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現在、日本で起きていることは、世界に、或いは歴史に目を向けてみた場合、既に誰かが経験したことである。原子力の平和利用や原子力発電における安全神話の盲信。英雄を作り上げて、ともすれば彼らには名誉しか与えず、その英雄と呼ばれる人々の背後に隠れて、安全な場所で利益を貪る人間がいるという構図。酪農や農業・漁業はもちろんのこと、暴走した原発によって生業(なりわい)を失い、これまで懸命に築きあげてきたものも、将来の展望も一気に打ち砕かれてしまった人々の苦悩と絶望。これを見た限り、人類は過去の経験から何も学ばず、同じ過ちを何度も繰り返しているとしか思えない。
そもそも歴史を鑑みるに、人間は永遠に、絶対に壊れないものをこれまでに一度だって作り得たことがあっただろうか。器物にしても建築物にしても、人間が作るものは、時間の経過とともに傷み、破損し、風化していく。遠い過去に作られた物が現存している場合でも、それは、作られた当時の状態を万全に保っているとは云えない。補修に補修を重ねて、もしくは、再建に再建を重ねて、存在しているはずである。”形あるものは、いつか壊れる”などと警句を発していながら、それでは何故、原子力発電所だけが絶対安全と云い切れるのか。考えれば考えるほど、なぜ原発のみが永久不滅の施設のように賛美され、人々もそれを信じてしまうのか、私には解からない。人間というものは、死という滅びの道から逃れられない宿命を負っている。生まれれば必ず死に、生まれたということは、そこからすでに自らの死への道が開かれているということである。人間存在に永遠だとか無限というものは、はなから与えられておらず、人間は、いつか死ぬ、いつか終わるという有限性の中でしか生きられないようになっているのだ。その有限性に束縛されざるを得ない人間が、どうして原子力に関してだけ、永久に稼動し続けるものを、絶対に安全と断言できるものを創造することが出来ようか。いまだ人類は、自らの身体においてさえ絶対性も無限性も獲得できてはいないのだ。相対性と有限性しか持ちえたことのない人類が、原子力を扱うということに、私は禍事(まがごと)めいた誤謬(ごびゅう)を感じるし、そこはかとなき恐怖を覚える。 この記事を書いている折も折、二井関成(にい せきなり)山口県知事閣下が、上関原発建設予定地に関して、公有水面埋め立て免許の延長申請を中国電力側が申請したものの、それを認めないとの決断を下した。原子力エネルギーについての国の方針が定まっていないから、という、少々含みを残した理由ではあったが、今まで推進してきた事業を一旦凍結し、従来とは異なる政策へと方向転換することは、非常に勇気の要ることで、そこを乗り越えて新たな決断をしてくれたことに感謝したい。慣れきってしまっていた物の考え方や生き方を変える、疑問を感じることなく進んでいた道から踵(きびす)を返すというのは、実に容易なことではない。しかし、山口県という本州の端っこの土地が本来的に備えている、中央に立ち向かう力、変革を志向する原動力といったものを、このたびの原子力問題を考えるうえでもう一度、再認識し、発揮することが出来たら、一長州人としてこれにすぐる喜びはないと感じている。県知事閣下の英断を嬉しく思う。
ただ、そうは云いつつも現段階では、オセロゲームの黒白(こくびゃく)を争っているようなもので、いつ何どき、この判断がひっくり返されるか分からない。私個人は、上に挙げた誤謬性から脱原発の立場であるが、原発推進派の人々ももちろんいるし、地域ごとに原子力発電に依存する割合も異なっているから、事は非常に難しい。むしろ、山口県が上記のごとき判断を下せたのは、上関原発が「建設段階」であったからだとも云えるのである。これが、はや建設完了しており、発電所として稼動していたら、県知事閣下も同じ判断が下せたかどうか。したがって、現在、運転休止中の原子炉を再稼動させるか否かの問題について、その炉が置かれている地域の市区町村長や首長が苦慮していることも、そして電力面でも歳入面でも、原発への依存度が高ければ高いほど、再稼動させたいと考える立場の人が多くなるのも理解はできるのである。
けれども考えて見てほしい。福島第一原発のように、チェルノブイリ以来、全世界を動揺させ、驚愕させたこれほどの大事故を起こしておきながら、その事故を受けてヨーロッパ各国が脱原発路線に移行しつつある情勢の中で、ヒロシマ・ナガサキの原爆であれほど酷(むご)い被曝に苦しめられながら、今また、自国に抱え込んだ原子力によって被曝の危機に直面しているという最中に、まだ、原発をどうするかで国が迷走するみっともなさ。「日本はそれでも原子力を虎の子のように崇めるのか」と全世界から嘲笑されることの不利益を。
ヒロシマ・ナガサキの経験を経て、日本人は、原子爆弾の恐ろしさと戦争の惨(むご)たらしさ、平和への希求を国際社会にずっと訴えかけてきた。そのメッセージの強さ、全世界の人々に向けて語るべきことがあるという強味は、確実に日本の財産の一つになっていたはずである。それがどうであろう。今回のことで改めるべきは改め、踵を返すということが出来なかったとすると、ヒロシマ・ナガサキでのメッセージもきっと矛盾を孕むことになる。そうして、日本は、筋の通ったメッセージさえも発信できない国として顧みられなくなることは必至である。国際社会というものは、国際競争力の強い国や経済成長の著しい国、資源の豊富な国ばかりを尊重しているわけではない。日本のように、リーダーがコロコロ替わり、資源に乏しく、経済的にも不安を抱える国が、それでも何故、諸外国の人々から愛されているのかといえば、日本それ自体が特異な文化や国民の資質、思想、提言といったものを有しているからである。何ものにも代えられない独自のメッセージを持ち続けているということが、国際社会において日本が尊重される所以(ゆえん)ではないかと私は考えている。だからこそ、このたびの事故をきっかけに、これまで培ってきた日本の財産さえも毀損(きそん)することのないように、日本は、日本国民は立ち回らなければならないのである。
過疎地の人々の横っ面を、札束でひっぱたくようなやり方はもうやめて、オセロ盤上の黒白を取ったり取られたり、それを繰り返しながらでも良いから、徐々に、原発に頼らずに済む社会を形成していくほうが、最終的には日本人の為になるのではないだろうか。フクシマの事故を教訓に、日本は新たな再生可能エネルギーへの取り組みを世界に先駆けて始動した、と胸を張って云えたほうが、それがまた良い財産となりうるのではないか。
『チェルノブイリの少年たち』はドキュメント・ノベルなんだそうである。あまり聞かない言葉だが、プリピアーチの街にセーロフ一家が実在したわけではないということだろう。だが、チェルノブイリの事故後には、この小説に登場するセーロフ一家と同じような末路を辿った数限りない家族がいたであろうことは想像に難くない。そしてそれは、二十五年前のウクライナ地方に限ったことではなくて、原子力発電所を有する世界中の都市ならどこでも、ひとたび事故が起きれば、こういった家族が生み出される可能性を持っているのだ。「あの偉い連中は…」と、ターニャが叫んだことを、我々日本人が今叫んでいる。「畑や動物をどうするのか…」と、ストレリツォフが苦悩したことを、福島第一原発の周辺地域の人々が今、経験している。我々一人ひとりが、セーロフ一家になるかもしれないということを肝に銘じて読むべき作品である。
目次
運命の金曜日
大草原の惨劇
第二夜の訪れ
危険地帯からの脱出
孤独な少年
検問
病棟
捜索
キエフの空の下
イワンの脱走
チェルノブイリ現地の真相
福島第一原発事故のあと読了。
あまりにショックで日付を控えるのを忘れた。
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この記事が投稿されて、すぐ読んだのですが、なぜか日本も同じように真相が語られていない点はそっくりなんて思ったら、この国が嫌になってきて、コメントする気が失せちゃいました。
もう福島県全部がダメらしいが、パニックになるので政府発表できないなどと噂されていますね。
10年後、どうなるのかなぁ?
2011/7/1(金) 午後 1:49
岩魚さんへ。
ラインホルド・ニーバーというアメリカのキリスト教神学者の著作に『道徳人間と非道徳的社会』というのがありまして、どのような国でも、一人ひとりの国民は、良心的な人間であるのにもかかわらず、それが国家というまとまりになると、その国家の利益や戦略を優勢たらしめるために、非道徳的なことも平気で考え、実際に行う人間集団になってしまうという主旨が書いてあります。
おそらくソ連でも日本でも人間集団である限り、そう大した違いはないのかもしれないですね。国家や政府にとって恥ずべき失態は、国益を損ねないように、隠しておきたいと思うものなのでしょう。(その隠蔽行為が、実は最も国益を損なうものでもあるのですが…)
以下に続く。
2011/7/3(日) 午後 3:20
続き。
十年後、福島県だけでなく、日本そのものがどのような社会になっているのでしょうねぇ…。
福島県にどの程度の放射線量が残存しているのか分かりませんが、原爆を落とされたヒロシマ・ナガサキでさえ、今後七十五年は草木一本生えないだろうと云われていたにも関わらず、それでも再び、立派な地方都市として復活しました。私の母方の曽祖父母は、二人ともピカによる被曝者でしたが、それでも戦後三十年間、私が生まれる年まで生存してくれました。
フクシマも必ず再生します。
福島県のみなさんには、まだまだ苦しい時期が続きますが、自殺など考えず、生きていて頂きたいと切に願ってやみません。
2011/7/3(日) 午後 3:21
ギョクトさま、良くぞ、この記事を書いて下さいました。
私も、あの日の事故以来、流されるメディアの不透明さの中で、
原発に関わるあれこれの、意見を追い続けていました。
敗戦以来の国難の中、平和ボケしていた、私たち日本人にとって、
明確に、日本人の集合体としての、美徳と弱さが、
表裏一体となって、見え出しました。
もう一度、日本と世界の関わり、あらゆる角度から、捉えなおせという洗礼を、衝撃的に受けてしまいました。
まだ、勉強不足で、ギョクトさまのように、考えもまとまりませんが、
今ほど、日本の過去と現在、嘘をつく国家、半信半疑のまま、かつての悲しい歴史と同じように、流されていきかねない、日本人の特質というものを、注意深く見つめていかなければと、自戒しています。
2011/7/3(日) 午後 3:39
麗しのジョゼ様。
”日本人の集合体としての、美徳と弱さ”
そうですねぇ。ジョゼ様のおっしゃるように、今回のことでは、日本人(とりわけ東北の方々の)忍耐強さ、慎み深さといったものが、諸外国で良い評価を受けたのと同時に、その同じ日本人が、問題の本質から目を背けようとしたり、隠蔽しようとしたりと、そんなことをして何の得があるのかという態度に出る不思議さを露呈したように思います。諸外国にとって、日本のこの両面性はなかなか理解しにくいものなのではないでしょうか。
以下に続く。
2011/7/4(月) 午後 2:55
続き。
くしくも、日本人となられたドナルド・キーン先生が、ご自分の愛してやまない日本人の、この両面性について指摘していらっしゃいます。
キーン先生は、軍隊生活を送っていらっしゃった時、日本語が解かるということで戦争捕虜の尋問や日記の翻訳などをされたそうですが、聞き取り調査や日記などから垣間見える、日本人捕虜のつつましく、奥ゆかしい言動と、一億玉砕で軍国主義にひた走る激しさとが、どうして一個の日本人の中に同居できるのか理解できず、それが、日本へのさらなる関心を深める契機になったようです。
日本人の静と動の心の働き、美徳と悪徳、何か大きな出来事があると、この両面性がはからずも表面に現れてくるような気がしますね。
日本人って一体何なのでしょう。私も、このことをよく考えてみたいです。
2011/7/4(月) 午後 2:55
ギョクトさま、こんにちは☆
私も、先日、毎回欠かさず観ている、クローズアップ現代で、
ドナルド・キーン先生のお話が、強く心に残りました。
あれだけ、日本文学と日本人に愛情を注がれたキーン先生が、
人生の終焉の旅を、今、この時の日本に決められた、
そのお覚悟に、何だか、涙が出そうになってしまいました。
いつか読んだ本の中で、その国を知りたければ、
その国の文学を読めばいいと、書かれていましたが、
今頃になって私は、本を読む数が少なすぎたと、
恥ずかしく、情けないような気持ちになっています。
ギョクトさまの読む力、考える力、書く力に、
あらためて感服いたします。
2011/7/5(火) 午後 0:19
麗しのジョゼ様。
私もクローズアップ現代のドナルド・キーン先生の回、見ました〜。
彼のような高名な人物が、日本人として生きることを決意したと知った時には、(ああ、まだまだ日本も捨てたものじゃない)と安堵する気持ちになれましたね。
キーン先生に(日本人になってよかった)と心の底から思って頂けるように、私たちも日本という国の姿を美しく保てるように努力していかなくてはならないなぁ、と感じました。
私も勉強不足ですし、知りたい国があっても、なかなか、その国の文学まで手が廻りません^^;
それどころか、日本のこともよく知らなかったりします。先人が書き残してきた厖大な書物の海を、浮輪でちまちま泳いでいるような感覚が、どうしても拭えませんが、とにもかくにも泳いでみることだと思って、今日も書物の海にプカプカ浮いています^^。
2011/7/6(水) 午後 0:27
「プロジェクトX 挑戦者たち チェルノブイリの傷 奇跡のメス」をYoutubeで見直しました。小児性甲状腺ガンの治療をされた菅谷昭さんが映像の中で、「自分たちの国で起こった問題ってのは自分たちで処理すべきであるというのが基本と思う。」とおっしゃったのが心に残りました。立場や能力によって処理にどう携わるか違うとはよくわかっています。でも、関わろうという気持ちがいるんだと思います。玉兎さんは一歩はじめていらっしゃる。体調の悪さを抱えながらもはじめていらっしゃる…。私もこの本、拝読したいと思います。いつも紹介していただくばかりで自分のブログで読んだよって報告ができないでしたが、この本はぜひ読んだよ報告をブログでしたいと思います。玉兎さん、どうもありがとうございます。
2011/7/20(水) 午後 5:22
ookini_nekoさん、ほうほう、そういうプロジェクトXに、そういう番組があったんですね☆
「自分たちの国で起こった問題ってのは自分たちで処理すべきであるというのが基本と思う。」本当にそうですよね。。。なのに、日本は今回の事故では当事国でありながら、どこか他人事みたいなところもあって、問題の処理もなんだか後手後手。。。政治家たちも政局や政権奪取にばかり躍起になっちゃって、一致団結して物事に当たろうという気がないのかしらと、もどかしくなります。
私もこれまで無関心だったところもあるし、原発なんて嫌だなと思いながらも、自分の意見を述べるとか、声を上げるということをしなかった人間ですが、これからは、自分の住む地域の原発建設計画だけでも注視して行き、選挙がある時は、脱原発を掲げる議員に投票して行こうと決心しています。私の関わり方はこのくらいでしかありませんが、国民全体が、少しずつでも自分の問題と捉えていけば、新たな展開があるかもしれませんよね☆
2011/7/22(金) 午前 9:01
続き。
『チェルノブイリの少年たち』、厚みはそんなにないのですぐ読み終えられると思います。けれども読み終えた後、本当に人類は原子力に頼り続けていていいのだろうか?と暗澹たる気持ちにさせられる、そんな雰囲気を重厚に湛えている本です。
2011/7/22(金) 午前 9:01
玉兎さん、ここで紹介していただいた本を、拙ブログで話題にしました。玉兎さんが共感してくださるような記事となったかどうか……????
ここで紹介してくださったことで、広瀬さんのこの本を知り、手に取りました。
感謝の気持ちをこめてトラバさせていただきます。ありがとうございました。
2011/8/6(土) 午後 3:35
ookini_nekoさん、こちらこそ有難うございました!
記事を読ませていただき、私もまた新しい事柄に触れることができました^^。
「原子力の平和利用」という言葉に、なにかモヤモヤとしたものを感じている私ですが、現在進行形のこの問題を、少しずつでもいいから自分の問題として考えていきたいと思っています。
2011/8/7(日) 午後 11:04