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 次に、各自一人ずつ中佐の前に出て行って、姓名と前歴を申告し、なぜ今まで軍医予備員に志願しなかったかという詰問を受けた。自分は第一師団と広島連隊区に昨年一月送附済の一件書類を奉公袋から取出して、この通り志願完了していて未志願でないことを具申した。それで訊問は尻きれとんぼに終った。しかし自分より先に訊問を受けた人たちも、あとに続く人たちもすべて志願書を出している。去年も一昨年も召集を受け、体質的欠陥のため即日帰郷となっている連中が多かった。
 なるほど体格検査が始まると、集っている連中のうち、羨ましいと思われるような体格の者は殆どいなかった。脊椎カリエスのためコルセット持参の者、頸腺炎(けいせんえん)で繃帯(ほうたい)した者、肋骨カリエスの瘻孔(ろうこう)のあとのある者、学生時代に運動会で足を折って膝が半分しか曲らなくなっている者もいた。
(中略)
 レントゲン透視と喀痰(かくたん)検査の結果、即日帰郷となった者も何人かいた。病院の医師欠乏という理由から帰郷させられる者もいた。奉公袋をさげて殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人が羨ましかった。
 
 上記の文章をシゲ子の目の前で読んだ時の、九一色院長の様子は以下のようなものであった。
「この岩竹さんの手記、あたしの見ている前で院長さん読んだんよ。読みながら、院長さんの表情に微妙なものがあったんよ」
「それで、治療法について、院長さん何か云ったか。それが大事なことだ」
「読みながら、二度ほど参考になりますと云ったんよ。それから読んだ後で、実は自分も広島二部隊に軍医懲罰召集で入隊したと云ったんよ。岩竹さんの入隊したのと同じ日に、同じ部隊へ入隊したんですって」
「でも、あの院長さん生きておるじゃないか」
「入隊した日、体格検査で即日帰郷になったんですって。そのときにはカリエスで、石膏の繃帯を下腹に巻いておったんですって。運不運の二筋道は妙なものね。院長さんは顔をしかめて読みながら、一度ぐっと息を嚥(の)みこんだんよ」
 
 岩竹さんの手記にある「脊椎カリエスのためコルセット持参の者」というのが、この九一色院長であったかどうかは判らない。しかしながら、「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人」の中に、この院長先生が含まれていたことは疑いないわけで、カリエスによって徴兵されず被爆をからくも回避できた自分と、徴兵されたがために原爆によって瀕死の重傷を負い、原爆症と苦闘し続けた岩竹さんとの運命の対比があまりにも鮮やかなこの手記をゆくりなくも眼にして、九一色院長の胸には一体どんな感情が去来したろうか。
 
 自分が被爆せずに済んだ裏側で、この岩竹軍医予備員のように死の苦しみを味わった人がいる。過酷な原爆症を乗り越えて生き返った彼と違い、病気で兵隊にも取られることなく、御国の為に戦うことも避けられた自分。誰がなんと言おうとも、生きて息災ならばそれが一番の親孝行だ。だが当時は、兵隊にも行けない九一色院長のような繊弱な人は、陰で後ろ指を差されることもあったろう。想像を絶する苦痛を味わった岩竹さんと、安全な場所で医療に従事できた自分。岩竹さんの手記は、自分自身のための覚え書程度のものであったろうけれど、九一色院長にとっては「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して」即日帰郷した自分への無言の告発のようにも思えたかもしれない。
 
 ごく小さな「ゆらぎ」なのである。淡々と展開していく本作品にあって、ほんの一瞬、さざなみが立ったようなものなのだ。原爆投下直後のことを書いた重松の日記でさえ、冷静な目で現実を見つめた末の文章だったのが、戦後数年経ってからのシーンにおいて、一人の医師の胸に微小な棘(とげ)が刺さるように「ゆらぎ」が起こる。しかし、小さいながらも井伏鱒二のその演出があまりにも巧みで、はっきり云って参ってしまった。平和を取り戻した戦後の夏のある日、ひっそり閑とした印象の九一色病院の一室。蝉の声だけが喧(かまびす)しい診療室で、院長が岩竹さんの手記に目を通した時…―――、シゲ子が云うところの「運不運の二筋道」を眼前に突きつけられて、ハッと彼が息を呑むのと同時に、あれだけけたたましく鳴いていた蝉が、一斉に鳴くのをやめてしまったような、そのとき真の静寂が訪れたような、そんな情景まで想像させる「ゆらぎ」なのであった。
 
 矢須子の病状が好転するか否かについては、作品の結末においても何も書かれてはいない。おそらく回復は無理だろうという雰囲気の中で、重松が、それでも矢須子は治るかもしれないという、儚い望みを抱いているところで物語は終わる。こんな不幸が起こるから原爆は絶対に駄目なんだ、というような論調よりも、原爆が落とされたことで、こんな不幸が起きてしまったよ、君はこれをどう思う?と語りかけるような作品である。重松の静かな語りかけを感じたら、『黒い雨』を読む人々には、広島と長崎に投下された二発の原爆について、ほんの少しで良いから思いを馳せて頂きたいと、私は願っている。 E=mc² の関係式が人間の頭上に、何も知らされずに降ってきた時、生身の人間がどうなってしまったのか、もう一度考えてもらえたら嬉しい。
 
 私は読後の感想を書く際、可能な限り正確さを期して調べなければいけない事柄のほかは、その作品の周辺情報をなるべく目に入れないようにしている。というのは、たとえそれが誤った、あるいは人とは違う印象、受け取り方、感想であったとしても、その時、自分が感じたことをそっくりそのまま引き写すようにして書き残しておきたいと考えているからである。色んな情報に影響されないで、自分の素の感想を真空パックしておきたいのである。大分あとになってから読み返してみた時、(ずいぶんバカなこと書いてるなぁ)と赤面してしまう文章も多々あるのだが、そのときの自分は確かにそう思っていた、という読書感想アルバムにしたいわけだ。
 
 だが、今回は書いている途中で、『黒い雨』についてちょこちょこと調べ物をすることになった。その調べ物を通じて、この小説『黒い雨』に登場する閑間重松が実在の人物であることを知る。本名は、このシズマ・シゲマツをひっくり返した重松静馬という人なのだが、彼が自身の被爆について書いた『重松日記』を、知人である井伏鱒二が手にし、それを基に『黒い雨』は書かれたのだそうだ。ちなみに被爆軍医である岩竹さんも実在の人物であり、『岩竹手記』を遺している。『重松日記』は現在、筑摩書房から文庫が出ているそうで、その中に『岩竹手記』も併録されているとのことなので、是非手に入れて、こちらも読んでみるつもりでいる。
 
 思えば、戦時中の様子を、当たり前といえば当たり前なのだが祖父母たちは語りたがらなかった。産業奨励館に勤めていた祖母が亡くなる前に、山口県の周防大島町にある『陸奥(むつ)記念館』に見学に行ったことがある。私が大学一回生の頃だったから、もう十七年も前のこと。『陸奥』は旧日本海軍の戦艦で、『長門(ながと)』の姉妹艦だったのだが、一九四三年(昭和十八年)に謎の爆発を起こし、広島県柱島付近で約千五百人の乗組員を乗せたまま沈没した艦として夙(つと)に知られている。その『陸奥記念館』を、私は祖母をいざなって何の気なしに観て回ったのだけれど、館内から出ると、祖母は腰を下ろして溜息をつくなり「…あねぇなのは(ああいうものは)よぅ見んねぇ…」と小声で呟いたのだった。肩が落ちてしまって、小柄な体を余計に小さくして、しょんぼりと萎れた祖母の姿を見て、私は心底悪いことをしたと後悔したものである。それ以来、私が戦争関連のことを祖母に尋ねることは一切無かった。タブーなのだと思った。
 
 それでもしかし、我々は戦争や原爆について、知りうる限りのことを次代に伝えていかなくてはならないだろう。戦争や原爆の恐怖を、実体験として心の奥に閉じ込めている世代が、もうかなりの高齢になっている。亡くなっていく方々も非常に多い。戦争体験を根掘り葉掘り聞くのが、聞き手にとっても話し手にとってもつらいならば、せめてこうして、当時のことが書かれた本を読まねばなるまい。今を生きる現代人は皆、すべからく、戦乱を生き延びてきた人々の子孫なのであり、どんな人間も、その血脈をさかのぼっていけば、必ず戦争を体験した先祖に行き当たる。なにも、太平洋戦争に限らなくてもいい。第一次世界大戦、日清・日露戦争、ひょっとすると応仁の乱で、生き延びてくれた先祖だってあるかもしれない。その人が戦禍に屈することなく、生きて、命のバトンを渡してくれたからこそ、今の自分があるということを再認識せねばならないのだと、私は思っている。歴史を学ぶとは、そういうことで、自分とは無関係に存在する遠い過去ではないのだ。どんなに幾多の時代が過ぎ去ったとしても、必ず自分の命とつながっている現実だということを、私自身も肝に銘じておきたい。
 
 私も戦争を知らない世代であり、不勉強さが目立つ人間ですので、こんなことをいえる資格は無いのですが、今年も若い学生の皆さん、広島や長崎の地から遠い地域にお住まいの方々、外国からいらした方々など、数多くの様々な方達がピカについて関心を持ってくださいましたことを心から感謝いたします。有難うございました。
 
 
                                    平成二十三年四月二十二日 読了          
 
 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアムで原子爆弾について学習することが出来ます。(冒頭のアニメーション部分で音声が流れます。音量にご注意ください)
 
 山田ギョクトのウェブ本棚・デジタルアルマリウムでは、この記事にある引用文以外の文章をいくつか引用しています。(現在、上から四段目の一番左に『黒い雨』を入れてありますので、いつでもご覧ください)
 
 
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 私の母方の曾祖父母、および彼ら夫婦から生まれた祖母は広島の人間である。家は、横川駅から太田川に沿って北へ少し上がった所にあったらしく、母と山陽本線に乗って山口〜広島間を行き来する時には、横川駅を通過するたび、「お母さんが小さい頃は、夏休みなんかに、ここから太田川を上(かみ)に行って、お爺ちゃんお婆ちゃん(私にとっての曾祖父母)の家に遊びに行きよったんよ。山に近かったけー、涼しくてね」などと教わっていた。
 
 横川駅と原爆ドームは直線距離にして二キロメートルあるかどうか、といったところだろうか。原爆投下時、曾祖父母が横川の自宅にいたのか、それとも広島県のどこか別の場所にいたのか定かではないが、やはり、というべきか、彼らはピカによって被爆した。その後の人生は二人とも被爆者手帳とともにあり、それでも、曽祖父については、戦後三十年の一九七五年(昭和五十年)、私が母のお腹の中にいる頃まで頑張って生きてくれていた。胎児だった私も、もう少し気を利かせて、早めに「おぎゃあ!」と生まれて来ていれば、曽祖父もひ孫の顔を見てから、あの世へと旅立てたかもしれないのだが、なかなかそうはいかない。残念なことであった。
 
 曾祖父母の娘、私にとっての祖母だが、この人は娘時代には原爆ドームで働いていた。といっても、一九四〇年代当時は『広島県産業奨励館』といって、舶来品や地域の物産を紹介したり、美術展などの催し物を開催したりと、最先端の情報を発信する、それはそれはハイカラでハイソサエティで非の打ち所のない美しい建造物であったのだ。チェコ人、ヤン・レッツェル設計。このハイカラでハイソでモダンな『広島県産業奨励館』は、祖母を含む広島のモボやモガたちが、誇りと共に日々仰ぎ見たくなるような美麗なドーム屋根を有していた。あの日、エノラ・ゲイが、何の前触れもなくピカを落としてくるまでは。
 
 広島市上空にピカが投下された時、祖母は産業奨励館にはいなかった。この「いなかった」事情がどういうものなのか、詳しくは分からないのだけれども、戦争激化にともなって、ピカが投下される前年の一九四四年(昭和十九年)には産業奨励館としての業務は廃止され、内務省中国四国土木事務所広島県地方木材株式会社といった機関の事務所として使用されていたらしいから、祖母はその頃には退職していたものと思われる。祖母がいつ頃、山口県の祖父のもとへと嫁いできたのか、これも詳しい年月日を知らないのだが、ひょっとすると退職を機に結婚して広島を離れ、爆死を免れることができたのかもしれない。頭上で炸裂した原子爆弾が、ピカッと閃光を放って、ドンと凄まじい爆裂音が轟かせたその一瞬間に、館内にいた職員たちは全員即死していた。ここにもし祖母が残っていたら、祖母から生まれてきた母も、そして私も、決してこの世に存在することはなかっただろう。
 
 『原爆ドーム』なんて云うと、爆撃直後から現在までの歴史しか示していないようで、私たち家族にとっては少々寂しいような気がしてしまう。祖母が青春時代を過ごした職場であったという、爆撃前の歴史も大事にしたくて、我が家ではいまだに『産業奨励館』と呼ぶことも多い。それくらい、私にとっても母にとっても、今の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)や横川駅は、思い入れの強い場所なのである。そして、井伏鱒二が遺した小説『黒い雨』の主人公・閑間重松(しずましげまつ)が被爆したのも、この爆心地から程近い横川駅のプラットフォームであった。
 
 『黒い雨』は、閑間重松とその妻・シゲ子、そして姪であり養女でもある高丸矢須子、この三名の戦中日記によってその大部分が占められている。本作品は、戦後数年を経てから、重松が自分の日記と矢須子の日記を清書し直していくというスタイルで進められており、我々読者は、彼らの日記を読むことで、原爆投下直後からの広島市内の様子を知ることができるようになっている。なぜ、作中で重松が家族の戦中日記を清書しているのかといえば、それは矢須子の縁談を無事に取りまとめる目的のためなのであった。矢須子は年頃の娘で、良家との縁談が持ち上がったばかりなのだが、彼女が原爆症に罹っているのではないかという噂が断続的にちらほらと流されるために、これまでどうしても縁遠く、養父の重松としては、矢須子の原爆症の疑いを晴らすために、原爆投下時の閑間家の行動を再度検証する必要があったわけだ。
 
 文章の主な構成は以下のとおり。
◎高丸矢須子の日記。(昭和二十年八月五日から八月九日までの分)
 
◎閑間重松の被爆日記。矢須子の日記の付録篇として。学校の図書室に納めるつもりだが、その前に矢須子  の縁談の世話人にも見せようと考えている。(昭和二十年八月六日から終戦の八月十五日までの分)
 
◎閑間シゲ子の手記。矢須子の日記の付録篇として。タイトルは『広島にて戦時下に於ける食生活』。
 
◎閑間シゲ子による『高丸矢須子病状日記』。(矢須子の縁談が持ち上がったのが、終戦後の四年十ヶ月目とあ り、その後、原爆症を発症するので、おそらく昭和二十五年の七月二十五日から七月三十日までの分)
 
◎湯田村・細川医院院長の義弟による手記。タイトルは『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』。(昭和二十年  七月一日・赤紙召集〜八月六日・被爆〜戸坂の国民学校仮収容所〜八月八日・自力での庄原国民学校行き 〜八月九、十日にかけての熱傷治療〜八月二十三日・府中町の細川医院分院への移送〜翌二十四日から  原爆症発症により闘病生活という流れで記されている)
 
◎岩竹軍医予備員の奥さんの速記記録。夫である岩竹博の安否を確かめるため、噂を辿りながら、広島陸軍病 院焼け跡〜戸坂国民学校〜庄原国民学校と歩き回り、その庄原で夫を見つけ出したことや、彼の闘病生活に ついて書かれている。

 すべての日記や手記は、広島に住む一般市民の視点から、体験者でないと決して語れない詳細さと共に、実に淡々とした筆致で記されている。戦争や原爆投下に対する声高で激しい疑問提示や反対論というものはほとんど見当たらないと云っても良いだろう。ただただ、自分たちが見聞きし、体験した、八月六日から数年後までのことが、克明な観察記録として我々読者の前に披露されるのである。国家戦略だの政治的意図だのを背負っての、わざとらしく飾った言辞とは違う、一般市民の生の声が本作品には表現されているように思う。
 
 それだけに、戦争さえなければ、家庭内の出来事や学校や職場で経験したことなど、ささやかな幸せと悩みが書き綴られるばかりであったろう普通人の日記に、赤ん坊を抱いたまま焼け焦げた母親や水を求めて防火水槽に顔を突っ込んだまま腐乱した遺体、不気味な色を放ちながら濛々と上空へ昇っていくキノコ雲の恐ろしい様子、肉親が見ても、それが自分の身内とは判らないほどの熱傷を負った市民の無惨な姿などの描写があるということの異常さが際立つ。戦争をおっ始め、それを継続するのに、どんなに正当な理由があるように思えたとしても、何の罪もない国民にこんな酷い日記や手記を書かせるようなことを、国家は絶対にしてはいかんのだという、静かな反論がそこにはある。
 
 矢須子と自分の日記を清書するうちに、重松は、矢須子が黒い雨を浴びていた事実に突き当たってしまう。重松とシゲ子、そして矢須子の三人は、原爆投下時、それぞれ別々の場所(重松は横川駅、シゲ子は千田町の自宅、矢須子は古江町)にいて爆死からは免れたものの、一緒に避難するために広島市内を長時間にわたって歩き回ってしまったのである。矢須子にいたっては広島市から十キロメートルほど離れた古江町にいたにもかかわらず、重松夫妻と合流しようとして入市し、彼らと再会できた時には既に、その肌や衣服にコールタール状の黒い雨だれの痕を付着させていた。洗っても洗っても、なかなか拭い取れない油脂のような黒い染みが、数年を経て矢須子の体に重篤な健康被害をもたらすようになるとは、その時の重松らには予想することすら出来なかったのであった。
 
 皮肉なことに、縁談の取りまとめに先立って、矢須子の健康を証明しようと、重松が日記の整理を始めた頃に、彼女は原爆症を発症してしまう。発熱から始まって、臀部(でんぶ)の腫れ物、頭髪の脱毛と続き、激しい耳鳴り、歯茎の発赤腫脹、全身の疼痛、白血球異常などで、彼女の体は急速に衰えていった。自宅で看病するには限界があり、矢須子は九一色(くいしき)病院に入院。重松は、原爆症の噂によって姪が縁遠くなってしまったことに加え、実際にその原爆症を患ってしまった事実について、ずいぶんと責任と負い目を感じている。
 
 そもそも、矢須子を養女として広島市に呼び寄せたのは、ほかならぬ重松だったのである。姪の矢須子を、戦時中の厳しい徴用から逃れさせ、比較的安楽な仕事をさせるために、実家の高丸家から広島市内に住まわせ、コネを使って、日本繊維株式会社・古市工場に受付係として勤務させたのが重松だったのだ。しかし、広島への原爆投下によって、かえってそれが裏目に出る形となってしまった。矢須子本人に対しても、実家の高丸家に対しても、申し訳が立たないと落ち込んでいるのが閑間重松なのであった。
 
 重松とシゲ子は、何とかして矢須子を助けてやりたいと、藁をも掴む気持ちでいる。そんな時に、湯田村の細川医院の院長先生から手に入れたのが、先に挙げた『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』と、その岩竹さんの奥さんの手記である。この岩竹さんという人物は、細川医師の妹婿すなわち義弟である。軍医予備員として徴兵された矢先、広島で被爆するのだが、全身にわたる重度の熱傷という重い症状を抱えながらも、命からがら湯田村まで帰還した人である。火傷で組織が崩れた耳や頬に大量の蛆虫が湧き、その蛆虫に右耳を食いちぎられ、手の指も溶けてくっ付いてしまい、板切れのようになった状態で闘病生活を送り、奇跡的に回復したという経歴を持っている。手記には、輸血、リンゲル注射、桃や生卵などによる食事療法といった岩竹さんの闘病の様子が事細かに書かれており、それが矢須子の治療にも参考となる部分があるのではないかと、重松たちは九一色病院に提出したのであった。
 
 このくだりで、ひとつの「ゆらぎ」のようなものを読者は体験することになる。この『黒い雨』という作品は、原爆投下や広島市内における死屍累々の惨状といった、決して尋常ではない、想像するだにも恐ろしい様子をあくまで淡々と語り、透徹した観察眼でもって進行されてきた。あえて云えば、小説の材料としては山場だらけの原爆投下日から終戦日あるいは数年後までを、平板な調子で、ほとんど起伏なく語っているのである。したがって一見すると、小説全体としての盛り上がりはどこにも無いようにも思えてしまう。ところが、シゲ子から『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』を手渡された九一色病院の院長先生が、それを読みながら、ふと奇妙な表情を浮かべるのである。戦後の穏やかな夏の日、九一色病院内での「ゆらぎ」は、岩竹さんの手記のこのような記述に端を発している。
 
 
 私のような凡人だと、鏡に映った世界というものは、ただ単純に左右が逆になっているものと考えてしまいがちである。例えば、箸を右手、茶碗を左手に持った私が鏡の前に立つと、鏡の中の私は、箸を左手、茶碗を右手に持っているという具合に。しかしこれは、左右という概念を鏡の前に立っている私を主体にして考えたり、鏡の中の私を主体にして考えたりしているから、逆に映っていると感じてしまうのであって、これを東西南北で説明してみると、また違った見方が生じてくることに気付かされる。
 
 どういうことかというと、鏡の前の私が北を向いて立っているとすると、持っている箸は東側に、茶碗は西側に位置している。そして、鏡の中に映っている箸もやはり東側に位置し、茶碗も西側にあることが分かるのだ。要するに、実像と鏡像双方における箸と茶碗の方向には変化が無い。ただ、鏡の中の私は、鏡の前の私とは違って南面しているのである。言い方を変えれば、実像と鏡像の私は、上下・左右は反対になっていないが、裏表(前後)が反転しているということである。
 
 これは、前後のみが反転している場合の例だが、他にも、左右のみが反転して鏡に映り込む場合や上下のみが反転して鏡に映り込む場合、左右・上下・前後の三つの要素が全て反転して鏡に映る場合などがあり得る。反転している要素が左右とか上下といった一つのみか、左右・上下・前後の三つである場合、これを「パリティが奇である」と表現する。そして「パリティが奇である」と言える条件としては、例えばアルファベットのRやQのように非対称形(文字以外に立体であっても構わない)で、左右・上下・前後のどれか一つの方向を奇数回反対にすると、元の形の鏡像になるもの、そして偶数回反対にすると、元の形と同じ向きに戻るものでなければならない。偶数回反対にすると元の形に戻るというのは、いうなれば、裏の裏は結局表であるという状態のことだ。
 
 「パリティ」とは元々、物理学の中の素粒子分野で用いられる用語で「偶奇性」とも言うが、算数・理科レベルのことも満足に出来ない私には、もうこれ以上の説明はできない。残念至極である。ちなみに、「パリティが奇である」ものがある一方で、「パリティが偶である」ものも当然存在する。それはAやOといった対称形(これも文字以外に立体であっても構わない)で、対称軸(対称面)にそって左右・上下・前後(斜めもあり得る)のいずれかを何回ひっくり返しても、元の形のままのものである。Aが平面に書かれた文字である場合、対称軸は中心の垂直方向にしかないので左右の方向にしか回転させることは出来ないが、何回反転させても(一回でも二回でも三回でも…∞)Aという形を保っている。こういう状態のものを「パリティが偶である」というのだ。山田という苗字も、縦書きにしてフォントの細かい部分を無視すれば、何回ひっくり返しても山田と読める。私の苗字は「パリティが偶」なのだ。小林さんもそうだし、山本さんや田中さん、高田さんといった名前も「パリティが偶である」。皆さんの名前はいかがであろうか。
 
 以上の話題は、本作品『鏡の国のアリス』の中で、中学二年生向けの理科の実験として、朝比奈六郎という登場人物が解説している内容である。(わーなんだ、なんだ。中二向けにしては随分難しいではないか。チクショー!)と感じるが、実際には一次元・二次元・三次元…といった次元の話や物質・反物質、「パリティ保存説」に対して「弱い相互作用では、パリティは保存しない」と唱えた李政道(リー・ツンダオ)博士と楊振寧(ヤン・チェンニン)博士の話まで加えて、この実像と鏡像に関する解説がなされており、途中から頭がこんがらがってついていけなくなってしまう。しかも、この朝比奈がいる世界は、我々の住む当たり前の世界とは左右があべこべの鏡像の世界なのである。いや、断言してはいけないのかもしれない。鏡像の世界らしく思われる、としておくべきなのだろう。
 
 この小説は、左利きの青年・木崎浩一が銭湯・日の出湯の浴槽に浸かっている間に、左右の反転した世界に迷い込んだことから始まる。住んでいる町の風景も左右反転、しかも自分の住んでいたアパートは反転した世界には無く、元の世界での知人も、反転した側ではいたりいなかったりする。途方に暮れた浩一は、「左ききの会」を主宰する左利き研究家の朝比奈六郎のもとに身を寄せ、不思議なあべこべの世界で生きることを余儀なくされるのである。浩一が目にする文字は全て鏡文字なので、面倒なことこの上ない。しかし、この反転した世界では、浩一が普通に書く文字の方が鏡文字として認識されるのである。だが、一つだけ浩一にとってラッキーだと思えるのは、左利きであるはずの彼が、この反転した世界では右利きとして生きることができるということなのだった。
 
 あべこべの世界では誰もが左手で文字を書き、箸を使う。左手が利き腕なのである。したがって、右手を利き腕にしている人間のほうが少数派であり、いわゆるギッチョなのだ。ただ、普通の世界の我々が左手としているものが、あべこべの世界では右手と呼ばれているので、話はちょっとややこしくなってくる。彼らが右と言っているものが、浩一や我々にとっては左を意味するので、その点に注意して読まねばならないからである。
 
 浩一は左右が逆になった世界で、淡い恋に破れ、サックスの演奏競技に優勝し、元の世界に戻るための方策を探る。彼は(ひょっとすると、日の出湯の女湯に入り、あべこべの世界に来てしまったときのように夢想していれば、元の世界の日の出湯の男湯に出られるのではないか)と考え、その場所に行ってみるのだが、しかし、肝心の日の出湯が取り壊されてしまった為に、その試みも出来なくなってしまう。木崎浩一はいよいよ、鏡のような世界の中で生きなければならなくなるが―――…、というのが、この小説の大体の流れである。
 
 広瀬正氏の作品には、いわゆるマイノリティーと呼ばれる人々がしばしば登場する。『ツィス』では後天的聴覚障害者の榊英秀(さかきふたひで)、『エロス』では友人からの暴行で、やはりこれも後天的に視覚障害者となった片桐慎一、そして今回の作品『鏡の国のアリス』では、生まれつき左利きで、矯正によって一応右手も使えるようになっている木崎浩一。私には広瀬氏が、奇想天外で面白い物語を書きながらも、もう一方のテーマとして、マイノリティと位置づけされる人々が日常生活で被っている様々な不都合を、作品を通じて、読者に訴えかけようとしているかのように思えてならない。
 
 そして、彼の作品では、マジョリティー(多数派)とマイノリティー(少数派)が、お互いの違いを理解し、それでも葛藤し、歩み寄り、時には『鏡の国のアリス』におけるように、世界が逆転することで、マイノリティーが正反対のマジョリティーに、という風に、不都合を被っている人々に、不都合のない世界を経験させたりもしている。私は、広瀬正という作家が生み出す作品が、今もなお読者を惹きつけてやまないのは、このマジョリティーとマイノリティー双方に対して平等に注がれた、眼差しと愛情に要因があるのではないかと思う。
 
 広瀬氏が描く昭和初年代や戦後間もない時代の詳細な東京の街並みであるとか、カフェーやダンスホール、ダットサンの自動車やフィリップス社製のオールウェーブ・スーパーヘテロダインといった、細部にこだわった記述が、それらを知らない我々のような世代にも郷愁を呼び起こし、それゆえに支持を得ているのは間違いないが、そういった過ぎ去った日々というものもまた、時代の主流から少しずつ取りこぼされ、忘れ去られていった「時間軸のマイノリティ」なのである。広瀬氏は、多くの人々が普段気に留めることもない、意識にものぼせない、積極的に関わろうとはしない、それらマイノリティに向けての視線を持っているからこそ、時代を超えて愛される作家なのだろうと思うのだ。
 
 現在では昔ほど、左利きに関してうるさいことは言われなくなり、無理に矯正させることもないようである。だが、私が小学生だった頃は、左利きの子らは右手で字を書き、箸を持つよう、親や教師から矯正されていたように記憶している。そもそも世の中の殆どの道具や文房具が右利き用でもあったし、左利きだと文字を美しく書けないという偏見もあった。今の若い世代の左利きの方たちが、この作品を読むと、左利きの先達が苦労していた時代のことが偲ばれ、興味深いのではないかと考える。
 
 とは云っても、私自身はこの『鏡の国のアリス』の内容全てを理解出来たわけではない。それに、木崎浩一が迷い込んだ鏡像の世界も、本当の話なのか、彼の妄想なのかどうなのかも分からないのである。朝比奈が中学生に実像と鏡像の見え方についてレクチャーしている場面には、アルファベットのRの文字を使ってのイラスト解説が掲載されているのだが、朝比奈らが左右あべこべの世界の住人ならば、朝比奈が言うところの「正しいアールの形」「Я」でなければならないのではないだろうか。だが、実際には「R」が正位置として解説されているのである。ちょっと考えすぎ? 考えれば考えるほどメヴィウスの輪に入り込んでしまったように混乱するのだけれど、次こそ分かるのでは?と、もう一度読みたくなる作品なのである。
 
 
                                  平成二十二年八月六日 読了
 
 
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 施術対象者を温床(オンドル)の上に寝かせ、徒弟の一人がその腰を、もう二人がその足を片方ずつしっかりと固定したところで、室内の緊張は一気に高まりをみせた。男の下腹部と股の上部は白い紐でくくられており、出血が最小限にとどめられるように、一応の配慮がなされている。施術される部分は、事前に熱い胡椒湯で三回ほど念入りに洗浄され、それはこころなしか、持ち主が何度も何度も想像し、反芻した不安と恐怖と痛みが伝染したかのように、力なくダランと俯いているようだ。別れを惜しむほどの猶予もなく、刀子匠(タオツチャン)が入室し、施術対象の男の目の前に立つ。
 
「後悔不後悔(ホウフイブホウフイ:後悔しないか)」
 
 男は承諾した。自ら志願したのだ。ここで怖じれば貧しい生活からは、もう一生逃れられはしない。男は、それを手放すことで得られるかもしれない栄達に賭けるしかなかったのだ。
鎌状に湾曲した刀子が一閃し、それはあきれるほど呆気なく、鮮やかに切断された。彼の「成り成りて成り余れる処」は、こうして主との有機的なつながりを永遠に絶ったのである。刀子匠(タオツチャン)は、白鑞(はくろう)のを慣れた手付きで尿道に差し込み、傷口を冷水に浸した紙で丁寧に覆った。そして、執刀を受けた男は、二人の人間にかかえられて、苦痛に耐えながら二、三時間も室内を歩き回らされる。そののち、横臥。手術後三日間は、水を飲むことさえも許されない。もうそこにはない自分の一部のことを、餓(かつ)えによる朦朧とした意識の中でつらつらと考えるうちに、なんとか地獄の三日間は過ぎ、白鑞の栓が引き抜かれると、あれほど水分を摂らなかったにもかかわらず、噴水のように尿があふれ出る。
 
 この現象をもって成功とする。いったい何に成功したのか。それは、男でもなく女でもない第三の人間の誕生に、だ。彼はこれから都に送られる。貴人達のお気に召す優雅な作法や知識を詰め込まれ、彼が美貌で有能ならば、後宮の婦人や皇帝に近侍することになるだろう。権力の中枢に一足飛びに駆け上がり、権力者の仲間入りを果たすことも夢ではない。
汝の名は宦官なり。
 
 『三国志』や司馬遷の『史記』を読むのが好きな人ならば、「宦官」という字面は眼に馴染んだものであろう。本来、「宦」という字は「宮中に仕える近臣」という意味があり、「宦官」という言葉が直接に「去勢された男子」を指すわけではないが、中国においては、内廷奥深くに勤め、皇帝や寵姫と密接に結びつき、時代によっては外戚と権力を争いながら内乱の原因を作ったり、強大な権勢を振りかざしたりしたのが、この去勢を施された男子であった為に、「宦官」=「去勢男子」というイメージが生じる結果となった。
 
 しかし宦官と一口に言っても、彼らがどのように生み出され、どんな生活・仕事をし、去勢したことで身体的・精神的にどのような変化が見られるのか、といった細かい部分については知られていないのが普通である。この三田村泰助氏の著書『宦官 側近政治の構造』は、中国史に触れる上で切っても切り離せない、しかしながら歴代皇帝の陰に隠れて実体のつかみにくかった宦官というものについて、事細かな研究成果を我々の前に提示してくれる名著である。
 
 宦官は、古代中国の殷代にはすでに存在していたことが確認されている。無論、宦官という第三の性を生み出し、彼らを使役するという風習は、中国に限ったことではなくて、ペルシアやトルコにもあったし、エジプトや南インドにもあった。およそ、古代オリエント世界とその周辺の専制君主制を採用する国家では、宦官が存在していたと考えても差し支えなく思われるほどである。また、積極的に宦官を用いなかったと考えられている国々においても、それを必要とする国家の需要に合わせて、宦官を作り出し、市場で売買し、利益を上げていたことも事実である。
 
 もともとは戦争捕虜などの異民族に対して、制裁と断種の目的から去勢が行われていたのであろう。もしくは、同族間で主として姦通などの罪を犯した罪人が出た場合の刑罰として。刑罰として去勢する場合、これを「宮刑(きゅうけい)」とか「腐刑(ふけい)」という。この宮刑を受けた者は、労働奴隷として苦役が科せられたり、貴人の家庭内で奴僕として働くことが要求されたりするわけだが、そのうち、「生殖能力を持たない」ということが、権力者の妻妾の世話をするのに極めて都合がいいことが解かってくると、奥向きの雑事を一手に引き受ける宦官が誕生するのである。彼らは生殖能力を持たないが故に、高貴な婦人たちとの間に間違いを起こしようがないからだ。
 
 こうして、宦官が諸侯や皇帝の家庭と結びつき始めると、そこには自然と、種々の機密に与(あずか)るチャンスが生じてくる。彼らは諸侯や皇帝の私生活に食い込むことで、常に主人の心のひだの部分までをも理解し、最重要の情報にも接し、次第に表裏一体の関係を築いていく。そして時に主人と同等か、それを上回る権力を行使するようになるのである。ここまで来ると、宦官として奉公した方が有利であるという考え方も生まれ、自ら志願して去勢を願い出る者や、親の意思により、幼少期に去勢されてしまう者も出てきはじめる。罪人でないにもかかわらず、去勢を希望する状態を「自宮(じきゅう)」という。
 
 本書では、宦官が良い意味でも悪い意味でも特に活躍した時代、すなわち漢・唐・明を取り上げて、その中で、なぜ宦官の活動が活発になったのかを、各時代の政治背景や皇帝の資質、その皇帝を取り巻く后妃たち、及びその一族(外戚)の関係から読み解いている。宦官は、時に有力な外戚と結びついて政治を壟断し、時に政務に熱心でない皇帝に代わって朝廷を裏面から牛耳った。秦の始皇帝の側にあって、帝の死後、遺詔を改ざんし、始皇帝が継嗣として望まなかった胡亥(こがい:始皇帝の末子)を即位させた趙高(ちょうこう)や、『三国志』に登場する宦官集団・十常侍(中常侍)などは、宦官の負の部分のイメージを定着させた筆頭であろう。
 
 悪くすれば、一つの王朝が滅びるところまで宦官の害悪というものは増大することもあったが、その反面、この著書では皇帝と宦官たちの結びつきの強さ、愛情の深さといったものにも着目しているのが特徴である。例えば、漢の高祖は晩年病床にあって継嗣の問題に頭を悩ましていた時、誰にも相談できないその苦悩を、宦官に膝枕をしてもらいながら紛らしていたというし、後漢の霊帝は「十常侍(中常侍)」のうちの張譲(ちょうじょう)と趙忠(ちょうちゅう)を指して「張常侍はわが父、趙常侍はわが母」と言ったという。また明代には、皇帝が冷えた食事しか口に出来ないのを見た近時の宦官が、腕によりをかけて温かい食事を作って差し上げたところ、「うまれてはじめてうまいものを食べた」と喜ばれ、それ以来、宦官が皇帝の食事の支度をするようになったことなどが書かれている。
 
 古代から、皇帝に影のように寄り添い、時代によっては、その皇帝を押しのけるかのように表の世界に顔を出す宦官だが、彼らの専権によって王朝が衰退していくという現象を何度経験しても、中国の皇帝が宦官制度を廃止することはなかった。あたかも宦官がいなくなれば、皇帝である自分までもが存立しえないかのようにである。何故、宦官制度がなくならなかったかという問題については、多角的な見方が必要になってくるが、一つには、皇帝も宦官も、人間でありながら「普通の人間」として生きていくことが許されないという立場にあったことが、両者を親密にさせる要因であったのではないかと、私は個人的に考えている。
 
 「登極せし者、すなわち王」という考え方がある。王(皇)位の登った者は、その時点で唯一無二の絶対的存在として、血縁関係などのあらゆる相対的な関係性から独立するというものである。実際には王や皇帝といえども、血縁者に囲まれて過ごすには違いないのだが、思想上ではそういった関係性の埒外に置かれるのが殆どである。人民を支配し教導する立場の王や皇帝が、某(なにがし)さんの息子とか、どこそこで生まれたとか、一般民衆と同じレベルの話題でしばしば語られることは、その神聖性や神秘性を損ない、甚だ不都合だからである。中国の皇帝もまた天の代理者として、地上にありながら地上の全てのものから独立し、天の運行と天帝の地上に対する采配を補佐するとされていたから、肉体的には某さんの息子であっても、思想上は何ものにも拠らない絶対者なのである。そのことが皇帝を孤独にし、いつか権力を奪われるのではないかという激しい疑念を抱かせ、周囲の人間を一切信用できない状態に追い込んでいく。そういった皇帝ならではの苦悩は、女官や官僚といった「普通の人間」には、到底、完全に理解することは出来ないし、皇帝自身がその懊悩を、彼らに胸襟を開いて打ち明けるということも、まずないだろう。
 
 宦官も同じく孤独な存在である。男でもなく女でもない彼ら宦官は、身分そのものは低かったから、どんなに職務に忠実でも、大きな功績を残しても「たかが宦官」という目で見られていた。肉体の欠損、生殖機能の喪失からくる劣等感も並大抵のことではなかったはずである。中国においては、官途に就き、栄達し、子孫繁栄を図って、先祖の祀りを絶やさないことが一つの重要な価値であり、その子孫繁栄と家の祭祀が全うできないということは、中華社会の中の不適合者にほかならない。彼らは確かに人間ではありながら、なかなか人間扱いしてもらえない、孤立無援の存在なのである。
 
 至高の存在として君臨する孤独な皇帝と、孤立した種族である宦官―――。この二者は身分の高低、聖俗、或いは清濁、一切の相反する属性を内包したままで生活を共にするのだ。あたかも皇帝が、宦官がであるかのように。「普通の人間」になりえなかった両者は、全く異なる世界に生きているようでありながら、お互いがお互いにとって最も良き理解者なのである。
 
 本書を読む際に気をつけておくべき点がある。それは、この連綿と続けられてきた宦官制度を、野蛮だとか立ち遅れているとかいう風に評価すべきではないということである。勿論、野蛮という評価を下すべきものではないからといって、人体に人為的欠損や改造を加えることを是とするわけでは決してない。現代の人権意識をもとに考えれば、それは許されるものではないが、当時の宦官を必要とする時代や文化にあっては、これもまた欠くことのできない制度であったのだ。宦官を生み出していた文化を野蛮とするのであれば、現代の我々の方が大規模な戦争を起こし、大量殺戮兵器を製造している面から見ても、よほど野蛮であることを認めなければならないし、我々現代人が進歩し洗練された生活を送っていると思うのであれば、宦官が存在した時代の人々も、その当時において実現できる限りの洗練された生活を営んでいたことに思いを致さねばならない。人間の本質など、数千年・数百年程度の経過では、変化を遂げることなど無いに等しいのだから。
 
 本書は漢・唐・明代の皇帝と宦官の名が行きつ戻りつしながら出てくる部分もあるので、中国史に慣れない方には、少々読みづらいかもしれない。ただ、巻末に漢・唐・明代だけを抜粋した年表が付いているので、それを確認しながら読み進めれば、宦官の意外な実態を知れて面白いだろうと思う。
 
 
                                          平成二十二年七月二十日 再読了
 
※文中四段落までは、『宦官 側近政治の構造』の二十頁から二十一頁までの「去勢の仕方」より、三田村泰助氏の語と文の流れを借り、私の創作を加えて再構成しました。
 
 
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 「黒魔術」という言葉をここに書いたりしただけでも、(この人怪しい人物なんじゃないだろうか…)なんて不安がられるかもしれないので、こういう書籍を記事にする時には、私は柄にもなく、そこそこの注意を払ったりするんである。それだけ「黒魔術」の語には、はかり知れない吸引力があって人の目を釘付けにする。この三文字に惹き付けられて本書を手に取ったり通読した方もいらっしゃることであろう。

 私は、詳しくはないもののオカルティズムには常に関心をもっている。しかし安心して頂きたい。私は人から「山田さんて魔女みたい」と言われたことはないし、実際に黒ミサを主宰してもいないし、蝋燭の灯りのもとで得体の知れないものをグラグラ煮込んだりもしていない。魔女っ子世代ではあり、『魔女の宅急便』も『金曜ロードショー』で放映されるたびに見てしまうくらい好きだが、きちんと蛍光灯の光で生活している人間である。加えて云うなら、私が調理するものは<最終的に>得体の知れないものになってしまうだけだ。

 この『黒魔術の手帖』は、「魔法サークルの描き順を知りたいんですぅ」とか、「バフォメットを召喚したいんですぅ」とかいう風に黒魔術に対する具体的な要求を持つ人々には不向きな本である。なぜなら、この本の中には、魔法サークルの描き方も、種々の階級の悪魔を呼ぶ呪文も、ホムンクルスの製造方法も、何一つ具体的で実践的なことは書かれていないからだ。ところどころで、「興味のある方は○○○のようにすると良かろう」みたいな一文がそっと添えられていたりするが、それを実行に移すにはラテン語に堪能でなければならなかったり、マンドラゴラの木を採ってくる必要があったりするので、結局のところ、実行不可能なようになっているのである。マンドラゴラがどこに生えているかなど、肝心のマル秘情報は載っていないのだ。

 本書の性質としては、黒魔術についての諸相・歴史・考え方における入門篇、もしくは導入篇といった方が正しいような気がする。では黒魔術に関する知識が全くない読者にとっても読みやすい本かというと、これもまた違う。澁澤龍彦氏の著作については大概云えることだが、彼の知識はあまりにも深遠にすぎて、ごく普通の読書量しかこなしていない一般人には到底ついて行けないほどの専門性の高い語句がズラズラと出てくるのである。特に本書の場合は、聞いたこともないような人名や書籍名が次から次へと出てきて、脳髄がパンクしそうになる。

 錬金術師ニコラ・フラメル同じく錬金術師パラケルスス大魔術哲学者コルネリウス・アグリッパスコラ哲学者アルベルツス・マグヌス…、まぁ、この辺の人名は幻想文学や伝奇小説なんかを読んだ時、ごくたまに目にすることもあるのでさほどストレスは感じないが、古くから伝わる魔法書『赤龍』、ジュール・ボワの記した『悪魔学と魔術』、十九世紀の大魔術学者エリファス・レヴィがまとめた『高等魔術の教理および儀式』…なんてことになってくると、もう(…知らん…)としか云いようがない。澁澤氏はこれら人名・書名・その他の専門用語に関して、平易な解説を加えてくれているわけではないから、読者はいかに入門書といっても、「せめてそれくらいの予備知識は持っていないとハナシにならないよ、君ィ」と教授に注意されているような気分になってくるのである。

 オカルティズムというものは、キリスト教に限らず神学・宗教・信仰・天文・権威・政治・恋愛など、人間生活のありとあらゆる相と密接に関わりあっている。考え方の中には、それが生まれた当時の偏見や、今では通用しなくなった社会通念・時代精神に基づくものもあったりして、現代人から見れば非常にプリミティヴ、かつ、噴飯ものの思想も当然含まれているわけだが、だからと云ってそれを理由に即座にオカルティズムを排除していいかというと、そうではない。科学が未発達であった時代においては、オカルティズムはこの世界を分析し理解する上での重要な手段であったからだ。簡単に比較してはならないが、古代中国において周易や、そこから発展していった陰陽五行説が、科学の代りに天文の運行から個々人の運命に至るまでを合理的に解明しようとしたものであったように、オカルティズムもまた、そういった性格を有しているのである。

 そして、科学がこれだけ発達した現代にあっても、この世の全ての現象が、その科学によって完璧に説明できうるわけではない。また科学によって合理的に解析しうる現象であっても、その科学的思考をあえて採用しないという態度をとることも、じつは我々には可能なことなのである。例えばダーウィンの進化論は、生物の多様性を説明するのにある一定の合理性を持っていて、それを何の疑いもなく支持する人も多いわけだが、反対に、そのダーウィンの進化論を採用せずに、神が土をこねて生物を造ったと熱烈に信じる人も意外に多い。これは「科学を人類最高の叡智として信奉する人」「信仰上の理由から、あえて科学を排除する人」という真逆の立場である。勿論、どちらの考え方も非難されることではない。

 なおかつ、どちらか一方に偏るのではなくて、科学的なアプローチの仕方を身に付けながら、更に、いまだ科学の力の及ばない領域についてはオカルティズムに、もしくは神学的アプローチにゆだねてみるというバランスの取り方もあるのだ。科学とオカルティズム(あるいは神学)はお互いに競合するものではなくて、お互いの足りない部分を補完しあう存在であり、それゆえに、どんなに科学的なものの見方が主流となった現在においても、オカルティズムを野蛮なもの・洗練されていないもの・怪しげで胡散臭いものとして捨て去ることは我々には出来ないことなのである。その証拠の一つとして、不可解な噂や説明のつかない現象が起こるたびに、新たな都市伝説という形でまことしやかにオカルティックに、我々はいまだに囁くことをやめないではないか。

 本書には主として、「カバラ数秘学」「薔薇十字団」「古代カルタ」「サバト」「黒ミサ」「占星学」「ホムンクルス」などが取り上げられているが、本文頁の約三分の一弱は「青髭公ジル・ド・レ」についての考察となっている。中世フランスの若き元帥ジル・ド・レは、オルレアンの少女ことジャンヌ・ダルクと共に百年戦争を戦った大貴族であり、当時の貴族社会には珍しい知識人である。だが、ジャンヌを火刑により失った頃からなのだろうか、ジルは急速に嬰児や美少年を苛(さいな)んでは次々に殺害するという狂気に目覚め、彼が居住するチフォージュの城には、幼い子供達の無残な遺骸が積み上げられていたとも言われる。そして彼はイタリア人魔道士フランソア・プラレチと共に錬金術にも血道をあげていたらしい。ジルの、美少年の殺戮方法なども章内で少し触れられているので、そういった内容が苦手な方は注意した方がいいだろうと思う。

 黒魔術というのは、畢竟、人間の抑圧された暗部であるのかもしれない。何かを所有したい、何かを達成したい、何かを振り向かせたい、何かを理解したい、何かを信じたい。
何かを…、何かを…何かを………。
その欲望が密やかなものであればあるほど、今も昔も人間は黒魔術の虜となって絡めとられていき、自分の暗部に沈み込んでいくのだ…。


◆関連記事◆
『城 夢想と現実のモニュメント』(澁澤龍彦)の記事はこちらから→http://blogs.yahoo.co.jp/tomo31841211/7684370.html


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