|
・母の80年(1/5)
(安らかだった母の最期)
一昨年の3月、丁度桜が咲く前に母は80歳で亡くなった。
4年前、子宮ガン検診で異常が見つかり、手術を受け退院して半年ほど元気に暮らしたがその後体調が徐々に悪くなり、1年余り入退院を繰り返した後、逝ってしまった。
残念で悲しくもあったが、ただ、最後の半年は、子供達が懸命になって少しでも安らかにとの願いを込めて探し当てた末期治療とケアの行き届いた病院で、痛みや苦しみを殆ど感じる事無く直前まで子供達と話をし、翌日の明け方、安らかに眠るように息を引き取った。
子供達家族は皆、経済的に窮地の時も自らがその行動力と負けん気でそれを乗り越え、深い愛情を持って育ててくれた母に対し、この期間、それぞれ精一杯、感謝を込めて接することが出来たので、悲しさの中にも爽やかさが残った。
あれから、2年近くが経ち、最近私の思い出す母の姿が、闘病中のそれではなく、元気で溌剌としていた頃の母のイメージに変わってきた事に気づいた。
今なら、落ち着いて母の事を思い出すことができると思ったので、何かのタイミングかなと勝手に理解し、思い出話の記憶を辿りながら、母の80年を綴ってみた。
(お嬢さん時代。)
母は、大正15年生まれ。
本人は、「昭和元年と同じだから、昭和生まれにしておいて。」とよく言っていたので、子供達も母の年齢を聞かれて「昭和生まれ」もしくは「昭和元年」と答えていたと思う。
田舎だがちょっとした観光地になっていた港町で土産物商を営む両親の長女として生まれた母は、親の商売が順調だったこともあり、女中さん付きで裕福に育てられたようだ。
その当時、地域で1校しかなかった女学校に進学し、そこで毎年級長を務めたというから頭もそれなりによかったのだろう。
女学校を卒業後、東京の築地にあった女子専門学校の家政課に進学。
昭和18年だから、戦時中でまともに学業できるかどうか、きっと前途多難とは分かっていたと思うが、根が活発な母のことだから、それでも都会に出てみたかったのだろう。
<続>
|