親父と野球

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創生期のプロ野球選手だった親父(望月潤一)の野球人生を振り返る。
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(王選手贈呈の756号記念メダル、868号記念メダル)



・王選手伝説と我が家の家宝

私が子供の頃の記憶が辿れる小学校入学前後の頃には、すでに王選手はプロ野球に入っていた。

ただし、その頃は私の親父が「俺の母校の後輩で選抜の優勝投手が、巨人軍で打者に転向し、頑張っている。」と言う王選手の記憶だった。

それからも暫くは親父が後輩を応援している話の中の王選手で「王の高校時代に、母校の関係者にちょっと投球フォームのチェックを頼まれて臨時コーチを引き受けた事がある。」と言う縁もあり、当時は長嶋一色のプロ野球の中で、親父の母校の後輩として、親父と一緒に王選手を応援し始めた。

その頃の王選手は打者に転向したものの伸び悩んでいた頃で、親父は「素質は抜群だから、いつか活躍しだすよ。」と言ってはいたが、伸び悩み心無いファンが「王、王、三振王。」とよく野次っていたのを、親父がヤキモキ心配しながら、TVを観ていたのを思い出す。

それがあるシーズンの7月頃だったと思うが、突然、独特の新打法に改造した途端、ホームランを量産し始めた。

マスコミがすぐ「一本足打法」と命名したが、この打法で打ち始めてから、正に劇的にホームランを量産し始めたのだ。

親父もいつかは活躍するとは信じていたものの、このある日を境にした突然の活躍を不思議な思いで見ていたようだ。

正に劇的と言うか劇画的な変化は子供の方が受け入れやすく、私はその「一本足打法の王選手」の大ファンになり、その劇画のヒーローを地で行ったような王選手の太く長い活躍とともに少年時代、青春時代を夢心地で過ごした。

特に「一本足打法」になったその年の後半から、55本、1試合4本塁打の記録を作った翌年の1年は、感覚的には毎試合1本打っているような伝説的活躍が、強烈に子供の頃の記憶の中に残っている。

それから私が社会人になるまで15年余り、毎年期待を裏切ることなく、ホームランを量産し続け、日本が生んだ世界のホームラン王となり、ファンの夢は年を追うごとに膨らみ、遂には、ベーブ・ルースの714本、アーロンの755本を超え、孤高の世界記録を打ち立てていった。

こうして王選手は第一号の国民栄誉賞を貰うほどの日本が世界に誇るヒーローとなった。

こうした野球人としての偉業だけでなく、王選手の素晴らしいところは、世界的大スターになっても、常に謙虚で紳士的で気配りの行き届いた人間性にある。

あのイチローも王監督のこの人間性について素晴らしいとインタビューに答えていた。

私の親父も「高校生の頃の王選手は、常に謙虚で、礼儀正しい生徒だった。」とその時の印象を語っていたから、その人間性は子供のころから育まれていたのだろう。

その人間性を物語るエピソードとして親父と王選手の接点の中で次のようなことがあった。

すでにホームラン王を毎年取るのが、当たり前の大スターになっていた頃の王選手と母校の会合で再会することが出来、その流れで選抜優勝当時の監督らと王選手を交えて会食の機会があった。

その時王選手は、ピッチングファームをチェックしただけの縁の親父をよく覚えていて先輩として謙虚に接してくれた。

その後、王選手から直筆の年賀状が来るようになり、親父が改めて感心をしていたのを思い出す。

当時、王選手は大スターとして超多忙の身でありながら、お世話になった人には直筆で年賀状を出していたようで、恐らく桁違いの賀状を多忙な年末の時期に律儀に書いていたのだ。

このような王選手の気配りは、現役選手を引退するまで続いており、ホームラン世界記録756号達成の時と現役引退の868号の時に王選手自らが個人的な恩人や関係者に感謝の意を込めて作り贈呈した2つの記念メダルは、我が家の家宝となっている。

・親父の夏の甲子園、痛恨の1球。

かなり前の記事でも書いたが、私の親父は夏の甲子園に3回出場出来たという球児としては、この上ない幸運に恵まれた人だった。

70年余り前の話であるが、それでも当時はすでに高校野球(当時は中等野球)の人気は沸騰しており、また、プロ野球が出来てなかった分、その人気は絶大なものがあったようだ。

(親父の出場年と戦績)
20回大会 1塁 1回戦9回サヨナラ負け 3対4○○中
21回大会 1塁 準決勝10回サヨナラ負け3対4○○商
22回大会  投 1回戦9回サヨナラ負け 1対2○○商

親父は硬式野球部に入部できる3年生(高校1年生)の時から、恵まれた体格もあってか、ファーストのレギュラー選手となり、2年生ではクリーンアップ、最終学年では故障したエースに代わって予選から投手として投げ抜き、甲子園のマウンドに立った。

文武両道の野球名門校であり、父がいた頃のチームは第?期黄金時代で甲子園の常連校だった。特に1年先輩と親父の学年は有力メンバーが多く、親父と同級3名が2年半レギュラーで親父とともに夏の甲子園に3回連続出場を果たしている。

但し甲子園では勝ち運に恵まれず、上記のように接戦でいずれも最後はサヨナラ負けを喫しているが。

特に、親父が投手だった最終学年で偶然にも前年と同じチームと当たり、最後には同じような負け方をしており、この最後の試合は、悔しい思い出となっているに違いない。

最近、休みにアルバム整理をしていたとき、親父の母校の野球部史を見つけ、昔この母校の野球部から親父に回想文の執筆依頼が来ていたのを思い出した。

早速内容をチェックしたら見つかり、最後の甲子園のことも書いてあった。

以下内容の1部を掲載してみます。

『・・・初戦の相手は前年苦杯を喫している○○商、雪辱しなければ、・・・、初回の第一球のカーブがストライクになり落ち着き、8回終了まで内野安打1本で淡々と投げた。9回裏4番に右前ヒットを打たれ、続く5番にバントをさせずカーブの連投、そして6番と連続三振を取った。2死を取りホッとして、次の打者の一球目、カーブを投げようとモーションを開始した瞬間、ランナーが走ったのが眼に入った。その時、カーブの握りのまま、はずすつもりで投げた。それが、ド真中へ、・・・下位打線で前に守っていたレフトの頭上を越え、これが痛恨の一球となってしまった。呆然としながら、これで最初で最後の甲子園のマウンドが終わったな、終ったんだなと思った。何故か 不思議と涙は出てこなかった。』

意外と淡々と冷静に回想しているようだが、内心はどうだったか?
 
私が子供のころ、夏の甲子園の時期になると、その痛恨の一球の事を折に触れ、何度も同じ話をしてくれたが、やはり、忘れられない悔しい思い出なのだろう。

ともあれ、親父の恵まれた球児時代は、この痛恨の1球とともに終わったのだ。


余談だが、親父が甲子園に出た20回大会では、京都商の沢村が最終学年で甲子園に出場(1回戦敗退)。

あの初代ミスタータイガースの藤村富美男が呉港中で投打に活躍、全国制覇を成し遂げている。

その翌年の21回大会はその藤村が最終学年の呉港中が優勝候補だったが、親父の母校は、準々でこの呉港中を5対0で打ち破った。

親父が甲子園で活躍していたこの時代はまさに創世期のプロ野球選手の甲子園球児時代でもあった。

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(父の所属したイーグルス。父は後列中央。前列右端はハリス)


親父の思い出話の中で映画に出演したことがあると言う戦前の作品(秀子の応援団長)を捜し求めて家族で観光がてら、13日から一泊どまりで東京の某図書館に行って来た。

ビデオを無事借り出すことが出来、宿泊先の池袋のホテルでデッキを借りて待ちかねたようにその昭和15年に公開された映画を食い入るように見た。

結論から言うと親父らしき野球選手は、残念ながらそのビデオには映ってませんでした。見終わって正直がっかりした。

親父はウソは言わないので、撮影はされたはずですが、編集時にカットされたのだと思う。それを親父は公開された年と召集(戦争)された年が重なったため、見る機会もなく出兵し、その後、結局一度も見ることはなかったようだ。

恐らく、推測ではあるがこの映画の主役チームが勝ち進むシーンで対戦相手チームが、巨人、阪神、阪急、セネタ-ズとチーム全体が主力選手2−3人のアップと共に紹介された場面があった。そこで親父の所属したイーグルス(当時のチーム画像添付)も撮影されたが、カットされた。なぜなら、映っている4球団はその映画が、撮影された1939年度のチーム成績上位4チームだ。イーグルスは、その年最下位。それから見ると他にカットされたのが、4チーム程あることになる。

まあ、そんなことはよしとして、気を取り直してそれからこの映画自体を楽しもうと2回ほど繰り返し見た。

確かに何かで年配のプロ野球ファンがコメントしていたように、スタルヒン、中島、水原、吉原(巨人)、若林、松木、御園生(タイガース)らの当時のスター選手がアップで映っており、試合中の後楽園球場もその熱気と共に映っている貴重な映像だ。また、手袋のようなグローブ、アンパン型のキャッチミットが興味深い。

また、題名の通り、高峰秀子が歌う応援歌が非常に楽しく爽やかだ。

確かに当時の若き日の親父は見ることは叶わなかったが、どんな球場でどんな雰囲気でプレーしていたかは、十分理解できたのでこれはこれでよかったと思う。家族も東京見物を楽しんでいたし。

これで、私の英雄像(若き日の親父)に、熱気溢れる当時の球場の背景が加えられ、思わぬ応援歌まで聞こえるようになった。

「打って! 打って! 打って! 勝って!勝って!勝って!、、、ララララン!」

先般、この項目を書いてから、この親父が出たことがあるという映画(秀子の応援団長)を見る手立てはないか色々と探してみた。

しかし、戦前の古い映画であり、数ある大女優高峰秀子の代表作ではないと言う事もあり、一般用のビデオ、DVD等は作成されていない事が分かってきた。

それではと先回チョッと手掛かりを書いたが、図書館用に作成されたビデオが残っているとのことで、それに絞って専門業者や本屋ルートからの入手を試みたが結局、昔の古い作品であり、現在は作成されておらず購入できないとのことだった。

それと平行して唯一そのビデオを保有し、貸し出しも可能と言う東京の某図書館に、貸し出し期限切れのそのビデオが返却されて来たかどうかを問い合わせていた。

その図書館から昨夜電話があり、「返却されてきたので○○さんの名前でリザーブして置きます。何時頃来られますか」との嬉しい知らせがあった。

ラッキー! 最後の手段は生きていた。よし、東京まで借りにいくぞ!(関西在住)

「来週末にまでには行かせて貰います」と返事をして、今、家族で東京まで誰が借りに行って、誰が返却(1週間以内)してくるかを検討中。

東京まで2往復のコストはかかりますが、最盛期の親父が動画で見れるかもしれないと思うと私にとっては、非常に価値ある出費です。

以上のような展開となり、少なくとも後10日以内にはこの映画に本当に親父が写っているのかどうかの顛末は書けると思います。

映画だから全てカットされてる可能性も良くある話でそれはそれで仕方がない. しかし、もし、チラッとでも写っていたらと思うとワクワクしてきます。

先に親父と交友のあった外国人プロ野球選手としてハリスとスタルヒン2名とのエピソードを書いた。親父のプロ野球の思い出話の中の外国人選手の名前はこの2名が殆どだったが、数少ない戦争体験の話の中によく出てきた外国人の名でリベラと言う名が有った。

この人も何か野球に関係した人だったと記憶している。しかし、この人との交友は戦時中の占領地フィリピンでの話で、敵対国同士でありながら、戦地で個人として家族ぐるみの交友があったようで、「危ないから来るなと言ってんのに、子供が食料を運んで来てくれるんだ」と語ってくれた。

最も親父は足掛け7年も戦地にいたにも係わらず、戦争中の話は記憶の外に捨て去ったようにまったくと言っていいほどしなかった人だが、思い出してもいい話は僅かながらしてくれた。このリベラ一家との交流はその一つだった。親父がどれだけフィリピンに駐留したかは知らないが、かなり親しくさせてもらったようでとくに子供達との親交はなつかしそうに話していた。

しかし、どうやって親しくなったかは分からず終いだったが、つい最近、スタルヒンについて調べていてこのリベラと言う名を発見。経歴を何気なく読んでいて,あっと気がついた。

彼は、1939年1月に巨人軍がマニラ遠征したとき、対戦したマニラ税関チームの主将を務め、あのスタルヒンを打ち崩したことが注目され、巨人がスカウト。この年(1939年)のシーズン前半よりゲームに出場。シーズン途中よりクリーンアップの一角の5番に定着。巨人軍初の満塁本塁打を放つなどスラッガーとして活躍。しかし、戦況の悪化でプレーはこの1年だけで、フィリピンに帰国したとある。その後、税関の仕事に戻ったとか、通訳として働いていたとか諸説があるが、戦争末期になって日本人とのかかわりが関係して戦死したようだとその消息を語っていた。

1939年と言うと親父が投手として47試合に出場していた年であり、又本拠地が共に後楽園球場という事、英語が好きで得意だった親父との交友関係はこの年に始まっていたことが、容易に想像される。
 
そのリベラと占領中のフィリピンで再会、家族ぐるみで親交を深めていたことは、確かなようだ。フィリピンの駐留地は、兵役で戦争に借り出されたプロ野球選手が駐留中に交差したようで親父は、戦地で沢村先輩にもお逢いしたと語ったことがある。その他名キャッチャーの吉原等の名前も。そんな環境で彼は親父との交友も1つだが、兵役で駐留中の日本のプロ野球選手の多くと交友関係があったようで、もしそれが、彼の戦死と少しでも関係があるとしたら、当時のプロ野球関係者には気の重い話だ。

その後、リベラの名が登場してくるのは、約30年後の1967年。この年は日本でユニバシアードの東京大会があり、このときに元日本のプロ野球選手だったリベラと言う人の娘二人がバレー選手として出場していると言うニュースがあった。

我々家族も親父と一緒に、フィリピンの試合の放映はいつかを必死に探したことを思い出した。チームの同僚だった川上選手がこのふたりと直接会って死亡の真相を確かめたようで、それによると「日本より帰国後、税関士として働いた後、フィリピン独立義勇軍に身を投じ、日本軍との戦いで戦死した」と話していたと言う。

親父としては、当時リベラ一家との少なからぬ親交は忘れ得ぬ暖かい思い出となっている。

それらを含めた彼の日本人(殆どがプロ野球関係)との係わりが彼の戦死に少しでも影響を与えていたとしたら、非常に気の毒なことだ。

しかし、娘二人が語った真相は、違っていたので、それを知った親父はきっとホッとしたことだろう。

そのことに関してのコメントはまったく記憶にないが、リベラの娘が出場しているバレーの試合をテレビで懐かしそうに見ながら、何故か、涙を浮かべていたように記憶している。

アデラノ リベラ 1939年 東京巨人軍
通算成績 76試合 打率 ,257 本塁打6 打点42 
              
*日本のプロ野球で活躍した唯一のフィリピン選手。

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