とはいえ、これは亡くなった彼らには全く関係のないことです。
誰が1号になるかなど、知ったことではないのです。
命を散らしたのは、その1号を決めるお年寄り達ではなかったのですから。
 

今回は大野芳さんの著書をベースに、森史朗さんや神立尚紀さん、碇義朗さんの著書を織り交ぜてご紹介いたします。
大変長いですので、ご注意ください…。(簡潔にまとめきれず…)
 
 
久納好孚(くのう こうふ)
大正10115日、朝鮮に生まれました。育ったのは愛知県です。
(当時は、朝鮮生まれは普通だったのでしょうか。菅野大尉も朝鮮生まれの宮城育ちですよね…。)
 
両親、兄三人、姉一人の五人兄弟でした。(長男、長女、二男、三男、本人という順番です)
厳しい父で、年が21歳も若い母はもとより、兄弟たちも大変厳しく育てられました。
しかし彼は、父の死後、母しずさんの手で自由にのびのびと成長しました。
正義感が人一倍強い子でしたが、すぐ上の兄、英孚(えいふ)さんの影響で、音楽を非常に愛し、将来はラッパ手になるという「平和主義者」でした。よくレコードでベートーベンなんかを聞いていたそうです。
 
中学では、日焼けした顔に、眼だけギョロギョロとしていた為、「メダマ中隊長」と後輩たちから陰で呼ばれていました。中隊長とは、軍事訓練での立場のことです。
当時は中学校でも既にこういった訓練が当たり前でした。彼はいばるようなことはなく、後輩をかばうようなタイプだったそうです(#^.^#)
 

その後、二浪して法政大学へ入学(但し、最初は別の学校を受験した)、直後に海軍予備航空団を受験し、無事採用となりました。
当時は、大学、専門学校生などを在学中にあらかじめ教育し、軍人に育てるという機関がありました。(これでいいのかな??ww)20名弱が入団となり、この面々が後の予学第11期生となったのです。
この頃は、こぞって上級学校へ進む学生が増えていました。徴兵延期の兵役逃れのためとも言われていたそうです。
ただ、彼は意外にも時代の流れに無頓着でした。
 
戦争の影はまだ無く、大学の同窓達との青春の1コマがあります。
友人曰く、「磊落、朗らか、明るく指導力に優れ、体力充実の好青年であり、酒も豪快に飲んだ」といいます。
グライダー部で「二級滑走士」の資格を取り、水泳部では、褌を外して泳ぎ「ストリップはこうだ!」と披露したりと、短いながらも青春を謳歌しました。
 

海軍より予備学生の募集が全国の大学、高等専門学校へ掲示され、彼も受験し合格。
晴れて、第11期海軍飛行予備学生なったのでした。
 


昭和17930日、第11期予備学生たちは土浦航空隊の門をくぐりました。
同年12月末には、基礎教程が終わり、翌18年明けより霞ヶ浦で通称赤とんぼ(九三式中間練習機)を使っての中練飛行訓練が始まりました。
練習機の数が少なかったようで、同期生らの練習は常に奪い合いという状態でした。
しかし彼はすばしっこい男で常に飛行機に乗っていたそうです。
その甲斐あってか、単独飛行も早い段階で許され、実力をぐんぐん伸ばしていきました。
 
同年7月末で中練教程も修了という頃、事件が起きました。
二人の同期生が墜落事故を起こし殉職したのです。初めての仲間の死に直面した彼は、この先のことをどう考えたのでしょうか。
 
この後、中練教程修了と同時に、各々の機種に分かれ、実用機教程へと進んでいきました。
彼は、戦闘機38名中24名配属の徳島航空隊でした。飛行訓練には九六式艦戦が用いられ、離着陸訓練から射撃訓練へと学んでいきました。
 
この射撃訓練が大変だったようです。全然当たらないという…。
あまりに皆が当たらないので、教官から「もっと前に突っ込んで撃て!」と指示され、バンバン踏み込んで撃つようにしました。すると中には、教官機に当ててしまう隊員もいて、地上で怒鳴られたりもしたそうです。
そして彼らは、十機ほどあった戦闘機の全てを破壊したのです…。
 
昭和188月末、予備少尉に任官しました。
 

徳島時代、ある写真館のご家族と懇意になりました。その家族によると、彼はハンサムだったがはにかみ屋であったといいます。
 
練習機が九六式から零戦に変わった秋、予備学生はなまじ社会(娑婆)を知っているだけに、生粋の軍人たちからは苦手意識や、嫌悪をまざまざと表されたそうです。
何か騒げば「あのおっちょこちょい共…」と舌打ちされ、何かすれば「あの予備めが…!」と舌打ちされ…。
さすがにこれは嫌になりますね…。
そんな中、教員たちを集団リンチするという事件も起こったそうです。
…この頃から集団リンチはあったのね…
これはちょっとあれなので割愛☆()←この文字は今回初ですが、相当割愛していることは言わずにおきましょう。
 

話は変わりまして、同徳島時代、写真館での出来事です。
 
彼は口数の少ない方でした。
そんな彼が突然「おばさん、ショパンのノクターン弾いて」とお願いしてきました。長い間弾いたこともありませんでしたが、弾けるところまでという約束で引き受けました。
弾き始めたものの、ブランクがありすぎたのか途中で弾けなくなり、これはダメだーと後ろにいる彼の方を振り返りました…。
すると、彼はじっとうつむいたまま、顔をあげませんでした。
女性は、胸に刃物でも突きつけられたかのように「ハッ」としたそうです。
軍人として訓練を受けながらも、まだ彼も若い青年でした。押し寄せる時代の波に、逆らえぬ何かを感じていたのかもしれません。
 

徳島の花街でのことです。
私はきっとハンサムでスマートな彼ならば、さぞかしMMK(もててもてて困る)だったのだろうなぁ…と想像しましたww
 
しかし彼は女には奥手だったのです。(すいません、笑うところではないのですがどうも笑いが出てしまいます、ここ…www)
当時の芸妓衆から、思い出せる士官の名を挙げてもらいましたが、彼の名前は全く出なかったそうです。(芸妓全員が同じ人を挙げてたりもしたのかなぁ…www)
 
一度、大学時代の遊び人が、乗り気じゃない彼を無理矢理女郎屋へ連れ込みました。(ちょっとー!!!何してくれんだ、ごるぁー!!!()
後で彼は、「決まりの悪そうな顔」をしていたそうです…。それからはもう誘うのを止めたという()(うんうん。それがいい()
大野氏は、これを最初から知っていれば、わざわざ花街をうろうろ徘徊することもなかったのに(怒?ww)と語っています。(絶対こーゆー目的のあるおじさん?だと思われたねきっとwww)
 

ただそんな彼も、女性から夢中になられたことはしばしばありました。少なくとも三人いたといいます。(多いのか少ないのか、微妙な数だなぁ…)
 
電車の中で彼に一目惚れしラブレターを送った美人、横浜の写真館の娘、料理屋の娘。
しかし花街同様、彼は関心を示さなかったそうです。
 
・・・・・・うん?・・・・うーーーーん???これは…どう考えたらいいのだろう…。
関心がないのは、お目がねに叶う女性がいなかっただけですよね??(汗)
・・・・・もしや・・・一抹の不安が・・・・・・(苦)
いやいやいや!!!!!考えません!!!()
他の同期が芸者遊びに騒いでも、浮いた噂のない「真面目」な男という事だったのでしょう!そう書いてあるしね!!!()
 
 

そしていよいよ、24名の予備少尉達は、それぞれの任地へと散って行きました。
 
昭和1812月初旬、第二六五空、通称「狼部隊」(笠ノ原基地)へ着任。大分の方で訓練を受けていた同期の吉福少尉が既に着任していました。
この部隊の飛行隊長は鈴木宇三郎大尉(兵68)で(鴛淵大尉、大野竹好中尉らと同期)、温厚で豪胆な人物だったといいます。
教育方針は、「殴って教えるという事はせず、飛行機を壊したりしたら、とにかく全員で『正座」をして反省した」そうです。(笑)
 

昭和191月中旬、突然、狼部隊に台湾の新竹基地への進出命令が下りました。
この頃、無敵を誇った「ラバウル航空隊」は壊滅していました。
ラバウルから、マリアナ、パラオ、ペリリューと戦火が拡大し、各部隊の闘いは苛烈を極め、隊員の戦死も目覚ましいものでした。
ペリリューにいた同期生2名が3月末の敵襲により戦死。同期で初めての戦死でした。
 

さらに狼部隊は、4月にマリアナへ進出することに。
しかし零戦の数が足りず、まずは新竹から香取基地(千葉県)に集結し、飛行機の受領を待つことになったのです。
彼は、飛行機の数が揃った第一陣として、隊長らと共に出発しました。
そしてサイパン到着後、四六時中サイパン上空から、テニアン、ロタ方面の警戒をしながら、空戦の訓練に明け暮れたのでした。
 
610日、第二陣が到着しました。
この日ビアク作戦の為、ほとんどの搭乗員が不在で、サイパンにはアミーバ赤痢を患った搭乗員と他数名の隊員だけが残留していました。
同期の吉福少尉もこの作戦に参加予定でしたが、赤痢で作戦に参加できずに休んでいました。
 
翌日からっぽの基地を敵が襲ったのです。
床に臥せっていた吉福少尉、隊員達が必死の様相で飛び立ちましたが、およそ5600機の大群に対し、零戦わずか12機……。
生還したのは三角見一飛曹ただ一人。
 
サイパン、テニアン、グアム、ロタの基地のほとんどが破壊されたのでした。
 
三角見氏は二人を「『オイ吉福ッ』『オイ久納ッ』と互いに呼び合う仲の良いライバルだった」と言います。彼らが当時蔑まれた予備士官であっても、「精神的、技術的にも練度が高かった」とも。
 
この戦いからしばらくして、サイパンは玉砕したのです。
消耗しきった狼部隊は、虎、豹部隊と共に解隊し、第二〇一空に吸収されました。
 
71日、彼は中尉に昇進していました。
 

 
二〇一空の編成の為、フィリピンのダバオへ進出し、その後セブ島へいた頃の、ちょっと恥ずかしい?エピソードがあります。
小高氏によると、南方にきた搭乗員は、こぞって「インキン」になったそうです…。羽毛のツナギを着ていた為、非常に蒸れて大変だったといいます。
彼ももれなくムレムレに・・・・()
小高氏は、一番これが効くんだと言い、ガソリンをぶっかけてウチワで思いっきり扇いだそう。
彼はというと、「イテっ」と()
果たしてこれですぐに完治したのでしょうか…
 
 
新生二〇一空はというと、まともな飛行機が全く無く、何ともお粗末な状態であったといいます。
彼は隊長に連れられ、飛行機の受領で内地に帰ることに。
 
その頃、隊内には「二十五番(250キロ爆弾)を抱いてぶつかっていくほか手はないな」という空気が漂い始めていたそうです。
 
 
昭和198月下旬、各飛行機による反跳爆撃法が採用され、訓練も始まっていました。
ただこの方法は、実践ではとても厳しい攻撃法のようで、万に一つの方法でも試すしかない…というところまで追いつめられていたのです。
 
さらにダバオ(誤報)事件も起きました。
簡単に言いますと、見張り員だかの誤った報告を、誰ひとり目視で確認もせず、「米軍が大量に攻めてきた!」、「ものすごい数の艦隊が!」など、そういった憶測での報告(誤報)が続き、重要書類を燃やし、通信機器は壊し…という、しっちゃかめっちゃかの状態になってしまったのです。
この誤報に伴い敵を叩く為、戦闘機隊がある一か所に集められ、そこを逆に敵から叩かれてしまうという大惨事が起きました。
この一連の事件に関連し、歴戦の搭乗員数十名が戦死し、飛行機も大量に損失しました。
いよいよもって、特攻の影が忍び寄ってきていました。
 

9月下旬のある夕方、このまま消耗の繰り返しではラチがあかない!と、追撃命令が下り、隊長より全員に翌朝敵を追跡し攻撃を仕掛けると伝えられました。
 
翌午前4時半、搭乗員が集合。60キロ爆弾を2個取り付けた零戦15機。
これが二〇一空第301飛行隊で戦闘できる可能な零戦のすべてでした。
鈴木隊長が1班、久納中尉が2班と分かれ、それぞれに違う角度から索敵攻撃をかけることになりました。
彼は第二小隊第一区隊長で、矢野川、ハ十川、街道の各一飛曹を引き連れて出撃でした。
 
この作戦は、敵の裏をかくものであり、グラマンが高高度の上空を哨戒している隙に、降下爆撃をするのが狙いでした。
降下爆撃など訓練もしたことがない隊員たちの、苦しい思いが感じられます。
何とかこの状況を打破したいという痛烈な思いで始まったのが、この挺身攻撃隊です。
 

 
敵を発見。
 
鈴木隊長が猛烈と降下爆撃に入り、第一小隊の列機もそれぞれ続いていった。
 
第二小隊長の彼も、先陣にたって敵の輪形陣を突破し、列機の3機もそれに続いていく。
零戦から投下された爆弾が敵空母の甲板で炸裂し、黒煙があがった。
 
4機は成功を確認し、すぐ様反転し銃撃に移っていく。
 
猛烈な対空砲火が空を埋め尽くし、弾丸が雨のように彼らを襲う。
 
弾幕が彼の列機を捉えた。
 
3機はあっという間に火を噴き、空母へとなだれ込み、そして火柱があがった。
 


この瞬間の彼を思いました。
きっと列機の名前を呼び、叫んだでしょう。
彼は笠ノ原以来、苦楽を共に戦い生き抜いてきた仲間を、部下を一度にすべて失ったのです。
 
 

帰投後、久々の朗報に基地は大いに湧きました。
 

ただ一人を除いて…
 
彼は重く深く沈み込んでいました。
列機をすべて失うと、小隊長は自分の作戦が悪かったのだと悔やみ責任を感じるのだそうです。
 

彼が物言わぬ寡黙な男になったのは、この攻撃以降のことでした。




その2へ続く

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