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かなり変わった作品でビックリしてしまった。
この『ゼーロン』を書いた牧野信一という作家は一八九六年〜一九三六年を生きた人で享年四十歳。かなり短い生涯である。それというのも、神経衰弱にかかって、居所を転々と変える不安定な生活を送った末に、妻とのいさかいから首吊り自殺を遂げてしまうからなのだ。本人は自殺してしまうくらいだから、きっとどこか気弱で繊細な性格を持ち合わせていたのであろう。しかし、本作品はそういう気弱さとか繊弱なイメージにはそぐわないくらい、どこまでも奔放でミュージカル的な印象が漂ってくるのである。こういう云い方が的確かどうかは分からないが、繊細で引っ込み思案で、自分の感情を周囲の人に遠慮して押し殺してしまうような人が、精一杯、明るく元気なふりを装って知っているかぎりの歌を謳っている、そんな感じなのだ。
この『ゼーロン』が生まれるきっかけとなったのは、牧野信一の知人である彫刻家の牧雅雄が彼をモデルにして「牧野信一像」を製作したことである。この「牧野信一像」は、第十六回日本美術院展に出品され、彼は自分がモデルとなった彫刻作品を『ゼーロン』に登場させて、重要なアイテムとして活用しているのだ。作中では、「牧野信一像」は「マキノ氏像」、彫刻家の「牧雅雄」は「経川(つねかわ)槙雄」という名前で登場する。牧野信一本人は、主人公の「私」である。
「私」は「新たな原始生活」を送ることを決意し、家財道具一切を処分している最中であるが、処分に困ったのが、自分をモデルに作られた「マキノ氏像」である。どうしようかなと思案した「私」は、自分の芸術活動の良き理解者である藤屋氏に預けることを思い立ち、大きな登山袋にその像を包んで、一路、藤屋氏がいる竜巻村まで向かおうとするのであった。藤屋氏は今で言う、芸術村の支援者のような人物で、若い芸術家達に創作の場を提供しているのである。その施設一帯が竜巻村にあるのだ。文中に「箱根連山と足柄連山の境界線に――云々」とあるので、神奈川県付近と思われる。
その竜巻村までがかなり遠いらしく、「私」は村に向かう前に知り合いの水車小屋を訪ね、馬を一頭借り受けることにする。その馬の名前が「ゼーロン」である。しかしこのゼーロンがまた、敏活だった以前とは全く違う馬になってしまったかのように、鞭で叩いても歩かないほどの怠け馬になっているのである。作品の流れの殆どは、この怠け者のゼーロンの扱いに悪戦苦闘する「私」の描写に費やされている。そして、その部分が先ほど述べたように、非常にミュージカル的なのである。
例えば、全く前進せず、草を食(は)んでばかりのゼーロンに対して、「私」はこんな台詞で叱咤激励している。
「ゼーロン。お前は、強欲者の酒倉を襲って酒樽を奪掠するこの泥坊詩人の、ブセハラスではなかったか! あの時のようにもう一度この鬣(たてがみ)を振りあげて駆け出してくれ。これでも思い出せぬというならば、そうだ、ではあの頃の歌を歌おうよ。僕が、このBalladを歌うとお前は歌の緩急の度に合わせて早くも緩やかにも自由に脚並みをそろえたではないか」
そう、のたまった後、「私」は実際に「古い自作の『新キャンタベリィ』と題するBallad(うまおいうた)を、六脚韻を踏んだアイオン調で朗吟しはじめた」のである。
また、「私」はこんな台詞も言っている。
「五月の朝まだきに、一片の花やかなる雲を追って、この愚かなアルキメデスの後輩にユレーカ!を叫ばしめたお前は、僕のペガサスではなかったか! 全能の愛のために、意志の上に作用する善美のために、苦悶の陶酔の裡(うち)に真理の花を探し求めんがために、エピクテート学校の体育場へ馳せ参ずるストア学生の、お前は勇敢なロシナンテではなかったか!」
そして「私」はゼーロンに向かって「ホメロス調の緩急韻で歌った」りするのである。
こんなクドイ言い回しを実生活で聞かされたら、かなり恥ずかしい。確かに、西洋の古典とかを読んでいると、こういう修飾語がやたら多すぎて、主語が一体なんだったか見失うような表現方法に出くわすことも往々にしてあるのだけれど、日常生活でこれをやられると、まるで過剰演出の古典劇かミュージカルを、有無を言わさず観覧させらているような気分になるだろう。過剰演出という名のバスにいつも乗り遅れてしまう私としては、ルー大柴の芸風に一日中どっぷり浸かっているような疲労を感じる。
しかし「私」はこれらを素でやっているわけではないのである。明らかに「私」には、ゼーロンと共に文学作品の登場人物を演じているという意識があるのであり、それを刹那的・享楽的に愉しんでいるような雰囲気が感じ取れるのだ。あるいは別のペルソナを豪快に演じることで、自分自身の内奥に潜む弱さや欠点といったものを周囲に気取らせないようにする精一杯の努力とでも云ったらいいだろうか。
この作品の最後、ゼーロンがとあるきっかけで奔馬となって疾走するシーンがあるのだが、そこでは既にミュージカル的な感覚を超越して、「私」は幻想的な夢の世界に身を置き始めている。肖像画に描かれた鹿爪らしい顔の父が絵の中から抜け出てきて、背中に背負われた「マキノ氏像」と戯れ、「私」もゼーロンも宙に舞いながら四人組の踊り(カドリール)を踊り出すのである。こういう結び方をよくよく読んでみると、牧野信一自身の精神が破綻をきたし、徐々に壊れていく様を透かし見ているような不吉な気分にさえなってくる。
一見、ミュージカル的であり牧歌的でもありながら、その作者が重い神経衰弱から死を選んでいるという事実。
この『ゼーロン』を何度も何度も読み返し、たとえば玉ねぎを層を一枚一枚剥ぐようにして味わうことが可能ならば、その核となる部分には、牧野信一の他人に決して語ることのなかった苦悩が厳然として在るのかもしれない。そんなことも思う。
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「ゼーロン」と聞くだけで懐かしい。どうして「ゼーロン」が出てくるかと思うと不思議です。古い作品集、それも目につかない図書館片隅。それとも新しく文庫本にでもなったのでしょうか。牧野信一は面白いけど忘れられた作家ですね。
2009/11/20(金) 午後 0:09 [ 遠い蒼空 ]
こんにちは。ゼーロンへのセリフを読むととても力強い意志を感じますが、投影なんでしょうか。あるいは、ある時点を契機に鬱のような傾向になってという結果なんでしょうか。何故かわかりませんが、加藤和彦さんがふっと思い浮かびました。何かをきっかけに自分を追いつめてしまうのですね。心に病はそれこそ百人百様でしょうから。
2009/11/21(土) 午前 11:29
遠い蒼空さん、コメント下さり、有難うございます!
何故『ゼーロン』か、といいますと、私が現在読み進めている『百年小説』(ポプラ社)という大きな本の中に、この『ゼーロン』も収録されているからなのです^^。
『百年小説』は明治・大正・昭和期の文豪による短篇小説が収録されていて、よく知られた作品もあれば、現代では埋もれてしまった作品も載っています。今回の牧野信一の『ゼーロン』はどちらかというと後者といえるでしょうね。
『百年小説』自体はごく最近刊行された物で、厚さ七センチ・重さ二キロのブロックみたいな外見の本です。
<『百年小説』を読む>の書庫には、今まで順に読んできた収録作品の感想が置いてあります。遠い蒼空さんにとっても懐かしい作品がまだまだあるかもしれませんよ^^
2009/11/22(日) 午後 9:56
彩陶庵・白田さん、コメント下さり、有難うございます!
この『ゼーロン』で描かれている「私」の演劇的な行動や心理状態をどのように捉えたらいいのか、実は私もよくは分かっていないんです^^;「私」が像を届ける途上でしていることは、「私」とゼーロンとの二人だけで行う観客なしの純粋な演技とも云えます。
加藤和彦さんももしかしたらそうであったかもしれないのですが、演技したり音楽活動を行うような一見華やかな現場に身を置く人は、その実、誰よりも孤独を感じているようにも思えます。華やかな舞台が終わった後の寂寥感・祭りの後という感覚を常に感じなければならない宿命があるというか…。
幼い頃引っ込み思案だった人が芸能人になっている例をよく見ますが、繊細な感受性を持っている人ほど、それを自分の内奥に秘めて、全く正反対の役割・人間を演じたくなるものなのかもしれません。そして、どんなに喝采を浴びても祭りの後には、たった独りになるということが繰り返されるたび、秘めたはずの孤独が頭をもたげてくるのかも、とも思います。
2009/11/22(日) 午後 10:19