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母のお供でバスツアー

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母のお供でバスツアー

バスツアー参加が趣味の母。その母のお供で訪れた旅先の思い出を綴るコーナー。時折、バスツアー以外のお出かけなども載っています。
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                     香川県へドライブ!(一)からの続き。
 
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       帰路は愛媛県今治市から、しまなみ海道を通って広島県尾道市まで戻るルートをとった。
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 因島の手前、生口島の瀬戸田パーキングエリアから伯方の塩で有名な伯方島方面を撮った写真。この反対側を向けば、因島や尾道市はすぐそこという場所である。そして、再び山陽自動車道を通って山口県へ。本州と四国の間の瀬戸内海を、瀬戸大橋としまなみ海道を使って、クルッと一周したような旅であった。
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 今回は琉球絣風の化繊の紗を一日目に着用。毎年一回は、浴衣と間違われる着物なので、帯は出来るだけ華やかなものを結ぶようにしている。もともとは、呉服屋勤めの時代に夏の仕事着として誂えたもの。帯はその時のベテランさんが譲ってくださったもの。
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 二日目は化繊の単(ひとえ)を着用。これも元仕事着。帯は、以前、萩行きの記事で紹介したことのある木綿の半幅帯でリバーシブルになっている。表は鳥獣戯画、裏は茶系の縞模様である。全体的に地味な印象なので、朱・萌黄・濃紺・白というパッキリした配色の帯締めで、腰回りを押さえ、激しく動いても帯結びが乱れないようにした。
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                           今回の取り合わせ。
 猛暑の中、着物でこんぴら参りというのは、かなり無謀な行動であったように思う…。「こんぴら歌舞伎」を観るという目的があれば、上演期間である四月が望ましいし、着物で金毘羅宮にお参りするのであれば、真冬が最も適しているような気がする。それも最初から最後まで自分の足でお参りするということになると、真冬でも正絹の袷(あわせ)は着ないほうがいいかもしれない。長い長い石段を登っている間に、大量の汗をかいてしまうだろうから。
 
 次回、私がこんぴら参りに再チャレンジするとしたら、季節は真冬にし、着物は汗をかいても気にならない木綿の単(ひとえ)にする。それを裾からげにし、しごき帯で押さえ、手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)で身を固めたい。勿論、参拝アイテムとしてははずせない。草履では登りにくいから、ふもとのお土産店で売っている草鞋(わらじ)のほうがいいだろう。白足袋なんぞもってのほかで、砂埃に汚れてもいいように濃い色足袋を穿こう(裸足はさすがに抵抗がある)。ここまでくると、江戸時代の旅人コスプレのようだが、人の目なんか気にしない。昔の人だって着物でお参りしていたのだから、現代人に出来ないはずはないのである。いつか着物で金毘羅宮を踏破する。人生に新たな目標が出来ちゃったかもしれない。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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 「美味しいおうどんが食べたいッ!」と、我が家の気まぐれお母様が、八月上旬のある日、突然、そう宣(のたま)った。夏バテ気味の父と私は、「はぁ?? うどん〜〜??」と、やる気のない反問で応酬した。毎回そうなのだが、何かを思い立った時の母の鼻息はとても荒い。今回も、とても逆らえない雰囲気を、母がビンビンに放射していたので、おうどん食べたいなら香川に行かなきゃしょうがないでしょう、と、我々は一路、香川県に向けて車を走らせた。八月二十九日(日)・三十日(月)のことである。
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 山口県東部から山陽自動車道に乗って、岡山県まで行き、瀬戸大橋を渡って目指す香川県へ。この橋を渡りきった向こう側が香川県坂出市である。七時四十五分頃に家を出発し、この瀬戸大橋まで、約三時間しかかからなかった。一泊する予定で「ことひら温泉 琴参閣」というホテルを予約していたのだが、そのホテルは、金比羅宮の参道近くという、とても分かりやすい場所にある。金刀比羅宮そのものも橋を渡ってすぐの位置関係にあるから、探すのにも時間がかからないだろう。チェックイン開始の十五時まで、三、四時間はゆうにあるという時間の余りようで、車内には(こんなに早く着いちゃって、どうするどうする?)という空気が流れ始める。
 
 私たちの到着予想は十六時頃であった…。そして初日はのんびり休んで、翌日の午前中に、うどんを頂こうということになっていた。なぜなら、香川出身の知人にあらかじめ確認したところ、うどんを食べさせてくれるところの多くは、午前中の営業が済むと閉まってしまうと聞いていたからだ。しかし、はからずも初日の時点で午前中に着いてしまったので、予定を変更して初日の昼食にうどんを食べようということになった。
 
 私たち長州の田舎もん一家は、『るるぶ』も持参して、うどんマップと散々睨めっこをしていたにもかかわらず、行きたい店をさっさと決めることが出来なかった。田舎もんは、車を走らせながら景色とナビと雑誌に目をやり、行きたい場所を決めたり見つけ出すという器用なことが出来ないのである。結局、早い段階で『るるぶ』を見る事をやめてしまい、父の「香川はうどんの国なんじゃけー、車を走らせよったら、いくらでもうどん屋にぶつかるじゃろう」という適当な考えのもと、我々は車を流し続けることにした。
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 そうこうしているうちに、いきなり母が「あーッ!! 今、うどん屋さんの看板があったッ!!」と叫ぶので、引き返してみると、「麺豪 山下」というお店がある。「やましたって、なんか有名って聞いたことがあるよ〜」と母が言うので、「それってテレビか何かで見たん?それとも雑誌?」と私が尋ねると、「えー、分からん。全然覚えてない」と返してくる。母がもたらす情報は常に出どころ不明なのだ。
 
 上の写真が「麺豪 山下」で頂いたうどんである。これは「ぶっかけうどん(小)」。小とはいいながらも、量としては並盛りくらいはある。トッピング用の揚げ物なども豊富に揃っていたが、基本となるうどんだけで満腹になりそうな気がしたので、シンプルな状態で頂いた。小麦粉を練って、切って、湯がいたものって、何故こんなに美味しいんだろうと思わせるような、ほのかな甘みやモチモチとした噛みごたえがあり、小麦粉を練って、切って、湯がいたものって、何故こんなに綺麗なんだろうと見入ってしまうような、濡れた陶器のようなツヤがある。そんな讃岐うどんだ。麺の切り口と太さは不揃いで、少しうねっているのが特徴。ここに、おだしがからんで、口中につるんと入る。入ると、しばらくモチモチ感との格闘になり、一杯食べ終える頃には、あごがかなり疲れているのがよく分かるくらいである。
 
 この「麺豪 山下」は、アームレスリングの中四国チャンピオンだった店主が経営しているらしい。私は「豪」という漢字が好きだ。「撃」とか「斬」とかも好きだが、「豪」「豪傑」「剣豪」「酒豪」など「スゴイ奴」を連想させる。きっと、この「麺豪 山下」の店主もスゴイ奴で、鍛えぬいた腕や足腰で、小麦粉をグイグイ練りたおしているに違いない。従業員さんの声にも張りがあり、私たちが、初めての讃岐うどんにまごまごしていると、丁寧に説明して誘導してくれる。最も気分が良かったのは、お客さんの出入りに常に気を配っているようで、「いらっしゃいませ」「有難うございました」の言い漏れが一切なかったこと。「麺豪」は武士(もののふ)の如く、きびきびとして礼儀正しかった。麺の豪傑「麺豪 山下」、覚えておくぞよ。
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 香川県に来た目的が、うどんを食べるという、この一事のみだった為、早くもその目的を果たしてしまった私たちは、チェックインまでの数時間をどう潰すかという問題に改めて直面することになった。これが友人同士とか若者の集まりだったら、うどんの食べ較べで店々を巡ったり、あえて行き当たりばったりの旅を愉しんだりも出来るのだろうが、三十路の私と初老にさしかかった両親とでは、うどんを何杯も平らげるだけの喰い力もなく、予定にない行動を取るだけの体力も度胸もない。仕方がないのでホテルのロビーで一息入れながら、着物の写真を撮っておくことにした。
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 汗をかくだろうと思い、化繊の紗に化繊の絽の帯を締めた。帯揚げと帯締めのみ正絹。この日の香川県は気温も日差しも厳しく、着物で外歩きをすると背中を汗が伝うほど。痩せた方なら背中や腰周りに薄手のタオルか手ぬぐいを入れて汗取りができるそうだが、私はかなりむっちりしているので、これ以上厚みを増やすことも出来ず、夏はいつも汗に困る羽目に。
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 ロビーにずっといることにも飽きてしまった父が、「わし、ちょっと歩いてくる」と言うので、一緒にこんぴらさんの参道付近を歩いてみることにした。ここは、酒造会社「西野金陵株式会社」の趣きある建物。
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 元店蔵だった讃酒館(さんしゅかん)を抜けると、広い敷地の中に、仕込み倉と貯蔵倉だった建物があり、金陵の歴史を学べる資料館になっている。
 
 金陵とは、琴平の古い地名であるらしく、その名付け親は江戸後期の儒学者・頼山陽(らいさんよう)である。この琴平の地が、中国の歴史都市・金陵(南京)に似た雰囲気を持っていたことから、金陵と呼ばれるようになった。清酒金陵は、その古地名から付けられたものだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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敷地内には、こんぴらさんの天狗が休憩したと伝えられる楠の大樹がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 一般的に讃岐三白といえば、綿・塩・砂糖といわれる。ただ、酒造会社などでは、綿の代わりに讃岐米を入れることもあるようで、この西野金陵株式会社のパンフレットにもそう書いてあった。
 
 個人的には、綿・塩・砂糖に讃岐米を加えて四白、さらには、佳い酒は佳い水がないと出来ないから、こんぴらさんのお山の良質の水、それが瀬にかかり白くきらめくことをイメージして、綿・塩・砂糖・米・水の讃岐五白でもいいんじゃないかと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 こんぴらさんの門前町はまた、「こんぴら歌舞伎」が演じられる処でもある。参道を含め、門前町全体に、絵師・穂束とよ國氏の絵看板(演目の一場面を肉筆画で描いたもの)が飾られている。
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 全部で四十二枚の絵看板が町のそこここに点在しているそうで、それらを探して門前町を歩く楽しみもある。山田一家が泊まった「ことひら温泉 琴参閣」の屋内には、左の『男女道成寺(めおとどうじょうじ)』と右下の『金毘羅のだんまり』の絵看板があった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 穂束とよ國さんという絵師については、ここ琴平を訪れて初めて知った。役者絵だと名取春仙と月岡芳年がダントツで好きではあるが、この穂束とよ國氏描くところの役者の顔も上品で好いなぁ。肉筆画特有の、むっくりとした色合いもとても魅力的である。
 
 読書しか趣味がなく、歌舞伎も含めて演劇全般を全く見ない私だが、こんど琴平に来る機会があったら、「こんぴら歌舞伎」が上演されている時を狙って来ようと本気で思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 二日目は、こんぴらさんにお参りすることになり、あまり暑くならない午前中に登ってみようと再び参道に出てみた。しかし、予想に反して午前中から気温はグングン上がり、とてもではないが長時間歩くことは出来ないように思われたので、父と私はズルをすることにした。そう、タクシーに乗って参道を駆け上がることにしたのである。母はこの時どうしていたかというと、こんぴらさんへも自力でお参りした経験があることから「もう、あんなえらいとこ行かん。チェックアウトまで寝てる」と言い、本当に私たちがホテルに戻るまで、一旦たたんだ蒲団を再び敷きのべ、寝ていたのであった。
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 タクシーに乗って、大門駅というところまで連れて来てもらった。これから先の神域ではどんな商売もしてはならないということで、結局ここからは自分の足で歩かなくてはならないのだそうだ。(な…な〜んだ、完全なズルが出来るわけじゃないのか…)と落胆している私たちに向かって、「お山から下りるときも、ここまで来て電話してくださいね、五分で来ますんで」と運転手さんは爽やかな笑顔を残し、ふもとに帰って行った。
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 大門駅から少し石段を上がってくると、広場があり、そこに「五人百姓(ごにんびゃくしょう)」と呼ばれる人たちが、名物・加美代飴を販売している。私たちが行った日は二人百姓状態だったが、「五人百姓」とは人数に関係なくそういう名称になっているのだろうか。それとも普段は本当に五人いらっしゃるのだろうか。本来境内では商売はしてはいけないそうだが、この「五人百姓」に関しては金刀比羅宮の神事への功労で、特別に許可されているのだそうだ。
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鳥居をくぐり、引き続き境内を歩く。
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長い長い道のり。
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 その昔「こんぴら狗」なるものが流行っていたことは知っていた。体力的・年齢的な問題や経済的な支障で直接のお参りが叶わなかった人に代わり、その飼い犬が、こんぴら参りと書いた札や袋を首に提げて、代参したというのである。こんぴら参りは、伊勢参りや富士参りのように一生に一度は行きたいと、民衆が念願する類のものであったから、「こんぴら狗」を見かけると、見ず知らずの色んな人が世話を焼き、その犬がこんぴらさんに少しでも近づけるように、讃岐方面へ行く人を見つけては託し、というふうにしてリレーしてやっていたらしい。しかも、ほとんどの「こんぴら狗」が無事代参を終え、こんぴらさんの御札や御守を携えて主人のもとに帰還したという説もあり、昔の人の思いやりと信仰の深さに驚いたものである。
 
 だが、この立て札の文章、ちょっとねじれているように感じるのは私だけだろうか?一文の中に袋・犬・飼い主という語がダブって出てくるせいか、途中までが微妙におかしいのである。
「江戸の昔、こんぴら参りの袋に初穂料と道中の食費を入れ、それを首に巻いた犬を飼い主が旅の人に託したもの」とすれば良かったんじゃなかろうか。ま、余計なお世話なんですけども。
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現代の「こんぴら狗」。
その名も「こんぴら狗ゴン」。
イラストレーター・湯村輝彦氏のデザイン。
藤子F不二雄氏の漫画やアニメに出てきそうな感じで可愛い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 それにしても、御本宮まで全然着かない。この鳥居をくぐっても、まだまだ先なのだ。(もう駄目だ…)痛み止めの薬は飲んできたのに、石段の一歩一歩が大きいためにヘルニアの痛みがぶり返してきた。(お父さんはまだ登るつもりなのかッ?)と父の横顔をチラッと見ると、彼も同じ事を考えていたようで目が合ってしまった。「おい。もうここでやめよう」と、父が呆気なくギブアップしてくれたので、根性なしの父娘はお山を下りることに相成った。なんだかかなり中途半端な旅だったが、私たちには「さぁ、行ってくるがよい!」と放つ「こんぴら狗」がいないので、これ以上どうにもならない。猛暑だったことも災いした。リベンジの際は真冬を選びたい。
 
 
 

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 六月四日(金)の高瀬裏川花しょうぶまつりに引き続き、六月五日(土)もお出掛けである。いつものバスツアーではなく、この日はY市のコンサートホールにジャズを聴きに行ったのである。
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 はっきり云って、私が二日連続でお出掛けするなんてことは滅多にないので、これはかなり珍しい現象だ。しかも、熊本へ旅行した翌日(このコンサートが行われる当日)の昼間は、叔父の店の手伝いもしていて結構疲れていた。手伝いが終わって帰宅した直後、一瞬、(コンサート行かずに寝ちゃおうかな…)と魔が差したのだが、このスイング・スターズ・オーケストラという音楽集団には、色々と思い出があって、眠かろうがなんだろうがどうしても鑑賞したかったのである。
 
 このスイング・スターズ・オーケストラというジャズバンドは、私の住む山口県東部で活躍している音楽集団で、古くはこのバンドの定期演奏会にて、演歌狂の私の父が演歌部門で歌わせていただいたり、バンドマスターの石本敏夫氏のお嬢さんが、私の妹の同級生であり、確か小学生の頃からバンドのピアニストとして大人顔負けの演奏を披露していたのを拝聴していたのである。ピアノを習っていたくせに、人前で演奏するとなると途端に頭の中が真っ白になって、発表会も散々な私にしてみれば、小学生の女の子がバンドの重要メンバーとして堂々と技術を発揮できるということが、尊敬に値することであった。まぁ、私の場合は要するに練習不足が祟っているわけで、石本氏のお嬢さんとの違いは明白なんであるが…。
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  石本氏のお嬢さんは妹と同じく三十歳になっているのだから、家庭を持たれたりなどしているのだろう、もうバンドメンバーとしては参加していらっしゃらないようだった。しかし少しずつ、メンバー編成が変化していきながらも、こうして長年活動していらっしゃるというのが素晴らしい。年齢も職業もバラバラの音楽集団だが、このスイング・スターズ・オーケストラ、なんと今年で結成三十五周年なのである! 私が生まれた一九七五年に、このスイング・スターズ・オーケストラも産声を上げているのだから、なんだかこちらで勝手に御縁を感じてしまう。「誕生日がまだ来てないから、三十四歳です!!」と頑(かたく)なになっている私の心もほぐれそうだ。そうだ、私もこれからは「山田ギョクト、おかげさまで三十五周年です!!」と云うことにしよう!
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 で、スイング・スターズ・オーケストラ三十五周年記念コンサートのゲストとして、プロ・サックス奏者の貫田(ぬきた)重夫氏が素敵な演奏を、我々聴衆に聴かせて下さったのだった。貫田重夫氏は、スイング・スターズ・オーケストラの前身バンドの立ち上げにも関わっておられて、現在では東京圏を中心にフリーで音楽活動をしていらっしゃるほか、ザ・ブルースカイオーケストラのコンサートマスターも務めていらっしゃるそうだ。
 
 バンドそのものの演奏も素晴らしかったが、貫田プロのサキソフォンは滑らかで、どんなに速い運指でもフワッと丸みを帯びているような感じ。「音色」というものは、同じ楽器を扱ってもそれこそ十人十色なんだなぁと実感する。
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 貫田プロはマルチプレイヤーで、アルト・ソプラノ・テナーサックスのほか、フルート、クラリネットなども奏でる。カンカン帽姿が、お茶目。
 
 今回の記念コンサートの番組は以下のとおり。
◎IN THE MOOD イン・ザ・ムード
◎GREEN SLEEVES グリーン・スリーブス
◎YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO 帰ってくれれば嬉しいわ
◎はつ恋(←福山雅治さんの「はつ恋」)
◎MY FAVORITE THINGS 私のお気に入り
◎ルパン三世のテーマ
◎LITTLE BROWN JUG 茶色の小瓶
◎さくらさくら
◎いのち いたましい
◎ふるさと
◎GONNA FLY NOW ロッキーのテーマ
◎THIS COULD BE THE START OF SOMETHING BIG 何か素晴らしいことが起こりそう
◎SOUTH RAMPART STREET PARADE サウス・ランパート・ストリート・パレード
◎A STRING OF PEARLS 真珠の首飾り
◎WORK SONG ワーク・ソング
◎SOMEDAY サムデイ(←EXILEの「SOMEDAY」)
◎DANCING QUEEN ダンシング・クイーン
◎GEORGIA ON MY MIND 我が心のジョージア
◎SING SING SING シング・シング・シング
◎上を向いて歩こう
◎EL CUNBANCHERO エル・クンバンチェロ
◎ON THE SUNNY SIDE OF THE STREET 明るい街角
◎TAKE THE  "A"TRAIN A列車で行こう
 
 タイトルは知らなくても、聞けば即座に(あ〜、この曲かぁ!)と判るものばかりなので、私のように「音楽を聴くのは好きだが、周辺知識ゼロ」という人間でも十二分に楽しめたのが嬉しい。十八時半の開演で、終わったのが二十時半ごろだったのだが、時間があっという間に過ぎる体験は久々だった。
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 それから友情出演として、県内でボーカル活動をしている兄妹ヴォーカルユニット・マウンテンマウスが来場。山口県に帰ってきた当初、地元のローカル情報番組で、このマウンテンマウスが取り上げられたことがあって、(マウンテンマウスは、何でマウンテンマウスっていうんやろ?)とずっと疑問に思っていた。コンサート中も、そのことをずっと考えていて、(ハッ! もしや「マウンテン=山」と「マウス=口」で「山口」になってるのかッ!?)とようやくにして気付く(遅い?)。誰に確認したわけでもないが、きっとそうなのだろう。
 
 男性が兄のまーしー、女性が妹のまぁちゃん。まぁちゃんの方が、インタビューにしっかり受け応えしていたので姉弟ユニットなのかと思っていた。お兄ちゃんのまーしーは頼りない感じだったが、常にニコニコしていて握手もしてくれたので、きっといい人なのだろう。
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会場で写真を撮ろうにも人・人・人でごった返していたので、ちょっと無理があり、帰宅してから自分で撮ってみた。
本日はジャズコンサートということで、クラシカルないでたちがいいかなぁと考え、アンティークお召しの単(ひとえ)を着用。帯もアンティークの京袋(きょうぶくろ)で雰囲気を合わせ、新旧のものが混在してちぐはぐな印象にならないようにした。
アンティーク着物を着る時だけは、背が小さくてラッキー!と思う。ただ、体が横に太くなったので、身巾(みはば)が合わなくなってきたのと、肩周りのお肉に生地が取られて裄(ゆき)も短く感じ出したので、そろそろ仕立て替えを考える時期かも。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3写りが悪いが、半襟はポリエステル製の絽のものを使用。クリーム地に矢車菊のような花の刺繍が入っている。
私の場合、六月だけでなく五月も単(ひとえ)を着るシーズンと決めていて、五月は単の着物・単の襦袢・透け感のない半襟とし、六月に入ると単の着物・絽の襦袢・絽の半襟という風にしている。皆さんはどんな感じでしょう?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 全体はこんな感じ。昔のお召しなので、ガリッとした手触りがあるのだけれど、それだけに体へ密着しすぎる感触がなく、さらっとした着心地で、汗ばみ始める季節にはうってつけ。奇麗なドレープも出る。
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 今回の取り合わせ。半襟のみ、まだ襦袢に着けたままなので、別のものを入れて撮影。お召しが大胆な色柄で、周辺のものを合わせるのがなかなか難しいが、こういう着物の場合は、朱色黄緑色などの少し中途半端な色味のものを持ってくると、しっくりくるみたい。黄色系や水色系でも合うと思う。お召しは縮緬と紬の中間のような着物で、ほんの少し光沢があるので、着物以外の和装品をあまりツヤのないものにせずに、控えめな金糸遣いのものを撰ぶと、全体の雰囲気がまとまる。
 
 ざっと見渡した限り、会場で着物を着ていたのは私だけ。皆さん、やっぱり着物とは縁遠くなっているんだねぇ…。着物を着ていると、知らない方からもよく話しかけられるんだけど、ちょくちょく聞くのが「着物を着ていく場所がないのよ〜」という言葉である。でも、ほんの何十年か前までは、大抵の日本人が着物でどこへでも行っていたし、むしろ、どこへも行かずとも着物姿だった時代もあったわけで、ことさらに「着物を着ていく場所」というのをかしこまって意識しなくてもいいんじゃないかと考えたりもするのです。訪問着や留袖、振袖などのフォーマル色の強いものは、確かに着ていく場所が限られるけど、箪笥をひっくり返して小紋やお召し、大島や結城などに代表される紬などがあれば、若い方にも年配の方にも、そして女性だけでなく男性にも日常的にどんどん着て欲しいなぁと思っている。木綿の着物なんかも日常の着物として、とても素敵なんじゃなかろうか。
 
スイング・スターズ・オーケストラの演奏もとっても好かったので、節目節目の記念コンサートだけではなく、年二回の定期コンサートにも行ってみたいなと思い始めている今日この頃。
  
 

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 前回のバスツアーから約半年の沈黙を破り、六月四日(金)、私と母は熊本県への日帰りバスツアーに行ってきた。相も変らず九州方面へかっ飛ばしている母娘なのである。
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 車窓から壇ノ浦が撮れないかと思ってシャッターを押してみたのだが、出発時の晴天が九州に近づくにつれ、ぼんやりとした曇天になり、遠景が霞んでしまった。今回は一日中、こんな空模様。日頃の行いは良いはずなんだが、おかしい………。いつかスカッと晴れた日に、壇ノ浦の風景を写真に収めてみたいと思う。
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 前にも書いたが、山田家は辺鄙な所に住んでいるので、こういったバスツアーの際には、集合場所に行くのにも時間がかかる。しかもその集合場所が一番早い時間に設定されている為、朝の四時起きとかはザラである。それゆえに、最初の目的地に着いた頃には、すでに起きてから七、八時間経っていることが多い。熊本県に入り、南関インターを降りて、昼食をとる「ホテルセキア」に着いたのが十一時。一日の勤務が終わるくらいの時間、バスに乗りっぱなしというのは、なかなかにしんどい。ホテルに着いてほっと一息つけた。
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 この旅は後半に温泉への入湯を控えているので、まだ少し早いけど、本日は浴衣で参加。絞りの浴衣に見えるが、しじら織のようなしぼのある生地に桔梗と匹田(ひった)の染めが施されたもの。帯は、昔から愛用している博多の半幅帯。最近、とみに胴回りが太くなって、羽を二重に取っての文庫結びなどが出来なくなってきた…。よって、ここ数年はずっと羽を一重にして、たれ先を片側に垂らす片花くずしにしている。もしくは矢の字結び。細い帯締めで帯を軽く押さえているので、それが少し写ってしまっているのが、ちょっと失敗。
 
 昼食はバイキング形式で頂き、十三時にホテルを出発。とても規模の大きいホテルで、山上にあるため眺めもよく、結婚式場としても力を入れている様子だった。ただ残念だったのは、山上に建っているという立地条件もあってか、ホテル周辺のショップなど関連施設が閑散としていること。場所によっては、(以前はここにもお店が建ってたんだろうなぁ)というような、スカスカした「跡地」っぽいエリアもあったりして、若干寂しい感じがする。
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 さてさて旅のメイン、「高瀬裏川花しょうぶまつり」にやってきた。熊本県玉名市を流れる菊池川は、かつては高瀬川と呼ばれ、大阪へ年貢米を運ぶ水運の要地であり、その脇を平行して流れる川は高瀬裏川と名付けられている。この高瀬裏川に何万株(パンフレットによると六万六千本)もの花菖蒲が植えられていて、この時期、満開を迎えるのだ。祭の会場に到着すると、菊池川堤防沿いに、百本の矢旗(やばた)が立ち並んでいて、勇壮でもあり、華やかでもある。
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 矢旗の上部には、家紋と共に「祝○○」と子供さんらしき名前が染め抜かれているので、この地方では、子供さん(なかでも男の子)が誕生するか、もしくは初節句でも迎える時に、こういった品を誂えるのかもしれない。
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       高瀬裏川は川の中に遊歩道が架けてあるので、間近で花菖蒲を鑑賞することが出来る。
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白い花弁に斑(ふ)が入ったようなのや…
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配色がくっきりと分かれているものもある。
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花菖蒲らしい鮮やかな青紫色の株も。
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 歩を進めていくと高瀬眼鏡橋が見えてくる。これは嘉永元年(一八四八年)に町奉行・高瀬寿平によって建造されたもので、熊本県指定重要文化財となっている。
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 素朴な石組みにもかかわらず頑強そうだ。山田家は、長州人として岩国市の錦帯橋をこよなく愛しているので、アーチ橋を見ると知らず知らず萌えてしまう。高瀬眼鏡橋をくぐってなおも行くと、今度は天保三年(一八三二年)に架けられた秋丸眼鏡橋や西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛の死を悼む碑などもあるらしい。西郷小兵衛は西南の役で小隊長として陣頭指揮を執り、弾丸を胸に受けて戦死したのだそうだ。バスに戻る時間も取らなくてはならなかったので、私たちはこれより先へは行けなかったけれども、徒歩で一時間三十分ほどの史跡有り、花菖蒲有りの行程を楽しめるようになっている。
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そして、十五時台に「平山温泉湯の蔵」に到着。ここのお湯は美肌の湯として知られている。
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 気軽に日帰りで楽しめる感じのこぢんまり・こざっぱりとした落ち着ける温泉実際に浸かってみると、お湯はトロッとぬめりがあって、肌がしっとりコーティングされるよう! 温泉の中には入浴施設が広すぎて、スースーと肌寒かったり、湯の温度が下がり気味の所もあったりするのだが、「湯の蔵」はこぢんまりと纏まっているお蔭なのだろう、湯温は高すぎず、低すぎずでちょうど良く、さらに湯自体のとろみで実際の湯温以上に体がぽかぽかとしてくる。あ〜ぁ、自分ちが「湯の蔵」の隣だったら良かったのに、と心底思う。そしたら、毎日ヘルニア湯治に来れるではないか。ここの湯は、リューマチとか神経痛にも効くらしいからね。もう私くらいの年齢だと、リューマチ・神経痛あたりの効能の方に眼が行っちゃうからねッ。
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 今回は、この「平山温泉湯の蔵」へ向かう途中で、バスの運転手さんが道を間違えるというハプニングがあった割りに、帰りの道程に大幅な遅れも出ず、私と母は朝集合した最寄のバス停留所(といっても、行くのに車で三十分かかるんだが)に軽く十分遅れの二十一時二十五分に帰着した。今回、一緒に旅をした長州のおじちゃん・おばちゃんたちは、休憩後や散策後のバス集合に誰一人として遅刻することもなく、非常に優等生であった。
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 六月上旬ということで、浴衣だと寒いかなと心配していたけれど、なんのなんの、この日蒸し蒸しと暑い熊本では浴衣でも汗ばんでしまうほどで、シンプルな配色にして涼しい印象にするくらいでちょうど良かった。この浴衣、袖丈は一尺五寸あり、一六〇㎝も無い私の身長だと、かえって背が少し高く見える。一尺五寸・一尺七寸あたりの袖丈は、最近なかなか誂える方はいらっしゃらないが、現代の自由な着方として、低い身長をカバーする為にあえて袖丈を長めに出すというのも、一つの誂え方ではないかなと思ったりもする。
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 それにしても、バスツアーというと我が家は大抵、九州方面に行っているから、機会をとらまえて関東方面や東北地方にも行ってみたい。妹夫婦が東京在ということもあって、そこまでは訪れたことはある。しかし、呉服屋勤め時代の研修で、新潟県十日町市に勉強しに行った以外、東京より北を旅したことがないのだ。私の世界なんて、きっと御釈迦様の掌どころか爪の先よりも狭いに違いない。そう考えると、まだまだ行ける所が沢山残っているってことでもあり、それはそれで素敵なことだ。
 
 
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 既に半月以上も前のことになるが、一月二・三日と我が山田家はバスツアーに参加していたのであった。大晦日までも営業していた叔父のラーメン屋の手伝いの間隙をぬって、バスツアーにも参加し、朝の四時起きで山口県から鹿児島県までかっ飛ばすという強行軍に、風邪気味でヘルニア持ちの私は、何だか最初からヘロヘロなのであった。

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 ちなみにこれは薩摩半島最南端の長崎鼻の夕日。

 うちは大体、防長フレンズツアーでバス旅行を愉しむことが多く、今回もそのツアー企画を利用した。防長という語に馴染みのない方に一応説明させていただくと「防」は「周防の国」の「防」、「長」は「長門の国」の「長」なのだ。防長トラベルの人に聞いたわけではないが、確実にそうに決まっている。

 四時起きした私達を一番に載せた防長観光バスは、ところどころでおばちゃん・おじちゃん・家族連れを収容しながら、光市〜下松市〜防府市〜新山口駅前…と、快調に進み、壇ノ浦にかかる関門橋を渡って九州に上陸。さすがに鹿児島県まで行こうと思うと乗車時間もべらぼうに長い。「初日は鹿児島県に到着するのが最大の目的だぜ!」とばかりに、トイレ休憩以外はどこにも寄らずにバスは走り続けた…。

 綺麗な円錐形の開聞岳が見えてきて、やっと鹿児島に入った!と実感できた時には、既に夕方の四時…。もう起きてから十二時間も経っている…。そして十時間近くバスに乗りっぱなしだ…。大量に持ってきた葛根湯の粉末と腰痛の痛み止めを車中でも服用したのだが、これだけバスに揺られて疲れてしまうと、果たして薬も効いてんだか効いてないんだか、いま一つよく分からない…。
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 でもなんとか長崎鼻に到着。

 もういい加減、エコノミー症候群を発症してもおかしくない頃、やっと我々ツアー客は車外に出ることが出来た。上の写真は父と撮った長崎鼻でのもの。うちの父は、自分の腹具合を異常なまでに不安がり、長距離のバスツアーには全くもって不向きな男である。いつもは母と私でツアーを楽しみ、父に関しては(誘わんでエエわ)とほったらかしにしているのであるが、お正月ではあるし、「行く?」と聞くと「行く♪」と答えたので連れて来たのであった。

 それにしても九州も最南端ともなると、ビックリするくらいに暖かい。驚いたのは、一月上旬であるにもかかわらず、菜の花が満開だったことである。私達が訪れたのは、菜の花マラソンを約一週間後に控えた時期で、鹿児島で「菜の花」というとこの季節のものらしい。
「所変われば品変わる」とはよく言ったもので、車窓から見える菜の花からもそれが実感できた。
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 長崎鼻から開聞岳を望む。

 ハッキリ云って、ショールも羽織も必要ないくらい暖かい。
この暖かさのお蔭なのだろうか、鹿児島では植物の何もかもが、わっさー!と繁りまくっている。
菜の花がわっさー! 蘇鉄がわっさー! 桜島大根の葉がわっさー! 
菜の花なんて春風に揺らぐ可憐な感じを想像してはいけない。なんといっても茎がブロッコリーの茎のように太いのだ。「こんな菜の花、はじめて見た…」長州のおばちゃん達からも、こんな声が聞こえてくる。

 長年暮らしていた京都から山口に帰ってきた当初、久々に目にする自然の景色に(緑、濃ゆ!!!!)と感じたのを今でも覚えている。鹿児島の緑は、そのわさわさと発育の良い緑色同士が重なり合って黒々と見える、と表現したらいいだろうか。
「おいどんは西郷隆盛でごわす」
鹿児島県の自然全体が、そう言っているようだ。黒々として何もかもが大きくガッシリしているその作りが、西郷隆盛を生んだ、この土地の大らかさと野性味を幕末…じゃなかった、爆発させている。

 しかしながら、鹿児島なのに長崎鼻というネーミングに山田一家は少し混乱してしまう。

私「あ〜、なんかさー、九州も長崎県の辺りともなると、やっぱ温(ぬく)いねぇ♪」
母「ほんまじゃねぇ。あ、でもここ、長崎じゃないよ。鹿児島だよ」
私「あ、そっか。長崎鼻って書いてあるけど、ここ鹿児島だよね。なんかゴッチャになっちゃった」
母「うふふ」
しばらくすると…
父「さすが長崎まで来ると温いのぅ。ワシ、汗かいたわー」
母・私「だから、ここ鹿児島だッつーの!」

 そして少しだけアホな山田一家はバスへと追い立てられ、宿泊する指宿海上ホテルに連行されるのであった。
指宿海上ホテルは、建物自体は年季が入っているという印象だが、なかなかに大きな宿泊施設だ。おそらく新婚旅行が、まだ熱海か九州かという時代には多くの新婚さんで賑わったのではないかと思われる。水回りの設備が古い箇所も若干あるものの、部屋全体がこざっぱりと清掃されていて気持ちが良かった。

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 二日目から本格的な観光スタート。こちらは知覧独特の「二ツ家」。「曲り屋」に似た建築様式で家屋がL字型のラインを持っている。

 二日目の観光は、薩摩の小京都と呼ばれる知覧の武家屋敷〜知覧に集められた若き特攻隊員たちと、その世話をした鳥浜トメさんの資料館であるホタル館(富屋食堂)〜特攻平和会館〜西郷公園という流れになる。お土産屋さんに立ち寄るばかりのツアーと異なり、その土地の歴史を学べる内容になっているのが嬉しい。
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 まずは武家屋敷散策。この知覧の武家屋敷エリアには、西郷恵一郎庭園・平山克己庭園・平山亮一庭園・佐多美舟庭園・佐多民子庭園・佐多直忠庭園・森重堅庭園がある。特に佐多家は名当主を多く輩出した家柄で、島津の姓を名乗ることを許されたそうである。
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 こちらは平山亮一庭園。ガイドさんの開設によると、こういった武家屋敷には、刀の血を洗い流すためのおつくばいのようなものも設置されていたらしい。真ん中の長方形の器物は馬か牛用のものらしいけど。
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 お! 珍しい門松発見! この武家屋敷群の門で私達が見学した所は、全てこの様式の門松が飾られていて、この地域特有のものだそう。

 全ての庭園をじっくり見て回りたかったが、ガイドさんの先導と解説のもと、サッサカサーと歩かねばならず、残念ながら全庭園を拝見することは叶わなかった。今度、知覧に来る時は、全庭園を制覇したいものである。

 武家屋敷の観光コースを通り抜けたところに、ホタル館(富屋食堂)はある。ここは資料館なので内部が撮影禁止。富屋食堂は、鳥浜トメさんという女性が営んでいた食堂で、太平洋戦争末期の知覧に特攻基地が設けられた際、全国から集まった特攻隊員たちがここで食事をし、未来を語り合い、記念写真を撮り、そして出撃命令が出れば静かに笑って、二度とは戻ってこられぬ運命を胸に去って行った所なのだ。

 現在はトメさんの娘さんである赤羽礼子さんと、お孫さんの鳥浜明久さんが語り部を務めていらっしゃる。私達が訪れた日は、鳥浜明久さんが十五分ほどの解説を行ってくださった。
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 特攻平和会館。ここに特攻隊員の遺書や遺品の数々が収蔵されている。
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 会館の中に入ってみると、十代後半から二十代前半くらいの、まだまだ幼さの残る顔が写真パネルとなって何百枚もずらりと並ぶ。その全てが戦局打開の為、敵艦に体当たり攻撃をし、散っていった特効隊員たちの遺影となっているのだ。名前と出身県と年齢しか記されていないそのパネルに、時折、詳しい住所を書いた付箋が貼ってある。その隊員の遺族か、かつての知人が調査の手がかりとして貼っていったものなのだろうか。じっと見つめていると、小さなその付箋が喪章のように思えてくる。
 史料によると山口県でも二十名の特攻隊員が、ここ知覧から空へ飛び立ち、還らぬ人となっているようだ。
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 特攻平和会館では一時間の見学時間が取られていたけれども、資料の数が多すぎて全てを見て回ることは不可能であった。帰りに一番詳細な研究で、隊員の遺書が最大点数で掲載されている資料集『魂魄の記録』を購入。頒布価格は二千円。入会するかどうかは未定だが「特攻 入会のしおり」も頂いてきた。
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 午前中、みっちりと知覧における戦争史を勉強した私達ツアー一行は、西郷公園にやって来た。巨大な西郷さんが屹立する西郷公園には、かるかん工場が併設されていて、かるかんの製造を見学できるはずだった。しかし、「うまい、うまい」とかるかんの試食ばかりしていた山田家は、工場見学を忘れてしまい、結局、かるかんがどんな風に作られるのかは解からずじまいなのであった…。

 この西郷公園を後にして、いよいよツアー一行は山口県に向かって帰路につく。往路は一番最初に乗車し、復路は一番最後に降車するのが山田家の宿命である。帰りも十時間ほどかけて、日付が一月四日になる直前になんとか帰宅できたのであった。
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 今回は一泊二日ということで、二点の着物を用意。
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 着物は、呉服屋に勤めていた時に自社の展示会で購入したもの。若い人向けの、表地が正絹で胴裏・八掛がポリエステルという、比較的安価なお仕立て上がり品。正絹に化繊の裏地を付けたりするのは、あまり好きではないのだが、仕立て替える時に改めて正絹裏地を付け、取り去った化繊の裏地は洗える着物を作るときにでも再利用したらいいかーと思い、買ってしまったのでした。
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 レトロな柄も好き。帯は、同じく呉服屋時代にベテランさんから譲り受けたもの。
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 二日目はこんなん着てました。
 亀甲紋の着物は、別のベテランさんが譲ってくれたもの。着物を着ていると、色んな年配の方から着物が回ってくるようになる。あたかもお金のある所にお金が集まるように。猫好きの人の所に猫が集まるように。帯は自分で購入した新作で、博多帯の間道(かんとう)柄。
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 玉兎(ギョクト)にちなんでウサギ柄。ハッ!! 今気付いたけど、亀甲紋とウサギの帯で「ウサギとカメ」になっとりますな!
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 今回の取り合わせ。自力で頑張って購入したものや、知人の箪笥に眠っていたものを活用し組み合わせながら着物生活をエンジョイしているギョクトでした。


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