|
本日は広島にピカ(原子爆弾)が投下されてから六十六年目の夏の日でありました。
私の八月六日は、八時十五分の黙祷から始まります。こちら山口県東部では、八時十五分を少しすぎた頃からしばらくの間、驟雨が緑や土を濡らしました。
致命的な熱傷を負って水を求め続けた広島の人々が、あの日もっとも求めていた涼気を含んだ雨です。
この八月六日に間に合うように、井伏鱒二の小説『黒い雨』についての感想を少しずつ書いていたのですが、なかなか思うようにまとまらず、機を逸してしまいました。近いうちに書き上げることができればなぁと思っています。
私のとっては八月は少し特別な月であります。
八月六日は、広島人だった曾祖父母や祖母が、焼夷弾の雨、火の海の中を必死に駆けずり回り、そして、ピカにより被爆しながらも、その脅威から何とか逃れ、その命を母へ、私へと繋いでくれたことの感謝する日です。
続く九日は、広島と同じ惨禍を味わうことになってしまった長崎の無辜(むこ)の人々を想う日です。
そして、八月十五日は、終戦から何十何年「しか」経っていない、「ほんの」何十何年前までは、日本は戦争の真っ只中だったんだと再確認する日です。
平和に慣れてしまって、それが当然と、有り難味を忘れがちなことも多いのですが、この八月は折に触れて戦争を追体験するのです。
本日この日、ヒロシマに、そして原子爆弾の恐ろしさに想いを致し、平和を祈念して下さった皆様に、心より感謝申し上げます。
|
問題意識
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
私のブログを読んでくださっていた方、訪れてくださった方へ―――
昨年の十月以来、突然ブログ更新が途絶えたことに関して、まず心からお詫び申し上げます。
コメントを残してくださった方々、見に来てくださった方々にご心配をかけてしまいました。本当に申し訳ございません。昨年十月下旬ごろから体調を崩しやすくなり、気持ちの面でも好不調の差が激しく、なかなか文章を書くに至りませんでした。元気な時も勿論あり、そういう時はブクログなどで読書記録だけは付けていたのですが、冬から春にかけての寒い時期は、腰痛がひどかったり、何回か発熱したりで、横になっていることが多い状態でした 。暖かくなって体調も普段どおりに戻ってきたので、これからまた、読書感想文などをコツコツ書いていくつもりです。
今後もし、体調不良などで長期間更新ができない状態に陥りそうになったら、今回のような失礼がないように、きちんと現状をお知らせ致します。年齢的に、というべきなのか、体調や気分が自分でもままならないような時期があるのですが、この読書ブログを地道に続けられるよう、健康に気をつけて生活していきますので、また皆様とゆるゆるとした交流をさせていただければ幸いです。
三月十一日に東日本大震災が起こって、それからまた、気分が滅入るような時期がしばらくありました。皆様は、どのように過ごしておいででしたか? 十一日当日、私は在宅していて、テレビでの大津波警報の発令も、津波がやってきて海岸付近に停めてあった車や積まれていた材木をあれよあれよという間に押し流していく映像も、リアルタイムで見ていました。それでも、そのときは正直に言って、これほどの被害になるとは予想だにしていませんでした。しかし、時間が経つにしたがって、様々な津波の映像が集積され、放送されて、一気に被害の全容が眼前に浮かび上がってきた時、私は、夜がしらじらと明けてきて初めて甚大な被害状況が判明した、あの阪神淡路大震災で味わったショックを再び思い出していました。
阪神淡路大震災が起こった当時、私は京都府の南部に住んでいて、震災当日は、ゆれ始める数秒前に何故だか目が覚めたのを今でも不思議に思っています。その日、京都府南部で震度五弱か五強ではなかったかと記憶しているのですが、未明にふと目が覚めて、変な時間に起きてしまったと思いながらベッドに起き直っていると、薄暗がりの中で、書棚が揺れ始めていることに気付きました。前部が、ガラス戸のついたスライド式になっていて、そのスライド棚が二つ、いつもは必ず両脇に寄せてあるのに、遠目にも不気味にゆっくりと動いている。(あっ)と思った直後には、その二つの棚がひとりでに滑り出し、がつんがつんとぶつかり始めたのです。
家中の物がガタガタ鳴り響く中、その行動に意味があるのかないのかも分らないまま、たった独りでおろおろと本棚を押さえていた時の恐怖を、私はすっかり忘れた気になっていましたが、やはり心のどこかでは記憶しているようです。今回の大震災がきっかけとなって、その恐ろしさをまざまざと思い出す結果となりました。
阪神淡路大震災の時でさえ、私は(もうこれ以上の大災害は、起こりようがないだろう)と考えていました。けれども、そんな人間側の常識や経験というものは、まるで当てにはならなくて、かつての震災を上回る規模で、またも巨大な地震が発生することとなりました。神戸の震災の直接的な被災者でなかった私でさえ、「揺れる」という一事で心臓がつぶれるような思いを味わったのに、今度の巨大地震は津波という別の脅威までもたらし、それを経験した人々の恐怖や心の傷はいかばかりであろうか、と苦しくなります。とりわけ、脚の不自由な一人住まいのお年寄りや、津波から逃げ切れるほどの体力のまだ備わっていない小さい人たちなど、避難行動に即応できない人々は、地の揺れと水と火という恐ろしいものがいっぺんにやって来て、どんなに怖ろしく悲しく絶望的な気持ちに襲われたろうか。地震や津波の検証番組がテレビで流されるたび、あの押し寄せる真っ黒な波を見て、胸がギュッと締め付けられるような、肌が粟立つような、何ともいえない暗澹たる気持ちになります。
私は神戸で被災した方々に対して、当時、何の手助けもできませんでした。大学生だった私は、自分の生活に手一杯で、義捐金も一度くらいしか出さなかったように思います。それも、ごく少額を。思い返せば、ボランティア活動に身を投じることだって出来たのに、それもしないまま、自分の日々の生活に埋没してしまいました。身近に困っている地域や人々がありながら、何一つ役には立てなかったということが、ずっと後悔として私の心の底に澱(おり)のように沈んでいます。
ですから、今回の東日本大震災では、阪神淡路大震災の時にできなかったことを、少しでもいいから実践していこうと思っています。神戸の街が復興するのに何年も何年もかかりました。かなりのうろ覚えで正確でない情報なのですが、三、四年ほど前だったか、MBSの『ちちんぷいぷい』(近畿圏を中心に放送されているローカル情報番組です)で、パーソナリティの角(すみ)さんが「神戸の仮設住宅や復興住宅がこのほど全て解体されました」という内容を話していたような気がするのです。神戸の震災からすでに十数年経った頃のことで、私はそれを聞いて(ああ、震災の爪あとはまだ残っていたんだ…)と、しみじみ自分の無関心さを恥ずかしく思ったものです。東日本大震災は、それを凌駕する規模と被害、その上、原発の問題までからんでいる状況ですから、復旧・復興には神戸以上の年数がかかると思わざるを得ません。そして、被災した方々の心の傷は、どんなに年数をかけても容易には癒えないかもしれません。街並みや生業(なりわい)といった見た目の復興と人々の精神的・心理的救済は、神戸以上の長期戦です。だからこそ私は、あの時出来なかったことを、今から少しづつ継続してやっていきます。
今のところ、私に出来ることは寄付くらいしかないので、義捐金受付が締め切られるまでは、寄付を続けていきますし、もし締め切りの延長がなされれば、それに応じてさらに継続していくつもりです。私は、親戚の仕事を手伝っているだけなので、収入は雀の涙ほどでしかありませんが、誰かの為に働けることを喜びとして、生活していきます。決して生き方ががらりと変わったわけではありません。しかしながら、あの巨大な自然災害を間接的にであれ経験して、やはり自分の中の何かが少し変わったような気もします。その変化をじっくり見つめながら、真面目な生活者になっていきたいと思っています。
|
|
六十四年前、祖父が戦争に携えていった飯盒(はんごう)。小さな象牙の振り出し箸をベルト部分に収納できるようになっている。革のベルトは、六十四年を経て硬化し、一部切れている。 |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事
|
長崎に原子爆弾が投下されて、六十四年が月日が経った。原爆は、投下された六十四年前当時の長崎の人々を地獄の苦しみに突き落としただけではなく、被爆による様々な病気の発症や、病状の悪化、あるいは、胎内被曝に対するいわれなき差別等で、今もなお、苦しみを与え続ける「大量殺戮兵器」である。 |
|
「ヒロシマのピカ」とは、六十四年前の今日、あの夏の日に落とされた原子爆弾のことである。「ピカドン」と呼ばれることもある。どちらも、原爆が投下された時の爆発の様子を表していて、「ピカッ!」と一瞬にして真っ白い閃光と熱線が発せられ、次の一瞬には「ドン!」というとてつもない一つの大音響と共に、広島市街地がかき消されたことを物語る言葉である。 |
全1ページ
[1]


