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ジョーンズの独り言集です。見てくださいね!

歴史ネタ。

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やはり信長。

本能寺から信長の遺体はとうとう見つからなかったわけだから、
光秀はやはり最後まで不安だったろうね。
どこかで生きているんじゃないかって思っていたろうに。

信長の首を天下に示せなかったばかりに、本来なら光秀の味方になるべきだった
細川氏らの力を得ることができなかった。

で、これは思うけど、遺体が見つからないおかげで、信長は真の伝説的なカリスマに
なったのだと。
首をかかれて、胴もあばかれていたら信長も同じ人間じゃんって話になっていたかと。

遺体が見つからないことで、信長の肉体は文字通り昇天したのだと皆は思ったであろう。

人智も明智も及ばない存在が信長なんだなと。

軍医としての森鴎外。

あの樋口一葉を見出し、これを絶賛した森鴎外。
市井の人たちの生き方に限りない愛情を注いだ作品の数々を生み出した森鴎外である。

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文学作品においてはいまだに読まれ続け愛されている大作家であり、もちろん自分も好き
である。ドイツ語に堪能であり、れっきとした医者であるが、『阿部一族』や『山椒大夫』、『高瀬舟』
など歴史を舞台にした小説も多いところが魅力である。

ところが医師としては、あの有名な脚気論争での細菌説の固執問題があり、死ぬまで細菌説に
こだわったからかなり評判が悪い。
海軍では麦飯を導入したことで脚気を激減できたにもかかわらず、自分が局長を務める陸軍では
そういった結果を取り入れず、「米飯の方が力が出る。」という理由にならない理由をつけて、最後まで
導入しなかった。
で、日露戦争では、脚気による陸軍の使者が2万7千人も出たという。
これは日露戦争での全死亡者数の四分の一にもあたり、いかに脚気の被害が深刻であったかということ
でもあった。

ウィキペディアや他のウェブサイトでもこの脚気論争のことはいろいろ書かれており、中には、鴎外が
伯爵に叙せられなかったのは、この脚気論争での敗北と、日露戦争での死者数の多さがあったからだ
と言われており、初めてそのような事実があったのだと知った次第である。

で、ここからは自分の考えであるが、当時の知的エリートであり、最後には軍医総監にまで上り詰め、
ドイツ留学経験があり、作家としても大成功していた鴎外だが、そんな彼にとって、脚気の原因が食事や
献立にあるという説をとるのは、あまりにも『カッコ悪い』という意識があったのだと思う。
軍医の立場としては、細菌説をとることがいかにも説得力があり、カッコよく見えるのだ。

だが、食事の献立が原因ですね!という説は、軍医総監である彼にはあまりにも市井的であり、容認しがたかったに違いない。後に、オリザニンを作り脚気撲滅に一定のめどをつけた鈴木梅太郎を罵倒するような手紙も
送ったというからすさまじい。
で、死ぬまで細菌説を曲げなかったのだ。

そういう経緯を知ると、森鴎外に対する視点が劇的に変わる。
あの素晴らしい作品群はなんだったのかと思わないでもない。
人間は間違いをおかすし、それは仕方ないが、それにしても軍医総監という高位にまで達し、世間から
大作家としてももてはやされると、こうまで人の意見に耳を傾けず、自説に固執し、あげくのはては
多くの人たちを犠牲にさせてしまうとなると、もう普通の作家として無心に読んでいられなくなるのだ。
ああ、鴎外ほどの人がかと思ってしまう。

あの大村益次郎も医師としてはまったく問題外とのことだったとのことだが、二つの職業を掛け持ちして
それぞれ大成させるのはいかに難事かと思ってしまった次第ですね。


どうにもこうにもと思うのだが、『三国志』のハイライト的な場面である赤壁の戦いだが、
実際は火計による焼き討ちなど、いかにも華やいだ戦いぶりがあったわけではなく、
中国南部の疫病や飢えに苦しんだ曹操軍が自ら撤退したというのが実情らしい。

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10万人を超える大軍を呉に送り込んだ曹操。
で、その呉と協同して早々と対決しようという劉備玄徳と諸葛孔明。
呉の孫権や周瑜と協力し、時には意見を戦わせながらも曹操の大軍と対峙し
大船団に火をともすことによって大勝利を収める!

これが従来の三国志における赤壁の戦いの像である。
だが、実際は、そのようなものではなく、小競り合い程度の戦いはあったものの、
概して曹操の軍は、南部特有の暑熱にやられ、その上、風土病に侵され、食料調達
もうまく行かずにバタバタと兵士は倒れ、多くの犠牲を出した挙句に、曹操はついに
撤退を決断、ということだったらしい。
資料の出典はここでは挙げないが、要するに、いかにも物語風に描いているのが、
蜀や呉側に立った資料ばかりであり、基本となる『武帝記』において曹操軍の飢えや
疫病について描かれており、おおかたはそうであろうと思われるのである。

もちろん、華やかな戦いがなかったと言い切れるわけでもないが、それにしたって後世の
『三国志演義』という創作めいた戯曲の影響を受けているばかりの想像も入っているであろう。
あとは、蜀や呉といった小さな国への判官びいき的な同情心もあって、赤壁の戦いを実際よりも
華やかにしたいという心理もあろう。

だが、戦場においては、必ず戦病死がともない、古代の戦争においては戦死よりも戦病死の方が
はるかに多いはずである。ただでさえ、南部の風土に慣れない曹操軍が風土病に苦しんだことは
想像に難くない。で、想像以上の損害に曹操が目をむいたであろうとも言えるのである。
で、撤退に際して、疫病に充満した船を焼いたり、その船の中に、多くの兵士の死体をおいて
一緒に焼いたということもあったであろう。

曹操軍が撤退した後、焼かれた船や多くの遺体が打ち捨てられているのを見て、呉軍や劉備軍が
呆気にとられながらも、それでも自分たちが勝ったのだという喜びに駆られ、いかにも自分たちが
戦ったからこそ曹操は撤退したかのように噂に尾ひれがつき、架空の戦場話ができたとしても
おかしくはない。
いや、実際はそうであったと思うし、そう考えるのが自然な気がする。

歴史には一面の真理と架空の像が織り交ぜになる事件が多いのだが、この赤壁の戦いもそうだと
思う。謎が多く、いまだに解き明かされていないことが多い。
だが、後世の人たちがこの事件に事寄せてああだこうだと想像をたくましくするのは自由であろうか。

牟田口廉也という男。

歴史を学んでいると、本当に不可解な人物もいるし、その生涯に納得がいかない
人物もいる。
この牟田口廉也中将なんかもそうだ。

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太平洋戦争中において、マレーシア攻略作戦で活躍した人物である。
そこまではよい。
だが、戦況が一気に日本に不利になってくる中で、ビルマにおける英国軍の拠点である
インバール基地を攻略する作戦を立案し、補給路の問題を抱えていたにもかかわらず、
強引にその作戦を認めさせ、いざ実施し失敗となると、6万人を超える犠牲者が出ていた
にもかかわらず、自身はまるで責任を取らず、そのまま東京へとトンボ帰りをしてしまったのである。

この作戦が始まるのは1944年3月。
すでに前年において、日本軍はガダルカナル島を失い、アッツ島での玉砕、それからブーゲンビル島で
山本五十六長官を失うなど、太平洋上において戦況は不利になっていた。
フィリピンはおろか、サイパンにまで米軍の手が及ぼうとしていた時である。

そのような緊急時にあって、いくら戦況打開という名目があったとはいえ、主戦線とはいいがたいビルマに
おいて、10万人近い動員をして英国軍拠点を目指したのである。
しかも標高2千メートルを超えるアラカン山脈を牛に武器を積んで、食料も十分ではないまま向かおう
としたのである。

この作戦が通ったのは、ひとえに中将位にいる牟田口廉也のごり押しが効いたからであった。
マレー攻略作戦での成功をアピールし、太平洋上での戦況不利をインド方面において打開しようという
提案は、大本営に魅力に映ったこともあったろう。
だが、成功する見込みが薄い作戦であり、他の高位の軍人たちはこぞって反対したが、山本五十六が
死んでタガが外れてしまったのか、結局大本営は作戦を承認することになった。
実情は、牟田口と仲がよい東条英機首相が彼の栄誉のために作戦承認したらしいのである。

で、勇躍した牟田口は作戦を実施するものの、牛を使った輸送において牛はすぐに疲労してバタバタ
死に始め、その上食料の確保ができずにいた軍において餓死する者が続出。
結局、全軍の三分の一が餓死する有様で、ほうほうの態でインバールを囲むものの、英国軍の反撃
にあって、ここでも全軍の三分の一を失うという大惨敗であった。

で、牟田口は敗報を聞いて逃げるようにして東京の参謀本部に行く。
当然責任は取らされ中将を罷免されて、ただの参謀本部付の役職になる。
無位無官になった牟田口であるが、幸い終戦を日本で迎えることになる。

戦後、彼は軍人恩給をもとに故郷佐賀で静かに余生を送ることになるのだが、6万人を超える犠牲者を
出した張本人でありながら恩給を得、その上、犠牲者を出した作戦の首謀者でありながら全く謝罪の
言葉を発しなかったという。
1966年に彼は脳出血で死ぬことになるのだが、それまでの間かたくななまでに謝罪を拒み、あろうこと
か実際に戦地に行った部下たちが無能だったから失敗したとか言い訳を連発する始末だったとか。

もともと虚栄心の強い人物であり、栄耀栄華に憧れる一面があったとのことで、インバール攻略作戦に
ついても自分が脚光を浴びたいが一心で大本営に作戦をごり押ししたというのが実情らしい。
で、この見栄っ張り作戦が大失敗し、彼は軍位を失うことになるのだが、基本的にその後は平穏無事に
人生を終えることができた。

だが、歴史は死後も彼を裁く。
多くの人たちが牟田口廉也に罪科があるとし、彼の死後も非難する声がやまない。
で、彼の遺族の行方がようとして知れない。
というか、おそらくは牟田口のことを恥じて別天地を求めた可能性もある。

あえて牟田口をかばうならば、この作戦の失敗につき、あまりにも牟田口に責任を負わせすぎという
面もないとはいえない。
作戦承認をしたのはあくまでも大本営、それに東条英機首相である。
で、いざ実施し失敗するや降格人事をするのはいいとして、暗に牟田口一人の責任であると仕向けた
観がなきにしもあらずである。
それに牟田口が納得いかずに、自分のせいではないと言い張るのであれば多少同情の余地はある。

だが、大勢の犠牲者を出しながら東京に逃げ帰ったことは言い訳無用だ。
しかも戦後は恩給を得ての生活をしているのである。
戦争犯罪人にならなかったのは捕虜虐待などがなかったかろうが、これが救いと言えば救いである。

いずれにせよ、牟田口廉也は現在も歴史に裁かれ続けている。
悪名として残ってしまっているのである。
6万人を超える命が白骨となってしまった作戦において、一言の謝罪もなかった男として。

永禄っていう響き。

自分もそうなんだけど、戦国時代が好きで歴史好きになったようなものですかね。

で、永禄年間の永禄って響きが好きだ。

いかにも、各地で戦国大名たちが覇を競っているという語感がして野心的に思える元号である。

桶狭間があったのも永禄だし、川中島の合戦があったのも永禄。

これが次の元亀とかになると、これはこれで面白いのだが、なんとなく世の中が信長のもとにって
いう感じになってきてだんだんと落ち着いてくる感じがしてどうにも物足りない。

だけど、永禄年間はまだまだ誰が突出してくるのかわからないようなレース展開であり、そこが
実にわくわくさせられる。

とにかく永禄という響きが好きだ。永六輔は関係ないよ笑

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