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親父の甲子園初出場
野球と真剣に取り組んでいる日本の子供たちの最大の目標であり、夢は何といってもあの甲子園で一度でもいいから、プレーしたいと言う事だろう。
無論、甲子園に出場して優勝すると言う事は究極の到達点ではあるが、甲子園の常連校で実力がズ抜けている強豪校は、優勝を目標にやっているところもあるだろうが、甲子園に出場の切符を手にすることは、何より格別な憧れであり夢だ。
親父が野球をやっていた1930年代の野球少年たちも、甲子園出場は、最大の夢であることには変わりなく、プロ野球が未だなかったことから、大学野球と高校野球(中等野球)の人気は、高かった。
母校は甲子園出場の常連校ではあったが、1戦必勝のトーナメント戦であり、地区予選でもライバル校も複数あるので、甲子園切符を手にする事は、やはり夢であり憧れでもある。
その大舞台に今で言う高1の夏から、1塁手レギュラーとして出場を果たした親父だが、憧れの甲子園では、今までにない独特の緊張状態を経験したようで、新聞のコラムに載るような失敗をしている。
以下、親父の回想文を抜粋。
(初出場の私たち同級生は、入場式から上がり気味で、歩調を揃えるのに大変な苦労をした。…割愛…さすがに甲子園と言う舞台は違った。・・・・初安打を打ちながら、殆ど無意識状態に陥ってしまった。田中さんの2塁打で3塁コーチャーの止まれの大きなジェスチャ−も目に入らず、捕手が外野の返球を受けて待ち構えているホームベースへ滑り込んで憤死。したたかに後頭部を打ち、フラフラしながら、相手方ベンチに歩きかけて審判に注意されて初めて気づいた。・・・・)
とまあ、甲子園の独特の雰囲気に舞い上がってしまって自分でも何をしているのか覚えていない状態になってしまい、結局この暴走が響き1点差負けとなってしまった。
その暴走の珍事を当時の新聞が挿絵にしているので掲載しておきます。
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