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 私の母方の曾祖父母、および彼ら夫婦から生まれた祖母は広島の人間である。家は、横川駅から太田川に沿って北へ少し上がった所にあったらしく、母と山陽本線に乗って山口〜広島間を行き来する時には、横川駅を通過するたび、「お母さんが小さい頃は、夏休みなんかに、ここから太田川を上(かみ)に行って、お爺ちゃんお婆ちゃん(私にとっての曾祖父母)の家に遊びに行きよったんよ。山に近かったけー、涼しくてね」などと教わっていた。
 
 横川駅と原爆ドームは直線距離にして二キロメートルあるかどうか、といったところだろうか。原爆投下時、曾祖父母が横川の自宅にいたのか、それとも広島県のどこか別の場所にいたのか定かではないが、やはり、というべきか、彼らはピカによって被爆した。その後の人生は二人とも被爆者手帳とともにあり、それでも、曽祖父については、戦後三十年の一九七五年(昭和五十年)、私が母のお腹の中にいる頃まで頑張って生きてくれていた。胎児だった私も、もう少し気を利かせて、早めに「おぎゃあ!」と生まれて来ていれば、曽祖父もひ孫の顔を見てから、あの世へと旅立てたかもしれないのだが、なかなかそうはいかない。残念なことであった。
 
 曾祖父母の娘、私にとっての祖母だが、この人は娘時代には原爆ドームで働いていた。といっても、一九四〇年代当時は『広島県産業奨励館』といって、舶来品や地域の物産を紹介したり、美術展などの催し物を開催したりと、最先端の情報を発信する、それはそれはハイカラでハイソサエティで非の打ち所のない美しい建造物であったのだ。チェコ人、ヤン・レッツェル設計。このハイカラでハイソでモダンな『広島県産業奨励館』は、祖母を含む広島のモボやモガたちが、誇りと共に日々仰ぎ見たくなるような美麗なドーム屋根を有していた。あの日、エノラ・ゲイが、何の前触れもなくピカを落としてくるまでは。
 
 広島市上空にピカが投下された時、祖母は産業奨励館にはいなかった。この「いなかった」事情がどういうものなのか、詳しくは分からないのだけれども、戦争激化にともなって、ピカが投下される前年の一九四四年(昭和十九年)には産業奨励館としての業務は廃止され、内務省中国四国土木事務所広島県地方木材株式会社といった機関の事務所として使用されていたらしいから、祖母はその頃には退職していたものと思われる。祖母がいつ頃、山口県の祖父のもとへと嫁いできたのか、これも詳しい年月日を知らないのだが、ひょっとすると退職を機に結婚して広島を離れ、爆死を免れることができたのかもしれない。頭上で炸裂した原子爆弾が、ピカッと閃光を放って、ドンと凄まじい爆裂音が轟かせたその一瞬間に、館内にいた職員たちは全員即死していた。ここにもし祖母が残っていたら、祖母から生まれてきた母も、そして私も、決してこの世に存在することはなかっただろう。
 
 『原爆ドーム』なんて云うと、爆撃直後から現在までの歴史しか示していないようで、私たち家族にとっては少々寂しいような気がしてしまう。祖母が青春時代を過ごした職場であったという、爆撃前の歴史も大事にしたくて、我が家ではいまだに『産業奨励館』と呼ぶことも多い。それくらい、私にとっても母にとっても、今の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)や横川駅は、思い入れの強い場所なのである。そして、井伏鱒二が遺した小説『黒い雨』の主人公・閑間重松(しずましげまつ)が被爆したのも、この爆心地から程近い横川駅のプラットフォームであった。
 
 『黒い雨』は、閑間重松とその妻・シゲ子、そして姪であり養女でもある高丸矢須子、この三名の戦中日記によってその大部分が占められている。本作品は、戦後数年を経てから、重松が自分の日記と矢須子の日記を清書し直していくというスタイルで進められており、我々読者は、彼らの日記を読むことで、原爆投下直後からの広島市内の様子を知ることができるようになっている。なぜ、作中で重松が家族の戦中日記を清書しているのかといえば、それは矢須子の縁談を無事に取りまとめる目的のためなのであった。矢須子は年頃の娘で、良家との縁談が持ち上がったばかりなのだが、彼女が原爆症に罹っているのではないかという噂が断続的にちらほらと流されるために、これまでどうしても縁遠く、養父の重松としては、矢須子の原爆症の疑いを晴らすために、原爆投下時の閑間家の行動を再度検証する必要があったわけだ。
 
 文章の主な構成は以下のとおり。
◎高丸矢須子の日記。(昭和二十年八月五日から八月九日までの分)
 
◎閑間重松の被爆日記。矢須子の日記の付録篇として。学校の図書室に納めるつもりだが、その前に矢須子  の縁談の世話人にも見せようと考えている。(昭和二十年八月六日から終戦の八月十五日までの分)
 
◎閑間シゲ子の手記。矢須子の日記の付録篇として。タイトルは『広島にて戦時下に於ける食生活』。
 
◎閑間シゲ子による『高丸矢須子病状日記』。(矢須子の縁談が持ち上がったのが、終戦後の四年十ヶ月目とあ り、その後、原爆症を発症するので、おそらく昭和二十五年の七月二十五日から七月三十日までの分)
 
◎湯田村・細川医院院長の義弟による手記。タイトルは『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』。(昭和二十年  七月一日・赤紙召集〜八月六日・被爆〜戸坂の国民学校仮収容所〜八月八日・自力での庄原国民学校行き 〜八月九、十日にかけての熱傷治療〜八月二十三日・府中町の細川医院分院への移送〜翌二十四日から  原爆症発症により闘病生活という流れで記されている)
 
◎岩竹軍医予備員の奥さんの速記記録。夫である岩竹博の安否を確かめるため、噂を辿りながら、広島陸軍病 院焼け跡〜戸坂国民学校〜庄原国民学校と歩き回り、その庄原で夫を見つけ出したことや、彼の闘病生活に ついて書かれている。

 すべての日記や手記は、広島に住む一般市民の視点から、体験者でないと決して語れない詳細さと共に、実に淡々とした筆致で記されている。戦争や原爆投下に対する声高で激しい疑問提示や反対論というものはほとんど見当たらないと云っても良いだろう。ただただ、自分たちが見聞きし、体験した、八月六日から数年後までのことが、克明な観察記録として我々読者の前に披露されるのである。国家戦略だの政治的意図だのを背負っての、わざとらしく飾った言辞とは違う、一般市民の生の声が本作品には表現されているように思う。
 
 それだけに、戦争さえなければ、家庭内の出来事や学校や職場で経験したことなど、ささやかな幸せと悩みが書き綴られるばかりであったろう普通人の日記に、赤ん坊を抱いたまま焼け焦げた母親や水を求めて防火水槽に顔を突っ込んだまま腐乱した遺体、不気味な色を放ちながら濛々と上空へ昇っていくキノコ雲の恐ろしい様子、肉親が見ても、それが自分の身内とは判らないほどの熱傷を負った市民の無惨な姿などの描写があるということの異常さが際立つ。戦争をおっ始め、それを継続するのに、どんなに正当な理由があるように思えたとしても、何の罪もない国民にこんな酷い日記や手記を書かせるようなことを、国家は絶対にしてはいかんのだという、静かな反論がそこにはある。
 
 矢須子と自分の日記を清書するうちに、重松は、矢須子が黒い雨を浴びていた事実に突き当たってしまう。重松とシゲ子、そして矢須子の三人は、原爆投下時、それぞれ別々の場所(重松は横川駅、シゲ子は千田町の自宅、矢須子は古江町)にいて爆死からは免れたものの、一緒に避難するために広島市内を長時間にわたって歩き回ってしまったのである。矢須子にいたっては広島市から十キロメートルほど離れた古江町にいたにもかかわらず、重松夫妻と合流しようとして入市し、彼らと再会できた時には既に、その肌や衣服にコールタール状の黒い雨だれの痕を付着させていた。洗っても洗っても、なかなか拭い取れない油脂のような黒い染みが、数年を経て矢須子の体に重篤な健康被害をもたらすようになるとは、その時の重松らには予想することすら出来なかったのであった。
 
 皮肉なことに、縁談の取りまとめに先立って、矢須子の健康を証明しようと、重松が日記の整理を始めた頃に、彼女は原爆症を発症してしまう。発熱から始まって、臀部(でんぶ)の腫れ物、頭髪の脱毛と続き、激しい耳鳴り、歯茎の発赤腫脹、全身の疼痛、白血球異常などで、彼女の体は急速に衰えていった。自宅で看病するには限界があり、矢須子は九一色(くいしき)病院に入院。重松は、原爆症の噂によって姪が縁遠くなってしまったことに加え、実際にその原爆症を患ってしまった事実について、ずいぶんと責任と負い目を感じている。
 
 そもそも、矢須子を養女として広島市に呼び寄せたのは、ほかならぬ重松だったのである。姪の矢須子を、戦時中の厳しい徴用から逃れさせ、比較的安楽な仕事をさせるために、実家の高丸家から広島市内に住まわせ、コネを使って、日本繊維株式会社・古市工場に受付係として勤務させたのが重松だったのだ。しかし、広島への原爆投下によって、かえってそれが裏目に出る形となってしまった。矢須子本人に対しても、実家の高丸家に対しても、申し訳が立たないと落ち込んでいるのが閑間重松なのであった。
 
 重松とシゲ子は、何とかして矢須子を助けてやりたいと、藁をも掴む気持ちでいる。そんな時に、湯田村の細川医院の院長先生から手に入れたのが、先に挙げた『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』と、その岩竹さんの奥さんの手記である。この岩竹さんという人物は、細川医師の妹婿すなわち義弟である。軍医予備員として徴兵された矢先、広島で被爆するのだが、全身にわたる重度の熱傷という重い症状を抱えながらも、命からがら湯田村まで帰還した人である。火傷で組織が崩れた耳や頬に大量の蛆虫が湧き、その蛆虫に右耳を食いちぎられ、手の指も溶けてくっ付いてしまい、板切れのようになった状態で闘病生活を送り、奇跡的に回復したという経歴を持っている。手記には、輸血、リンゲル注射、桃や生卵などによる食事療法といった岩竹さんの闘病の様子が事細かに書かれており、それが矢須子の治療にも参考となる部分があるのではないかと、重松たちは九一色病院に提出したのであった。
 
 このくだりで、ひとつの「ゆらぎ」のようなものを読者は体験することになる。この『黒い雨』という作品は、原爆投下や広島市内における死屍累々の惨状といった、決して尋常ではない、想像するだにも恐ろしい様子をあくまで淡々と語り、透徹した観察眼でもって進行されてきた。あえて云えば、小説の材料としては山場だらけの原爆投下日から終戦日あるいは数年後までを、平板な調子で、ほとんど起伏なく語っているのである。したがって一見すると、小説全体としての盛り上がりはどこにも無いようにも思えてしまう。ところが、シゲ子から『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』を手渡された九一色病院の院長先生が、それを読みながら、ふと奇妙な表情を浮かべるのである。戦後の穏やかな夏の日、九一色病院内での「ゆらぎ」は、岩竹さんの手記のこのような記述に端を発している。
 
 

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