歴史を学んでいると、本当に不可解な人物もいるし、その生涯に納得がいかない
人物もいる。
この牟田口廉也中将なんかもそうだ。
太平洋戦争中において、マレーシア攻略作戦で活躍した人物である。
そこまではよい。
だが、戦況が一気に日本に不利になってくる中で、ビルマにおける英国軍の拠点である
インバール基地を攻略する作戦を立案し、補給路の問題を抱えていたにもかかわらず、
強引にその作戦を認めさせ、いざ実施し失敗となると、6万人を超える犠牲者が出ていた
にもかかわらず、自身はまるで責任を取らず、そのまま東京へとトンボ帰りをしてしまったのである。
この作戦が始まるのは1944年3月。
すでに前年において、日本軍はガダルカナル島を失い、アッツ島での玉砕、それからブーゲンビル島で
山本五十六長官を失うなど、太平洋上において戦況は不利になっていた。
フィリピンはおろか、サイパンにまで米軍の手が及ぼうとしていた時である。
そのような緊急時にあって、いくら戦況打開という名目があったとはいえ、主戦線とはいいがたいビルマに
おいて、10万人近い動員をして英国軍拠点を目指したのである。
しかも標高2千メートルを超えるアラカン山脈を牛に武器を積んで、食料も十分ではないまま向かおう
としたのである。
この作戦が通ったのは、ひとえに中将位にいる牟田口廉也のごり押しが効いたからであった。
マレー攻略作戦での成功をアピールし、太平洋上での戦況不利をインド方面において打開しようという
提案は、大本営に魅力に映ったこともあったろう。
だが、成功する見込みが薄い作戦であり、他の高位の軍人たちはこぞって反対したが、山本五十六が
死んでタガが外れてしまったのか、結局大本営は作戦を承認することになった。
実情は、牟田口と仲がよい東条英機首相が彼の栄誉のために作戦承認したらしいのである。
で、勇躍した牟田口は作戦を実施するものの、牛を使った輸送において牛はすぐに疲労してバタバタ
死に始め、その上食料の確保ができずにいた軍において餓死する者が続出。
結局、全軍の三分の一が餓死する有様で、ほうほうの態でインバールを囲むものの、英国軍の反撃
にあって、ここでも全軍の三分の一を失うという大惨敗であった。
で、牟田口は敗報を聞いて逃げるようにして東京の参謀本部に行く。
当然責任は取らされ中将を罷免されて、ただの参謀本部付の役職になる。
無位無官になった牟田口であるが、幸い終戦を日本で迎えることになる。
戦後、彼は軍人恩給をもとに故郷佐賀で静かに余生を送ることになるのだが、6万人を超える犠牲者を
出した張本人でありながら恩給を得、その上、犠牲者を出した作戦の首謀者でありながら全く謝罪の
言葉を発しなかったという。
1966年に彼は脳出血で死ぬことになるのだが、それまでの間かたくななまでに謝罪を拒み、あろうこと
か実際に戦地に行った部下たちが無能だったから失敗したとか言い訳を連発する始末だったとか。
もともと虚栄心の強い人物であり、栄耀栄華に憧れる一面があったとのことで、インバール攻略作戦に
ついても自分が脚光を浴びたいが一心で大本営に作戦をごり押ししたというのが実情らしい。
で、この見栄っ張り作戦が大失敗し、彼は軍位を失うことになるのだが、基本的にその後は平穏無事に
人生を終えることができた。
だが、歴史は死後も彼を裁く。
多くの人たちが牟田口廉也に罪科があるとし、彼の死後も非難する声がやまない。
で、彼の遺族の行方がようとして知れない。
というか、おそらくは牟田口のことを恥じて別天地を求めた可能性もある。
あえて牟田口をかばうならば、この作戦の失敗につき、あまりにも牟田口に責任を負わせすぎという
面もないとはいえない。
作戦承認をしたのはあくまでも大本営、それに東条英機首相である。
で、いざ実施し失敗するや降格人事をするのはいいとして、暗に牟田口一人の責任であると仕向けた
観がなきにしもあらずである。
それに牟田口が納得いかずに、自分のせいではないと言い張るのであれば多少同情の余地はある。
だが、大勢の犠牲者を出しながら東京に逃げ帰ったことは言い訳無用だ。
しかも戦後は恩給を得ての生活をしているのである。
戦争犯罪人にならなかったのは捕虜虐待などがなかったかろうが、これが救いと言えば救いである。
いずれにせよ、牟田口廉也は現在も歴史に裁かれ続けている。
悪名として残ってしまっているのである。
6万人を超える命が白骨となってしまった作戦において、一言の謝罪もなかった男として。