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「もしも…あの時…○○だったら…」ということを誰しも一度くらいは考えたことがあるだろう。とりわけ、積み重ねた人生の時間が長ければ長いだけ、「What if〜」という疑問の入り込む余地は増える。それは取りも直さず、人生の岐路に立たされた経験が多いということであり、その転換点に能動的であれ受動的であれ、何らかの決定を施しながら、その人が一心に生きてきたということであるわけだ。
デビューから三十七年を迎える女流歌手・橘百合子も、そんな「What if〜」の世界にふと迷い込んだ人間の一人であった。歌手生活三十七年記念リサイタルを企画する彼女は、坪川という女性記者から、自分のグラビア写真とアンケートの回答が掲載されている一冊の雑誌を受け取る。そこにはこうある。
<だれでも、自分のこれまでの生活をふり返ってみた場合、『あのとき、ああしていたら……』あるいは『あのとき、ああしなかったら……』と思うことが、いいにつけ、わるいにつけ、あるものです。あなたの場合、それはどんなことでしょう?>
十数人の歌手がそのアンケートに回答しており、橘百合子も回答もそこに載っているのである。
<忘れもしない昭和九年九月二十日、私は映画を見に行きました。もしその日、映画を見に行かなかったら、私は歌手にならなかったでしょう。というのは、その映画が歌手の成功物語だったから、などというのではなく、映画を見終わって出たとき、ちょっとした事件が起こり、そのおかげで、私をレコード界に入れてくださった、恩人の柚木先生にめぐり合うことができたからなのです>
女性記者・坪川は、橘百合子のこの回答に興味を抱き、「もし歌手にならなかったら、先生は今頃どんな人生を歩んでいたでしょう?」と百合子に問う。坪川の何気ないその一言から、橘百合子は自分の不思議な来し方を振り返り始める。彼女は若い頃、歌手としてレコード会社重役の柚木氏に見出されるその少し前、身を寄せていた叔父が市電運転手の職を失ったばかりに、叔父夫婦の家計を助ける為、ヌードモデルになる決心を固めていたところだったのだ。あの時、自分がヌードモデルになっていたら…と百合子の想像の翼は、少しづつ拡がっていく。
そして、坪川記者とひとしきり話をして自宅に着く間際、百合子が乗った車は一人の小汚い形(なり)をした中年男性を軽く撥ねてしまうのである。そのうらぶれた姿の中年男性は、橘百合子が叔父を頼り、岩手から上京して間もない頃、密かに恋心を抱いていた東京帝国大学工学部の学生・片桐慎一のなれの果てなのであった。
百合子にとってショッキングだったのは、その片桐慎一が二十代の内に失明してしていたことだった。お互いにほのかな好意を抱いていた若き頃。三十七年前の昭和九年―――。本名・赤井みつ子というごく普通の女の子が、シャンソン歌手・橘百合子として芸能界にデビューしたことで、みつ子(百合子)と慎一のささやかな交感はあっけなく終わった。みつ子(百合子)を失った片桐慎一は、ダンスホールやカフェーに頻繁に出入りするようになり、あるダンサーを巡ってのちょっとした誤解から、彼は友人の小坂に日本刀で斬り付けらる羽目に陥ったのである。斬撃は、慎一の眼に失明という致命的な後遺症を残した。中年となった片桐から、そういった過去の出来事を聞いて、百合子はますます、あの時、自分が歌手になっていなかったら、ヌードモデルの道を選んでいさえすれば、慎一が傷心からダンスホールやカフェーに入り浸ることもなく、失明もしなかったかもしれないと想像をめぐらす…。
(もしもあの時…)
百合子と慎一が、お互いのこれまでの人生をしみじみと語り合い始めた時、「もう一つの過去」という章が静かに立ち上がる。それは、みつ子(百合子)がヌードモデルになった場合の人生である。みつ子(百合子)と慎一、二人を取り巻く人々の、あり得たかもしれないもう一つの過去・もう一つの運命の歯車が、静かな音を立てて動き始める―――。 作者の広瀬正氏は「時に憑かれた作家」とも呼ばれ、タイムマシンやタイムパラドックスをテーマとした作品をいくつか上梓している。だが、本作品『エロス』は、そのタイムマシンが登場するわけでもなく、ましてやタイムパラドックスが生じるわけでもない。何か謎解きをしなければならない性質のものでもない。赤井みつ子という女性が歌手・橘百合子となって成功を収め、片桐慎一が失明して落ちぶれているという「確定した過去」と、赤井みつ子が平凡な主婦で、彼女と結婚した片桐慎一が失明もせずテレビジョン研究に打ち込んでいるという「あり得たかもしれない過去」とが、「確定している現在」とゆるやかに交錯するだけの物語である。
しかしながら、その「確定した過去」と「あり得たかもしれない過去」が、別個に存在する、交わらない、文字通りのパラレルワールドなのかというとそれも違う。「確定した過去」が「確定している現在」に影響を及ぼしながら繋がっているように、「あり得たかもしれない過去」も「確定している現在」を構成しよう、構成しようとしているのである。「あり得たかもしれない過去」は、あくまで「かもしれない」であり、百合子と慎一に、実際にそんな過去があったわけではないのに、「あり得たかもしれない過去」での出来事の数々は「確定している現在」に穏やかに浸潤し、溶け合っている。
この「確定した過去」「あり得たかもしれない過去」「確定している現在」を鮮やかに絡ませる手並みは、さすがというほかない。なおかつ『マイナス・ゼロ』でもそうだったのだが、本作品には、少年時代の広瀬氏本人が登場している。そしてさらに、その『マイナス・ゼロ』でイイ味を出していた「カシラ一家」が、この『エロス』にも顔を出しているのである。みつ子と慎一の新婚夫婦が間借りしていたのが、このカシラ一家の家で、借りていた一間は『マイナス・ゼロ』の登場人物・浜田俊夫(中河原伝蔵)が居候していた座敷。『マイナス・ゼロ』の浜田俊夫(中河原伝蔵)が出征している間だけという条件で住み込んだのが、『エロス』のみつ子と慎一という設定なのだ。広瀬氏は、自分自身の少年時代をこの『エロス』に溶け合わせ、自分が書いた別の作品をも融合させている。『エロス』という作品内で「確定した過去」と「あり得たかもしれない過去」が「確定している現在」に繋がっているだけではなく、作品外でも様々な要素が、そっとリンクしあうこの作品は、広瀬正という作家が、ただひたすらに面白い物語を考える匠(たくみ)であることを証明しているといえよう。
橘百合子と片桐慎一は、物語の最後に、ある場所へと向かっていく。その場所は、「あり得たかもしれないもう一つの過去」において、二人が果たせなかった約束に関わる地となっている。実際には存在しない「もう一つの過去」での、これも存在しない一つの約束を、百合子と慎一の二人の男女は、出会いから三十七年を経て、現実に存在する「確定している現在」で果たそうとしている。
人生というのは、たとえどういう過去を辿ってきても、必然的にそうなるように出来ているものなのだろうか。例えばパズルのピースをどういう手順で嵌め込んで行ったにせよ、最終的には素敵な絵画が完成するように。かくあれかし、と願うささやかな想いは、どんなに違う過去を経験してきても、考えられうる限りの枝分かれした別の過去を歩んできても、或いは人生の各分岐点で異なる選択をしていたとしても、最終的には叶えられるようになっているのではないか。そんなことを考えさせられたりもした。
だから、ひょっとすると(あの時、ああしていれば…)とか(何故、あんな選択をしてしまったんだろう…)とかいう風に、徒(いたずら)に悔いるようなことはしなくてもいいのかもしれない。縁のあった人や物や願いとは、どんなにまわり道をしているようでも、人生の時々に応じて出会い、絡み合い、影響し合い、成就していくに違いないのだから。悔いたり哀しんだりしなくてもいいんだよ、と広瀬氏が優しく慰めてくれるような、そんな作品だ。
タイトルの『エロス』が、どういう箇所で現れるかは実際に読んでみた上で発見して頂くとして、この物語の根底にも上品なエロティシズムが流れていることを併せて書いておきたい。
愛さずにはいられない。 触れてみたい気持ちが知らず知らず溢れてくる。 少女のような恥じらい。 相手の言動に一喜一憂したりして。 長年月を経ての再会に心の浮き立つような想いぞしつる。 歌手・橘百合子の歌声は、こののち、いよいよ円熟味を増していくことだろう。
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あ行の本
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松田氏は指摘されていないが、私は最後に、チイがまたトリックスターであるということも述べておきたい。トリックスターというのは、臨機応変の知恵によって危機を脱したり、強大な権力を持った者や身分が上の者を出し抜いたりする存在のことである。吉四六(きっちょむ)さんや彦一(ひこいち)どん、馴染み深いところでは一休さんなども、このトリックスターに属すると考えて良いだろう。トリックスターは階級や身分の高下、腕力の強弱といったものをまるで問題にしない。例えば、権力者と民衆、強者と弱者、善と悪などの間にある断絶や緊張状態を、自由に行き来し、その膠着した状態を刺激しながら両者を取り持とうとするのである。はっきりと分離してしまった二元論の世界を、ゆるやかに渦巻く太極図のような状態に持っていくと言ったらいいだろうか。『犬神博士』におけるチイの役割もそのようなもので、それは作品のハイライト、福岡県知事と玄洋社長の談判の場で二者の間を取り持ち、福岡県知事「対」玄洋社長という対立図を、福岡県知事「と」玄洋社長という並立図に塗り替えているところに、チイの面目躍如たるものがあるのである。
こう考えてくると『犬神博士』は、やはり『犬「神」博士』でなくてはならなかった。そこには、人間によって固定化された階級や身分、善悪、大人の世界の常識、当時の日本の世相といったものを笑い飛ばし、それに捉われている人々の頭をはたいて回るような、小さくて天真爛漫な客人神(まろうどがみ)がいる。チイが北九州の地にどんなものをもたらしたのかは書かれていない。しかし、彼がもたらしたものにまで言及する必要はないのかもしれない。チイは走る。自分でもそれと知らず、自分の役割を果たし終わってフッとかき消えてしまう神のように、チイは走って、走って、走って、我々読者の前から忽然と消え失せるのである。
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君たちは…キミたちは…「犬神」と聞くと、即座に『犬神家の一族』を思い出すでしょう…!?
けれども『犬神博士』と『犬神家の一族』とは、ナンの係わりもナイのですよ。さりながら『犬神博士』も『犬神家の一族』も「犬神信仰」をひとつのモティーフとしているということは、容易に首肯せらる事なのですよ……! 上記の文にさほどの意味はない。何となく夢野久作っぽい文章を書いてみたくなっただけである。
夢野久作の『犬神博士』は日清戦争前後の北九州を舞台とした小説である。「犬神」という少々おどろおどろしく宗教めいたタイトルに、(一体どんな物語なのだろう?)と興味をそそられたり、それこそ『犬神家の一族』のような探偵小説を期待する方もいらっしゃるかもしれないが、その「犬神」という言葉から得られる土着信仰的な印象は、この作品においては鳴りをひそめている。むしろ、炭鉱をかかえる北九州の地で躍動的に繰り広げられる騒動の数々は、汗臭く、エネルギッシュであり、土着信仰やカルト宗教のようなものが持つ、ヒソヒソとした感じがあまり見受けられないために、肩透かしをくらったような読後感を持つ人もいるのではないかと思われる。しかしそれでも、この物語をよくよく読んでみると、主人公である女姿をした美少年チイの中に、一種の神性が備わっているのであって、今回はそのことを少し書き留めておきたい。
周囲から「犬神博士」と呼ばれている変わり者のルンペン・大神二瓶(おおがみにへい)が、新聞記者からの取材に応え、幼少期の自分を語り起こしていくという出だしで、この『犬神博士』は始まる。そして彼の幼少期こそが、おかっぱ頭に着古した振袖を着せられ、時に猥雑な踊りをも踊る大衆芸能の舞い手として、苛烈なドサ回りをさせられた美少年チイなのである。
チイは何歳頃から、そういう生活をしているのか定かではないが、田舎の土地々々を巡っては踊りを披露し日銭を稼ぐという、最下層の暮らしをしている。巡業には、チイのほかにもう二人の人間がいて、チイはこの二人を両親と呼ぶ。だが、この二人の男女はチイの本当の親ではない。チイは実の親の元から、この二人によってかどわかされ、芸を仕込まれて育った少年なのである。仕込まれた踊りには、ごく一般的な内容のものもあるが、やはり民衆に喜ばれるのは、エロティックな文句や振り付けで、それゆえにチイは、男の子でありながら女の子の姿で生活し、女親に白粉(おしろい)や紅を塗りたくられては、観衆の前で尻振り踊りをせねばならないのであった。
ところがこのチイ少年、極貧の生活の中でまがい物の両親に使役されながら、いじらしく生き抜いている健気(けなげ)な子供かと思いきや、なかなか一筋縄ではいかない曲者の顔を持っているのである。チイは、いかさま花札で女親が男親の小遣いを全部巻き上げてしまうのを苦々しく思い、女親が使ういんちき手段を見破ろうと研究するうち、自分でも花札の名手になったり、普段は卑猥な尻振り踊りを無理やり踊らされているものの、舞踊それ自体の才能は、博多中の芸妓を集めてもかなわないほどの芸術的昇華を見せたりと、どん底の暮らしをしている割に、やけに華々しいのだ。
そして、チイの踊りが風俗壊乱の恐れありとのことで、彼と両親が福岡警察署に連行された頃から、彼の華々しさはさらに発揮されていく。
警察に連行されたチイは、博多中券(はかたなかけん)の芸妓・トンボ姐さんにその舞の才能を見出され、警察に拘留されることを免れる。チイが男の子だという事実をまだ知らないトンボ姐さんは、自分の旦那衆である県会議員の大友親分に働きかけ、福岡警察の荒巻巡査部長に話をつけてチイを引き取り、舞妓として育てようとしたのである。チイはその達者な口のききかたや愛らしい表情、生(な)さぬ仲の両親への思いやりなどで、トンボ姐さんのみならず、大友親分や警察の人間まで味方につける。のみならず、めぐり巡って福岡県知事・筑波子爵にまでお目通りが叶い、癇癪持ちで有名な、その県知事までをも魅了するのである。
警察関係者や大友親分、トンボ姐さんらも集う酒席で、風俗壊乱の踊りがどんなものか見てみたいと所望する県知事に対し、チイは堂々と反抗する。
「あの踊り見たがるノンは田舎の二本棒ばっかりやがな」 「サイヤ。巡査さんやたら、知事さんやたら、親分さんやたら、みんなフウゾクカイラン見たがる馬鹿たれや」 「往来で踊ることならん言うといて、ナイショで自分たちだけ見たがる阿呆タレヤ」 このチイの指摘に対し、県知事は、つと気付かされるものがあったわけだ。
「……天の声じゃ……神様の声じゃ。この児は神様のおつかわしめじゃ。皆わかったか」 「天の声じゃ。天の声じゃ。ええか。皆よく聞けよ。今この児が余に向って言うた言葉は、政治に裏表があってはならぬという神様のおさとしじゃ。余は福岡県下の役人に一人残らずこの児の言葉を記念させたいと思う。人民がしてならぬ不正な事で、役人だけがしてよいという事はただの一つもないことを骨の髄まで知らせておきたいと思う。この一言さえ徹底すれば日本帝国の前途は万々歳じゃ。……ええか……わかったか……」 「……えーか……この児は余の先生じゃ。同時に万人の模範として仰ぐべき忠臣孝子の典型じゃ。マンロクな両親を持って死ぬほど可愛がられて、腹一つ学問をさせてもらっても、その学問を屁理屈に応用して、自分の得手勝手ばかり働く青年男女が多い中に、このような境遇の子供の中からかような純忠純誠の……」 福岡県知事閣下は、チイをいたくお気に召した格好である。 チイはその後、両親がこの酒席に乗じて県知事以下、お歴々の財布を盗んだために、その逃避行に引きずり回され、逃げた先の木賃宿の主人・仙右衛門が、いかさま博打を得手とする極悪の渡世人だったことから、博打に負けた両親によって身売りさせられそうになってしまう。そこを何とか切り抜けて、今度は医家の天沢老人に保護され、そこでも可愛がられ、大事にされて幾日か過ごすことになるのであった。だが、チイが県知事閣下のお気に入りになっていることや、仙右衛門のもとから逃走する際に、両親がその仙右衛門を殺害し、木賃宿に付け火をしたことが原因となって、県知事側と玄洋社側に分かれて対立している炭鉱所有権を巡る政治抗争に巻き込まれていく。
玄洋社というのは、明治時代に実在した国家主義・大アジア主義の政治結社である。一八八一年に創立され、一九四六年にGHQによって解散させられたこの団体は、端的に言えば右翼と呼べるものであるが、日清・日露戦争の裏面で暗躍したり、大陸への進出を図ったりと、汎アジア・汎世界的な視野を持っており、大音声(だいおんじょう)を発しながら街宣車を連ねて走り回るだけの現代の右翼とは一線を画している。夢野久作(本名:杉山泰道)の父・杉山茂丸は、この玄洋社の総帥・頭山満(とうやまみつる)と懇意であり、伊藤博文や松方正義、山県有朋らとも親交を結んだ政財界の黒幕であった。久作は、父が関わっていたこの玄洋社を小説に登場させているのである。
時おりしも日清戦争直前、福岡県知事・筑波子爵が属する日本政府は、北九州の炭鉱を一手に所有することで戦争に必要な石炭を確保しようと躍起になっている。玄洋社側は、その日本政府はいくつかの財閥に牛耳られた政府であり、財閥の利権の為に炭鉱を奪われることがあってはならないと考えている。県知事側の官憲と玄洋社側の壮士たちは、炭鉱を巡っての攻防で極度の緊張関係にあったわけだ。チイは県知事に目をかけられていることで、玄洋社側の壮士たちにつけ狙われる立場となり、そしてとうとう、官憲対玄洋社の直接的な衝突が起こってしまう。
けれども、チイは自分の身の危険などははなから念頭にないものの如く、この対立を仲裁しようと飄々と首を突っ込むのである。彼は玩具の短刀を持って、玄洋社の根城に乗り込もうとし、大喧嘩を始めた大人たちの血臭の中を疾走する。その子供っぽい闇雲な動きの中で、チイは玄洋社長・楢山到(ならやまいたる)と思いがけず遭遇する。(※楢山到は架空の人物)
結論から言うと、県知事側と玄洋社側の全面戦争は、チイを伴った楢山到が青柳(あおやぎ)という料理屋で県知事と談判したことにより回避されたかに見えた。見えた、というのは、福岡県知事・筑波子爵と玄洋社長・楢山到の談判の最中、青柳に壮士たちがなだれ込んできた為にその家がいつしか出火し、チイはその火事を逃れる為に、またもや走り出すという場景で『犬神博士』の物語は唐突に終わっているからなのだ。終わっているというよりも、実質的には未完と言ったほうがふさわしいかもしれない。したがって、福岡県知事と玄洋社長の談判の後、炭鉱における権限に関して、具体的にどんな取り決めがなされ、福岡県下にどんな風潮が生じたのか、結びや後日談のようなものは一切書かれていないのである。
けれども、この終わり方――対立する二者の緊張を調停し、その役目が終われば忽然と去っていくチイの姿に神的なものが宿っていると思うのである。このチイの神的な在り方については、今回取り上げた角川文庫版『犬神博士』の解説に、「犬神博士における神なるもの」という題で国文学者・文芸評論家の松田修氏が解かりやすく説明してくださっている。松田氏は、チイの少年であり女の姿も持つという両性具有(アンドロギュヌス)性や、底辺の芸能者として流浪し、艱難辛苦を経験せねばならない貴種流離性を指摘して、チイを危機的状況――「明治二十年代の暗黒と流動、ほとんど生理的な脅え」のただ中に現れたメシアとして規定している。
この考え方には私も肯(がえ)んずるところで、私はチイの両性具有性、もっといえばチイは自分が男の子であるか女の子であるかも明瞭には理解していなかったという作中の記述から、男でも女でもない太古の神、イザナギノミコトとイザナミノミコトの最初の子であるヒルコをイメージするのである。三歳になっても足が立たず、海に流し捨てられたとされる神―――。ヒルコは海を永遠に放浪する神なのである。ヒルコは蛭子である。そして蛭子をエビスとも呼ぶように、それは海洋の彼方からやってきて豊饒を与える神ともなっていくのだ。ヒルコは広大な海と長大な歴史を流浪するうちに、蛭子=エビス=恵比寿となっていき、果ては客人神(まろうどがみ)・寄神(よりがみ)として人間に恵みを与えるようになる。チイもまた親元から奪われ、陸地を放浪するヒルコのような存在なのだ。チイの働きかけによって、福岡の炭鉱を巡る抗争は一応の決着を見、市井の人々の(いつ、本格的なドンパチが始まるか)という不安は和らぎつつあったのだから。
それから松田氏は、夢野久作が少年少女の中に神的な存在を描き出す場合、その庇護者として無頼異形の侠者を設定することが多いことにも着目している。これは簡単だ。要するに不思議な魅力を持つ小さな子供と侠者・大人が助け合うという構造は、スクナビコナノミコトとオオクニヌシノミコトが相助け合って国土を運営した構造と同じなのである。この場合、チイがスクナビコナノミコトであり、大友親分や楢山到がオオクニヌシノミコトに相当する。この構造もチイの中の神的なものを鮮明にするのに役立っているといえるだろう。そのほか、一寸法師や桃太郎がその典型となっているが、小さ子(ちいさご)信仰というものが日本には昔からあり、そのこととも関連が深いのかもしれない。一言付け加えておくならば、スクナビコナノミコトもまた、親元から離れて旅をせねばならなかった神である。スクナビコナノミコトはあまりにも小さな神なので、親神の指の間から落っこちて、どこに行ったか分からなくなってしまったというエピソードを持つ。本当の親の庇護から抜け落ちてしまったチイと、イメージが重なるところである。
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新潮文庫版『坊っちゃん』(夏目漱石)の記事を書いた折のことだ。坊っちゃんこと「おれ」にとっての「松山という町の何にも勝る美点」として、私は「湯」と「山嵐(堀田先生)の存在」を挙げたのだけれど、最も大事なものを失念している事に気がついた。それは、「うらなり君(古賀先生)の存在」である。
坊っちゃんからしてみれば、慎ましやかな彼の性情には、じれったさや物足りなさを覚えることもあったろうし、竹を割ったような好漢というか、スッパリと解かりやすい山嵐に比べると、何を考えているかよく分からない人物と映っていたであろうことは想像に難くないが、それでも、うらなり君が延岡に転任させられる時には、「浜まで見送る」と坊っちゃんに言わしめるのだから、やはりそれだけの徳を持った人物であることは間違いない。まぁ、徳というよりも、単にほっとけないタイプだったと言った方が近いかもしれないが。
うらなり君が校長や赤シャツの奸計に引っかかって、五円の昇給とひきかえに延岡の中学校に転任させられることとなり、『坊っちゃん』という作品の中盤から消えた後、彼の消息がどうなったか気になる読者は存外に多いのではないかと思われる。この小林信彦氏が書く『うらなり』は、そんな押しの弱そうな英語の古賀先生が、松山時代から延岡時代を経て姫路に移り住み、自分の来(こ)し方を振り返る形で進行していく。
昭和九年、かつて松山で英語教師を務め、東京から赴任してきた新人教師に「うらなり」と呼ばれていた男・古賀は、これも同じ中学で数学教師をしていた堀田と東京で再会する。お互いに早、五十年配の初老になっている。堀田は数学の参考書を出版し、その評判から堀田の存在に気付いた古賀が出版社に問い合わせ、再び邂逅する運びとなったという設定である。およそ三十年ぶりの顔合わせだ。古賀と堀田は、松山時代に出会った、無鉄砲で江戸っ子気質丸出しの新人教師の思い出を語り、堀田とその新人教師が教頭(赤シャツ)と画学教師(野だいこ)を打擲(ちょうちゃく)した事件の顛末を確認していく。
面白いのは、『坊っちゃん』に登場する「おれ」が古賀を「うらなり」、堀田を「山嵐」という風に、周囲の人間に綽名(あだな)を付けていたのと同様に、古賀も「坊っちゃん」と呼ばれていた新人江戸っ子教師のことを「五分刈り」と呼んでいることである。本家本元の「坊っちゃん」は、容貌どころか実名だって説明されていないから、物語を展開する上では彼を何かしらの呼称で呼ばなくてはならぬ。そこで「五分刈り」ということになったのだろう。そうか、「坊っちゃん」て五分刈り頭だったのかと、夏目漱石の『坊っちゃん』の方にも、具体的で生き生きとしたイメージや色が付与されていくようである。
当時「うらなり」と呼ばれていた古賀の視点から、新人江戸っ子教師を観察すると、まるで理解できない言動のオンパレードだったことが分かる。この古賀の心情を端的に表す文があったので引用しておきたい。
男には人の心に土足で入ってくるようなところがあった。江戸っ子というものがすべてそうとは思わないが、自分の考えや行動はよろず正しいと思っているらしいのが私とは合わなかった。合わないというよりも迷惑である。
確かに古賀のように万事控えめで、言いたいこともハキハキと言えない、性格の穏やか過ぎる男にとっては「五分刈り」のような男は付き合いづらいに違いない。
自分に対して、決して良い意味ではない「うらなり」などという綽名をつけ、その割には温泉で偶然一緒になれば、顔色の悪い自分の事を気遣って「病気はないのか」と聞いてきたり、自分の事を君子だと褒めたり、転任に際しては「浜まで見送りに行く」と親切なところを見せたりする。その上、ある事情があって江戸っ子教師が下宿先を引き払ってしまった時などは、間借りさせてくれる家を紹介して欲しいと、自分の所に頼っても来るのだ。(おいおい、まず引越し先を決めてから、今の下宿を引き払うのが順番でしょうが…)と古賀は思ったようだ。当たり前だ。しかし、江戸っ子教師には、本当にそういう無鉄砲で無考えなところがあって、しかも他人の懐に無防備に飛び込むような幼さもあるのだ。古賀のような松山の地の人間で、傾きかけているとはいえ旧家で生まれ育った人間からすると、この江戸っ子の考えていることなど寸毫も理解できなかったのであろう。そういう風に「うらなり」から「坊っちゃん」の姿がどう見えていたかということも書かれていて、ほんのりとした可笑しみを愉しむことが出来る。
この『うらなり』を読んだことによって、漱石の『坊っちゃん』における主人公も実はこの「うらなり」だったのではないか、という気がしてくる。表題こそ『坊っちゃん』となってはいるが、物語の骨子は、校長(狸)・教頭(赤シャツ)・画学教師吉川(野だいこ)の俗物トリオと古賀(うらなり)・堀田(山嵐)の暗闘だからである。
そして古賀と堀田とは、一人は何も言わずに運命を受け入れて去っていく敗者であり、もう一人は最後の最後に教頭(赤シャツ)と画学教師(野だいこ)を殴るという直接的な反骨精神を発揮して去っていく敗者となっているのだ。堀田が堪忍袋の緒を切らして上司と同僚を殴ったのに比べて、古賀が、マドンナを奪われそうになっていても、理不尽な経緯で転任の御沙汰を受け入れさせられても、ぐっと堪えて去って行ったことを考えると、『坊っちゃん』という作品の中で良識的なのは古賀だけなのである。
「坊っちゃん」はどちらかといえば、松山の中学校を舞台としたその暗闘に巻き込まれて、たまたま堀田とウマが合ったがゆえに中途参戦したに過ぎない傍観者なのである。(下女の清も坊っちゃんと同じ東京組として傍観者の立場にある) 『坊っちゃん』の冒頭にて「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」とあるが、「坊っちゃん」自身は松山での生活で損などしてはいない。堀田と一緒になって赤シャツと野だいこを殴り、教職を放り投げて東京に戻った後、かれはさっさと他人の周旋で東京市街鉄道株式会社の技手として再就職し、清を看取ることも出来ているのだから。本当に損をしたのは、言いたいことをすべて飲み込んで、生まれ故郷に母もかつての許嫁も残し、一人で転任していった「うらなり」なのである。だからこそ、我々読者は物語の途中で、ひっそりとフェードアウトしていく古賀の行く末が気になって仕方がないのだ。
もっと言うと、清以外の登場人物が<坊っちゃん>という言葉を使っている点に着目すると、主人公は「坊っちゃん」だけでも「うらなり」だけでもなく、物語に出てくるあらゆる人物が主人公なのではないかとも思えてくる。それはここだ。教頭(赤シャツ)と吉川(野だいこ)が、張り込みしている「坊っちゃん」と堀田(山嵐)に攻撃される少し前。野だいこが言った台詞にこんなくだりがある。
「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら勇み肌の<坊っちゃん>だから愛嬌がありますよ」
ここで言われている<坊っちゃん>とは、要するに、世間知らずで世渡りが下手な甘ちゃんということだろう。一義的には、東京から来た新人教師を指すわけだが、しかし、<坊っちゃん>気質なのは果たして江戸っ子新人教師だけであったろうか。それを言うなら、皆、狭い世間の中で生きることを余儀なくされている<坊っちゃん>なのではなかろうか。
「坊っちゃん」は当然、初めて社会に出たばかりの世間知らずだろう。そして堀田も、そこそこ若そうな年齢からいって、今いる学校以外の教壇に立ったことのないであろう世間知らずだ。古賀もそう。許嫁である遠山のお嬢さん(マドンナ)以外の女性と親しく語り合ったこともなかろうし、父親が遺してくれた財産を人に騙されてすり減らしてしまったことから言っても、折り紙つきの世間知らずだ。マドンナの場合は<嬢ちゃん>と言うべきだが、古賀という好人物の許嫁がいるにも関わらず、有望株のように見える教頭にして文学士の赤シャツになびこうとしているのである。時代柄とはいえ、狭い狭いコミュニティーの中での異性しか知らず、尚且つ、男を見る目の無い世間知らずの女性なのである。こう考えて見ると、夏目漱石が遺した『坊っちゃん』は、世間というものをまだまだ良く知らない初(うぶ)な人たちが繰り広げるやっさもっさで占められているようでもある。
ただ単純に『坊っちゃん』を読んだだけでは気付かなかったようなことを、『うらなり』という作品は気付かせてくれたように思う。それは取りも直さず、「うらなり」こと古賀の目線に転換して、『坊っちゃん』が語り直されているからである。けれども『うらなり』は、漱石の作品の焼き直しとか二番煎じにはなっていない。勿論、先行作品をチョイチョイと利用したスピン・オフ作品でもない。「うらなり」という、漱石が提示した「物言わぬ敗者」にも懸命な後半生があり、明治・大正・昭和を通じてのいとおしむべき人生があるということを最大限に想像し、訴えかけているオマージュ作品に仕上がっている一作なのである。
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職場というものは、当然のことながら守る努力をしなければ簡単に無くなってしまうものだ。特に文化や伝統産業といった、大きな利潤があげにくく現代ではあまり活発とはいえなくなってしまった分野の職場は。けれども、社会全体の景気が落ち込んで久しい昨今では、いかなる職場であれ、常に閉鎖や廃止、廃業の危機に瀕しているといっても過言ではない。そのことはもう、おそらく誰もが把握している事実である。あの山一證券だって破綻したのだ。私の働き先や図書館くらい、いつでも、いくらでも、つぶれる世の中なのである。
この作品では、和久山青年がN市立図書館を護る為に、図書館の使命というものを論じる場面が最終話にある。それを読むと、図書館利用の権利を持つ一市民として、私はちょっと衿を正したくなるのだ。図書館を頻繁に利用する人もしない人も、この作品を読めば、自分の街の図書館がきっと誇らしく見えることと思う。
平成二十二年四月二十一日 読了
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