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小名木善行さんのブログより。
米軍戦史は、「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」と書いています。 そのアッツの戦い悼んだ園芸店主がいて、ロードヒポキシスに「アッツ桜」と名前をつけました。 すると誰も宣伝などしていないのに、いつの間にか日本中のみんながその花を「アッツ桜」と呼ぶようになりました。 それはいまも続いています。 5月29日は、アッツ島守備隊が玉砕(昭和18年(1943))した日です。 写真にある花は「アッツ桜」です。 ちょうど今頃の季節に咲く花です。 この花の本当の名前はロードヒポキシスといいます。 原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原です。 北の外れのベーリング海峡に浮かぶ島の花ではありません。 日本人だけが「アッツ桜」と呼んでいます。 なぜこの花が日本で「アッツ桜」と呼ばれているのか。 時は70年ほどさかのぼります。 昭和18(1943)年5月のことです。 カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々がアリューシャン列島です。 列島は、北米に近い方から順に、ラット諸島、ニア諸島と呼ばれています。 そのニア諸島のいちばん西のはずれにある小さな島が、アッツ島です。 昭和18年5月29日、アッツ島に進出していた日本軍2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いの末、全員散華されました。 その報に接したとき、ある園芸店の店主が、アッツ島守備隊の方々の死を悼んで、店頭にあったロードヒポキシスに、「アッツ桜」と名前を付けました。 アッツ桜は、桜科の植物ではありません。 ユリ科です。 球根植物です。 ひとつの球根から伸びた茎の先に、一輪の美しい花を咲かせます。 けれどきっとアッツ桜と命名した園芸店主は、国を想い北の果てで散って行かれた島の守備隊の面々に、この花を捧げたかったのだろうと思います。 たった一軒の、小さな花屋さんの小さな名付けが、宣伝など何もしなくても、あっという間に全国に広がりました。 いまもこの花は、花屋さんの店頭で「アッツ桜」として売られています。 日教組やマスコミが、いくら自虐史観を刷り込んでも、日本人の心には、人の痛みを知る心がちゃんと残っているのです。 * アッツ島の戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いです。 アッツ島は米国アラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にある島です。 日本は、この島に昭和17(1942)年9月18日に進出しています。 駐屯隊の人数は、2,650名です。 全部が軍人ではありません。ほとんどが土木作業員でした。 理由は、ここに領土防衛のための飛行場を建設するためでした。 米国にしてみれば、西の外れの島嶼であり、人も住まず、米国沿岸警備隊の巡回以外には誰も上陸さえしないところであるとはいえ、米国領土の一部が日本によって占領されたわけです。 ですから米国は、まさに大軍を用いて、この島の奪還を計っています。 領土というのは、それほどまでに大切なものなのです。 我が国は竹島や北方領土を勝手に専有されて抵抗さえしませんが、それは本来の国家のあるべき姿ではないのだということを、私たちは学ぶ必要があります。 アッツ島の北側面 そのような次第から米国は、昭和18年には、大艦隊を率いて、アッツ島にやってきました。 そのときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)大佐(没後二階級特進で中将、以後中将と呼びます)でした。 山崎中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった昭和18(1943)年4月18日、アッツ島に赴任となったのです。 山崎中将は、山梨県都留市の出身です。 代々僧侶の家でした。 子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校は25期生です。 陸軍任官後は、シベリアに出兵し、昭和3年の斉南事件にも出動しています。 ※斉南事件 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2249.html 潜水艦でアッツに到着した山崎大佐は守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じ敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。 中将は、もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊・大部隊でくるだろうと予測していたからです。 敵は大部隊、こちらは、わずかな兵力です。 けれど、その米軍を一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にないと、情勢を読んだのです。 はたして守備隊の前に、5月5日米軍があらわれました。 予想通りの大艦隊です。 米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました 上陸部隊の人数だけでも、1万1000人という大部隊です。 守る日本軍は、わずか2,650名。 このうち純粋な戦闘員は、半数もいません。 アッツ島のあたりは、たいへん深い霧が発生するところです。 米軍は、洋上で天候回復を待ち、5月12日に島への上陸作戦を開始しました。 やり方は、その後の島での戦いと同じです。 小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ってから、大部隊を上陸させるのです。 山崎大佐率いる守備隊は、地中に掘った穴に隠れて、その艦砲射撃と空襲をやり過ごしました。 巨大な爆弾が落ちる度に、穴の中は地面が振動し、天井が崩れ落ちました。 けれど、じっと我慢しました。 いよいよ海岸線に敵が上陸してきても、何もしないで、じっと我慢しました。 そして敵がいよいよ島の奥深くまで侵入して来たとき、山崎中将以下の兵達は、一斉に火砲の火ぶたを切りました。 そして激しい戦いの末、米軍の第17連隊を壊滅し、さらに一個大隊で押し寄せた米軍と真っ向から対峙して、これを海岸線まで退けました。 しかし、衆寡敵せず。 約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。 この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。 辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。 そのわずか18日間の短い日記です。 5月29日の最後の日記を引用します。 「夜20時、地区隊本部前に集合あり。 野戰病院も参加す。 最後の突撃を行ふこととなり、 入院患者全員は自決せしめらる。 僅かに33年の生命にして、 私はまさに死せんとす。 但し何等の遺憾なし。 天皇陛下萬歳。 聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。 18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。 私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。 どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。 美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、 すくすくと育ってくれ。 睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。 政様 お大事に。 こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん。 さようなら。」 辰口氏は、軍医です。 おそらくは山崎中将と、最後までご一緒されたのでしょう。 文中にあるように、29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させています。 集まった兵は、この時点でわずか150名です。 山崎中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりをねぎらいました。 次に、通信兵に 「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」 との電文を本部に打電するよう命じました。 中将は、 「いざ!」 と声をかけました。 そして左手に日の丸を持ち、右手で軍刀を抜き放ちました。 これもまた古式にのっとったものです。 古い昔から、我が国では左が上位です。 山崎中将は、攻撃部隊の先頭に立ち、生き残った全員を引き連れて、先頭に立って山の斜面を駆け上って行きました。 動ける者は、残る全員、あとに続きました。 死ぬ、とわかってもなお、最後の特攻攻撃を行ったのです。 突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。 米軍は大混乱に陥りました。 日本軍は、次々と米軍陣地を突破しました。 米兵の死体がそこらじゅうに転がりました。 それでも日本軍の進撃は止まりません。 そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。 あと一歩で、上陸部隊の本陣を抜くところまで行きました。 しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。 味方の兵が、バタバタと倒れました。 そして山崎中将以下、全員が玉砕されたのです。 戦いが終わった後、累々と横たわる日本の突撃隊の遺体の先頭には、山崎中将のご遺体がありました。 これは米軍が確認した事実です。 これは不思議なことです。 山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。 先頭は、いちばん弾を受けます。 おそらく途中で何発も体に銃弾を受けたことでしょう。 その度に、倒れられたかもしれません。 それでも中将は、満々たる闘志だけで、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がって、そしてついに味方の兵が全員玉砕したときにも、山崎中将は突撃隊の先頭に這い出て、こときれたのです。 享年51歳でした。 山崎大佐以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史において、次のように書かれています。 「突撃の壮烈さに唖然とし、 戦慄して為す術が無かった。」 そしてさらに米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えています。 このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。 「アッツ島部隊は非常によく戦いました。 アメリカの戦史に 『突撃の壮烈さに唖然とし、 戦慄して為す術が無かった』 と記されたほどです。 それでもやはり多勢に無勢で、 5月29日の夜中に、 山崎部隊長から参謀総長あてに、 次のような電報が届きました。 『こういうふうに戦闘をやりましたが、 衆寡敵せず、 明日払暁を期して、 全軍総攻撃をいたします。 アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを お詫びします。 武官将兵の遺族に対しては、 特別のご配慮をお願いします』 その悲痛な電報は、 『この電報発電と共に、 一切の無電機を破壊をいたします』と、結ばれていました。 当時アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、 全軍総攻撃ののちに 敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、 アッツ島の部隊は玉砕したわけです。 この種の電報の配布第一号は天皇です。 第二号が参謀総長、 第三号が陸軍大臣となっていまして、 宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。 そして翌日九時に、 参謀総長・杉山元帥がこのことを 拝謁して秦上しようということになりまして、 私は夜通しで上秦文の起案をし、 御下問奉答資料もつくって、 参謀総長のお供をして、 参内いたしました。 私どもスタッフは、 陛下のお部屋には入らず、 近くの別の部屋に待機するわけです。 それで杉山元帥は、 アッツ島に関する奏上を終わらせて、 私が待機している部屋をご存じですから、 『瀬島、終わったから帰ろう』と、こうおっしゃる。 参謀総長と一緒に車に乗るときは、 参謀総長は右側の奥に、 私は左側の手前に乗ることになっていました。 この車は運転手とのあいだは、 厚いガラスで仕切られていました。 この車に参謀総長と一緒に乗り、 坂下門を出たあたりで、 手帳と鉛筆を取り出して、 『今日の御下問のお言葉は、 どういうお言葉がありましたか。 どうお答えになりましたか。』 ということを聞いて、 それをメモして、 役所へ帰ってから記録として 整理するということになっていました。 車の中で何度もお声をかけたのですが、 元帥はこちらのほうを向いてくれません。 車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。 右のほう、 つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。 それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、 『閣下、本日の奏上はいかがでありましたか』と、重ねてお伺いしました。 そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、 『瀬島、役所に帰ったら、 すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て』 と、いきなりそう言われた。 それを聞いて、 アッツ島守備隊は無線機を壊して突撃してしまった ということが、すぐ頭に浮かんで、 『閣下、電報を打ちましても、 残念ながらもう通じません』と、お答えした。 そうしたら元帥は、 『たしかに、その通りだ』と、うなずかれ、 『しかし陛下は自分に対し アッツ島部隊は最後までよく戦った。 そういう電報を、杉山、打て』 とおっしゃった。 だから瀬島、電報を打て」と、言われた。 その瞬間、ほんとに涙があふれて……。 母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。 陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、 そう思ったら、もう涙が出てね、 手帳どころじゃなかったですよ。 それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、 『本日参内して奏上いたしたところ、 天皇陛下におかせられては、 アッツ島部隊は 最後までよく戦ったとのご沙汰があった。 右謹んで伝達する』 という電報を起案して、 それを暗号に組んでも、 もう暗号書は焼いてないんですが、 船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、 電波を送りました。」 なぜそこまでして、私たちの父祖は戦ったのでしょう。 敵の大艦隊、味方の4倍以上もの大部隊、圧倒的な火力を持つ敵に対して、最初から勝ち目がないことは、誰の目にもあきらかだったことでしょう。 それでもなお、白旗をあげることなく、最後まで戦いました。 どうしてでしょう。 このことについて、西洋史にもその答えの一部を見ることができます。 近世までのヨーロッパでは、各国ごとに国王がいました。 国王は国境の利権のために、隣国と戦争をしました。 兵は傭兵です。 傭兵は体が資本ですから、死んでしまっては稼ぐことができません。 ですから、少しだけ戦って、負けそうになったら、すぐに白旗を掲げるし、その場から逃げ出しました。 指揮官は貴族です。 その貴族は、跡取り息子が近衛兵として国王の側近に仕えていました。 前線でその貴族が裏切れば、息子が処刑されるという関係にありました。 ですから戦いは形ばかりで、負けそうなら最初から戦わないし、いきなり攻められて負けそうになったらすぐに降参して、次の機会を待つというのが一般的でした。 ところがナポレオンが登場して、国民国家という概念が生まれ、兵たちは自ら志願して、国のためにどこまでも、いつまでも戦うようになりました。 戦えばすぐに逃げる兵と、どこまでもいつまでも戦い抜く兵の戦いです。 ナポレオンの軍はヨーロッパ最強となり、戦争の様態を大きく変化させました。 そしてこれ以降、君主国であっても法のもとに国民と利益を共有するという立憲君主制が生まれ、あるいは国民国家としての民主主義国が誕生するようになりました。 なぜなら民主国家の兵の方が、君主国の傭兵よりもはるかに強かったからです。 ナポレオンというのは、18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて生きた人です。 つまり西洋における国民国家という概念は、18世紀以降になってようやく生まれた概念であるわけです。 ところが日本では、7世紀には公民(おほみたから)という概念がありました。 国家最高の存在であられる天皇は国家最高の権威であって、政治権力の行使をしません。 政治権力を行使するのは、太政官であったり、関白であったり、将軍であったり内閣総理大臣であったりと、名称や職権は時代とともに変化していますが、役職者が政治権力を担いました。 その役職者に、認証を与えるのが、天皇の役割です。 政治権力を与えられた政治権力者(役職者)が統治する対照は、国家最高の権威である天皇の「たから」たちです。 こうした社会体制の仕組みを「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。 日本は天皇のシラス国なのです。 このことについて拙著『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』のAmazonレビューで、温泉大好きさんが極めて明快なコメントを書いてくださいました。 以下引用します。 「多くの日本人は、 『天皇との紐帯を 日々実感しながら 生きることが出来るという、 日本人だけに許された特権は、 日本人以外の全ての人間にはなく、 彼らは悉(ことごと)く、 そのような実感を享受できない 気の毒な状態に置かれている。』 という当たり前の事実を理解できない。 この実感を享受できないことが、 どれほど不憫なことであるかは、 数多くの事例が示してくれている。 彼らにとっては、 わずかな身内以外は、 たとえ同じ国籍の人間であっても 得体の知れない他人であり、 彼らの犠牲の上に 自分だけがいい思いをすることに 何の痛痒も覚えない。 だから、ヨーロッパでもアメリカでも、 大企業の経営者は、 日本人が首を傾げるような法外な報酬を手にして踏ん反り返り、 恬(てん)として恥じない。 中国でも共産党幹部が、 これまた法外な資金を海外に貯め込んでいることは、 周知の事実である。 また総務省が毎年刊行している『犯罪白書』によると、 ヨーロッパの主要国の犯罪発生率は、 日本のおおむね5〜6倍である (アメリカは約3倍だが、 これは単に、把握されていない 犯罪が多いからに過ぎない)。 これこそが、 二言目には「神」の名を口にする人たちの実態である。 如何に宗教を信仰しようと、 おおみたからの実感が得られないと、 人心はここまで荒廃するのである。」 日本人は、誰もが天皇を尊敬しています。 けれどそれは、特定宗教団体が◯◯会長を個人崇拝しているというのとは、まるで違います。 天皇という存在によって、わたしたちひとりひとりが私有民や私有物とならない自由を与えられている。 そのことへのありがたさと感謝が日本人にとってあたりまえの感覚です。 だからこそ、一兵卒に至るまで、たとえ我が身を銃弾で失っても、なお、戦い、守るべき大切なものを護ろうとしたのです。 同時に山崎中将は、そういうたいせつな大御宝である兵達の命を、自分の命令ひとつで失わせてしまうという責任の重さの自覚があるからこそ、這ってでも突撃隊の先頭に出られて絶命されたのです。 果たして現代日本人にできるでしょうか。 体の半分を吹き飛ばされても、それでも前に出て戦うことが。 かつて日本人は、そういう意味で一体となった国でした。 そしてその民の心を、陛下ご自身もよくご理解してくださっていました。 だからこそ陛下は、誰もいなくなったアッツに向けて、電文を飛ばすようにお命じになられたし、それを聞いてみんなが涙をこぼしたのです。 日本は、そういう国です。 兵が死んだのが、奴隷が死んだのと同じと思う国なら、こういうことは起こりません。 そしてアッツで立派に戦い散って行かれた仲間たちがいて、その仲間たちの死を悼んだ園芸店主がいて、その花に「アッツ桜」と名前をつけたら、誰も宣伝などしていないのに、いつの間にか日本中のみんながその花を「アッツ桜」と呼んでいるのです。 それは、いまも続いています。 私は、アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。 そして同時に、この赤い小さな花に、彼らへの追悼と感謝の心をこめて「アッツ桜」と命名し、その名を今に伝えている日本人という民族を、とても誇りに思います。 アッツ島に散っていかれた英霊に感謝を。 お読みいただき、ありがとうございました。 何度この話を読んでも、胸がぎゅーっとなります…(。´Д⊂) |
☆日本の戦争について☆
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こんばんは(*^^*)
タイトルの、ねずさんのブログ。 先の対戦について、さらに当時の日本国について、とても勉強になります。 お時間ある方はぜひご覧いただければと思います。 ちなみに、新聞、テレビのみをみている方には理解しづらいことです。 何故なら、日本のメディアはほとんどが偏向報道だからです。 ほとんどの問題は朝○新聞のでっち上げで作られていることです。 毎○新聞、テレビ朝○とT○Sもです。 七十年以上前、戦争を煽った新聞社がありました。 国民を異常なほど熱狂させました。 国をバッシングし、さも戦争こそが大日本帝国の生きる道であると。 国民はそんな荒々しく甘美な新聞記事に熱狂し、世論は動きました。 その元凶は朝○新聞です。 そして国民は日米海戦に大喝采。 しかし数年のうちに敗戦。 その後どうなったか? 朝○新聞は、だから戦争なんて反対だといったんだ!国は責任を取れ! と、同じ人間の口からでた言葉であろうか?というほど、真逆の報道を繰り返しました。 お分かりでしょう。 この新聞社こそ、戦争を起こした先駆者という立場でありながら、責任のすべてを、当時戦争に渋り回避のため動き回っていた軍部、国に、すべてを押し付けたのです。(一部には開戦を望む軍人もあったのは確かです) 戦後はGHQによる亡国作戦に乗り、うまく立ち回ったつもりでしょうが、私は絶対に許さない。 国のため、家族のため、立ち上がった日本男子、女子の心を弄ぶかのように、自分達だけの生き残り、金稼ぎのために今も変わらずのうのうと平気な顔で嘘の報道をする奴等を。 日本死ねということは大々的に報道するのに、朝○新聞死ね、には、ここぞとばかり批判する。 日本国民ではないですよ。 そんなにこの国が嫌いなら出ていってほしい。 一気に吐き出しましたが、ねずさんのブログを是非ともお読みください。 他の記事も沢山あります。 3年ほど読んでおりますが、そうだったのかと思うことばかりです。 理屈があわないと思っていたことも、ちゃんと知れば、なるほどそうか、と考えることができます。 まだまだ勉強が足りません。 ↓ここからです。 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3582.html 珍しく声を荒げていますが、気にせずに(笑) 普段から思ってることですので(^^; 沖縄の問題も真実は報道されていません。 暴力反対、自衛隊反対、戦争反対とデモ起こしてるやつらが、止めに入った人間に対し、次々に襲いかかり暴力でねじ伏せている行動が、テレビ、新聞では知ることができません。 だって、報道されないんだもの。 暴力反対って暴力で暴れている奴等が言っていい言葉ですかね?(笑) もはや、テレビ新聞では真実は伝えられないと思ったほうが良いでしょう。 報道を信じるというのならそれでよいです。 ただしこの国は無くなります。 乗っ取られます。 それほどに、もう戦争状態に近いのです。 爆弾が落ちてこないだけです。 人間は学び考え成長する力を持っています。 それを使わずに、どこかの誰かの知識を、自分が学んだかのように満足しているのはとても滑稽です。 子供たちには口を酸っぱくして、勉強しなさい!というのに。 自らが勉強をせずに誰かに与えられたものだけ鵜呑みにして、生きるなんて私はごめんです。 色々な角度から、自分に沿わないことから、物事を見極めることは人間にはできるのです。 ひとつのことだけでなく、色々なものを探ってみること、そこのどれが本当のことなのか、自分の信じれるものなのか、いくつになってもこのことだけは常に思っていたいですね。 勉強頑張ります。 微々たるちからでも、先の大戦で、命を懸けて国を故郷を家族を守ろうとした日本男子の守ったこの国を、絶対に守ると強い心でいようと思います。 ありがとうございました。 |
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こんばんは〜(*´∀`)
今日も暑かった! 朝は肌寒いかな?と思いましたが、午後からはどんどん暑くなりました。 今はすっかり涼しいです。 さてさて。 考えるところ…というのはですね、夕方のニュースで、空襲を体験された方の講演会という内容を拝見し、色々と捉え方で違うなぁと感じたからです。 当時小学生であられた体験者の方は、恐ろしい空襲の状況、逃げ惑う人々、燃える人や町を目の当たりにされました。 一生忘れられないでしょう。 幼い頃の出来事だからではなく、一方的に生きたまま焼かれ殺される恐怖です。 忘れるということ自体が無理な話と思います。 私は常に戦い守る側の日本人から大東亜戦争を見つめています。 もちろんそこにはその大切な家族を亡くされた方々のことも。 しかし、御家族を亡くされた方々の中には、直接一方的に殺されるような体験をなさった方々もいらっしゃるわけです。 ここにも、あの戦争についての思いがありますね。 兎に角、生きていた立場により考え方、捉え方が全く違うものだと、非常に感じます。 今回講演会をなさった方がおっしゃったこと。 日本が何故間違った道を歩んだのか、考えていってほしいということ。 ここにも、非常に考え方、捉え方の違いが物凄くあると思います。 確かに戦争は起きてはいけないことです。 その是非は老若男女、大人でも子供でもわかることです。 ただ、何故いけないのか、という意味については、年齢や性別により変わると思います。 さらに軍人であるか、一般の市民であるかでも。 軍人であっても前線に赴きその目で戦いを見てきたか、内地に留まっていたかでも、だいぶ変わるでしょう。 何が言いたいかというと… 講演会という体験談を聞く貴重な時間は必要です。 ですが、それからその歴史を知るのは自分自身の感覚でなければいけないということです。 戦争は誤ったことであると言えますが、では何故誤った道に行ったのか、行かずに済む道はなかったのか。(戦争の理由) 体験者から全て決めつけられた結果としての戦争の是非ではなく(ただ日本が悪いとか、理由をきちんとのべられない内容も含め)、例え小学生という幼い立場の子供達であったとしても、幼いなりの頭で考えさせる余地を残す方が、反戦の意味も深まるのではと思います。 体験者から聞く話は、当たり前に恐怖と憎しみが残ります。 戦争に対してはあって当然です。 ですが幼い小学生たちには恐怖や憎しみだけが残り、日本が歩んできた道を知るという余地が残らないことは、ただの昔の怖かった話になりかねません。 (追記します。日本が悪いというのは、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが生きた時代は悪人だらけだったのか?ならば軍人だけが悪かったのか?召集され軍人となった家族も悪人だったのか?国のために志願して軍人となった日本人は悪人だったのか?その子供にあたる自分達の祖父母も悪人となるのか?など、答えきれなくなるようなことは、幼い子供達には理由にも答えにもならないと思います。なぁなぁにするとか、察するとか、大人なら常識としてできる逃げ道は子供には通用しないからです。) このような時間は大切なことですから、小学生だけでなく、その親の世代にも知って考え理解することが必要と思います。 この日の講演会以降は、両親が教えていくことになるのが日常ですから…。 我々の世代も、きちんと子供に説明できる認識を持たねばならないと思った次第です。 子供はバカではありませんので、個人の意見をきちんと持っています。 だからこそ、先輩としてきちんと自分達のルーツを教えること、親子であっても価値観は違うし重なるところもあるということ、何が大切なことなのか、考える時間が重要なことだと感じています。 親と子で、違ったっていい、同じでもいい、自分のことを知り、国を知り良いこと悪いことを理解していく。 そういうことにつながるケアがもっと必要であると、ニュースをみて感じました。 (なっげぇーなw) 日々のことだけでなく、こういう機会ごとに、子供と話していけるようにしたいです(^^; 長々とすみません〜 |
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こんばんは〜(*^_^*)
先日は大量の記事アップで新着記事の迷惑行為を失礼いたしました(笑)
最初から写真のサイズをギリギリまで下げていればあんなに大量に記事を上げることもなかったなーと、最初の手抜きを反省・・・(ToT)/~~~
次回から気を付けます〜許してちょんまげ〜(いつの時代だ)
さてさて・・・
先日指宿海軍航空隊跡地へ赴き、慰霊碑に参拝して参りましたのは、記事を読んでくださった方でしたら少しでもご記憶に残っていらっしゃるのではと思います。
とても良い経験となったのは言うまでもないのですが、まさか16歳の操縦員がいたということを知ったのが今回の旅の大きな出来事でした。
まさか・・・
操縦員でそんな若年の方がいらっしゃるとは、まさに青天の霹靂!
陸軍航空隊で、第72振武隊の荒木幸雄伍長、高橋峯好伍長らが17歳ということで、その低年齢ゆえに殊更、後世で見たものの記憶に鮮明に残るということは理解できます。
それ以上に若い男子が実際にいたということ。
まだまだ私は勉強が足りず未熟ものであると実感いたしました。
それもですが、どれだけご両親が御子息が亡き後、苦しみ悩み続けたか・・・。
高校一年か二年ですよ?
現代にしたら考えられないぐらい子供です。
現役の高校生にしたら大人同然に思っているでしょうが、過ぎ去り、この年になった人間からしたらまだまだ子供です。
本当にご両親がいかばかりであったか・・・
御母様の空っぽになった胸の内を想像してしまいます・・・
決して年齢ではないと断言しますが、育て愛しんできた時間が少ない程、母親にとっては、もぎ取られた傷は消えないように思うのです。
もっと大切にすればよかった、あの時抱きしめてあげたらよかった、潔く死になさいではなくどんなことがあっても生きろと言えばよかった・・・きっと戦争が終わった後、母親たちはこんな思いにも駆られ、見た目以上にずっとずっと苦しんだと思います。
(これも戦死されたご子息を持つ母親であればそうなんでしょうですけど…)
戦後時間がたって、各地で戦友会などが立ち上がり、それぞれに慰霊祭などが執り行われるようになり、ご遺族皆様は、失った時間を埋める様に、御子息、御兄弟のために(御自分のためでもあったのかも)ひすらに足を運ばれました。
まるで御子息や御兄弟に会いに行くかのように。
同期生たちに、自らの御子息のお顔を重ね、さみしくもあり、嬉しくもあり・・・
同期生と思い出を語り、共に涙を流し。
その悲しみを理解してくれるのは、他でもない、共に苦しく辛い前線を駆け抜けた、御子息、御兄弟の同期生たちだったのだと思います。
何か言いたいことがよくわからなくなってきましたが(笑)
お亡くなりになられた方々を知り伝えることももちろん重要ですが、そこには彼らの死を涙が枯れるほどに悲しみ、苦しみ、それでもいつかは前を向いて生きねばならんと、戦後と言われる時代を生き抜いてこられたご遺族様のことも、きちんとそのお心のうちを知り後世に残していかねばならぬと思います。
今回の旅で未熟者の私が知ることになった16歳の海軍航空隊搭乗員の方ですが、野村兵曹から得たものはとても大きいです。
彼の命が、これからも我々現代人を強くしてくれる。
優しさを与えてくれる。
何故優しい彼のような若者が戦いに倒れねばならなかったのか、伝え残していくのも我々現代人。
こうして生きていられることに感謝をし、出来ることを頑張り、お役たてる人生を生きたいと決意を新たにしました。
まだまだ知らないことばかりですが、頑張っていくぞ〜!!
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こんばんは〜(*´ω`*)
昨晩は地元遺族会様との顔合わせがありました。 会長、副会長、事務局長さんらとの、二時間ほどのお話をさせていただきまして、今後の活動についてなどを伺ってきました。 私のような遺族ではないけれど協力するものについては、特別枠を作っていこうということでした。 やはり高齢化人員不足に悩んでおり、少しでも違う風を吹かせたいという、全国どこでも悩んでいる状況と重なりました。 新年度の市の慰霊祭と、県の慰霊祭に参列し、再来年度の県の慰霊祭のため、慰霊だけではなく雰囲気も確認してきます。 春の市遺族会総会にも顔を出せたらなと思っているところです。 難しい壁は沢山ありますね…。 そんな中、20年ほど前に発行された、近隣市町村戦没者の顕彰についての分厚い書籍をお借りすることができました! 地元にも沢山の御英霊がいらっしゃるのだと改めて身近い感じますね…。 そのなかに、まさかの南太平洋海戦で翔鶴に乗られていた、甲飛三期の児玉清三さんが掲載されていてびっくりでした! そういえば県人だった!と思い出したり(笑) 拝見したことのないお写真が載っており、また甲飛三期のアルバムとは違って、少しだけ穏やかな表情で写られています。 少しずつ分かってくることが色々なとこからあって、驚いてばかりです。 |




