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(当時の野球部チーム。親父は後列中央)
今も昔もプロ野球に進むような選手は、高校時代から活躍し、特に狭き門である甲子園に出場し、注目される選手が大半を占める。私の親父も東京の野球名門校で、今で言う高一から3年間、計4回の甲子園出場を果たしている。母校の野球部史によると以下。
1934年夏 ファースト 8番 3−4で1回戦敗退
1935年夏 〃 5番 7−1で2回戦勝利
5−0で準々決勝勝利
3−4で準決勝敗退
1936年春 〃 4番 5−7で1回戦敗退
1936年夏 ピッチャー 5番 1−2で1回戦敗退
実力伯仲の甲子園で、接戦のゲームが多く、2年の夏準決勝まで進んだ他は、僅差で1回戦負けが3度となっている。親父の話としては、2年の準決勝の時、自分を含むクリーンアップが相手投手の好投で後1本が打てず、延長でさよなら負けを喫して全国制覇の夢がきえてしまった悔しさ。 最終学年の自分がピッチャーを勤めた夏に、前年に負けた同じチームに又も9回裏2死から、痛恨の一打を浴びさよなら負けを喫した時の話は、子供の頃、甲子園野球のTV観戦中に、時折語ってくれた。
親父の甲子園最後の1球は、9回2死を取りホッとして次打者に投げる途中、ランナーが走ったのが見え中途半端な握りのまま、外すはずの一球が魅入られるようにど真ん中に吸い込まれていった痛恨の失投だった。親父の脳裏にはその光景がスローモーションで青春の思い出としてくっきりと焼きついているようだ。
最後の1球はともかく、野球人としては、甲子園4回出場というこれ以上ないような球児時代を過ごした事は、息子の私も非常に羨ましく思っている。
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