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3月10日、東京大空襲の日

今日3月10日はあの東京の下町が、一夜にして焼け野原となり、実に10万人もの民間の人々が、犠牲になった東京大空襲の日だ。

66回目の慰霊法要を迎え、各メディアが、それぞれにこの大空襲に遭遇したが運よく生きのびた人々のコメントを掲載しているが、その悲惨さは我々の想像を超えたものだったようだ。

とにかく、冬が終わりかけの乾燥した空気に春先の強い風が重なり、空襲開始から、短時間で見る見る下町の至る所が、炎の海となり人々は逃げ惑いながら、炎と熱と煙に巻き込まれて死んでいった。

避難場所や防空壕も役に立たず、集まった人が折り重なるように焼け焦げて死んでいる情景は正に地獄絵のようだった。

東京大空襲と言うと私的には、母が正にこの時、東京の下町の学校の寮に住んでいてこの大空襲をまともに体験した。

以下、その時の様子を書いた私のブログ記事(2008年2月) があるので再掲載してみます。
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(我が家の戦時中の話)

先般観た映画(母べえ)は、戦争中の東京に住む家族の話ですが、昨年亡くなった私の母も関西の田舎から東京の女専(大学)に進学し、大戦後半の戦時中、学校の寮に住んでいた。

そしてあの東京大空襲にまともに遭遇した。その時の母の話は次のようなものだった。

連戦連勝の戦局を伝える統制報道も流石に虚飾のネタも尽き果て内容が淡白になり、配給も滞りがちで、一般国民の間にも何か深刻な変化が感じられるようになっていた春先。 

学校は休みに入っていたが、その寮には、実家が遠くて寮に居残っていた幾人かの寮生が寝泊りしていた。母は、親友の同級生が満州に実家があり帰れない事にも配慮し寮に居残っていたようだ。
 
夜、就寝してすぐ警報で叩き起こされ、準備をして暗がりに外へ出た頃、既に空襲は始まっていたようで、非常時に確率的に安全と、国によって指定された避難場所を目指して親友と二人で急ぎ走り出した。
 
しかし、すでにあちこちに焼夷弾が落とされ、炎と突風の中、逃げ惑いながらの事であり、目的地には程遠く、機銃掃射のけたたましい音に途中で親友が耳をふさいで放置されていたトラックの下に潜り込んだきり出てこなくなった。

何度も呼び掛けたが怖くて動けない様子で、その内、母も避難場所に行った所でどれだけ安全かと思い、変に落ち着いた気分なり, 「○○ちゃん、どうせ行たって同じような気がするから、ここに居ようか。」と言ってそこに座り込んだ。

程なく親友も這い出して来て一緒に座り込んだ。それ以降、母は運を天に任せたような開き直った気持になり、ずっと焼夷弾と機銃掃射で断続的に光る夜空と周辺の光景を二人で眺めていたと言う。

時折、道行く人に一緒に逃げるように促されたが二人ともそれには答えず、ずっと座り込んだまま。

それから何があったかは母から聞いていないが、二人とも生き延びた。「結局、それがよかったのよ。避難場所に向かった人達は大分やられたのよ。」との事だから、その座り込みが運命を左右したようだ。何が幸いするかわからない。

その空襲で10万人以上が亡くなられたので、恐らく母もその惨状を目の当たりにしているのは間違いないが、母もまた戦争に行った父同様、その光景を子供に語ったことは一度もない。

念のため、その女専の場所と歴史を調べたら、東京の中央区に立地し、1945年に東京大空襲に遭い、学校自体が終戦直後の9月に姉妹校に移転したとある。恐らく、校舎が壊滅的な状態になったのではと思う。

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今、改めて母の回想を読んでみると本当に運がよかったんだなとつくづく思う。

結局、ジタバタしても同じだと開き直って覚悟が出来たことが、自分を助けたのだ。

運命とは判らないものだ。

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