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時に憑かれた作家・広瀬正氏の小説について、幾ばくかのことをこれまで書いてきた。『マイナス・ゼロ』から始まって、『ツィス』『エロス』『鏡の国のアリス』『T型フォード殺人事件』と、集英社文庫から出された『広瀬正・小説全集』に収められた作品の感想を順繰りにまとめてきたわけだ。そして、本作『タイムマシンのつくり方』が、復刊されたこの小説全集の最終巻となる。
思えば、広瀬氏が書き残した作品群に、これほどまでに没頭することになろうとは思ってもいなかった。彼は、いわゆる「タイムマシン物」を数多く上梓してきたわけだが、その「タイムマシン物」という範疇に入りきらない作品も無論のこと、遺している。『ツィス』『鏡の国のアリス』などは、これが適した表現かどうかは甚だ自信がないものの「パニック物」と云えるだろうし、『エロス』『T型フォード殺人事件』においては、タイムマシンは決して登場しないけれども、過去から現在へ、或いは現在から過去へという時間の経過が、その作品を読む上での重要な要素になっている点で、「時間物」と云える。「タイムマシン物」は、大きく云えばこの「時間物」という範疇に含まれるものである。
そして、今回の『タイムマシンのつくり方』にも、ある意味、表題に反するかのように「タイムマシン物」以外の作品がいくつか収録されており、それが、作者である広瀬正氏の横顔を知りうる魅力となっている。『広瀬正・小説全集』の六巻目にあたる本作は、二十四篇のショートショートと一篇の付録作品が収録されていて、長編作品とはまた違った、面白さ、作者の機知が感じられるのだが、それ以上に、これでもかこれでもかと繰り出されるショートショートの波状攻撃から、作者の、「時間」というものにこだわって物を書き続けた執着や、時に「タイムマシン物」「時間物」から離れて、全く別のジャンルの短篇を書かねばならなかった苦悩が、ひしひしと伝わってくるのである。
筒井康隆氏が寄せているあとがきを読めば容易に首肯せらるることであるが、これらショートショートは、広瀬氏が興味のおもむくまま、愉しみながら余技として書いたという性格のものではない。今でこそSFやタイムマシンという言葉は、広く一般にも知られ、文章作品や映像作品でも一大ジャンルとして、その地位を確立している。しかしながら、彼がSFの短篇を書いていた主に昭和三十年代において、これらのジャンルは、まだまだ限られた人たちが仲間内で愉しむものであったのである。一般人はSFやタイムマシンという言葉に不慣れであったために、それらの作品は大体同人誌で発表するしかなく、商業誌に掲載されるにしても、長編ではなく短篇を、という制約がつきまとったのだ。時には、一般読者の要望と出版社からの依頼に応じて、SF以外の作品を書き上げねばならなかったこともあったようである。『タイムマシンのつくり方』は、そういった時代を生きていた広瀬氏の足跡が辿れる本であり、彼の、時間の流れへの執着、過去への憧憬、とことん細部にこだわる職人気質、作家として認められるまでの期間が長すぎたゆえの焦燥、そういったものが渾然一体となった一冊と云えよう。
それにしても、ショートショートというスタイルは読みこなすのが難しいとつくづく実感する。長編をじっくり読んでいくのとは違い、ショートショートは、提供される情報を上手くのみこんで、突如、ストンと到来するオチを理解しなければならないからだ。文字通り、腑に落ちるように読者がオチを理解せねば、この手の文章様式の魅力は減殺されてしまうだろう。作者は、読者がその作品の状況や設定を無理なく理解できるように文章運びに腐心し、読者は読者で、作者の意図するところに沿うように、その作品を読んでいかなくてはならない。そして、二者の感覚がきちんと一致している時に初めて、ショートショートの結末は合点がいき、腑に落ちるのである。こういう意味で、ショートショートとは、書き手と読み手の共同作業と云えなくもない。 ”最後に笑う者は、多分ジョークが分からなかった”という言葉があったかどうか。ショートショートの結末は、作者と同じ感覚を持っていないと面白くも何ともないものだが、私自身、”最後に笑う者”の状態に陥ってしまう作品が二、三作あった。(えーと、えーと、多分あれでしょ、この人がこうなって、こっちがこうなるんだから〜、だからこういうオチなわけでしょ?)と、懸命に、無い知恵を絞って、どうにかこうにか広瀬氏の頭の中身に追随できるものもあるし、結末は何となく理解できるんだが、途中経過が何故そうなるのか未だに解からないというものもある。
そういう”最後に笑う者”になりながらも、何とか理解できた作品に「親殺しのパラドックス」をテーマに書かれた『Once Upon A Time Machine』がある。「親殺しのパラドックス」というのは、子供がタイムマシンに乗って自分が生まれる以前の過去へ行き、まだ若い両親の内、どちらか一方でも殺してしまったら、子供である自分はどうなるか、という問題である。親を殺したのだから、未来において生まれるはずの自分も存在しなくなり、自分の姿が消滅するという結果になる場合、親を殺す自分がそもそも存在しなくなるわけで、親は殺せないのではないか、というパラドックスに見舞われるというもの。『Once Upon A Time Machine』では、未来からやってきた「子孫」が、現在の「私」と共に、「親殺しのパラドックス」の答えを得るために、過去をさかのぼって二人の共通の先祖を殺しに行くという展開になっている。実際には彼ら二人が手を下すのではなく、剣の腕の立つ近い過去の「先祖」を伴って、さらに五代前の過去に行き、近い「先祖」に「大先祖」を殺害させるという流れだ。しかし、この「大先祖」が「先祖」の剣によって殺されても、「私」と「私の子孫」は消滅することもなく無事であった。それは何故か。「大先祖」は死の間際にあたって、駆けつけた周囲の者に、自分の名と家督を弟に継がせ、許嫁(いいなずけ)さえも与えるように遺言していたからである。この結果から「私」は、「大センゾに弟があったとはね」などと、トンチンカンな解釈をしているのだが、「私の子孫」は、それを否定する。「違いますよ。大センゾには……曲者に殺された兄があったのです」
「親殺しのパラドックス」における、この解決の仕方は非常に日本的であるといえる。弟が亡き兄の家督を継ぐという日本的なシステムによって、「私」とその「子孫」は消滅せずに済んだのである。そして、この作品は、「タイムマシン物」でよく取り上げられる「歴史の自己修復機能」にもそれとなく言及している。つまり、「私」と「子孫」にとって、「大先祖」は確かに凶刃に倒れた人物であったわけだが、彼が遺言した瞬間から、彼らの「大先祖」は凶刃に倒れた人物ではなく、その「弟」へと自動的に移行したのである。弟があった人物から、兄があった人物へとその後の歴史が自然に切り替わってしまったというわけだ。過去をどんなに改変しても、未来に重大な変化が生じないように、歴史それ自体が微調整するという考え方が、この『Once Upon A Time Machine』には表れている。ただ、二十四篇の作品の中には、この「歴史の自己修復機能」が働かず、過去をいじったことで未来が大幅に変容してしまったという結末を迎えるものもあり、タイムマシンや時間についての多彩な発想が存分に楽しめる。
『マイナス・ゼロ』からずっと読んできて感じるのは、広瀬氏にとっては、小説を書くことそれ自体がタイムマシンに搭乗することとイコールであったに違いない、ということである。彼の小説を読んでいると、少年時代の彼自身や、彼自身をモデルにしたであろうと思われる登場人物がちょくちょく出てくるのだ。小説中のキャラクターとして配される広瀬氏は、綿密に描写された昭和初年代の東京を飄々(ひょうひょう)とクールに生きている。文章世界において再現された、昭和初期という自分の青春時代のなかで、彼は失われた時間・過ぎ去りし日々を懐かしんでいる。本当に乗り込めるタイムマシンを人類はまだ手に入れてはいないが、少なくとも広瀬氏は、自らの手で入念に調べ上げた過去の東京の街並みを、自らの作品に構築することで、文字という二次元のタイムマシンをすでに手中に収めていたのだろう。そこには、ほら、セイコー株式会社の前身・服部時計店の陳列棚がある。出火する前の白木屋百貨店が建っている。牛乳が一本五銭くらいで、エビスビールは三十三銭くらい―――。広瀬氏にとってタイムマシンそのものであった小説は、現代の我々読者にとっては、懐かしいものを詰め込んだタイムカプセルのようでもある。
タイムマシン―――。それは未来へ過去へと自在に往来できる夢の乗り物である。
タイムマシンに乗って、どんな未来に行こう。
タイムマシンに乗って、どんな人たちに会いに行こう。
けれど、今だったら、タイムマシンに乗って、三月十一日以前に戻りたい。気がふれたと思われても構わぬから、大きな地震が来るよ、巨大な津波が来るよ、だから今の内に早く逃げて、と叫んで廻りたい。私を含め、そのように思う人は多いかもしれない。タイムマシンは未来へも過去へも行ける乗り物だが、人はきっと、未来よりも、帰りたい過去が明確に見つかった時に、初めてタイムマシンの搭乗者になる。広瀬氏の「タイムマシン物」に、昭和初期へと向かうストーリーが多いのも、彼の中に帰りたい過去が厳然としてあるからだ、と私は考えている。
広瀬正という一個の天才は、一九七二年、心臓発作により四十七歳で突如この世を去った。彼が存命していれば八十六歳。私は、彼には長生きしてほしかったと思っているんだ。もう戻ってはこない懐かしい昭和の東京を、あれほど詳細に書き残した作家。彼にはぜひ長生きしてもらって、私にとって縁(ゆかり)の地である広島を、ピカが落ちる前の広島の街を舞台にして、一つ小説を書いてほしかったな、なんてわがままな事を儚く思うのだ。原爆ドームがまだ産業奨励館と呼ばれていた頃の、あの大きな丸屋根、瀟洒な佇まい。猿楽町通りに立ち並ぶ商店の数々。いろは旅館、岡本味噌店、益本建具店などなど……。商家の小父ちゃんや小母ちゃんたちが熱線でかき消えてしまう前の幸せな毎日を、広瀬氏が亡くならずに存命しているというパラレルワールドがあるならば、書いてほしかったと心底思う。けれどこれは、ファンならではの無理な願望というもので、広瀬氏の眠りを妨げるものであろう。
広瀬正の霊(みたま)よ、つまらぬ愚痴を云った、忘れてくれ給え。
収録作品
『ザ・タイムマシン』
『Once Upon A Time Machine』
『化石の街』
『計画』
『オン・ザ・ダブル』
『異聞風来山人』
『敵艦見ユ』
『二重人格』
『記憶消失薬』
『あるスキャンダル』
『鷹の子』
『もの』
『鏡』
『UMAKUITTARAONAGUSAMI』
『発作』
『おうむ』
『タイム・セッション』
『人形の家』
『星の彼方の空遠く』
『タイムマシンはつきるとも』
『地球のみなさん』
『にくまれるやつ』
『みんなで知ろう』
『タイムメール』
付録『時の門』を開く
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玉兎さんは、ジャンルを選ばず読む方でしたっけ
これって、SFショートショートの部類なのかな?
タイムマシンとパラドックスのテーマの小説は数多くあるが、この広瀬正のものも面白そうですね。
今度、探して読んでみましょう
2011/6/23(木) 午前 0:13
広瀬さんと同じ歳になっちゃいました。
マイナス・ゼロが好きでした。
☆
2011/6/23(木) 午前 0:29
岩魚さん、そうですねぇ。この『タイムマシンのつくり方』はSFショートショートに分類していいと思います。でもSFじゃない作品もいくつか入ってます☆『鷹の子』『にくまれるやつ』あたりが、SF以外の作品に当るかな。
付録として収録された『『時の門』を開く』は、ハインラインの『時の門』についての疑問点を、広瀬さんがこと細かく書き出したものなのですが、彼のタイムマシンや時間に関する執念(もうそれは本当に情熱を超えて執念と呼ぶにふさわしい)が垣間見えて、何がこの人をそこまで駆り立てるんだろうと思うほどです。
私は普段そんなにSFも外国作品も読まないので(読書のジャンルはかなり偏ってます^^;)、ハインラインの『時の門』も読んだことがないのですけど、この広瀬作品を知ってから、『時の門』や『夏への扉』など読んでみたくなりましたね。
2011/6/23(木) 午前 11:42
せんころさん、あらあら、広瀬さんと同じお歳になられたのですね^^。
四十代という年齢は色々と不調の出やすくなる年代ですよ。健康に気をつけて、この夏をお過ごし下さい☆
『マイナス・ゼロ』、私も好きです^^。あの緻密な設定とカシラ一家の親しみやすさが、何とも云えませんね〜。
2011/6/23(木) 午前 11:50