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・母の80年(4/5)
(父の病、実家での生活)
ところが、この頃から父が胸の病気を患いはじめ、また、会社からも転勤の話があり、紆余曲折の末、会社を辞め、父の病気療養を最優先させるため、母は自分の郷里の実家に父を連れて帰ってきた。
この頃、母の実家は戦前の繁盛で儲けた箪笥預金が戦後の桁違いのインフレにより、その価値が紙切れ同然となったりしたが、実ビジネスの方は、まだ、順調だったこともあり、田舎での父の恐らく時間がかかるであろう療養を快く迎えてくれた。
また、祖父母には男の子供がなかった事もあり、長女が東京から婿を連れて帰って来てくれた事が嬉しかったのだろう父は歓迎され大事にされた。
そのお陰もあって、実家に移り住んだ直後は深刻な状況だった父の健康状態も快方に向かい、また、完治出来る薬も開発されたこともあり、健康を取り戻していった。
その間、母は長女、次女を年を置かず出産し、女専で取った教員免許を生かし、地元の高校に先生として勤め始めた。
母にとっては、私が生まれるまでの5年余りのこの先生をしていた頃が一番落ち着いた時代だったように思う。
やがて、私が生まれたのを切りに先生を止め、育児に専念するようになった。
その頃父は、胸の病気も2年余り本当ゆっくり静養出来た事もあり、完治した様子で、祖父の商売の外回り(営業)を担当し、その傍ら乞われてその地域の高校野球を中心にボランティアで指導等をして元気を取り戻していた。
当時、祖父母の生業の土産物商を父母とも手伝っていたのでそこからの手当てで生計を立てていた。
(苦境の時)
祖父は1代でその土産物商を築いたが、商売人と言うより、土産物製造職人と言った職人気質の人で、何でも大阪の饅頭屋で修行を積んで地元の港の売店で販売し始めて成功し、色々な土産物を考案し製造販売して行きながら、商売が大きくなったと聞く。
戦前の全盛期は100人を超える従業員と今で言うパートのおばさんが働きに来ていたようだ。
祖父は90才で亡くなったのでよく覚えているが非常に人のよい職人気質の典型のような人だった。
その気質が、そろそろ戦後の時代を過ぎ高度成長の時代のビジネススタイルに合わなくなってきていた。
また、この頃になると都会から進出してきた商売上手な同業者に、得意先を次第に侵食されつつあった。
私の幼い頃は、その過渡期にあって子供心にも段々商売がじり貧になってくる様子を肌で微妙に感じ取っていた。
製造業であり、祖父が土産物の商品は殆ど製造しており、地域周辺の小売店に卸していた。
同業者との競争が厳しくなると卸値も下げねばならず、返品も受けていかねばならない。
職人気質だから質を落としてコストダウンはしたくない。
ビジネス競争の典型的な流れだが、当時の祖父はそれを凌いでいける商才はなかった。
また、父母も危険は分かっていたが止めきれなかった。
そして、私が小学3年の頃だと思うが、祖父の土産物商は倒産してしまった。
<続>
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