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『砂の女』(阿部公房) 新潮文庫 第六十六刷 476円+税<一>からの続き。
『砂の女』という作品には、寓話的部分・現実的部分・男の独白的部分が混在している。どことも特定されていない砂丘で名も明かされない部落の人間たちが、砂地の蟻地獄よろしく、足を踏み入れた外部の人間を引きずりこむようにして砂掻きに従事させているという、ありえそうもない場景が基本となっていながら、その部落の人間の口から「県庁の人」「補助金」「飛砂の被害は、災害補償の枠に入っちゃいない」など、その部落が固有の名称を持つ市区町村ででもありそうな単語がポロポロと出てくるのである。読者からすれば、どこの地域とも分からない寓話性の強い話であるくせに、その砂丘に住む人たちが「県」というからには、そこは確かにどこかの「県」なのである。
だが、この『砂の女』を何かの暗喩であるとか、寓話的メッセージを的確に読み取ろうとか、そんな風に意気込んで読む必要は必ずしもないのかもしれない。入り乱れる寓話性と現実味と結局のところは男にしか解からない独白は、そんな風に「解かろうとすること」に何の意味があるって云うんだい?と、皮肉っぽい表情を我々に向けているかのようでもある。ただ、そうは云っても、家を守る為に来る日も来る日も砂を掻きつづけるという行為の中に、そして、その穴に落ちた男がそこから抜け出そうにも抜け出せないという状況から、読者が何らかの意味を見出だそうとせずには居られないことも、この『砂の女』という小説は見越しているのであろう。
来る日も来る日も砂を掻く。掻いたところで、掻かなくて良い状態がいつの日かやってくるわけでもなく、掻いた分だけ、また翌日は砂が積もっている。同じ作業を繰り返す日々。判で押したような、単純で何も起こらない日々。他の穴の中の家がどういう暮らしなのかは知る由もないが、おそらく自分と似たり寄ったりだろうと思うことで自分を納得させる日々………。
これは、私の、我々の、人間の生活そのものではないか…。
私たちは毎日毎日、この部落の人間のように、砂を掻くが如き生活をしている。家から職場へ出向き、仕事をして帰る。決め事のように同じ内容の家事をこなす。食べて、風呂に入って、寝る。たまに、昨日とは違う何かが起こったとしても、それは風の気まぐれで、砂丘に見慣れない風紋が偶然出来たのと同じくらいのものだ。その風紋が美しい時もあれば禍々しい時もあるかもしれないが、明日になればまたいつもの風が吹き、昨日の景色は跡形もなく消えているものだ。そしてまた、砂を掻く。砂を掻くことを怠れば、家は、生活は、あっという間にひしゃげてしまうのだから。
穴に監禁され、そこから脱出を試みてばかりいる男は、「珍奇なもの」を求める傾向にある。ハンミョウの新種を発見したいという、砂丘に来た動機がそれを物語っている。男の職業は教師だが、その砂を掻くような教師の職とは別に、彼は新種の虫を見つけ、自分の名を昆虫大図鑑に半永久的に留めたいという、地味ではあるが、明確な野心を秘めているのである。俺は砂を掻くような生活はもうごめんだ、俺はそういうやつらとは違うんだ、俺が新種のハンミョウを見つければ、俺の名は図鑑に載り、砂を掻くばかりの人間とは違うということが立証できるのだ。そんな思いが彼の中にあったのかもしれない。そしてそういう思いは、我々の中にもあるものだ。
私自身、「珍奇なもの」を求めて故郷をあとにした人間であった。珍奇なもの、何か華やかなもの、何か新しいもの、何か人とは違うもの、何か人に自慢できるもの…そんなあやふやなものを求めて、私は砂穴から出たのだ。けれども砂丘の表面に出てみれば私のような人間はいくらでもいる。その中で本当に「珍奇なもの」を手に入れられるのはほんの一握りの人間で、私は自分がまぎれもなく凡人で、あきれるくらい凡才であることを痛感させられただけだった。そして私は自発的に砂の家に戻ったのだ。
男にとっても砂丘の表面に「珍奇なもの」は見つからなかったのだろう。彼もまた、地表に思いを残しながらも、部落の人間に捕えられ、寡婦の家にロープで降ろされていく。しかし、男が溜水装置の研究を始めてから数ヵ月後、女が腹痛を訴え苦しみだすのだ。下半身は血に染まっている。女は妊娠していたが、どうも子宮外妊娠であったらしい。女を入院させるため、村のオート三輪がやってきて、半年ぶりに垂らされた縄梯子は女が引き上げられて誰もいなくなってからも、そのままになっていた―――。
だがもう男は逃げようとしないのである。外の世界の「珍奇なもの」には興味がなくなってしまったかのように。これは私の解釈に過ぎないが、男は穴の中の砂だらけの生活に、一つの「珍奇なもの」を見出したのである。それは、生まれることなく去っていく我が子の命である。成り行き上関係を持っただけの、愛しているかも判らない、砂でまぶしたような女が自分の子を宿し、その自分と血のつながっているまだ人の形にもなっていないような命が、女の顔を苦痛にゆがませ、苦しめているということに対する驚愕、戦(おのの)き。上手く着床していれば、自分の子が生まれたかもしれないという期待、落胆。「あいつとの時には、いつもかならずゴム製品をつかうことにしていた」という男にとって、この砂の女との交接のすえに生じた事実は、この砂穴でしか経験できないものであったろう。
この出来事を期に、男(仁木順平)は少なくとも七年間は穴から逃げなかった、もしくは、やはり逃げられなかったことになる。作品の冒頭で明らかになっていることだが、男の失踪宣告が成立し、七年経って、民法第三十条により、男は死亡認定を受けたのである。人間の大多数が「珍奇なもの」に憧れながらも、日々変りばえのない生活に甘んじているように、男もまた、砂を掻く日々に文字通り埋没していったのである。
平成二十二年九月十三日 読了
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さ行の本
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砂が降り積もってくる―――。
来る日も来る日も…絶え間なく…。
砂の堆積が深く落ち窪んだ中に、傾(かし)いだ家が建っている。
一人の女が、その粗末な家を守る為に、砂を掻き出すことに明け暮れている。
一人の男は、その粗末な家から逃れる為に、四六時中、脱出プランを練っている。
砂の堆積は思いのほか手強く、男の、脱出にかける情熱を挫こうとする。
来る日も来る日も…絶え間なく…。
砂が……降り積もってくる―――。
その男は昆虫採集の目的で、その砂丘へとやって来た。どこかアンニュイな雰囲気を漂わせたその男が探しているのは、鞘翅(しょうし)目・ハンミョウ属に属するニワハンミョウという虫である。しかもニワハンミョウならどれでもいいというわけではない。男が探しているのは、ニワハンミョウの新種なのであった。そもそも、ハンミョウという昆虫は、砂漠や砂地に棲息するのに適しているらしく、彼が新種を発見し、自分の名前を冠したラテン語の学名が、イタリック体で昆虫大図鑑に記載されるのを望むためには、未知のハンミョウが棲息している可能性の高い砂丘を目指すことは理の当然なのであった。
《砂―――岩石の砕片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等を含む。直径2〜1/16m.m.》
《……なお、岩石の破砕物中、流体によってもっとも移動させられやすい大きさの粒子。》
男がおもむいた砂丘には、今にも砂に押しつぶされそうな部落があった。砂丘がなだらかな稜線を描き、海に向かって上り坂になっているにもかかわらず、その部落の家々の高さにはあまり変化がないことが奇妙といえば奇妙であった。その砂まみれの部落の家々は、砂の厚みがどのくらいであれ、ややすり鉢状に掘り下げた穴の中に建っているのである。屋根の高さよりも砂の壁の方が高い箇所さえある。そして、男がいぶかしんでいると、いつのまにか一人の老人が男に張り付き、調査しているのか? 県庁の職員ではないのか?と執拗に問いただしてくるのだが、男が昆虫採集に来ただけだと答えると、その老人は途端に態度を軟化させ、泊る所の世話をしてやろうと言う。日暮れ時ではあり、上りのバスもすでにないことから、ハンミョウ探しの男は、つい、老人の好意に甘えてしまう。だが不覚にも、これが、男の砂との対決、というよりも砂に対する足掻きの始まりなのであった。
男は寡婦が住む家に連れて行かれ、監禁状態に置かれる。毎日砂を処理しなければ、家がつぶれ、部落全体が、十日も経たないうちに砂に呑み込まれるという、苛酷で貧しい環境の村であるようだ。砂の掻き手を欲していた寡婦は、男が家から脱出しようとするのを、これまたどこか男に似たアンニュイさで消極的に、しかし時に、男との取っ組み合いにまで発展するほど積極的に阻止しようとする。そして、部落の住人は、男が逃げ出さないように、絶えず穴の中を監視しているのだ。何故、その土地とその家に縛り付けられて、砂掻きだけの毎日を生きていかなければいけないのか、男にはさっぱり解からないが、女や他の住人にとっては、その砂に襲われ続ける部落から出て、安穏な生活をすることなど考えられもしないようであった。
監禁状態から逃れるために男が考えた脱出プランは以下のとおり。
①梯子(はしご)作戦
砂穴の下の寡婦の家と外界(砂丘表面)をつなぐのは、一本の縄梯子のみ。これは、男の監禁二日目に は既に撤去されていたので、男は木の梯子を作って登ればいいと考える。ちなみに屋根に上がった状態 でも、てっぺんの砂のふちまでの最短距離は十メートル以上。④の人質作戦中、女の家を壊して梯子を 作ろうとするが、必死の抵抗に遭い、断念。
②スロープ作戦
屹立する砂の壁を崩して、ゆるやかな傾斜を造ってやろうとする作戦。砂の傾斜は希望的観測で五十度前 後。一歩登ると半歩ずり落ちる状態。砂のてっぺんまでが遠すぎるので上から崩して傾斜を造ることは出 来ず、下を掘っては上の砂が崩れてくるのを待ち、という具合に実行。しかしイメージどおりにいかない ので、穴の模型を作り、それを削って実験してみたところ、勾配には殆ど変化がないことがわかる。それ でも砂を崩し続けた男は、のしかかってきた砂に打たれて気絶。失敗。
③仮病作戦
砂崩れと直射日光下での作業で体調を崩した男は、そのまま重病人をよそおい、仮病作戦に突入。部落で の砂掻きは毎夜おこなわれ、女は日中に睡眠をとる生活を送っている。男は夜はぐっすり眠り、女が就寝す る日中にわざと苦痛を訴え、女を寝かさず消耗させてやろうとするが、モッコ運びや男たちの掛け声、オー ト三輪のエンジン音やスコップの音など、夜の方が活気に満ち溢れた雰囲気であるために、男の方が眠れ ず、結局、日中にうたた寝してしまい、失敗。配給された新聞を、日中、女に読んでもらい、睡眠妨害をす るという案もあったが、これも男自身のうたた寝で実行に移せず。
④人質作戦
女の不意を衝いて縛り上げ、人質とする作戦。女の身と砂掻きをする者がいなくなる不利益とを交渉材料 に、砂回収の男たちに、自分を穴の外に引き上げるように要求するが、村の男たちは彼の要求に目もくれ ず、穴から立ち去ってしまう。人質作戦実行中に、タバコ(新生)と焼酎の配給はあったものの、水の供給 を絶たれたがために、渇きにさいなまれる羽目に陥る。取引が成立しないと分かった男は、女のいましめ を解くが、この間砂掻きをせず。女と初めて関係を持ったのもこのとき。のどの渇きに我慢できなくなり、 女が促すままに砂掻きを始めた途端、水が供給される。このことで、火の見櫓からも常に監視されて いることが判明する。
⑤説得作戦
人質作戦に失敗後、老人がロープにくくりつけたバケツで水を供給しに来たところを引き留めて、説得に転じ る作戦。監禁が犯罪であること、砂掻きが村にとって重要な作業であることは理解できること、砂丘を新たな 観光地として発展させたほうが有利であること、砂地に適した作物を育てるなどして新しい生活様式を獲得 したほうが良いこと、砂防工事もしたほうが良いことなど、考え付くかぎりの提案や改善点、犯罪の可能性 を説き、他人を閉じ込めて砂掻きをさせる原始的方法の愚を認識させようとする。しかし老人は、村に温泉 がない、補助金が出ない、落花生やチューリップなどはもう栽培しているなどの反論で、男の説得を打ち 切り、立ち去ってしまう。話がかみ合わず失敗。
⑥ロープ製作作戦
シャツをほぐしたものや、女の亡くなった夫の兵児帯などをつなげてロープを作り、脱出する作戦。ロープの 先端には、穴の上に置かれた目印の俵に引っかかるよう、裁ちばさみを取り付ける。男は周到に、村の地形 や配置、経済状態、チューリップ栽培の場所など細かい情報を女から仕入れ、頭の中に地図を作り上げた うえで、とうとう穴から這い上がることに成功。監禁四十六日目。火の見櫓からの監視、野犬、目に入る飛 び砂といった様々な障害物を必死でかわしながら、砂の部落を突っ切ろうとする。しかし、方向を見失い がちな男の耳に、彼の脱走を部落中に報せる半鐘の音が聞こえ始めた。のみならず、数人の追っ手 がつかず離れずで自分を尾行していることにも気付く。男は脱走経路を誘導され、「塩あんこ」という砂 の吹きだまり地点に追い込まれ、ついにそこに嵌(はま)ってしまうのだった。底なし沼のように、男の 体はずぶずぶと沈みこんでいき、彼は恐怖のあまり、助けを呼んでしまう。「塩あんこ」から救出され た男は、再び、寡婦の家の穴に物品のようにつり下ろされるのであった。かなりイイ線までいったも のの失敗。
⑦《希望》作戦
鴉(からす)を捕獲するための罠(名付けて《希望》)を仕掛け、上手く捕まえることが出来れば、その鴉の足に 手紙をつけて伝書鳩のように飛ばそうという作戦。鴉が一羽も捕まらず、失敗。
⑧見せ物作戦
これは脱出というよりも、穴の外での散歩を許可してもらう目的のもの。散歩をしたいなら、寡婦との男女の 痴態を見せてくれという村人たちの要求を、男が実行しようとする。真似事でもいいと女を組み敷こうとする が、女の猛烈な抵抗に遭い、断念。男は女からの強烈なボディアタックとパンチで鼻血を出す。
⑨溜水装置研究作戦
⑦の《希望》作戦で用いた罠に、ある日、水が溜まっているのを発見した男。湿気を含んだ砂から、偶然にも わずかな純水を取り出すことに成功した男は、本格的な溜水装置の研究に没頭し始める。水を確保するこ とが出来れば、外の世界からの水の供給に頼らなくても済む。水さえ穴の中で精製することが可能となれ ば、また脱出の好機も巡って来ようというものだ。だが、しかし、男が研究に心血を注ぎ始めた矢先、女が 激しい腹痛を訴えて………。男の被監禁生活は、新たな転換点を迎えるのだ。
『砂の女』(阿部公房) 新潮文庫 第六十六刷 476円+税 <二>に続く。
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「少女性」という名の悪魔(デーモン)は、女たちに付きまとった挙句に、彼女らを死の淵へと追い落としていく。
姫草ユリ子 二十五歳
友成(ともなり)トミ子 十九歳 甘川歌枝 十九歳 『少女地獄』という作品には三篇のエピソードが含まれており、各篇の主人公が彼女らである。姫草ユリ子(本名:堀ユミ子)は「何んでも無い」という篇で、病的なまでの虚言癖を発揮し、勤める臼杵病院内外で多くのトラブルを振りまいていく。一つの嘘を成立させる為に、もう一つ別の嘘をつき、という風に、ユリ子から発せられる虚言は増殖する…。そして膨れ上がった嘘が自身の力で取りつくろえなくなり、とうとう破綻を迎えた時、彼女は姫草ユリ子という名の持つ「可憐な乙女のイメージ」を守り抜く為に自死を選ぶ…。
友成トミ子は昭和初年の働く女性であり、ミナト・バスに勤める女車掌である。その友成トミ子が、同じく女車掌を夢見る山下智恵子という女性に手紙を書くスタイルで語られるのが、二番目のエピソード「殺人リレー」である。友成トミ子は、浜松勉強バスから流れてきた二枚目のバス運転士・新高竜夫に、ある疑いの目を向けていた。新高竜夫は勤務するバス会社を転々としながら、何人もの女車掌を誘惑しては内縁関係になり、その女性に飽きると事故を装って殺害するという、怖ろしい噂を立てられる人物であったのだ。そのことをトミ子に忠告してきた松浦ミネ子もまた、新高との交際の末、事故死してしまった。友成トミ子は新高の尻尾をつかもうとするが、彼女も新高に求婚され、夫婦生活が始まってしまう。彼女は自分が新高に殺されるか、それとも新高に真相を突きつけ、松浦ツヤ子の仇をとるか、二つに一つというスリルに魅了され始める…。そして………。
最後のエピソード「火星の女」は、作中で新聞記事に見られるセンセーショナルな見出しが躍り、県立高等女学校の物置で女性の黒焦死体が発見されたことから始まっている。この黒焦死体は一体誰なのかという疑問が深まる中で、県立高女の森栖(もりす)校長が突如発狂し、ベテラン教師・虎間トラ子が縊死(いし)するという事件までが起こり、一連の出来事は迷宮入りの様相を見せる。しかし、タイトルともなった「火星の女」と呼ばれる県立高女卒業生・甘川歌枝の遺した書簡によって、ミス黒焦の正体、県立高女で行われていた不正、天主教における篤信家にして人望篤き教育家であったはずの森栖校長の裏の顔などが明るみに出る…。これは、火星の女と綽名される所以(ゆえん)でもある醜貌と純真な正義感とを併せ持った甘川歌枝の、一世一代の、命を賭した告発文である。
読んでいてまず考えたのが、「少女」とは何歳から何歳くらいまでを指すのだろうかということであった。十九歳というのは果たして少女と言えるのであろうか、と。私がイメージする少女は十二、三歳からせいぜい十六、七歳くらいまでである。十八歳以上となると、これはもう「大人の女性入門者」というか、少女という言葉では収まりきらないような感じがする。勿論これには、十八歳で大学へ進学したり、就職したり、親元を離れる人たちが急増するというような、十八歳という年齢に関する現代的イメージがあって、私がそれに支配されていることも否めないのだが。
しかし、この『少女地獄』に登場する女性たちは、姫草ユリ子のように「満十九歳二ヶ月になりますの」と自称しながら実は二十五歳であったり、本当に十九歳で、仮に十九歳という年齢が少女の範疇に入るとしても、友成トミ子のように男性を知り、夫婦生活を送っていたり、甘川歌枝のように貞操を奪われていたりと、とても少女とは言いがたい側面を持っているのである。そもそも少女地獄とは、年若き少女が陥る地獄なのか、どうか…。
それで、冒頭に書いた「少女性」という名の悪魔(デーモン)について言及してみたくなったのである。
この「少女性」とは、必ずしも年齢的にも少女と呼ぶに申し分のない若い女性を意味するのではない。「少女性」それ自体は、どんな階層・年齢層の女性にも潜んでいる可能性がある。ひょっとすると、男性の中にも時としてこの「少女性」は沈み込んでいることがあるかもしれない。 そして、この「少女性」が悪魔(デーモン)として害を及ぼすのは、少女がいつしか年齢的な少女の時代を過ぎ越し、女の時代にさしかかりながら、それでもなお、深窓の令嬢の如き甘美な夢を見、純粋無垢な乙女であり続けることに価値を置き、そこからもがいても足掻いても逃れ得なくなっている時なのだ。その己の「少女としての理想」と「女としての現実」が大きく乖離(かいり)する時、彼女らが持つ「少女性」は悪魔となって、宿主である彼女らをじわじわと侵蝕しだす。果ては、彼女らを生の場には置いておきはしない。「少女としての理想」へと一気に突き進む為に、美化された死へと彼女らを誘(いざな)う。
姫草ユリ子は、裕福な家庭と教養に恵まれ、医師からも患者からも信頼を得ている有能な看護婦(本文ママ)であり、医学部教授とは懇意であるというような完璧な少女を虚言でもって演じつつ、その嘘が暴かれると間もなく死んでいった。
友成トミ子は、サディストの新高竜夫を懲らしめたいという仇討ちにも似た悲壮な覚悟を持っていながら、次第に新高に惹かれ、新高を破滅させてやりたいような、自分が何もかも放棄したいような心理の中で死んでいった。
甘川歌枝は、醜い容貌の為に女学校でも家庭でも疎外されていたが、少女らしい正義感と行動力を持ち、学校長や教師らの裏面の顔を暴いた後に、疎まれ汚された自分の身を浄化するかのごとく、死んでいった。
どの女の死も、咲き乱れた薔薇の香りに噎(む)せ返るような死だ。美しい香りに噎せながら薔薇の園をゆたゆたと彷徨し、気が付けば次第次第に棘(とげ)で傷ついていく。その傷ですら、薔薇によるものならば麗しい。幾条にもわたる躰の傷が死の香りまで醸し始めても、「少女性」という名の悪魔(デーモン)に魅入られた女には、最早、死こそが「少女としての理想」の完成であり、救済なのだ。きっと彼女らは、絵師・高畠華宵(たかばたけかしょう)描くところの華宵美人のように、ポゥッと潤んだ眸(ひとみ)、上ずった視線、上気した頬で死んでいったことだろう。
『少女地獄』とは、うら若き少女が経験する地獄なのではない。いつまでも乙女チックであり続けなければ生きていけなかった女達が最終的に堕ちる地獄の物語に他ならない。
君よ、いつまでも清らかな花の顔(かんばせ)であれ。
吾(われ)は汚れ、見事に老いさらばえていこう。 平成二十二年六月三日 読了(角川文庫版)
※収録作品『少女地獄』『童貞』『けむり を吐かぬ煙突』『女抗主』自体は再々読了 ◆関連記事◆
『ドグラ・マグラ 上』(夢野久作)の記事はこちらから→http://blogs.yahoo.co.jp/tomo31841211/13925604.html
『ドグラ・マグラ 下』(夢野久作)の記事はこちらから→http://blogs.yahoo.co.jp/tomo31841211/14096896.html
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実はファイル魔の私。自分が見学した展覧会のフライヤーや半券をクリアポケットに入れて全て整理している。
『月岡芳年展』を例にとると、全く同じフライヤーを二枚、美術館から頂戴してくる。うち一枚は保存用。もう一枚は、取り出して眺める用。そして、購入したチケットの半券も記念になるので、一緒に入れておく。そして、その時配布している今後の展覧会予定表なども貰ってきて封入。こうすることで、当時の美術館がどんな展覧会を企画していたかが分かる。
あわせて図録も必ず購入するので、美術関係の棚に並べておく。美術館から帰って、この一連の作業をしているときは誠に至福である。
学生時代に「レポートの書き方」とか「小論文の書き方」なんていうタイトルの本をつい買ってしまった経験を持つ人は結構多いのではないかと思われる。何を隠そう、この私自身が講談社学術文庫から出ている『論文の書き方』という文庫本を買ってしまっている。大学生の時分に、藁にもすがる思いで購入したもので、もう今から十五、六年前の話である。私なんかが考えることは、既に他の人が考えたことに違いないのだから、この「○○の書き方」本は、世にあふれんばかりの「文章書きにおける迷える子羊」たちに、あまねく広まっているだろうと思うのだ。
今回の『思考の整理学』も、じわじわと版を重ね、「考えることに不慣れな子羊」たちにその存在を広く知らしめた一冊であることは間違いない。ある時期から最近にかけては、「もっと若い時に読んでいれば…そう思わずにはいられませんでした」や「東大・京大で1番読まれた本」というキャッチコピーが帯についていて、書店で目に付く本でもある。ちなみに私の持っている『思考の整理学』には「東大・京大で1番読まれた本」という、いやらしい帯は付いてはいない。新古書店で購入したから、そういう余分な帯がもともと付いていなかったか、あるいは店側で取り去ってしまったのだろう。話題になった本を正規の価格で買わず、新古書店で安く買う。私という人間が、一番いやらしいかも知れぬ、とも思う。
『思考の整理学』では、レポートや論文の書き方といった本に紹介されているような方法論も含まれているが、それ以上に「自分で考えること」に主眼点を置き、「自分で考える」にはどういうことを実践していけばいいかということを多角的に論じている。著者の外山滋比古(とやましげひこ)氏自身が、論文や論理的なエッセイを書く機会の多い人物であり、自ら思考する習慣とそのための方法や情報整理を実践している人であるから、この本は単なる方法論ばかりが羅列されたものではなく、著者の長年培ってきた経験則が網羅されたものでもある。
ちくま文庫の初版が一九八六年なので、情報や方法が部分的に古くなっている面は否めない。たとえば、第Ⅲ章の目次を見てみると、「スクラップ」「カード・ノート」「手帖とノート」など、情報や思考の整理・分類の仕方が手書きを基本としたスタイルになっていたり、第Ⅵ章の最後には「コンピューター」という項目まであるのだ。
パソコンが爆発的に普及した今日ならば、わざわざ「コンピューター」という独立した項目を設けることは最早ないだろうが、一九八六年当時は、まだまだ限られた分野や場所でしか、お目にかかれない代物であったはずで、これから台頭してくるであろう極めて有望なツールとして、この「コンピューター」が意識されていたということなのだ。一九八六年といえば、私が十一歳の時だ。その頃を思い起こしても、小学校や自分たちが利用する様々な施設でコンピューターを見かけるということは一切なかった。このことを考えても、この『思考の整理学』が書かれてから、かなりの長年月が経過していることが知れるというものである。
手書きで作成する情報カード・分類カードなどにしてもそうである。本書では、外山氏自身が実践している思考の醸成や論文材料の整理方法を、懇切丁寧に説明してくれているのだが、その全てが手書きで行われているという点は、やはり時代を感じさせる。紙の上にペンを走らせて文字を書くということが、ややノスタルジックな意味合いを帯び始めた現代にあって、記録方法が全て手書きに依っているというのは、若い人々にとってはかえって不自然に感じられるかもしれない。
今だったら、自分の考えなり説なりを書き留めておくのに、ノートやペンを使う必要は必ずしもない。ワード・プロセッサー全盛期には、我々はそのワープロの中に思考の断片やかなりまとまった文章を記録しておくことが出来たし、「ブログ」というものが一般的になってきた今日であれば、更に便利にその機能を活用することが可能だ。自分の思考の数々を他人に知られたくなければ非公開にしておいて書き溜めていくことが出来るし、増え続けるノートのように場所もとらない。投稿すれば、それを書いた年月日が自動的に記録され、カテゴリ分けも簡単なら、情報の連結などもトラックバック機能で容易に行える。特定の記事を検索するのにも苦労しないで済む。
これがカードやノートだとそういうわけにもいかない。外山氏も著書の中で述べていらっしゃるが、ノートであれば、いざ論文などを書こうとする際の構成を検討する上での情報の差し替え、順番の移動などが出来ないし、カードを使用すると散逸しないように少々保管に気をつかう。そしてどちらも、当然見出しはつけておくのだが、(あの情報、どこに書いたっけかな?)と探す場合に、どうしても時間がかかってしまうことがある。我々が慣れ親しんできた紙媒体は素晴らしいものであるけれども、こういうチョットした限界を持ち合わせているのだ。
しかしながら、情報の古さのせいで本書の価値が損なわれるということは、現在において全くないし、おそらく将来においてもないだろうと察せられるのは、この著書の真面目(しんめんもく)が、表題どおり「思考の整理」という部分にあるからである。読了後の感想として、昔ながらの手書きと現代的な記述方法の間に優劣をつけることには、あまり意味がない。思考整理・情報整理が手書きで行われようと、パソコン上の利便性の高い機能で行われようと、どう整理し、どう秩序立てるかということの本質は昔から変わらないからである。
そもそも、紙媒体での思考整理や情報整理、あるいは分類やファイリングといった作業が不得手な人間は、どんなに便利なツールを用いたとしても、そういった作業はやはり不得手であるといってもいいくらいだ。だからこそ、それが手書きであれ、それ以外のものであれ、自分の思考を整理し、秩序の中に置き、それを必要な時に取り出す為の練習をしておくべきなのである。その練習の為のヒントと知恵が、本書にはたくさん詰まっている。
読んでいて、大部分の内容に実感できたのだけれど、とりわけ(あ〜、確かにそうだよね)と思えたのは第Ⅳ章
にある「とにかく書いてみる」という項目である。書きたい事をいつまでも頭の中でゴチャゴチャ考えずに、または書きたい事の構成がきちんとまとまっていないからと躊躇したり恐れたりせずに、とにかく思い切って書き出してみた方が、書きたい内容が頭の中で乱立したままよりも、かえって整理されるという文脈である。
これは本当に今の私が日々実感していることなのだ。ブログで本の感想一つ書くのにも、ともすればアレも書きたいコレも書きたいと欲ばかりが先行して、いくら考えても一向にまとまりがつかないのに、諦めてキーを打ち始めると、頭の中でもつれていた思考が徐々にほどけて、一行一行の文字の連続になっていくのである。それがいくつかの段落となっていくうちに、グジグジと考えていた段階では決してひらめかなかったアイデアや文章が、突如として湧いてくることもある。「書く」という行為は、頭の中の混み合った三次元の世界を、とにもかくにも紙の上や画面の上という平面に順序をつけて並べなくてはならない作業だから、自然と優先すべき内容や削っても構わない考えなどが見えてくるようになっているのかもしれない。そして「書く」行為によって集中力が増してくると、思いもよらなかった発想が飛び出してくるものでもあるのかもしれない。
平明で簡潔なエッセースタイルの『思考の整理学』は、一つ一つの項目が短い代わりに、三十三もの切り口から「思考の整理」について考察してあるので、自分が最もヒントを得たいと思う箇所から読んでいくことができる。そして、本書で論じられている考え方は、「思考」にのみ限ったことではなく、生活全般の整理や秩序を考える上でのヒントとして利用できそうだとも私は思うのである。
平成二十二年四月三十日 読了
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通っていた大学や以前勤めていた職場で、「私な、『三国志』が好きやねんけどな、そん中でも曹操がいっちばん好きやね〜ん」と話してみたものの、芳しい反応を得られなかった経験がある。特に女性に対して『三国志』を語ろうとしても、(は?『三国志』?なにそれ?)という感じで、全然興味を示してくれないのだ。(…うぬぅ〜〜、つまらん女どもめェ!)と思わぬでもなかったが、彼女らにとっては『三国志』を読んで遥か一八〇〇年前の中華世界に想いを馳せるというオッサンじみた行為に耽るよりも、ファッション雑誌で最先端の流行をチェックしている方がきっと愉しかったのであろう。 |




