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問題意識

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問題意識

元青年の主張。一人の人間として、世に問いたいことを自分の言葉で書いています。
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 本日は広島にピカ(原子爆弾)が投下されてから六十六年目の夏の日でありました。
 私の八月六日は、八時十五分の黙祷から始まります。こちら山口県東部では、八時十五分を少しすぎた頃からしばらくの間、驟雨が緑や土を濡らしました。
致命的な熱傷を負って水を求め続けた広島の人々が、あの日もっとも求めていた涼気を含んだ雨です。
 
 この八月六日に間に合うように、井伏鱒二の小説『黒い雨』についての感想を少しずつ書いていたのですが、なかなか思うようにまとまらず、機を逸してしまいました。近いうちに書き上げることができればなぁと思っています。
 
 私のとっては八月は少し特別な月であります。
八月六日は、広島人だった曾祖父母や祖母が、焼夷弾の雨、火の海の中を必死に駆けずり回り、そして、ピカにより被爆しながらも、その脅威から何とか逃れ、その命を母へ、私へと繋いでくれたことの感謝する日です。
 
 続く九日は、広島と同じ惨禍を味わうことになってしまった長崎の無辜(むこ)の人々を想う日です。
 
 そして、八月十五日は、終戦から何十何年「しか」経っていない、「ほんの」何十何年前までは、日本は戦争の真っ只中だったんだと再確認する日です。
 
 平和に慣れてしまって、それが当然と、有り難味を忘れがちなことも多いのですが、この八月は折に触れて戦争を追体験するのです。
 
 
 
 
 本日この日、ヒロシマに、そして原子爆弾の恐ろしさに想いを致し、平和を祈念して下さった皆様に、心より感謝申し上げます。
 
 
私のブログを読んでくださっていた方、訪れてくださった方へ―――
 
 昨年の十月以来、突然ブログ更新が途絶えたことに関して、まず心からお詫び申し上げます。
コメントを残してくださった方々、見に来てくださった方々にご心配をかけてしまいました。本当に申し訳ございません。昨年十月下旬ごろから体調を崩しやすくなり、気持ちの面でも好不調の差が激しく、なかなか文章を書くに至りませんでした。元気な時も勿論あり、そういう時はブクログなどで読書記録だけは付けていたのですが、冬から春にかけての寒い時期は、腰痛がひどかったり、何回か発熱したりで、横になっていることが多い状態でした 。暖かくなって体調も普段どおりに戻ってきたので、これからまた、読書感想文などをコツコツ書いていくつもりです。
 
 今後もし、体調不良などで長期間更新ができない状態に陥りそうになったら、今回のような失礼がないように、きちんと現状をお知らせ致します。年齢的に、というべきなのか、体調や気分が自分でもままならないような時期があるのですが、この読書ブログを地道に続けられるよう、健康に気をつけて生活していきますので、また皆様とゆるゆるとした交流をさせていただければ幸いです。
 
 三月十一日に東日本大震災が起こって、それからまた、気分が滅入るような時期がしばらくありました。皆様は、どのように過ごしておいででしたか? 十一日当日、私は在宅していて、テレビでの大津波警報の発令も、津波がやってきて海岸付近に停めてあった車や積まれていた材木をあれよあれよという間に押し流していく映像も、リアルタイムで見ていました。それでも、そのときは正直に言って、これほどの被害になるとは予想だにしていませんでした。しかし、時間が経つにしたがって、様々な津波の映像が集積され、放送されて、一気に被害の全容が眼前に浮かび上がってきた時、私は、夜がしらじらと明けてきて初めて甚大な被害状況が判明した、あの阪神淡路大震災で味わったショックを再び思い出していました。
 
 阪神淡路大震災が起こった当時、私は京都府の南部に住んでいて、震災当日は、ゆれ始める数秒前に何故だか目が覚めたのを今でも不思議に思っています。その日、京都府南部で震度五弱か五強ではなかったかと記憶しているのですが、未明にふと目が覚めて、変な時間に起きてしまったと思いながらベッドに起き直っていると、薄暗がりの中で、書棚が揺れ始めていることに気付きました。前部が、ガラス戸のついたスライド式になっていて、そのスライド棚が二つ、いつもは必ず両脇に寄せてあるのに、遠目にも不気味にゆっくりと動いている。(あっ)と思った直後には、その二つの棚がひとりでに滑り出し、がつんがつんとぶつかり始めたのです。
 
 家中の物がガタガタ鳴り響く中、その行動に意味があるのかないのかも分らないまま、たった独りでおろおろと本棚を押さえていた時の恐怖を、私はすっかり忘れた気になっていましたが、やはり心のどこかでは記憶しているようです。今回の大震災がきっかけとなって、その恐ろしさをまざまざと思い出す結果となりました。
 
 阪神淡路大震災の時でさえ、私は(もうこれ以上の大災害は、起こりようがないだろう)と考えていました。けれども、そんな人間側の常識や経験というものは、まるで当てにはならなくて、かつての震災を上回る規模で、またも巨大な地震が発生することとなりました。神戸の震災の直接的な被災者でなかった私でさえ、「揺れる」という一事で心臓がつぶれるような思いを味わったのに、今度の巨大地震は津波という別の脅威までもたらし、それを経験した人々の恐怖や心の傷はいかばかりであろうか、と苦しくなります。とりわけ、脚の不自由な一人住まいのお年寄りや、津波から逃げ切れるほどの体力のまだ備わっていない小さい人たちなど、避難行動に即応できない人々は、地の揺れと水と火という恐ろしいものがいっぺんにやって来て、どんなに怖ろしく悲しく絶望的な気持ちに襲われたろうか。地震や津波の検証番組がテレビで流されるたび、あの押し寄せる真っ黒な波を見て、胸がギュッと締め付けられるような、肌が粟立つような、何ともいえない暗澹たる気持ちになります。
 
 私は神戸で被災した方々に対して、当時、何の手助けもできませんでした。大学生だった私は、自分の生活に手一杯で、義捐金も一度くらいしか出さなかったように思います。それも、ごく少額を。思い返せば、ボランティア活動に身を投じることだって出来たのに、それもしないまま、自分の日々の生活に埋没してしまいました。身近に困っている地域や人々がありながら、何一つ役には立てなかったということが、ずっと後悔として私の心の底に澱(おり)のように沈んでいます。
 
 ですから、今回の東日本大震災では、阪神淡路大震災の時にできなかったことを、少しでもいいから実践していこうと思っています。神戸の街が復興するのに何年も何年もかかりました。かなりのうろ覚えで正確でない情報なのですが、三、四年ほど前だったか、MBSの『ちちんぷいぷい』(近畿圏を中心に放送されているローカル情報番組です)で、パーソナリティの角(すみ)さんが「神戸の仮設住宅や復興住宅がこのほど全て解体されました」という内容を話していたような気がするのです。神戸の震災からすでに十数年経った頃のことで、私はそれを聞いて(ああ、震災の爪あとはまだ残っていたんだ…)と、しみじみ自分の無関心さを恥ずかしく思ったものです。東日本大震災は、それを凌駕する規模と被害、その上、原発の問題までからんでいる状況ですから、復旧・復興には神戸以上の年数がかかると思わざるを得ません。そして、被災した方々の心の傷は、どんなに年数をかけても容易には癒えないかもしれません。街並みや生業(なりわい)といった見た目の復興と人々の精神的・心理的救済は、神戸以上の長期戦です。だからこそ私は、あの時出来なかったことを、今から少しづつ継続してやっていきます。
 
 今のところ、私に出来ることは寄付くらいしかないので、義捐金受付が締め切られるまでは、寄付を続けていきますし、もし締め切りの延長がなされれば、それに応じてさらに継続していくつもりです。私は、親戚の仕事を手伝っているだけなので、収入は雀の涙ほどでしかありませんが、誰かの為に働けることを喜びとして、生活していきます。決して生き方ががらりと変わったわけではありません。しかしながら、あの巨大な自然災害を間接的にであれ経験して、やはり自分の中の何かが少し変わったような気もします。その変化をじっくり見つめながら、真面目な生活者になっていきたいと思っています。

終戦記念日

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六十四年前、祖父が戦争に携えていった飯盒(はんごう)。小さな象牙の振り出し箸をベルト部分に収納できるようになっている。革のベルトは、六十四年を経て硬化し、一部切れている。

 広島・長崎の原爆忌についてそれぞれ記事を書いてきた。そして本日は六十四回目の終戦記念日である。祖父母たちが体験してきた第二次世界大戦について、今回も自分なりに書いておきたいと思う。
普段は、ほぼ自分のために読書感想文を残しているこのブログであるが、ご縁があって、この記事に辿り着かれた方は、八月六日・八月九日、そして本日八月十五日の記事だけでもご覧頂ければ幸甚である。

 『ヒロシマのピカ』の項でも紹介した母方の祖母から、小学生の頃だったろうか、一緒に昼寝をしながら、ふと聞かされた話がある。

 「お婆ちゃんねぇ、若いころねぇ、本当は弟がおったんよ。ほいじゃけどねぇ、戦争の時、広島は空襲がひどうてからねぇ、B29が飛んでくるたんびに、ようけ焼夷弾が落とされてから、走っちゃあ逃げよったんよ。その時もねぇ、周りの家がボンボン燃えよる中を皆で走って逃げよったんじゃけど、(ありゃ、あの子はちゃんと付いて来よるんじゃろうか?)と思って、後ろを振り返った時にねぇ、…落ちてきた焼夷弾が、弟の首に当ってねぇ…、首がちぎれて飛んでしもうてから…、死んでしもうてからねぇ…。(あっ!)と思うたんじゃけど、とにかく熱ぅて、その場におられんでねぇ、見捨てて行くしかなかったんじゃけど…」と。

 それまで、祖母の口から戦争体験を聞いたことはなかったものの、通っていた小学校には、ピカや空襲についての絵本や児童書も数多く、それらを読んでいた私は、突然の祖母の話にも、驚いたり怖がったりしたということはなかったように思う。「うん、うん」と時折うなずきながら、じっと聞いていただけだった。しかし、今、眼前にいる祖母と血のつながった人が、何十年もの昔にそういう亡くなり方をしたということが、何とはなしに不思議な感じもし、また悲しいような気もして、小さかった当時の私の胸に、しばらくの間、つかえていたことも事実であった。

 父方の祖父は徴兵され、太平洋戦争を戦った者の一人である。その祖父も一度だけ、四角いクッキー缶の中に仕舞い込んであった、階級章らしきものや古い手紙、その他こまごまとした袋類を整理しながら、こんな話をしてくれたことがある。私が中学生くらいの年頃だったように思う。

 「じいちゃんのぅ、戦争の時は、まぁまだ若かったし伍長じゃったんじゃが、南方に送られてからのぅ、そこがジャングルみたいに木が茂っちょったんじゃが。じいちゃんそこでのぅ、米兵を三人ほど突き殺したんじゃいの…。まぁ、ほいじゃけど、すぐにマラリアに罹ってしもうてのぅ、野戦病院に入らされて、そのまま戦争が終わったもんじゃけぇ、生きて帰れたんじゃがの…」と。

 突き殺した時の武器を何と聞いたか、記憶が定かでないのだが、「銃剣」ではなく「竹槍」と聞いたような気がする。竹槍を作らなくてはならないほどの、輜重物資に乏しい中での戦いだったのかどうかは、残念ながら、当時の私には質問するだけの言葉がなかった。また「南方」というのが、東南アジアのどの辺りであったのかも、聞くことはなかった。

 ただ、戦時中、我々の先人の多くが原爆投下や沖縄戦などによって、また、その他出征先において殺されたことも事実であるが、私の祖父が三人のアメリカ人を殺したことも事実で、その三人を殺したことによって、祖父は生き残り、戦後八年経って父が生まれ、戦後三十年経って私が生まれている。けれども、祖父によって命を落とした米兵の、アメリカに残された家族は、その後どういう運命をたどったのだろうと考えてしまうことも、私にはあるのだ。私という命は、その三人の命と引き換えに生まれたようなものだからだ。 

 広島で被爆した母方の祖父母も、南方戦線で戦った父方の祖父も、私が大学進学の為、故郷の山口県を離れている間に相次いで亡くなった。もう十五年近く前のことだ。悔やまれてならないのは、戦時中の事をもっとたくさん聞いておけば良かった、ということである。体験した本人たちにすれば、きっと、思い出したくもないであろうし、口に出すのも嫌なことには違いないだろうけれども、それでも、もっときちんと聞いておくべきだったと思う。

 その父方の祖父が亡くなる前、痴呆が進み始めていて、現在と過去を行きつ戻りつしているような時期がしばらくあった。ある日、親戚が集まって他愛のない話で笑い合っている際に、祖父もその場にいて、ニコニコと破顔していた。私も同じ場にいて、おじ達の話を聞くともなしに聞いていたのだが、その時、祖父が急に私に話しかけてきたのである。

「日本に戻ったら、仕事を探さぁにゃあいけん」

一瞬、何のことを云っているのか、分からなかった。だが、日本に戻るという云い方からして、祖父はその時、五十数年前の青年伍長に戻っているのだと思った。親戚一同がワイワイやっているのも、もしかしたら、戦友たちが楽しく騒いでいる場面と勘違いしていたのかもしれない。

「おじいちゃん、もう日本に帰って来とるじゃ?」と云ってあげようかとも考えたのだが、祖父の皺だらけの顔の中に、それこそ青年のはにかんだような表情と、戦争が終わったら何をしよう、という希望に満ちた目の光をみて、何も云えなくなってしまった。祖父はどちらかというと芸術家肌の人間で、華道をたしなんだり、演劇に親しんだりするのが好きらしかったから、戦争が終われば、また好きなことが出来るという風に考えていたのではなかろうか。何が何でも生きて帰ろうという決意が、年老いた青年の中にみなぎっているようだった。そして、痴呆が進んでいてさえも、祖父がそこへ立ち戻ってしまうほどの、強烈な印象を与えた「戦争」というものが、私にとっては呪わしい日本の歴史であった。

 戦争について考えたり、若い世代に伝える時、「寝た子を起こすようなことをしなくても」と非難する人がいることも確かである。けれども我々は、戦争は何によって引き起こされるのかという問いを、常に意識しておかねばならない。表層の部分を見ていけば、宗教や信仰の違いから来る軋轢であったり、資源の奪い合いであったり、過去を振り返れば、一人の傾国の美女をめぐって、という原因もあったかもしれないわけだが、しかし、本当に人類を戦争へと追いやり、死地へと押し流していくものは、「想像力の欠如」と「無関心」である。
相手も自分と同じ、生きて血の通う人間であるということを忘れ、相手国の国民にも守るべき家族の命や財産があるということも想像できなくなり、過去の戦争を、自分の人生とは無関係と見なす関心の無さが極まった時、人は他人を簡単に傷つけるようになるのである。

 そういった観点から、私は戦争体験を語り継いでいきたいと思っている。私も、いつも戦争のことばかり考えているわけではないけれど、折に触れて、祖父母たちのつらかった半生を追体験してみるのだ。そうして得られた感覚を、思想を、信念を、自分の言葉で伝えていくつもりである。

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 長崎に原子爆弾が投下されて、六十四年が月日が経った。原爆は、投下された六十四年前当時の長崎の人々を地獄の苦しみに突き落としただけではなく、被爆による様々な病気の発症や、病状の悪化、あるいは、胎内被曝に対するいわれなき差別等で、今もなお、苦しみを与え続ける「大量殺戮兵器」である。

 私は、文字媒体で原爆投下直後の長崎の様子などを読んだことはあるが、広島の場合のように、祖父母などの身近な戦争体験者から、直接に話を聞いたわけではないので、ここで詳しく述べることは出来ない。その能力がない。しかし、原爆や戦争に対する考えは、以前書いた「ヒロシマのピカ」に叙述してあるので、偶然にもご縁があって、このブログにたどり着いた方は、時間が許す限り、ご覧頂きたいと思う。

 「核兵器を持つことが戦争の抑止につながる」などと、いまだに信じている輩がいるが、核兵器が戦争を抑止することなど絶対にありえない。

 人間は幸か不幸か、自己と他者とを区別・比較し、相違点を認識する能力を備えている。
あいつは俺より金持ちだ。あいつは俺より権力を持っている。あの人は私より美しい。あの人は私より優秀だ。あの肌は黒い、この肌は白い。あの国は貧困にあえいでいるのに、この国は富み栄えている。
あの国は他国に比べて、より多くの核兵器を所有している。

 その自己と他者との相違(自国と他国と言い換えてもいい)が、リベラルな立場からの比較研究を超えて、自分を脅かすのではないかという戦き(おののき)や恐怖・緊迫感と共に認識されるようになった時、そしてその戦きや恐れが一人歩きし始め、嵩じ、臨界点に達した時、個人であれ国家であれ、脅かされると感じた側は、他者を攻撃するのである。自己防衛という、厄介で手前勝手な理由のもとに。個人対個人であれば、単なる喧嘩で済むかもしれないが、これが国家対国家となった場合、それは戦争と呼ばれる。その際に核兵器が用いられたら、それは最早、抑止力ではなく、人類を根絶やしにし、地球を不毛の星とする即戦力となるであろう。
戦争を起こさないためにという名目で所有する核兵器の存在が、他国を戦かせ、恐怖させ、過剰な自己防衛にはしらせ、結果として、戦争を誘発する。

 人間が、自己と他者に関する認識能力を持ちうる限り、「核兵器が戦争を抑止する」という理論は、決して成立することはない。

 我々日本人は、今、アメリカの核の傘の中に安住しているように見える。なかなか傘の外に出られないならば、傘の外の世界に恐れを感じるならば、今はまだ、雨宿りさせてもらうこともまた可である。
しかし、しかしだ。我々日本人が為すべき事は、「ほら、見てください。核の傘の中は大変安全ですよ。私たちは核の傘に守られて、平和を謳歌しています」と、核の表面上の恩恵を全世界に向けて表明することではない。

 唯一の被爆国として、六十四年前の核兵器が、原子爆弾が、どれだけ多くの無辜の市民を焼き、人を人の形でなくさせ、水に餓(かつ)えたまま死なせたか、その残酷さを伝え、継承していくことこそが、我々の、核廃絶と平和に向けた仕事なのである。

 核の傘の下にいながら核廃絶を主張するのか、と他国に揶揄されてもいいのだ。矛盾しているではないかと、非難されてもいいのだ。どんなに今の日本の立脚点が格好の悪いものであろうとも、それでも、「我々の父母や祖父母が、あの日、いつもと同じ夏の日を過ごすことが出来ずに、突如としてこの世の地獄に追いやられたのです」と、核の恐ろしさを心底からは分かっていない国々に向けて、使命感を持って伝えていかなくてはならないのだ。体験者として、あるいは体験者の子孫として。そして、その仕事こそが日本人として出来る最善にして唯一の方法であると確信して。

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 「ヒロシマのピカ」とは、六十四年前の今日、あの夏の日に落とされた原子爆弾のことである。「ピカドン」と呼ばれることもある。どちらも、原爆が投下された時の爆発の様子を表していて、「ピカッ!」と一瞬にして真っ白い閃光と熱線が発せられ、次の一瞬には「ドン!」というとてつもない一つの大音響と共に、広島市街地がかき消されたことを物語る言葉である。

 何の落ち度も罪もない広島市民の頭上に、何の前触れもなく落とされた「ピカ」は、私と私の母の誕生にも大きく関わる「大量殺戮兵器」である。

 私の母方の祖父母(母にとっての父母)は、六十四年前の夏、広島市民であった。

 「原爆ドーム」という無惨な姿の建造物がある。死んで焼かれた骨のように、ひたすら佇立する建造物だ。けれども当然のことながら、「原爆ドーム」は最初から「原爆ドーム」であった訳ではない。
「ピカ」が落ちてくる前までは「広島県産業奨励館」という名称の、オフィスビルディングであったことを、今はどれくらいの人が知っているだろうか。

 私の祖母は、その「産業奨励館」に勤務するタイピストであり、広島の町を断髪でさっそうと闊歩するモガ(モダンガール)であった。まだまだ洋装が珍しい時代に、祖母は自分で型紙を作っては洋服を仕立て、着用していたそうである。外で働く職業婦人が数少ない当時、もしかしたら働かなくてはならない事情があったのかもしれないが、それでも職場でリズム良くタイプを打つ彼女は、自分の労働意欲とキャリアを誇らしく感じ、朗らかに笑っていたことだろう。

 「ピカ」が投下された一九四五年の八月六日、祖母は、休暇を取っていて「産業奨励館」には出勤していなかった。それが、死者と生者の運命を分けた。原爆投下の時、祖母が広島のどの辺りにいたのか定かではないのだが、実家のある横川付近に行っていたのではないか、と私の母などは云っている。横川は今でも、山陽本線の上り線で、広島駅の一つ手前の駅として残っている。

 「ピカ」が「産業奨励館」の上空で炸裂した日、祖母がそこでいつもと変わらずタイプを打っていたら、その後生まれる私の母も、そして私も、この世には存在しなかったことになる。祖母も、後に祖母の夫となる祖父も、被爆して「被爆者手帳」の給付を受けてはいたものの、命を永らえることは出来、そのお蔭で母や私は生まれてこれた。祖父母が「ピカ」の熱線によってかき消されることがなかったゆえに、今の私たちの命があるのである。

 しかし、このことは本当にたまたま運が良かっただけに過ぎない。祖母の同僚で、あの日「産業奨励館」に出勤していた人たちは、影だけをレンガの壁やコンクリートの階段に焼き付けて、残らず消滅してしまったのだ。もしも、これから子供を持とうかと考えている人がいたならば、その人から受け継がれるはずだった命も、生まれ出でることはない。もしも、老いた父母や小さな子供を養っている人がいたならば、またたく間に一家の大黒柱を失い、悲しみや苦しみに中で路頭に迷うことになる。母や私も、戦後の生まれではありながら、「ピカ」によって生命と存在そのものを左右された、危ういバランスの中で生きる命なのである。

 「ピカ」が広島市上空で炸裂した日、一瞬にして地獄が現出したと聞かされた。
何万人もの人の腕の皮膚が、はずしかけた手袋のように指先からだらりとぶら下った。
眼球が抜け落ちて、それでも、皮膚がとろとろに流れる腕を突き出しながら、一生懸命さまよう人もいたそうだ。爆発の時の想像を絶するすさまじい衝撃と爆風を後頭部から受けると、眼球が眼窩から飛び出してしまうのだ。
衣服も焼き切れて、ところどころ残ってはいるが、焼けて体液の流れる真皮にぐちゃぐちゃに癒着して、しかしもう、本人にはそんなことは分からないらしく、ただひたすらに、「…水…水…」と呻きながら、太田川に向かって行ったらしい。
太田川に着いても、死んだ人が折り重なり、水を飲める状態ではなかったという。比較的、怪我の軽い人が叫んでいるのか、「飲んだらいけん。水を飲んだら死ぬぞぉーっ。飲んだらいけんぞぉー」という声が聞こえたとも教えられた。人によっては「毒水になっている」と云い、「大火傷のときに水を飲んだら、のどが焼けて死ぬ」とも云われていたようだ。実際、水を飲んでから急激に症状が悪化し、こと切れる人が殆どだったらしい。

 あの日、「ピカ」が落ちなければ。「ピカ」さえ落ちなければ。「ピカ」が落ちてきたばっかりに。
「ピカ」が落ちてこなければ。「ピカ」が落とされさえしなければ。いつもと同じ八月六日の朝八時十五分が過ぎて行っただけなのに。「ピカ」は落ちてきたのだ。

 戦争や「ヒロシマのピカ」について、私が語れることはあまり無いのかもしれない。私は戦後生まれで、直接的に戦争を体験した訳ではないからだ。実際に体験した祖父母や、講演などで話を聞かせてくれた、おじいちゃん・おばあちゃんの話は、ぽつりぽつりと語られるのに凄みがあり、人が焼かれる匂いが鼻腔に届きそうな現実味がある。受けてきた苦痛や、愛する家族を失った苦悩や、経験してきた苦労が圧倒的に違うのである。私に出来ることといえば、そうやって語られた先人の戦争体験の一片ずつを、自分の身に置き換え、追体験し、「ピカ」がもし祖母の真上に落ちてきていたら、と想像すること、そして自分よりも若い世代に、たとえ追体験に過ぎなくとも新たに伝えていくこと、この二つだけである。

 戦争なんて関係ない、という人たちがいるかもしれない。自分や他者の命を粗末にする人もいるかもしれない。けれども考えてみて欲しいのだ。今、あなたの命がここにこうして在るというのは、どういうことか。あなたへと繋がっていく、あなたより前の世代の人々が、戦火をかいくぐり、「ピカ」の脅威を免れ、あるいは、焼夷弾の雨の中を逃げ切り、一心に生き延びる努力をしてくれたからではないだろうか。戦争なんて何十年も前の過去のこと、そう考えるのは若い人たちにとって当然の感覚ではあろうけれども、そこからもう一歩踏み込んで考えてみて欲しい。その過去の戦争で、あなたのおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていたとしたら、あなたという人間は決して生まれて来れなかったのだ。あなたが過去のことだと思っているその戦争が、現在のあなたの存在を左右し、存在するか存在しないかを決めているのである。他の人の命だって同じことなのだ。みんな、先人たちが繋ぎ、受け渡してきた命によって生かされている大事な存在である。この八月、ヒロシマだけではない、ナガサキの原爆投下の日と、終戦記念日が毎年巡って来る。せめてその時だけでも、戦争について追体験してみて頂きたい。そして、自分の命も他者の命も大事にしてほしいと心から願う。

 安らかにお眠りください。あやまちは繰り返しませぬから。


 この記事中で、被爆者手帳を持っていたのは私の祖父母とありますが、正しくは曾祖父母であったことをここに訂正しておきます。母からの話で「おじいちゃん・おばあちゃんは被爆者手帳を持っていた」と聞かされていたので、私にとっての祖父母と勘違いしていたようです。母に再度聞いてみたところ、母にとっての祖父母(私にとっては曾祖父母)のつもりで話していたとのこと。勘違いや記憶違いも含めて、私の脳内の記録にしておきたいので、本文を書き換えず、ここに訂正部分を記しておきます。(平成二十三年八月三十日追記)


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