母の80年

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母の80年の生涯を思い出す範囲でまとめてみました。
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・母の80年 5/5

・母の80年(5/5)

(苦境を乗り切った母)
管財人が入って清算した後、借金が少なからず残った。

大小に関わらず事業(商売)を経験している家庭は、この浮き沈みは身にしみて理解できると思うが、晩年になって母はよく、「勤め人がいい。商売人は怖い」と口癖のように言っていたが、この時の土壇場状態が頭に刻み込まれているのだろう。

この苦しい時期、恐らく祖父や父母の間では色々な話合いが為されたであろうが、結局、この苦境を乗り切るべく、具体的行動を起こしたのは母だった。

ここからが母の真骨頂と言うべきか、くよくよ考えるよりも行動が先に立つ負けん気の性格と才能が発揮され始めた。

まず一家が食べていかねばならないので飲食店、借金も返さねばならないという状況で、お酒も扱った方がよいというので父の知り合いの銀行員が、リスクを覚悟で融資してくれた資金で今で言うおふくろの味の小料理屋を始めた。

先にも触れたが母の前職は学校の先生であり、職業的なギャップはあったがそんな事を言っている状況ではない。

それから丁度10年間幸運と母の才覚でこの商売は一時繁盛した時期があった。

この間に3人の子供を育て、祖父の抱えてしまった借金を何とか返し、老後の蓄えを少々残し、末っ子の私が就職したその年にこの商売をスパッと止めた。

そして子供達の扶養義務がなくいなったのを境に、自分達が食べていければよしとして、肩の荷を下ろしたようなホッとした様子で勤め先を探し始めた。

その頃の安堵と達成感の入り混じった母の笑顔が今でも忘れられない。


(元気祖母ちゃん)
その後、暫くの間、職を探した後、地元に進出してきた冠婚葬祭会社に勤め始めたのは、母が丁度50才になったときだと思う。

年齢的にも限定された職種しかなかったようでその仕事も営業(平たく言えば勧誘のおばちゃん)だったが、成績が群を抜いており、何でもできたので、重宝がられて内部の1部門の責任者に程なく抜擢された。

途中何度か知り合いの会社に移ったりしたが、その都度乞われて給与交渉をして戻ったりしながら、結局亡くなる半年前の79才までこの会社に現役で約30年務めた。

会社では、子供や孫の年齢の同僚と楽しく働いていたようで毎日張り切って出勤していた。

母の葬儀は、勿論この会社にお任せしたが、葬儀の時はスタッフの人達が親族にも増して涙を流して別れを惜しんでいたのが強く印象に残っている。

通勤は当初からほぼ30年間、毎日ミニバイクに乗って通っていたが、何時も背筋を伸ばして颯爽と走らせていた。

その姿を見ていつからか近所の人は母を密かに「元気祖母ちゃん」と呼んでいた。

冒頭にも言ったように最近は、私が母を思い出すとき、真っ先に浮かぶのが、背筋を伸ばし、ミニバイクを颯爽と走らせているこの母の元気な姿なのだ。

そう言えば、元気過ぎてちょっとスピードを出し過ぎだったような気もするが。

<了>

・母の80年 4/5

・母の80年(4/5)

(父の病、実家での生活)

ところが、この頃から父が胸の病気を患いはじめ、また、会社からも転勤の話があり、紆余曲折の末、会社を辞め、父の病気療養を最優先させるため、母は自分の郷里の実家に父を連れて帰ってきた。

この頃、母の実家は戦前の繁盛で儲けた箪笥預金が戦後の桁違いのインフレにより、その価値が紙切れ同然となったりしたが、実ビジネスの方は、まだ、順調だったこともあり、田舎での父の恐らく時間がかかるであろう療養を快く迎えてくれた。

また、祖父母には男の子供がなかった事もあり、長女が東京から婿を連れて帰って来てくれた事が嬉しかったのだろう父は歓迎され大事にされた。

そのお陰もあって、実家に移り住んだ直後は深刻な状況だった父の健康状態も快方に向かい、また、完治出来る薬も開発されたこともあり、健康を取り戻していった。

その間、母は長女、次女を年を置かず出産し、女専で取った教員免許を生かし、地元の高校に先生として勤め始めた。

母にとっては、私が生まれるまでの5年余りのこの先生をしていた頃が一番落ち着いた時代だったように思う。

やがて、私が生まれたのを切りに先生を止め、育児に専念するようになった。

その頃父は、胸の病気も2年余り本当ゆっくり静養出来た事もあり、完治した様子で、祖父の商売の外回り(営業)を担当し、その傍ら乞われてその地域の高校野球を中心にボランティアで指導等をして元気を取り戻していた。

当時、祖父母の生業の土産物商を父母とも手伝っていたのでそこからの手当てで生計を立てていた。

(苦境の時)

祖父は1代でその土産物商を築いたが、商売人と言うより、土産物製造職人と言った職人気質の人で、何でも大阪の饅頭屋で修行を積んで地元の港の売店で販売し始めて成功し、色々な土産物を考案し製造販売して行きながら、商売が大きくなったと聞く。

戦前の全盛期は100人を超える従業員と今で言うパートのおばさんが働きに来ていたようだ。

祖父は90才で亡くなったのでよく覚えているが非常に人のよい職人気質の典型のような人だった。

その気質が、そろそろ戦後の時代を過ぎ高度成長の時代のビジネススタイルに合わなくなってきていた。

また、この頃になると都会から進出してきた商売上手な同業者に、得意先を次第に侵食されつつあった。

私の幼い頃は、その過渡期にあって子供心にも段々商売がじり貧になってくる様子を肌で微妙に感じ取っていた。

製造業であり、祖父が土産物の商品は殆ど製造しており、地域周辺の小売店に卸していた。

同業者との競争が厳しくなると卸値も下げねばならず、返品も受けていかねばならない。

職人気質だから質を落としてコストダウンはしたくない。

ビジネス競争の典型的な流れだが、当時の祖父はそれを凌いでいける商才はなかった。

また、父母も危険は分かっていたが止めきれなかった。

そして、私が小学3年の頃だと思うが、祖父の土産物商は倒産してしまった。

<続>

・母の80年 3/5

・母の80年 (3/5)

(終戦後、父との出逢い)

繰り上げ卒業した後、東京大空襲で一緒だった親友ともにあの戦後のどさくさの東京に留まりアルバイトのような職を見つけながら、暮らしていたようだ。(終戦前後の話は母から一連の経過として聞きそびれてしまったので推測の話。)

どんなアルバイトをしていたか明確ではないが、女性の参政権に関する集会行事のアナウンサーや選挙のウグイス嬢もしていた事があると断片的に聞いている。

私が言うのも何だが、母は長身美形であり、田舎の女学校ではあるが、級長を通した昔風に言うと才女であり、その自信で東京の都会でも、物怖じせず、積極的に何でもチャレンジしていたようだ。

その中で某大手建築会社の現場事務の仕事を友人と一緒に見つけ、何とか潜り込んだ。

そこで父との出逢いがあった。

その建築会社はノンプロの野球チームを保有しており、父は戦地から終戦により、帰国し、プロ野球に戻ろうとしたが、戦後の復興期で人手も多く必要で生活するのに条件がよかったそのノンプロのチームに入った。

仕事も建築現場のまとめ役として、かなり羽振りよく働いていた。

お互い感じるものがあったようですぐ親しくなった。

まだ、終戦後、間もない時期であり、デートコースと言ったシャレた場所もないので、父は母と母の親友のふたりをよく食事に連れて行った。

あの時代は日本はまだ混沌と貧困と食糧難が続いていたが、それでいて戦争から解放された自由な明るさがあった。

この頃の父が撮ったスナップ写真が結構残っていて、まだまだ、バラック建ての東京の街の風景とともに写っている母や友達、また父は本当に楽しそうな顔をしている。

父も母もその友達も大正生まれ。

戦争でもぎ取られた一番楽しいはずの青春時代をやっと終わった戦争の開放感の中で急いで取り戻しているようだ。

この恋愛時代が1年余り続いたと推測するが、やがて父と結婚し、父の実家と会社の社宅にしばらく暮らしていた。

<続>

・母の80年 2/5

・母の80年(2/5)

(戦時下の東京で)

東京では戦時下ではあったが、1年余りはそれでも授業が続けられていた。

その後、映画「母べえ」に関連した母の話(我が家の戦時中の話−08年2月6日投稿)の中でも触れたが学校の寮で東京大空襲に遭遇し命は助かったが学校は焼失し、学業どころではなくなった。

以下、昨年2月6日投稿したその記事を再掲載する。

(我が家の戦時中の話)

先般観た映画(母べえ)は、戦争中の東京に住む家族の話ですが、昨年亡くなった私の母も関西の田舎から東京の女専(大学)に進学し、大戦後半の戦時中、学校の寮に住んでいた。

そしてあの東京大空襲にまともに遭遇した。その時の母の話は次のようなものだった。

連戦連勝の戦局を伝える統制報道も流石に虚飾のネタも尽き果て内容が淡白になり、配給も滞りがちで、一般国民の間にも何か深刻な変化が感じられるようになっていた春先。 

学校は休みに入っていたが、その寮には、実家が遠くて寮に居残っていた幾人かの寮生が寝泊りしていた。母は、親友の同級生が満州に実家があり帰れない事にも配慮し寮に居残っていたようだ。
 
夜、就寝してすぐ警報で叩き起こされ、準備をして暗がりに外へ出た頃、既に空襲は始まっていたようで、非常時に確率的に安全と、国によって指定された避難場所を目指して親友と二人で急ぎ走り出した。
 
しかし、すでにあちこちに焼夷弾が落とされ、炎と突風の中、逃げ惑いながらの事であり、目的地には程遠く、機銃掃射のけたたましい音に途中で親友が耳をふさいで放置されていたトラックの下に潜り込んだきり出てこなくなった。

何度も呼び掛けたが怖くて動けない様子で、その内、母も避難場所に行った所でどれだけ安全かと思い、変に落ち着いた気分なり, 「○○ちゃん、どうせ行たって同じような気がするから、ここに居ようか。」と言ってそこに座り込んだ。

程なく親友も這い出して来て一緒に座り込んだ。それ以降、母は運を天に任せたような開き直った気持になり、ずっと焼夷弾と機銃掃射で断続的に光る夜空と周辺の光景を二人で眺めていたと言う。

時折、道行く人に一緒に逃げるように促されたが二人ともそれには答えず、ずっと座り込んだまま。

それから何があったかは母から聞いていないが、二人とも生き延びた。「結局、それがよかったのよ。避難場所に向かった人達は大分やられたのよ。」との事だから、その座り込みが運命を左右したようだ。何が幸いするかわからない。

その空襲で10万人以上が亡くなられたので、恐らく母もその惨状を目の当たりにしているのは間違いないが、母もまた戦争に行った父同様、その光景を子供に語ったことは一度もない。

念のため、その女専の場所と歴史を調べたら、東京の中央区に立地し、1945年に東京大空襲に遭い、学校自体が終戦直後の9月に姉妹校に移転したとある。恐らく、校舎が壊滅的な状態になったのではと思う。

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それから終戦後、暫くの間実家に帰っていたが、学校が姉妹校を借りてでも卒業させようとの動きがあり、また上京。

<続>

・母の80年 1/5

・母の80年(1/5)

(安らかだった母の最期)
一昨年の3月、丁度桜が咲く前に母は80歳で亡くなった。

4年前、子宮ガン検診で異常が見つかり、手術を受け退院して半年ほど元気に暮らしたがその後体調が徐々に悪くなり、1年余り入退院を繰り返した後、逝ってしまった。

残念で悲しくもあったが、ただ、最後の半年は、子供達が懸命になって少しでも安らかにとの願いを込めて探し当てた末期治療とケアの行き届いた病院で、痛みや苦しみを殆ど感じる事無く直前まで子供達と話をし、翌日の明け方、安らかに眠るように息を引き取った。

子供達家族は皆、経済的に窮地の時も自らがその行動力と負けん気でそれを乗り越え、深い愛情を持って育ててくれた母に対し、この期間、それぞれ精一杯、感謝を込めて接することが出来たので、悲しさの中にも爽やかさが残った。

あれから、2年近くが経ち、最近私の思い出す母の姿が、闘病中のそれではなく、元気で溌剌としていた頃の母のイメージに変わってきた事に気づいた。

今なら、落ち着いて母の事を思い出すことができると思ったので、何かのタイミングかなと勝手に理解し、思い出話の記憶を辿りながら、母の80年を綴ってみた。


(お嬢さん時代。)

母は、大正15年生まれ。

本人は、「昭和元年と同じだから、昭和生まれにしておいて。」とよく言っていたので、子供達も母の年齢を聞かれて「昭和生まれ」もしくは「昭和元年」と答えていたと思う。

田舎だがちょっとした観光地になっていた港町で土産物商を営む両親の長女として生まれた母は、親の商売が順調だったこともあり、女中さん付きで裕福に育てられたようだ。

その当時、地域で1校しかなかった女学校に進学し、そこで毎年級長を務めたというから頭もそれなりによかったのだろう。

女学校を卒業後、東京の築地にあった女子専門学校の家政課に進学。

昭和18年だから、戦時中でまともに学業できるかどうか、きっと前途多難とは分かっていたと思うが、根が活発な母のことだから、それでも都会に出てみたかったのだろう。

<続>

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