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『砂の女』(阿部公房) 新潮文庫 第六十六刷 476円+税<一>からの続き。
『砂の女』という作品には、寓話的部分・現実的部分・男の独白的部分が混在している。どことも特定されていない砂丘で名も明かされない部落の人間たちが、砂地の蟻地獄よろしく、足を踏み入れた外部の人間を引きずりこむようにして砂掻きに従事させているという、ありえそうもない場景が基本となっていながら、その部落の人間の口から「県庁の人」「補助金」「飛砂の被害は、災害補償の枠に入っちゃいない」など、その部落が固有の名称を持つ市区町村ででもありそうな単語がポロポロと出てくるのである。読者からすれば、どこの地域とも分からない寓話性の強い話であるくせに、その砂丘に住む人たちが「県」というからには、そこは確かにどこかの「県」なのである。
だが、この『砂の女』を何かの暗喩であるとか、寓話的メッセージを的確に読み取ろうとか、そんな風に意気込んで読む必要は必ずしもないのかもしれない。入り乱れる寓話性と現実味と結局のところは男にしか解からない独白は、そんな風に「解かろうとすること」に何の意味があるって云うんだい?と、皮肉っぽい表情を我々に向けているかのようでもある。ただ、そうは云っても、家を守る為に来る日も来る日も砂を掻きつづけるという行為の中に、そして、その穴に落ちた男がそこから抜け出そうにも抜け出せないという状況から、読者が何らかの意味を見出だそうとせずには居られないことも、この『砂の女』という小説は見越しているのであろう。
来る日も来る日も砂を掻く。掻いたところで、掻かなくて良い状態がいつの日かやってくるわけでもなく、掻いた分だけ、また翌日は砂が積もっている。同じ作業を繰り返す日々。判で押したような、単純で何も起こらない日々。他の穴の中の家がどういう暮らしなのかは知る由もないが、おそらく自分と似たり寄ったりだろうと思うことで自分を納得させる日々………。
これは、私の、我々の、人間の生活そのものではないか…。
私たちは毎日毎日、この部落の人間のように、砂を掻くが如き生活をしている。家から職場へ出向き、仕事をして帰る。決め事のように同じ内容の家事をこなす。食べて、風呂に入って、寝る。たまに、昨日とは違う何かが起こったとしても、それは風の気まぐれで、砂丘に見慣れない風紋が偶然出来たのと同じくらいのものだ。その風紋が美しい時もあれば禍々しい時もあるかもしれないが、明日になればまたいつもの風が吹き、昨日の景色は跡形もなく消えているものだ。そしてまた、砂を掻く。砂を掻くことを怠れば、家は、生活は、あっという間にひしゃげてしまうのだから。
穴に監禁され、そこから脱出を試みてばかりいる男は、「珍奇なもの」を求める傾向にある。ハンミョウの新種を発見したいという、砂丘に来た動機がそれを物語っている。男の職業は教師だが、その砂を掻くような教師の職とは別に、彼は新種の虫を見つけ、自分の名を昆虫大図鑑に半永久的に留めたいという、地味ではあるが、明確な野心を秘めているのである。俺は砂を掻くような生活はもうごめんだ、俺はそういうやつらとは違うんだ、俺が新種のハンミョウを見つければ、俺の名は図鑑に載り、砂を掻くばかりの人間とは違うということが立証できるのだ。そんな思いが彼の中にあったのかもしれない。そしてそういう思いは、我々の中にもあるものだ。
私自身、「珍奇なもの」を求めて故郷をあとにした人間であった。珍奇なもの、何か華やかなもの、何か新しいもの、何か人とは違うもの、何か人に自慢できるもの…そんなあやふやなものを求めて、私は砂穴から出たのだ。けれども砂丘の表面に出てみれば私のような人間はいくらでもいる。その中で本当に「珍奇なもの」を手に入れられるのはほんの一握りの人間で、私は自分がまぎれもなく凡人で、あきれるくらい凡才であることを痛感させられただけだった。そして私は自発的に砂の家に戻ったのだ。
男にとっても砂丘の表面に「珍奇なもの」は見つからなかったのだろう。彼もまた、地表に思いを残しながらも、部落の人間に捕えられ、寡婦の家にロープで降ろされていく。しかし、男が溜水装置の研究を始めてから数ヵ月後、女が腹痛を訴え苦しみだすのだ。下半身は血に染まっている。女は妊娠していたが、どうも子宮外妊娠であったらしい。女を入院させるため、村のオート三輪がやってきて、半年ぶりに垂らされた縄梯子は女が引き上げられて誰もいなくなってからも、そのままになっていた―――。
だがもう男は逃げようとしないのである。外の世界の「珍奇なもの」には興味がなくなってしまったかのように。これは私の解釈に過ぎないが、男は穴の中の砂だらけの生活に、一つの「珍奇なもの」を見出したのである。それは、生まれることなく去っていく我が子の命である。成り行き上関係を持っただけの、愛しているかも判らない、砂でまぶしたような女が自分の子を宿し、その自分と血のつながっているまだ人の形にもなっていないような命が、女の顔を苦痛にゆがませ、苦しめているということに対する驚愕、戦(おのの)き。上手く着床していれば、自分の子が生まれたかもしれないという期待、落胆。「あいつとの時には、いつもかならずゴム製品をつかうことにしていた」という男にとって、この砂の女との交接のすえに生じた事実は、この砂穴でしか経験できないものであったろう。
この出来事を期に、男(仁木順平)は少なくとも七年間は穴から逃げなかった、もしくは、やはり逃げられなかったことになる。作品の冒頭で明らかになっていることだが、男の失踪宣告が成立し、七年経って、民法第三十条により、男は死亡認定を受けたのである。人間の大多数が「珍奇なもの」に憧れながらも、日々変りばえのない生活に甘んじているように、男もまた、砂を掻く日々に文字通り埋没していったのである。
平成二十二年九月十三日 読了
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昔、不思議な映画だなぁと思っていたけど、18禁だったので見られなかった
今、ユーチューブでみたら、岸田今日子だったんだなぁ
若くて綺麗だった
話としても不思議な話だったんですね
なんだか、芥川の羅生門に影響を受けているような気がしたのは岩魚だけかな?
2010/10/14(木) 午後 10:13
玉兎さん、
砂の女、「岩魚」さんが言われるように18禁でしたよね?
僕も、その強烈なシーンを見た覚えがあります。
蟻地獄の世界は、ようやっと這い上がってもやはり周りは蟻地獄、所詮抜け出る事が出来ない環境なら砂の中で生活を見出そうとするのは
僕の考えです。いいでしょうか?
2010/11/9(火) 午後 5:43 [ 皎 ]
いつの間にか年が明けていました〓
今更ながら明けましておめでとうございます。
いつもこのブログからは様々な本の情報を頂いています^^
とても参考になるので嬉しいです。
今年も宜しくお願い致します。
2011/1/9(日) 午後 0:15 [ 満月 ]
岩魚さん、こちらにコメントいただいてから、お返事までに長くかかってしまいましたこと、お詫びいたします。
『砂の女』の映画は18禁だったんですね!
しかも岸田今日子さん出演とは!
でも確かにあの不思議なアンニュイな寡婦の役は、岸田さんが丁度いいかも、と納得です。私はこの『砂の女』、どう読んでも鳥取砂丘という具体的なイメージを抱いてしまいます。なのに、どこか捉えどころがないんですよね。
『羅生門』は、指摘されるまで思い浮かばなかったのですが、生活していく為に盗人になる、生きていく為に死人の髪の毛を一本一本抜くという行為と、家を潰されないように意に沿わぬ砂掻きを続けるという行為には、何か共通するものがあるように感じます。終りも希望も見えず、延々とそれをしなくてはならないというような。
下人がしきりに気にする頬にできた面皰(にきび)の存在が、生における不吉なもの・気だるいものを暗示している気がしますね。そういうものが『砂の女』の底辺にも流れているのだろうと思います。
2011/6/16(木) 午前 11:56
皎さん、コメントを頂戴してから、長期間お返事できず、誠に申し訳ございませんでした。
文字で読むと『砂の女』は寡婦と男の静かな闘争という印象もありますが、映像にすると確かに強烈な部分も出てくるでしょうね。何せ、砂穴の中の一軒家に男と女だけですからね(微苦笑)。
皎さんがおっしゃるように、砂穴の底の生活がもしかすると一番人間らしいのかなぁと思うこともしばしばです。何が正解というわけでもないだろうけれど、毎日毎日砂を掻きながら、それ自体は単調な作業の繰り返しだけれども、穴の底から見える夜空は例えようもなく美しいのかもしれません。上空を渡る風は清々しいのかもしれません。穴の外に這い出て、体いっぱいに感じる自由も素晴らしいけれど、穴の底という限定された立脚点から夢想する自由も捨てたものではないのだと思います。
男(仁木順平)は一度きりしか脱走しなかったように思われますが、人によっては何度も脱走を繰り返して、性懲りもなく砂の底に帰って来る、そんな生き方があってもいいじゃない?とも思います^^。
2011/6/16(木) 午後 0:18
満月さん、コメントを頂戴してから、お返事を書くまでにずいぶんと長くかかってしまい、本当に申し訳ない限りです。
今年もあと半分ですが、よろしくお願いいたします^^。
なにかとへんてこりんな事や思い込みの激しい事を、飽きもせず書いていきますので、深入りしすぎず、お楽しみ下されば幸いです^^。
2011/6/16(木) 午後 0:23