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姫塚古墳 (和泉市)

大阪府和泉市王子町 にあります。
 
姫塚古墳(信太千塚第78号墳)
                  の横穴式石室
 
信太山丘陵周辺では、百基ほどの古墳が確認されてます。 伯太町 から東阪本町までの広い範囲に立地するこれらの古墳のまとまりを、信太千塚古墳群と呼んでいます。その中のひとつが、姫塚古墳(王子町)です。
姫塚古墳は円墳で、直径が約..15mはあったと記録されています。昭和、37年に惣ヶ池南側の浄水場建設工事の際に発見されて調査されました。調査の時はすでに墳丘は切り崩されていて、墳丘内部から南南西に口が開いた横穴式石室が確認されました。石室は玄室(遺体を安置する部屋)の1部が残っていただけで、羨道(通路)や天井部の石組みの多くが失われていたので、築造当時の正確な規模は不明です。玄室の最大幅は1.8m、残存長2.6mを測ります.石室の石材は和泉砂岩や花崗岩を使用しています。床には小さな河原石を敷き詰めて、水抜きのための排水溝も設けられていました。
玄室の床には組合せ式の箱式石棺が備え付けられていました。この石材には和歌山県の紀ノ川より南側で産出される変成岩の結晶片岩を用いています。紀州から和泉の地へ運ばれたものと考えられます。また、床から鉄釘が出ヒしていることから、石棺と並んで木棺も置かれ、
3人ほどの遺体が埋葬されていたと推測されています。副葬品として金や銀でできた耳飾り・管玉、琥珀玉などの装身具のほか、鉄刀や約20点の須恵器が出土しています。この古墳は6世紀後半頃の築造で、古墳時代後期にあたります。姫塚占墳は発掘調査の後、石室を 和泉市 役所内に移築していましたが、元あった位置に近い信太の森の鏡池史跡公園に再度移築しました。
 
.   平成、18年3月31日
 
           和泉市教育委員会
姫 塚 古 墳.
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信太の森の鏡池

大阪府和泉市王子町914−1 にあります。
 
この池の説明文には次のようでした。
 
           和泉市史蹟
 
    信 太 の 森 の 鏡 池 
 
                     平成 9年 8月 31日指定
 
 信太の森は「枕の草子」に「もりは信太の森」と記されるなど、平安の昔か
 
ら、わが国の代表的な森の一つとして知られ、多くの和歌に詠まれてきまし
 
た。
 
 中世以後は、地域の人々に語りつがれ、演劇・文芸などを通して有名となった
 
「葛の葉伝説」の舞台としても広く知られてきました。
 
安倍保名が、妻の全快と子を授かるようにと信太大明神(聖神社)に祈願した
 
際、池の水面に白狐が映ったので、不思議に思って振り返って見ると、一匹の
 
ネズミが走って来ました。(この坂をネズミ坂という)
 
 このネズミは、猟師に追われて負傷した白狐が姿をかえたもので、保名は袖
 
に隠して逃がしてやりました。
 
後に、白狐は、保名のもとに女人の姿で現れ、保名の妻(葛の葉)となって男
 
子を授かりました。 それから数年後、白狐は、わが子に自分の本体を見られ
 
「恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌をのこして
 
姿を消してしまいました。
 
 保名は童子と信太の森をたずね、池の水面に映る葛の葉と最後の別れを惜
 
しむのでした。・・・・・・・・・・・・この童子こそ、後に陰陽道の祖・天文博士として
 
天下にその名を知られた、安倍晴明と語られています。
 
「葛の葉伝説」の中で、鏡池は、白狐と保名の出会いの場であり、童子との「子
 
別れ」の舞台であると伝えられて来ました。
 
 鏡池は、聖神社の神域にあり、「手洗池」とも呼ばれていますが、これは神社
 
で神事を行う際に、身を清める神聖な池であるためです。
 
 「信太の森の鏡池」は「葛の葉伝説」の舞台であるとともに、宗教儀礼の上から
 
も文化的・歴史的に貴重な文化財です。
 
     平成 9年 3月 31日
 
                       和泉市教育委員会
 
 
 信 太 の 森 の 鏡 池 
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篠田(信太)王子跡

大阪府和泉市王子町 にあります。
 
この篠田王子跡の説明板には次のように表示されていました。
 
  篠田(信太)王子跡

平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十万浄土
の聖なる地・現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現生極楽
の地にあこがれ、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の
地を目指すようになりました。
延喜7年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士
層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と
称されるほどに大勢の参詣人が熊野を目指して続いたと伝えられています。
この熊野への参詣の道が熊野街道です。
京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国
の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、
往復およそ一ヶ月のみちのりでした。和泉市内では、信太山丘陵の裾を
現在のJR阪和線とほぼ平行して通っています。
熊野街道筋の要所要所に、遥拝所、休憩所として設けられたのが、熊野権現の末社である
”王子社”で、数が多いことから、熊野九十九王子とよばれています。
和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。後鳥羽院の熊野詣
に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、信太明神に
参拝しています。
ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1909)に葛葉稲荷に合祀
されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。
なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官(おぐりはんがん)」で、熊野参詣の
ため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」とも
よばれています。

                          平成十六年十一月 和泉市教育委員会
 
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八坂神社(和泉市)

大阪府和泉市旭町343番地にあります。
 
由緒
 京都の八坂神社からの勧請と伝わる。本殿・拝殿は貞享元年(1684)の改築と言う。
 
八坂神社鳥居前に宣札場が保存されています。
 
木札には次のように表示されていました。
 
     宣 札 場 (高 札 場)
 
此の建物は徳川時代、当地区の天領といって、
 
徳川慶喜公の領地で領民に対する公示事項を
 
掲示する建物でした。
 
当時は 庄屋,村長の門前にあったものですが、
 
大切な文化財保護の為に、この境内に移転
 
されました。       
 
          平成7年10月吉日
 
                高札場修復委員会
 
                  峰 陽 書
 
八坂神社鳥居
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拝殿
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境内
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宣札場
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大樹巡礼 第九十二番目
 
大阪府和泉市王子町 にあります。
 
旧熊野街道沿いにこの永尾公園があり、その入り口に楠木がそびえています。
 
永尾緑地入り口
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楠木
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楠木全景
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永尾緑地遊歩道
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