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源頼朝(1147-1199)
日本の平安後期、鎌倉前期の政治家。
このブログも3800回にようやく到達。
投稿のペースがとみに落ちてきたとはいえ、日々継続できているのがうれしいですね。
さて、今回は源頼朝を取り上げたい。
このブログでも以前取り上げたが、神護寺に伝わる有名な肖像画は実は別人、なかんずく
足利直義のものではないかと言う説もあり、本人のものかどうかは定かではない。
ま、そういう意味では神秘的な人物でもあるが、墓はきちんと鎌倉にあり、自由に見ることが
できますね。征夷大将軍のものとは思えないほどの非常に質素な感じの墓で、鎌倉幕府の性格が
よく読み取れるというものですね。
源頼朝というと、まあ、鎌倉幕府の始祖ということになりますが、よくいう1192年に幕府を
開いたというのはあながちそうではなく、この年に征夷大将軍に任命されたのですが、実は幕府
としての実務は、それ以前に平家追討の時から始まっていたのですね。
頼朝は、平治の乱で敗れた源義朝の四男ですが、義朝より将来を嘱望されており、小さい頃から
エリート意識を強く持っていたようです。
ところが父が乱で敗れると、平家に囚われの身となり、すぐにでも首切られるという間一髪の
ところで、平清盛の継母である池禅尼に救われるという大好運に遭遇します。
これが、頼朝がますます自分の好運を痛感するきっかけになったのだと思いますね。
伊豆に配流になった頼朝ですが、そこで北条時政の娘である政子と出会い、北条家との
知遇を得ます。
北条側にとっては、頼朝との出会いはまさに『奇貨おくべし』。
その後、頼朝挙兵の手助けをすることになります。
だが、挙兵後の頼朝は、いきなり石橋山の戦いで平家の前哨部隊に破れ、石橋山の洞窟に
逃げたところを、梶山景時の追っ手によって追い詰められますが、景時の変心によって
またも救われます。
ほんとに頼朝は好運ですね、つくづく。
で、勢力を盛り返しての富士川の戦い。
物見遊山で来た平家の大軍が、戦わずして逃げたことにより戦勝。
こうして源氏の勢力は決定的に伸びていきます。
で、その後は、いくさは木曽義仲や弟の義経に任せっぱなし。
本人は鎌倉にこもって幕府つくりに精を出す始末。
以後、自分では戦場に出ることはなかったのですね。
ということはつまり、早くから自分にはいくさに適性があまりないということを悟ったのですかね。
たしかに、頼朝は戦場に出て前線で戦うことに向いていないというか、そういう勇壮な面はないと
思います。
むしろ、頼朝の手腕は政治に発揮されたということでして、得意なことは全部、他人に任せる
という度量は、本田宗一郎さん並みにでかかったと思われます。
彼は権謀術数をだいぶ用いていた、というか、明らかにうそをついてそれを相手に信じさせて
目的を達するという場面が多かったんですね。
後年、彼は弟の義経を討ちますが、その時、義経を奥州にかくまった藤原泰衡をだまし、常陸の
国をあげるからと甘言でさそって彼に義経を討たせます。
ところが、義経が死んだ後、「仮にも将軍の弟だぞ!」と怒って、奥州に20万人以上の大軍を
派遣し、奥州藤原家を滅ぼしてしまいます。
その時、泰衡を裏切った部下にも「泰衡の首をもってくれば褒美を取らせるぞ!」と甘言を用いながらも
結局泰衡の首を見た後、「仮にも自分の主君の首を打つとは!」と怒って処刑してしまいます。
なんか、こういうところは陰険だなと思ってしまいます。
それでも、幼少の頃、自分の命を救った池禅尼に連なる平家の一族は、平家滅亡後も厚く遇した
というのですから、ますますこの人がわからなくなります。
一面、義理堅かったということでしょうかね。
最後は鶴岡八幡宮での落馬が原因で、死んでしまい、その後は、鎌倉幕府は北条家に牛耳られて
いきます。
他人の協力を得、彼らの力により鎌倉幕府を作り、そしてやがて彼らによって乗っ取られていく……
頼朝は、生れ落ちてからの将軍だったというか、その育ちのよさによって大勢の人たちの心を
とらえていたのだと思います。
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