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1939年シーズン、親父の出場試合21,22,23
21回目の登板。
14年 タイガース対イーグルス 7回戦 1939年 8月 9日 (水)
123456789
000000002 2 西村幸生
00002010X 3 亀田忠 望月潤一
勝利投手 亀田忠 8勝13敗
敗戦投手 西村幸生 10勝6敗
セーブ 望月潤一 1セーブ
イーグルスが、エース亀田の投打による活躍でタイガースに快勝した。
エース亀田は、この日はコントロールと緩急自在のピッチングが冴えてタイガースの西村と投げ合う
形となり、5回には自ら特大の2ラン本塁打を放った。
9回、連打と四球等で、3−2まで追い上げられたが、2死1−3塁から、望月が救援し最後の打者を
打ち取り、イーグルスが逃げ切った。
実況中継のルールにより、望月にセーブ1がついた。
22回目の登板
14年 イーグルス対ライオンズ 7回戦 8月10日(木)西宮
123456789
000000000 0 イーグルス 望月潤一
05010100X 7 ライオンズ 福士勇
勝利投手 福士勇 9勝8敗
敗戦投手 望月潤一 4勝13敗
ライオンズ福士、イーグルス望月が先発。
ともに完投したが、ライオンズ福士は、1回と9回を除いてはイーグルス打線を無安打に抑える2安打3四球2三振に抑え完封。
一方、イーグルスの望月は、ライオンズ打線を6安打6四球3三振の自責点は1だが、課題の無用な四球と大きなモーションを盗まれて6盗塁と走りまくられ、失点7を献上した。
大きく振りかぶる親父の豪快で美しいモーションが、大きな欠点として相手チームの攻めどころとなっているのは、息子としてさびしい限りだが、この欠点を修正していかないと今後の戦いが、ますます、苦しくなってきそうだ。
また、親父にとってもイーグルスにとっても、名捕手ハリスの存在がいかに貴重だったかがよくわかる。
23回目の登板
14年 イーグルス対南海 7回戦 8月13日 (日) 横浜
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計
0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 イーグルス 望月潤一
1 0 0 0 0 0 0 0 0 1X 2 南海 劉瀬章 天川清三郎 政野岩夫
勝利投手 政野岩夫 10勝9敗
敗戦投手 望月潤一 4勝14敗
南海を相手に望月は、久々の好投を見せるが、延長になり惜敗。
7安打4四球2三振2失点2(1自責)と粘り強く完投したが、延長に入り、連打されサヨナラ負けを喫した。
連敗中の望月の事に関して{実況中継}が、以下解説をしてくれている。
『望月潤一は9回3分の0を完投して7安打4四球2三振2失点、自責点は1であった。望月は勝星には恵まれていないが原因はチーム状態が悪過ぎることにある。イーグルスは夏季シリーズに入って4勝19敗となり断トツの最下位となっている。竹中半平著「背番号への愛着」によると望月は「入営を前に控えた最後の1年は実にうまい投球を示した。スピードはないが、いいコントロールとスローカーブ。・・・私は彼を1点投手に入れたことがあったのだ・・・」とのこと。1点投手とは何点取られるかを予想するもので、スタルヒンが0〜1点、野口二郎が1点投手とのことなのでかなり高い評価をしていたことになる。同著には「戦後に彼の名をロビンスのメンバーに見つけたが・・・」ともある。昭和21年のパシフィック(後の松竹ロビンス)のメンバーに背番号20・望月潤一の名が出てくる資料も存在する。プロ野球50年史(ベースボール・マガジン社)では昭和21年のパシフィックの背番号20は「芝田良三」となっており望月は載っていない。望月を背番号20とする資料では「芝田良三の背番号は不明」となっている。望月の公式記録には昭和21年の実績は残されていない。在籍はしていたが登板が無かったのか、当時は戦後の混乱がまだ終わっておらず登録だけされていた可能性もある。昭和21年のパシフィックにはイーグルスのチームメイト高須清や望月と交流があったスタルヒンも在籍しているので同じチームに誘われていてもおかしくはないのですが。』
チーム状態が非常に悪い時期であり、これによく耐えて踏ん張っていかねばならない。
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