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15 回目
14年イーグルス対南海 5回戦 6月20日(火) 甲子園
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000000200 2望月潤一 亀田忠
01102000x4 宮口美吉 平野正太郎
勝利投手 平野正太郎 2勝1敗
敗戦投手 望月潤一 3勝10敗
イーグルス望月は、使われる頻度が急に多くなった状況の中、やはり、疲労からか此処のところ球威とドロップの切れも落ちており、先発しても前半に失点することが、多くなった。
今回も、1、3、5回と小刻みに4失点を許し、5回途中で降板。後亀田がリリーフ。
失点内容も、2累打3本を打たれるなど、きっちりミートされており、また不要な四球癖も出ている。
実況中継の解説によると当時の読売新聞の記事で、望月は直球のスピードが、落ちていたとコメントしているとの事。
16 回目
14年イーグルス対阪急 6回戦 6月24日(土) 甲子園
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101000100 イーグルス 望月潤一 古川定男
11120034x 阪急 石田光彦
勝利投手 石田光彦 6勝2敗
敗戦投手 望月潤一 3勝11敗
望月が先発したが、このところ調子を落としているようで、最初から球のキレがなく序盤から毎回失点。
阪急打線は、1回から4回までヒットと四球を絡め、小刻みに毎回点を取り、4点をとったところで、望月をあきらめ、古川にスイッチ。
古川は、その後。8回。9回と大量点を取られ、12対3で、イーグルスは大敗。
望月もイーグルスも勢いがなくなってきており、今後の戦い方が懸念される。
17 回目
14年名古屋対イーグルス6回戦 7月14日(金) 後楽園
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000000000 0 名古屋 繁里栄
300000010x 4 イーグルス 望月潤一
勝利投手 望月潤一 4勝11敗
敗戦投手 繁里栄 4勝11敗
望月潤一、今季2度目の完封。
先回の6月24日の精彩を欠いた登板から、20日ほど間を置いた久しぶりの先発登板。
この日は、休養と調整が十分だったのか、望月は6安打2四球7三振で、今季2度目の完封勝利を飾った。
前回の完封は、今季初勝利の対名古屋4回戦で、望月にとって名古屋打線は相性がいいようだ。
イーグルス打線は、相手の拙守もあって4点を取ったが、今一歩力強さがない。
もっとも、名古屋打線も同じようなものだが。
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親父の職業野球公式試合概要
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14回目は対セネターズ
14年イーグルス対セネターズ5回戦 6月18日(日) 後楽園
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002002100 5 古川正男 望月潤一
10005010x7 野口二郎
勝利投手 野口二郎 14勝6敗
敗戦投手 望月潤一 3勝9敗
イーグルス古川、セネターズはエース野口の先発で始まった。
イーグルスは1番の太田が、いきなり2塁打を打って先制のチャンスだったが、クリーンアップが凡退、一方セネターズは、初回エラーと四球絡みで1点を先制。
3回イーグルスはそのクリーンアップの寺内が本塁打、中河がタイムリーを放ち計2点を奪取し逆転。
5回になり、セ軍は2累打、四球で無死1,2累のタイミングで望月がリリーフするも、悪弊の無駄な四球と長短打を浴びてこの回5点を奪われ、ゲームを潰してしまう。
この日の試合の2試合目が、ジャイアンツ対タイガースで一番人気が、高かったので超満員だったらしく、1試合目も超満員に近い観衆だったのではと推測する。
こんな試合に好投しないと。・・・
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1939年シーズン親父の出場試合12,13
12 回目
14年 イーグルス対金鯱 6回戦 6月15日(木) 後楽園
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000000010 1 イーグルス 望月潤一
00400000x 4 金鯱 鈴木鶴雄
勝利投手 鈴木鶴雄 1勝0敗
敗戦投手 望月潤一 2勝8敗
望月は、3回内野安打から金鯱の足を使った攻撃に、自身の四球等が絡んで長打なしで4点を奪われた。
イーグルスはハリスが抜けた後、キャッチャーに苦労していおり、この日のキャッチャーはスローイングに難があるとのことで、6盗塁されたようで、これが敗因の1つだと解説してくれてはいるが。
望月は4回以降安打1本に抑えているが、今のイーグルスでは4点のハードルが
高い。
相手の鈴木鶴雄投手は、兵役から帰って来て復帰第一戦で完投勝利。
皆、兵役と向き合いながら頑張っている。
13回目
14年タイガース対イーグルス5回戦 6月17日(土)後楽園
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000101021 5 タイガース 西村幸生 若林忠志
00141000x 6 イーグルス 亀田忠 望月潤一
勝利投手 望月潤一 3勝8敗
敗戦投手 西村幸生 6勝5敗
この試合は西村、亀田の先発でスタート。
まず、イーグルスが3回太田健一のセンター前ヒットと4番高須清の3塁打で1点をと取り、4回、5回に、木下、山田の連続2塁打、高須の本塁打等で計6点。
タイガースは7回まで本堂の本塁打等で2点。
しかし、エース亀田が8‐9回とタイガース打線に捕まり、9回1死満塁の時、望月が急遽リリーフ。
タイガース松木がファーストライナーを打ち、飛び出した3塁ランナーを名手中河が刺し、ゲームセット。
望月は、当時のルールにより1打者を打ち取っただけで勝利投手となった。
現行ルールではセーブポイントとなるが。
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夏リーグの開幕戦は6月7日に金鯱と対戦。(9回目)
金鯱対イーグルス 5回戦 6月7日〈水〉後楽園
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102100000 4 金鯱 古谷倉之助 中山正嘉
000021000 3 イーグルス 望月潤一 亀田忠
勝利投手 中山正嘉 6勝9敗
敗戦投手 望月潤一 2勝6敗
6月4日の東西対抗で先発し、6回まで投げた望月が、夏リーグ開幕戦のこの金鯱との、一戦に中2日で先発。
中2日は、流石に前の大舞台での試合の疲労が残っていたのか、4回までに小刻みにヒットを打たれ、ピッチャーの古谷に本塁打まで打たれ、良いところなく、6回に10安打4失点で降板。
リリーフの亀田はその後を無得点に抑えた。
10 回目は、対ジャイアンツ戦でまた中2日。
イーグルス対ジャイアンツ5回戦6月10日(土) 後楽園
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002000020 4 望月潤一 亀田忠
20221000x 7 川上哲治 スタルヒン
勝利投手 川上哲治 5勝3敗
敗戦投手 望月潤一 2勝7敗
ここ1カ月前より、急に出番が増加してローテに組み込まれてきているようで、そうなると登板間隔が中2日から3日で投げるが当たり前のようになっている。
どのチームも主戦投手となるとこのような登板間隔で投げているようだ。
さて、先回の金鯱戦も、東西対抗の疲れからか6回4失点と低調だったが、それから中2日で、ジィアンツ打線との対戦となると厳しい勝算になると思ったが、やはり3回6安打4失点と序盤に打ち込まれた。
ジャイアンツの先発は、川上でこの日試合に出場しているジャイアンツの野手陣は、水原、白石、千葉、中島、吉原それにリベラと後世まで名を残している有名選手たちであり,これらのメンバーを見ていると、疲れ気味の親父球威では、抑えられなくても仕方がないと変に納得してしまった。
川上も調子は今一つで6安打6四球2本塁打と4失点となったが、味方の援護で、5勝目を上げた。
11 回目。イーグルス対名古屋 5回戦
6月11日(日)後楽園
疲れで球が走っていないことは、昨日のジャイアンツ戦で打たれたことでも明白だが、リリーフとはいえ連投である。
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000000000 0 中河美芳 望月潤一
01100201x 5 繁里栄
勝利投手 繁里栄 3勝8敗
敗戦投手 中河美芳 4勝5敗
イーグルスは、中河が先発、しかし、調子を落としているのか小刻みに安打を打たれ、また、四球も出すなど、3回までに2点を取られたあと降板。
そのあと、何と昨日先発した望月が連投でリリーフ。
懸念通り、球にキレがなく、ゲーム完了までにあと3点を取られ、シーズン前からの大きな課題であった貧打線が露呈し、イーグルスは0−5で完敗。
当時は投手の数も少なく、そのやりくりが大変とはいえ、長いシーズンの中、負け試合の連投はどうか。
どうもイーグルスはシーズン、シーズンでそのときのエースを起用し過ぎて消耗させているような気がする。
もっとも当時はいや稲尾の4連投の例もあるように昭和30年代までは、投手酷使のこのような起用法が当たり前のことだったのだろう。
その結果、歴代の名投手といえども、殆んど何処かを痛め、選手寿命は短かった。
親父の場合、大きなドロップの切れで勝負するタイプは、身体に負担が多く、体力、筋力の消耗が多いだろうと思う。
まあ、それは今だからいえることで、当時ましてや創生期のプロ野球では、当然の起用法だったのかもしれないが。
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昭和14年(1939年)の頃のプロ野球(職業野球)は、創生期ということもあり、いかに集客するか試行錯誤の中で、いろいろと斬新なイベントが行なわれたようだ。
この年のシーズン中休みのタイミングで当時の野球の対抗戦で、絶対的な人気があった早慶戦が行なわれた6月3日、4日の2日間に職業野球はそれに対抗する形で、同日、主力選手が東西に分かれて戦う東西対抗戦、と新人だけのフレッシュ東西対抗戦の1日2試合を3日、4日の同日にぶつけた。(職業野球、実況中継の調査による。)
まさに、現在のオールスター、フレッシュオールスターの原形が、この年に行なわれており、観客動員も後楽園2万8千、3万と超満員だったとのことですでに職業野球の人気は早慶戦に匹敵するものがあったようだ。
その主力選抜チームの東軍の1戦目の先発はスタルヒン(9-2で勝ち)、2戦目は望月(2-3で負け)が先発したとの当時の読売新聞記事。
プロ野球史の中で、オールスター戦の前身ともいうべきゲームで、選抜選手が東西に分かれての試合だったが、なぜかこのイベントは、この試合そのものが、後世に伝えられていないようで、《幻の東西対抗戦》と言われている。
私事だが、親父が、「俺だって、東西対抗戦に出たことがある。」とのコメントを頼りに探して見たが、親父の名前が見当たらずじまいだった。
しかし、親父の野球関係の遺品を5年ほど前に整理している時、当時のそうそうたるメンバーと一緒に親父が写ってる新聞の切抜きが見つかった。(2007.12.08の親父と野球ー親父と外国人選手との交友ーの記事と一緒に掲載したものを以下再掲載)
昭和14年の東西対抗戦の東軍メンバーと注釈に書いてあったが、それ以上のことはわからなかった。
それが、この時の幻の東西対抗戦だったのだ。
後楽園球場で3万(超満員)の観衆の中で、試合の頭から堂々と投げていたという事実に、いささか息子の私は興奮気味である。
これで父がスタルヒンとどのように親しくなったかもごく自然にわかるような気がする。
この時期の親父は、ドロップにますます磨きがかかり、絶好調で投げるほどにピッチングが良くなり、その勢いで東西対抗にも選ばれ、第二戦の先発を任されるほどになっていたのだろう。
親父の職業野球(プロ野球)で一番輝いていた時期かもしれない。
(1939年の東西対抗戦の東軍メンバー)
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