親父と野球

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創生期のプロ野球選手だった親父(望月潤一)の野球人生を振り返る。
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(親父と野球)の最初の項でも触れたが、親父の野球人生を調べるようになって、思い出したことがあった。それはいつも酒が入ってほろ宵気分になったころに何故か出る話で、プロ野球選手になったらそんなチャンスもあるんだと夢を膨らませていたものだった。

それは、親父の言葉でいうと「それで終いにゃ、俺も映画にも出ちゃったりして大変なもんだぜ!」何が大変かわからないままだが、それは、親父の口癖なので流しておきながら私はきっちり「何の映画?」と確認したものだった。親父は「?でこの応援団長」と言っていたように記憶している。また、その映画の主演は高峰と言う姓の大女優になったふたりの「秀子」方だと言う。

その「でこの応援団長」と高峰の「秀子」の方という記憶だけを残して映画に出たということはあまり印象になくすっかり忘れていたが、最近、親父の野球人生のエピソードとして意識した時、ふと、このことに気付いた。そして親父のプロ戦績がそうだったように、今だったら逆に(出演作品)が、探せるかもしれないと思いたった。

早速この2つのキーワードで調べて見たら、あの大女優高峰秀子の16歳の時の作品「秀子の応援団長」とか言う作品が、それに該当する事がわかった。公開も1940年つまり親父が兵役に召集された年の年初に公開されており、ぴったりと照合できる。内容を説明する紹介文も(プロ野球選手が多数写っている野球史にも貴重な作品、スタルヒンも、、、)と書いてあり、一瞬でも親父が写っているのではと思いを馳せている。

しかし、この3日間この映画を見る手立てはないか。邦画のビデオ、DVDを中心に探しているが見つからない。いまやっと東京の某図書館に全集の一部として1巻だけビデオが保管されていること判明。ただし、直接行かないと借りられないとのこと。しかも、その一巻のビデオが現在、貸し出し中で貸し出し期限ぎれだが返却されていないので督促中とのこと。関西在住だが、もしそれが返却されたら、最終的にはそこまで見に行くのも1つの手段だと思っている。

現時点まで調べてみる限りではどうもこの作品は、図書館貸し出し用に邦画全集の一部としてビデオ化されたものがあるのみのようだが、私としては入手困難なほど期待と楽しみが増えたような気分で、近い内に必ず鑑賞してこのブログに感想を書いてみたいと思っている。また、1つ先の楽しみが増えた。

そうした格別な素質に加えて、野球環境に恵まれなければその素質は埋没してしまうが、父は幸運にもその環境にも大いに恵まれていたようだ。

父は、東京の六本木周辺で生まれ育ったが、祖父(父の親父)は、当時、野球の頂点の六大学野球の大ファンで、特に名物のWK戦は、欠かさず息子を連れて応援に行っていたようだ。父は幼児から健康優良児の東京代表に選ばれるほど、体格に恵まれていたことから、祖父は、待ちかねたように父を小学4年でまず甲子園を夢見る野球少年が集まった倶楽部チーム(リトルリーグ)に入れた。そこで早くも格別な素質が開花し始め、その中心選手として活躍、所属チームの東京大会優勝に貢献。

WK戦、甲子園野球の大ファンの祖父は、その両方に最も近道のWJ中学(当時は高学年が今の高校)に父を入学させ野球はリトルリーグから、甲子園出場資格のある中学3年よりWJ中学の硬式野球部に入部させた。通学に1時間以上はかかったようで今で言う越境入学だが、甲子園、WK戦での息子の活躍の夢みる祖父の準備は万全だったようだ。  

前項で触れたが、所謂最年少高一夏の甲子園から8番ファーストでレギュラー出場しているのは、リトルリーグからの実績に裏打ちされ、実力で掴んだものだったことは想像に難くない。部員数も相当数はいたはずだ。それを含めて4回の甲子園出場は単なる幸運だけではなく、小学4年生のころから準備してきた親子の夢実現に向けての努力の賜物だったようだ。 もっとも、WK戦は父のプロ入りで実現しなかったが。      

以上のように父がプロ野球選手に成れたのは、持って生まれた格別な素質に加えて祖父が路線を引いたようにそれを開花させる野球環境に恵まれてやっと見えてくることだと改めて思いを巡らせている。                               

父の話は80年も遠い昔のことだが、私は父の少年時代を調べてみて、改めて、甲子園、プロ野球での活躍を夢見てそれを実現しようとする親子奮闘記の内容は今も遠い昔も殆ど同じストーリー(少年野球、越境入学、甲子園切符、プロ野球)だったことに驚く。  
 
それと共に、今も実現の近道としてやっている事を、既に80年も前に祖父が計画立てて実行していたことに感嘆している。祖父のことを殆どまったく知らないが、それなりの仕事はしてきた人だろうと確信する。

プロ野球選手だった親父の息子として生まれた私は、当然のようにプロ野球選手になることを夢見る野球っ子に育って(育てられようとしたと言うべきか)行った。小学校の定番の質問の「将来の夢、成りたい職業は?」の私の答えは「プロ野球選手!」と間髪入れず答えるのが常で当時は何の疑問も持たなかった。また、サウスポーのだった父の息子がまた、同じサウスポーだったので、父はますます息子に期待をかけていた。

小学校当時は父とよくキャッチボールに出かけ、物心が付くか付かないかの頃から教わったピッチングフォームで投球練習をしたものだった。父のピッチングフォームは当時の指導者連中が絶賛したほど、大きく流れるようなオーバースローの華麗なしかも理に叶ったもので、その父が教え込んだ私のフォームもまた、非常に美しかった。

しかし、そんな親子の夢も中学校野球をし始めてまもなく、意外とあっさりと消えてしまっていた。と言うのは父自身がプロ野球選手にまでなった人でどんな人が仲間にいたか、又その後の少年野球の指導者としての経験の中でどんな子がプロ選手にまで上がっていく素質のある子供かを見分ける目を持っていたからだ。

親子の情とは、無関係なその眼力は、中学野球をやり始めた早々に息子にその素質がないことを見極めていて本人(私)にも通告していた。父は私に「プロ野球の世界と言うのは、格別な素質のある子供が努力して競い合ってなれるかなれないかの世界だ。だから格別な素質があるかどうかで殆ど決まってしまう。残念だがお前にはない。」とそう言いながら具体的に何がないのかを説明してくれたものだ。骨格、体形、走力等々。私は確かに悲しかったが、自分でも母親似の体形で父の素質は引き継いでいないことを実感していたので父の言うことは納得できた。しかし野球は好きなので高校まではやってみようと決めていたが。

親父の素質について書くつもりが、私事で手間取ってしまったが、父自身が格別な素質がないとプロ野球選手にはなれないというくらいだから、自らの格別な素質を自らが実感していたのだろう。

確かに前項までの集合写真を見ても分かるように当時のプロ野球選手の中でも図抜けた体格を持っていた。当時の180cm、80kgというのは、今なら190cm、90kgよりまだ大きいくらいの感覚だろう。それに自分でも説明していたが、身体の柔軟性、体形(なで肩、お尻が大きい。腕のつき方、胴長等)も野球選手には非常に重要な素質だ。
息子の私(178cm、75kg)が大人になって体格を比べて見ても、手の大きさ、分厚さ、お尻の大きさは格別だった。(続く)

イメージ 1

  (当時の野球部チーム。親父は後列中央)
 
 
今も昔もプロ野球に進むような選手は、高校時代から活躍し、特に狭き門である甲子園に出場し、注目される選手が大半を占める。私の親父も東京の野球名門校で、今で言う高一から3年間、計4回の甲子園出場を果たしている。母校の野球部史によると以下。

1934年夏 ファースト 8番 3−4で1回戦敗退
1935年夏  〃    5番 7−1で2回戦勝利 
              5−0で準々決勝勝利
               3−4で準決勝敗退
1936年春  〃    4番 5−7で1回戦敗退
1936年夏 ピッチャー 5番 1−2で1回戦敗退

実力伯仲の甲子園で、接戦のゲームが多く、2年の夏準決勝まで進んだ他は、僅差で1回戦負けが3度となっている。親父の話としては、2年の準決勝の時、自分を含むクリーンアップが相手投手の好投で後1本が打てず、延長でさよなら負けを喫して全国制覇の夢がきえてしまった悔しさ。 最終学年の自分がピッチャーを勤めた夏に、前年に負けた同じチームに又も9回裏2死から、痛恨の一打を浴びさよなら負けを喫した時の話は、子供の頃、甲子園野球のTV観戦中に、時折語ってくれた。

親父の甲子園最後の1球は、9回2死を取りホッとして次打者に投げる途中、ランナーが走ったのが見え中途半端な握りのまま、外すはずの一球が魅入られるようにど真ん中に吸い込まれていった痛恨の失投だった。親父の脳裏にはその光景がスローモーションで青春の思い出としてくっきりと焼きついているようだ。

最後の1球はともかく、野球人としては、甲子園4回出場というこれ以上ないような球児時代を過ごした事は、息子の私も非常に羨ましく思っている。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

(昭和14年東軍選抜メンバー・父とスタルヒン・父とハリス)  


自分の仕事について少し書いて見ようと始めたら、次々と書きたいことが出てきてしまって、まだまだ、ありそうなので、チョッと休憩して、また、私のヒーロー(英雄—若き日の親父)の話を入れます。私の親父は結局、プロ野球で活躍したのは、イーグルスでの戦前の3年間で後は兵役に招集され、南方(西南アジア)の最前線に行ったまま、終戦後の引き上げまで約6年(23-29歳)のスポーツ選手にとっても、また、人生にとっても、もっとも貴重な時代を戦争と言う最も過酷でやるせないものに捧げてしまったがそれでも最前線から生きて帰ってきたのは、余程体力と気力、強運があったのだろう。
その親父が語ってくれた昔話(勿論、野球)の中に、外人の名前が頻繁に出てきて、話題を膨らませたものだ。                              

その中の外国人名は、決まってハリスとスタルヒンだった。ハリスはプロ野球外国人選手第一号で、父が投手として入団して2年間イーグルスの正捕手として新米投手の父の面倒をよく見てくれた恩人で、英語が得意だった父は取分け親しくさせてもらったようだ。  

もうひとりは、何故かあの300勝の大投手スタルヒン。スタルヒンとはあまり、現役時代の親交は聞かないが、むしろ現役晩年の頃の話が多かった。それは、彼が現役晩年の頃、父が移り住んだ田舎町でプロ野球オープン戦があり、その時にスタルヒンと再会し意気投合。スタルヒンが引退したらその田舎町で住みたいと言い出し、これがかなり本気だったようで父が具体的に何処がいいかを探し始めてていたようだ。しかし、その後、しばらくしてスタルヒンは交通事故(確か電車と衝突)で残念にも亡くなってしまった。再会し意気投合したといってもあの大投手と対等に話が出来るような接点があったのかと疑問に思っていたが、今回父の経歴を調べてみて分かってきた。それは、父が、当時(1939年)の東西対抗(今のオールスター)に東軍代表でスタルヒンと共に選出されていたのだ。(新聞画像の切り抜き発見-添付)、その年の東軍メンバーは、スタルヒン、水原、川上、吉原ら蒼蒼たるメンバーの中に混じって写る(後列左から2人目)親父。これを見て晩年の親交も納得した。

ハリスについては、米国との関係が悪化した1939年に帰国したため、関係は途切れていたが1976年にプロ野球OB会が日本シリーズに日本プロ野球の第一号外国人選手であるハリスを米国から招待、その際、現役時代に格別親交のあった父も招待を受け、(涙の再会)を演出。

我が家で保存しているスナップショット(親父とスタルヒン1954年)(ハリスとの再会1976年)を添付してみます。

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