親父と野球

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創生期のプロ野球選手だった親父(望月潤一)の野球人生を振り返る。
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日本最初のオースターゲームは、そのルーツを辿っていくと、昭和11年の巨人、タイガース等最初のプロ球団誕生から4年目に球団数が9チームとなり、チーム総当たり、春秋2シーズン制方式で始まった昭和14年(1939年)に遡ります。

その当時、巷では日本野球の中で一番人気があり、最高峰のレベルと思われていたのは、それまで既に伝統が築かれていた六大学野球だったようです。

その中でもとりわけ人気があったのは、早慶戦。

その年、春の早慶戦が6月3、4日の2日間行なわれた時期に職業野球は連盟幹部の発想でこの両日に、職業野球のオールスター戦である東西対抗戦をぶつけて職業野球の人気が早慶戦に比べても決して劣らない事を世間に知らしめてやろうと意図したようで、東西対抗の新人オールスター戦、オールスター戦の1日2試合を6月3日、4日の2日間、早慶戦対抗するかたちで後楽園球場で開催しました。  

もっとも、この春、秋シーズンの間に行なわれた異例の東西対抗戦はこの1回きりで終わったためか、公式なプロ野球の記録としてカウントされなかったようで、関係者の間では「幻の東西対抗戦」と言われています。

(後楽園での東西対抗戦)
3日(観衆28000人)
 先発投手 新人戦 (東) 中尾輝三 (西) 平野正太郎 13対5東軍勝
  =   選抜戦 (東) スタルヒン(西) 西村幸生  9対2 東軍勝
4日(観衆30000人)
 先発投手 新人戦 (東) 野口二郎 (西) 亀田敏夫 5対4 東軍勝 
  =   選抜戦  (東) 望月潤一 (西) 菊矢吉男 2対3 西軍勝

その思い切った試みの結果、職業野球は、3日28000人、4日は30000人と超満員の観客動員数を集め、職業野球が六大学野球に勝るとも劣らぬ人気があることを証明しその後の運営に自信を深めています。

因みに、このオールスター(幻の東西対抗戦)第2戦の先発投手に、父の望月潤一が選出されており、6回に2ランホームランを打たれて敗戦投手となっていることを追記しておきます。

30000人の大観衆のオールスター戦で、登板した父の心情はどんなものだったでしょうか。

(上記、情報は、「職業野球実況中継」の《幻の東西対抗戦》の記事を参考にしています。)

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(上から順に「戦後スタルヒンと伴に」「ハリスとの涙の再会」「1939年シーズン中に行われた東西対抗戦のメンバー」)

(この記事はブログを始めた初期の頃の2007年12月8日に掲載したものですが、書庫単位で検索した場合、スキップされていますので、改めて掲載しておきます。)

***2007年12月8日掲載分***

仕事について少し書いてみようと始めたら、次々と書きたいことが出てきてしまって、まだまだ、ありそうなので、チョッと休憩して、また、私のヒーロー(英雄—若き日の親父)の話を入れます。私の親父は結局、プロ野球で活躍したのは、イーグルスでの戦前の3年間で後は兵役に招集され、南方(西南アジア)の最前線に行ったまま、終戦後の引き上げまで約6年(23-29歳)のスポーツ選手にとっても、また、人生にとっても、もっとも貴重な時代を戦争と言う最も過酷でやるせないものに捧げてしまったがそれでも最前線から生きて帰ってきたのは、余程体力と気力、強運があったのだろう。
その親父が語ってくれた昔話(勿論、野球)の中に、外人の名前が頻繁に出てきて、話題を膨らませたものだ。                              

その中の外国人名は、決まってハリスとスタルヒンだった。ハリスはプロ野球外国人選手第一号で、父が投手として入団して2年間イーグルスの正捕手として新米投手の父の面倒をよく見てくれた恩人で、英語が得意だった父は取分け親しくさせてもらったようだ。  

もうひとりは、何故かあの300勝の大投手スタルヒン。スタルヒンとはあまり、現役時代の親交は聞かないが、むしろ現役晩年の頃の話が多かった。それは、彼が現役晩年の頃、父が移り住んだ田舎町でプロ野球オープン戦があり、その時にスタルヒンと再会し意気投合。スタルヒンが引退したらその田舎町で住みたいと言い出し、これがかなり本気だったようで父が具体的に何処がいいかを探し始めていたようだ。しかし、その後、しばらくしてスタルヒンは交通事故(確か電車と衝突)で残念にも亡くなってしまった。再会し意気投合したといってもあの大投手と対等に話が出来るような接点があったのかと疑問に思っていたが、今回父の経歴を調べてみて分かってきた。それは、父が、当時(1939年)の東西対抗(今のオールスター)に東軍代表でスタルヒンと共に選出されていたのだ。(新聞画像の切り抜き発見-添付)、その年の東軍メンバーは、スタルヒン、水原、川上、吉原ら蒼蒼たるメンバーの中に混じって写る(後列左から2人目)親父。これを見て晩年の親交も納得した。

ハリスについては、米国との関係が悪化した1939年に帰国したため、関係は途切れていたが1976年にプロ野球OB会が日本シリーズに日本プロ野球の第一号外国人選手であるハリスを米国から招待、その際、現役時代に格別親交のあった父も招待を受け、(涙の再会)を演出。

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                  (高校野球の頃の親父)

(この記事は、このブログを始めた初期の2007年10月30日に投稿した記事です。書庫の「親父と野球」に分類して管理しています。しかし、書庫名で検索した場合、この記事がスキップされてしまいますので、改めて掲載しておきます。)


***2007年10月30日投稿分***

先回は、イチローの凄さを綴ってみたけれど小職の野球好きは生まれる前から始まっているのかもしれまん。と言うのも私の父は元プロ野球選手。しかし、プロ野球ファンなら誰でも知っている人物ではない。かといって完全に無名でもない。現にプロ野球の歴代のシーズン最多ランキングに名を連ねている。1シーズンではあるが、全試合数の半数近い46試合を殆ど先発投手として黙々と投げ、重ねた敗戦投手の権利が27、これにより今でも野球史に名を残している。

父は14年前に他界しており、実質プロ野球の選手だったのは、戦前の創生期の頃の3年間。しかし、子供の頃から聞かされていた父の断片的なプロ野球時代の勇姿は子供心に強烈に残っていて小職の中の英雄は月光仮面でも、隠密剣士でもなく間違いなく子供の頃に描かれた若き父のイメージだった。そのイメージのままの父が亡くなった。                                  

その後、ITの普及によりプロ野球のデータ整備も進み、ウヤムヤだった戦前のプロ野球の戦績も整備された頃、本屋で立ち読みをしながらふと見たプロ野球データブック?の歴代敗戦投手の項に父の名を見つけたときは、嬉しさと恥ずかしさの混濁した何ともいえない気持だった。その後は自分の中の英雄のイメージができるだけ壊れないようにこの種のデータの類は努めて見ないようにしていた。        

しかし、最近父が活躍した東京の野球名門校がS投手の活躍で久々に全国制覇を成し遂げたこともあり、その高校のプロ選手第一号の父の名も折々でるようになった。だが、何処を見ても名前以上の説明はなかった。だんだんと寂しい気持にもなり、思い切って父のプロでの戦績の全容を調べてみる事を思い立った。                                            

その気になれば、IT社会はいとも簡単特に父のように断片的に世間に名を残している無名に近い有名人の情報は集めやすい。あっと言う間に戦績の全容が集まった。

プロ在籍 イーグルス1937−39年 松竹ロビンス,47年
通算成績 11勝32敗 防御率3.02 投球回数397回 
         奪三振166 完投28回(完封4回)
年度成績 1938年秋 3勝4敗 防御率1.99
          *(9試合、67.1回)
     1939年  8勝27敗 防御率3.01 16位
            (46試合)

上記が戦績の主要データだ。確かに通算32、シーズン27の敗戦投手の権利が戦績全容中、大きな比重を占める。しかし、好投手かどうかの一番確かな数値の防御率はどうか。通算の3.02は、歴代の投手ランキングに当てはめると超一流とまでは行かないが、一線級の投手に匹敵する率である。         

特に38年秋(40試合)の防御率 1.99は実質防御率ランク4位の成績である。但し何故かこの年の規定防御率の基準が投球回数ではなく、試合数(40試合の内10試合登板)となっており、9試合に出て5試合を完投し67.1回を投げた父が何故かランキングには載っていない。ランク内で1点台投手はたった3人、実質4位の父の1.99は堂々の実績だが不運にもがランクインしなかった。                

そして程なくあの暗黒の時代がやってきた。父は当時で180cm 80kgの長身大柄で前途洋々の21歳だったが、第2次世界大戦はその時代に兵役適齢期となった大正生まれの若者の前途を無残に奪い去った。中でも父は、頭角を現したばかりの気力、体力ともにまだまだ成長が約束されたプロ野球選手であり、仮に戦争がなかったならと考えるとかなりの確率で最低10年程度は第一線で活躍できただろうと考えると非常に残念でならない。                                     

ともあれ今回 父のプロ野球の戦績を調べてみて私の中に新たな英雄像が作り出されてきた。それは子供の頃抱いたカッコの良い勇姿ではなく、27敗も喫しながら46試合を自分のため、チームのため、見に来てくれているお客さんのために諦めず粘り強くゲームを壊さず投げ続ける真摯な職業野球人の姿。その歯を食いしばり、額に汗して黙々と投げ続ける姿が、27敗と防御率3.01の後ろに見えてきた。そして今はその姿が私にとっての新たな英雄像になりつつある。

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昨日、物置を整理していたところ、かなり古びた簿記用ノートにびっしり野球関係の新聞のスクラップが貼られてある1冊の本を発見。

内容を見ると多分地元紙の昭和11年の学生野球の記事全般をスクラップしたものだった。

持ち主は、大正11年1月1日生 S高1年 M.Kと記されている。

昭和11年と言うと親父が甲子園で投手として出場した最終学年の年であり、ひょっとしたらと思いつつ、ページを捲って行くと期待通り、その時の試合の解説を発見。

<記事の内容>

記事の見出し
「最終回に三塁打 育英商快勝す」
小見出し
「早稲田実業不運の逸機」
スコア
早実   000000100 1
育英商  010000000 2

(本文、原文のまま抜粋)
- - - 東西の梟雄早実と育英はいづれも確然たる勝算は持ち得ない強敵同士にして両チームの勝たねばならない、勝とうとする気分は一たいに漲ってはいるが、勝たんとする気持ちが却って禍して固くなりすぎ思う存分に動いていなかった。

平素、正確なるコントロールと球速を誇る育英商の佐藤は球速全然なくコントロール乱れ早くも苦境に立ったが、野手の好守で辛うじて危機を脱した。

一方、早実は投手望月の鈍重なインドロップに育英打線を、凡打に打ち取り、好投ぶりを示したが、バックの守備がこれに伴わず、1−2塁間に挟んだ走者を捕手の悪投に生かし、2塁悪投三塁ハンブルなど凡失が続いて無安打のうちに1点を呈上してしまった。

この育英1点のリードは、育英選手を硬直状態から解放し佐藤は球威、制球力を回復し両軍まったく立ち直り、育英佐藤、早実望月の息詰まるような投手戦となった。

望月はインドロを武器とし、佐藤はサイドスロー、オーバースローの速球のみを持っていずれも得点の機会を与えず6回暫く両軍波乱を巻き起こす機を含み、第7回には、早実2個の四球と是永の安打に1点を報い、さらに外野手の暴投があって2塁走者小宮は当然本塁を陥れるチャンスは十分であったが病身のため、僅かに3塁に留まったに過ぎず悔やまれる早実の不運の逸機である。

第九回育英酒沢外角より入るカーブをよく見て、出て西谷の左中間三塁打で決勝の1点をあげ早実は、前年の報復たらず敗れた。

両軍の技量は全く伯仲しただ運不運で試合が決せられたものの如く望月、佐藤の投球は申し分なく好投であるが育英打者が三振12を打ち取られたるは、左投手に対しや研究不十分のそしりは免れまい。

・・・・この白熱試合は大いに満足すべきものであろう。

小見出し
「両投手渡り合う」「育英の三振数十二」

(了)

以上のように、育英佐藤、早実望月の両投手の投手戦であったようで、勝敗の分かれ目は、7回の早実の攻撃で、二つの四球で1-2塁の時タイムリー安打で早実が1点を取り、また、外野手の暴投でもう1点が取れるところを、1塁走者が、体調の関係か消極的になり、本塁へ突っ込まず1点止まりになったことをあげている。

最後は、以前投稿した親父の「痛恨の一球」でも書いたように、9回裏ランナー1塁で、望月はランナーが走ったのを見て、外すつもりで投げた球がど真ん中に入り、左中間を抜かれサヨナラ負けとなった。

育英 佐藤  被安打4 四球4 三振 4 失点1 自責1  
早実 望月  被安打3 四球3 三振12 失点2 自責1

晩年になるまで親父が悔しがり、懐かしんでいた試合だが、得意玉のドロップが冴え、育英打線から12三振を奪っていたことをこの記事で初めて知った。

地元紙であり、内容は育英寄りの記事ですが、小見出しで12三振の事に触れているのはちょっと気持ちがいい。

私が想像するにこのスクラップブックは親父の第2の故郷である兵庫県の野球好きの少年が当時の野球記事を幅広く収集保管していたものを、親父と知り合って当時の思い出話をした際、この新聞の記事の話になり、ブックごと親父に譲ってくれたものではないか。

勝手な推測であるが、いずれにしても有難いことだ。

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親父とチームメイト

 
親父が早実時代、イーグルス時代と長きに渡り、切磋琢磨しあい、チームメイトとして苦楽を共にしてきた太田健一選手の身内の読者の方から、貴重な有難いコメントを頂いておりますので、ふたりの球児時代に少しふれてみたいと思います。
 
ふたりは、早実の同級でともに1年の夏から、レギュラーとして甲子園の土を踏んでいます。
 
この年代は1年からレギュラーとなっていた有望選手が多く、甲子園の出場メンバーを見ると、柴田、太田、末村、望月の4名が、4度甲子園出場を果たしています。
 
早実の野球部史に昭和10年度のチームのフォトがありますので、ちょっとデジカメで撮って載せてみます。
 
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見づらくてすみませんが、後ろの右から3番目が親父です。
 
おそらく、このメンバーの中に太田さんが写っていると思うのですが。
 
いずれにしても、プロ野球に入ったほどの恵まれた才能を持っていながら、道半ばで戦争に駆り出されて太田さんは戦死、運良く生き残った親父にしても選手寿命を棒に振った過酷な世代の野球選手でした。
 
 

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