フィロビブロン

無理にコメントを残そうとされなくても構いません♪いつでも自由に御覧になって下さい。

全体表示

[ リスト ]

 『義経 上』では、木曾義仲が京の都に入って占領し、平家がその都を退去、瀬戸内海沿岸一帯に拠ったところまでが描かれている。源義経が、かつて幼少期を過ごした都へ颯爽と登場するのは、この『義経 下』からである。木曾義仲は、後白河院の住まう法住寺御所を焼き払い、あまつさえ後白河院を幽閉するなど、その行為は横暴を極めていたが、西国に拠った平家軍は大いに軍威を上げ、京都への捲土重来を期する勢いを見せていた。また、鎌倉からも、源範頼(みなもとののりより)と義経とが、義仲追討のために派兵されることとなり、木曾義仲は袋小路に迷い入った猪のごとき様子を呈していたのであった。後白河院にとって懸念であったのは、追い詰められた義仲が自棄(やけ)を起こして都を放擲(ほうてき)し、自分を北陸の地に連れ去るか、悪くすれば殺してしまわないか、ということであった。
 
 後白河院が義仲に対して、「旭将軍」と尊称を送るなどして懐柔を進めていた頃に、頼範・義経軍は近江瀬田を大手、宇治を搦手(からめて)として、いよいよ京都を望見(ぼうけん)したのであった。軍勢はさして多くない。頼範軍八千騎、義経軍にいたっては僅か千騎ほどで義仲軍を制圧し、都を院の手に取り戻すのである。搦手を請け負うは御曹司(おんぞうし)義経、うち乗る駿馬は太夫黒(たゆうぐろ)、奥州仕込みの手綱さばきと華奢な体つきによって、あたかも雲上を行くが如くの軽々とした疾駆は、どこか神彩を帯びてさえいる。彼にとっては、この宇治川の合戦が初陣であるが、この鮮やかな身のこなしと馬の御し方は、居並ぶ戦巧者(いくさごうしゃ)たちを感心させたようである。
 
 そしてさらに、味方の軍勢を驚かせたのが、義経の指揮する行軍の速さと戦術であった。通常、大将や指揮官というものは中軍に在って、首を取られぬよう周囲の武者共に守られているものだが、義経の場合は違う。彼自身が前線に立って馬を駆けさせ、他の将校らを叱咤しながら、ぐいぐいと軍勢を引っ張っていくのである。自然、義経軍の行軍は圧倒的な速度を持つ。この速度あるがゆえに、義経軍の通る道々の住人たちは、その速度を超えて噂を伝播させることが出来なくなってしまう。義経軍がどこへ参集し、どこに埋伏し、どこから攻撃を仕掛けるのか、そういった諸々の情報を平家軍が得ることを不可能にしてしまうのである。「兵は神速を尊ぶ」(魏志)とか「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを賭(み)ざるなり」(孫子)といった唐(もろこし)の兵法を、義経が知っていたかどうかは不明だが、速度を維持することの重要性と、それによって自軍と敵軍の情報をもコントロールする有益性を理解する、そういった感覚を彼は生得的に身に付けていたように思われる。
 
 それから、彼の戦術・戦法。現代人から見れば、騎兵や歩兵を戦術的に配置し、展開させることは、至極当然のように思えるが、司馬遼太郎氏の言葉によれば、義経の時代には、そういった考え方自体がなかったようである。戦はとにかく数量的な勢いだけであり、数を恃(たの)んでひた押しに押していく。兵の数が敵軍よりも劣っていれば、個々の武勇と士気を頼りに切り結ぶ。要するに、騎兵も歩兵も戦闘フィールドをバラバラに動くのであり、個人個人の戦いの結果として軍全体の勝ち負けが決まるということだ。しかし、義経は自軍を、戦術・戦法という軸によって、一個の機動力として扱った。武将ら個人の勇猛果敢さに依存するのではなく、戦場を武士(もののふ)の名誉を主体とした華麗な働き場とするのでもなく、軍勢を、勝つために有機的に動かし、戦場を、勝つためのフィールドとして措定(そてい)した。それは、源平の当時にあっては非常に画期的なことだったのである。
 
 宇治川の合戦では、木曾義仲の配下である志田義広勢を切り崩しつつ宇治川を渡りきり、本来ならそのまま、当時の流儀通りに各々が義仲の陣所へどやどやと押し寄せるはずだったのが、義経の采配で、その勢いはまず一旦とどめられた。そして彼は少ない自軍をさらに四隊に分け、四方から義仲を包囲していく戦法を採ったのである。鎌倉を発してから洛中に到るまでの進軍が速やかであったことも手伝って、木曾義仲は義経の到来予想を読み違え、包囲されたことで敗退し、結果、近江で戦死した。兵数という物量によって勝敗が決まるのではなく、迅速な進軍と情報、そして、たとえ小人数であろうとも戦術によって勝利を得ることが出来るということを、義経麾下の坂東武者たちは目の当たりにしたわけである。
 
 これ以後、源義経という若者は、一ノ谷讃岐の屋島長門の壇ノ浦へと転戦していく。一ノ谷や屋島の合戦では、難路を迂回して平家軍の背後に出現し、これを大いに破り、壇ノ浦の海戦では、戦に先立って激しい潮流の観測までも行って、どの潮が源氏にとって勝てる潮かを見極めている。速度、機動力、戦術、情報、誰に習ったわけでもないが、戦という局面に関して云えば、この武将は稀有な才能を有していた。それぞれの戦の勝敗は歴史が物語る通りである。
 
 しかしながら、義経のこの才能は、兄・頼朝の息のかかった武将らには非常に受けが悪かった。義経が新しい戦い方を持ち込んだために、先陣を切って疾駆するために、彼らは従来どおりの戦が出来ない。義経自身が誰よりも先に大将の首級を狙おうとするため、彼らは手柄を立てることも覚束なくなるのである。身分ある武将の首級が取れなければ、御家人は恩賞にあずかることが難しくなる。義経の新思想は、坂東の御家人たちの生活までをも脅かすかもしれない、極めて迷惑なものであったのである。加えて、彼ら坂東武者にとっては鎌倉の頼朝こそが主上であり、義経は腹違いの弟とはいえ、頼朝の御家人、いわば自分たちと同等の立場であるに過ぎない。そこを、義経は理解せず、鎌倉衆を家臣扱いした上、彼らにとっては呑み込みにくい戦い方を、十分な説明もなしに下知することがしばしばであった。義経を嫌う軍監・梶原景時(かじわらのかげとき)などは、戦況報告書を、あえて義経の戦功を無視した形で認(したた)めて鎌倉へ送るほどに、義経と反目しあっていたのである。
 
 合理的―――というのであろうか。義経の戦の仕方だけを見ると、作戦に冗長な部分がなく、極めて合理的な戦い方をしているのである。そして何よりも、刻々と移り変わっていく戦況を敏感に読むということに長けている。戦という主題が目の前にあれば、義経は確かに、奇才を発揮することが出来たのである。それが一旦、戦という大きな主題から離れて、例えば宮廷での人付き合いや鎌倉方面との関係構築といった政治的・サロン的な場に置かれると、その合理的精神や場の空気を読むといった感受性は嘘のように引っ込んでしまう。他人の真情を図れない、政治的配慮が出来ない、そういった無邪気すぎる子供のような男になってしまうのが、本作品の義経なのだ。この源平の時代には珍しい合理的精神を持って生まれながら、平家打倒のみが悲願、亡父・源義朝の仇を雪(すす)がねば、という直情径行型の性格も形成されたことが、義経にとっては不遇の人生の始まりだったのかもしれない。
 
 義経は孤立していく。頼朝の御家人とされながら、後白河院の覚えもめでたい彼は、頼朝の許しを得ることもせず、検非違使の太夫尉(たゆうのじょう)、俗に云う、判官(ほうがん)の位を受けてしまう。れっきとした殿上人であり、これによって彼は鎌倉の武家でありつつ、京都の公家でもあるという矛盾する立場に立つことになった。合理的性格直情的性格武家でありながら公家という二重の矛盾が、彼を孤立へと追いやるのだ。義経もまさか、あれほど憎んだかつての平家のように、自分が武家と公家との二面性を持つとは思わなかっただろう。
 
 この司馬遼太郎氏の『義経(上下巻)』では、演劇や講談で語られるような伝説的で美麗な義経というものはあまり書かれていない。書かれているのは、人間・義経である。兄との関係を好転させることも出来ず、後白河院に利用されていることにも気付けず、矛盾や破綻を抱えながら、平家打倒に没頭していくしかなかった義経の姿である。そして、源氏の血を愛し、源氏の悲願成就の大功労者であった彼が、その戦功に一切報いられことなく、尾羽打ち枯らして追い立てられていく姿に、我々読者はそっと自分を重ね合わせてみるのだ。
 
 人間・義経には、奥州を脱しての北行伝説もない。彼は衣川で自害し、酒漬けの首級となって初めて鎌倉の兄の元へと帰還することが出来たのであった―――。
 
目次
旭将軍一騎
堀川館
鵯(ひよどり)越
八葉の車
屋島へ
讃岐の海
源氏八百艘
壇ノ浦
波の上
都大路
磯ノ禅師
腰越状
堀川夜討
浦の逆浪
 
                                             平成二十三年六月十日 読了
 
 
本好きな方はクリックしてみて下さい。圧倒的な数の本関連ブログに出会えます!
また、ランキングにも参加しておりますので、応援ポチとして押して頂きますのも、大変励みになります。
イメージ 1
 
←にほんブログ村 読書備忘録へ
 
イメージ 2
 
←人気ブログランキングへ
 
イメージ 3
 
←blogramへ
 
 
 

閉じる コメント(5)

判官贔屓の多いこの国では、義経の事が格好のテーマでアレコレか枯れていますね

子どもの頃、義経物語を読み、衣川で弁慶の立ち往生の場面では何回読み直しても涙が止まらなかった

この本では、弁慶も普通の人間で描かれていたんですか?
それとも、架空の人物扱いで、大勢いる家来の一人だったんでしょうか?

2011/7/13(水) 午後 2:05 岩魚 返信する

義経は愛読書です。
頼朝が義経を殺さなければならなかった理由は、筆者の司馬さんにも明快な答えがなかったのかもしれませんね。
ポチ☆村ポチさせていただきます。

2011/7/14(木) 午前 9:54 もう一つの夏の日 返信する

顔アイコン

岩魚さん、こんにちは^^。
日本人は(…と、一くくりにするのはアレかもですが)義経が好きですよねぇ^^。
頑張っているのに報われないという部分に、自分の人生も重ねてしまうからなのかも知れません。あと、なんていうか落魄の美学っていうんですかねぇ…。
この司馬さんの『義経』では、弁慶はかなりの存在感で登場しますが、その弁慶のほうがまだしも義経よりも政治的感覚に優れているように書かれています。そして、奥州からの佐藤兄弟は爽やかめな印象。
講談や演劇などでは、弁慶の立ち往生とか勧進帳の段とか、そういう部分がハイライトになってきますが、この作品ではそのどちらも触れられていないんです。
そういう点では、弁慶にも伝説的性格を殆ど負わせていないというか、人間・弁慶が前面に出ているという感はありますね☆

2011/7/15(金) 午後 1:08 山田ギョクト 返信する

顔アイコン

もうひとつの夏の日さん、こんにちは^^。
頼朝・義経兄弟の仲が良かったら、鎌倉政権はどうなっていただろう?と思うことがあります。
この司馬さんの『義経』、最後の最後に、頼朝が首になった義経を見て「悪は滅んだ」とひとりごちるシーンがありますよね。それを読んで、読み手は(頼朝にとっての悪ってなんだろう?)と思うわけですが、同時に「悪」という言葉に司馬さんはどんな思いを込めたのだろう、とも思います。
「義経」という存在は、今を時めく鎌倉政権にとっての「悪」だったのか、兄・頼朝の立場を危うくする「悪」だったのか、武家文化に反して公家文化に迎合しようとした「悪」だったのか、色々に考えられます。

以下に続く。

2011/7/15(金) 午後 1:47 山田ギョクト 返信する

顔アイコン

続き。(上のアイコン、いつものと間違えました^^;)

そして「悪」という言葉が「悪源太義平」のように「猛々しく強い者」の意味をも持っていることからすると、「悪は滅んだ」という頼朝のつぶやきは「自分よりも強い者が滅んだ」と解釈することも可能です。頼朝は弟のことを憎んだというよりも、ひたすら恐れていたのかもしれません。
この『義経』の終わり方はひどく抽象的で、よく解からない感じもするんですけど、この兄弟の間に横たわった「悪」がどういうものなのか、司馬さんは読者にも考えてほしかったんじゃないかなぁと思っています^^。

2011/7/15(金) 午後 1:48 山田ギョクト 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(1)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事