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神がその才能を愛するあまり、才気溢れるうら若き人を早々に天国に召すということがあるならば、中島敦という小説家はまさしく神に愛された人である。
中島敦――。一九〇九年〜一九四二年までを生きた人物である。というよりも、持病の気管支喘息のために一九〇九年〜一九四二年までの三十三年間しか生きられなかった人物と云ったほうが良いのかもしれない。高校時代、国語の教科書には彼の作品『山月記』が掲載されていた。それを読んだ時は、三十三歳なんて、まだまだ遠い未来だと思っていたのに、こうして彼の享年を超えて生きている自分を顧みると、三十三歳でこの世を去るというのは、あまりにも残酷なことのようにも思えてくる。三十数年生きてきた割には、世間に認められる何ものも為すことなく、後世に残るような作品を生んだわけでもない私である。今、持病で死なねばならないとしたら「神サマ、それちょっとタンマです!」と申し入れの一つもしたくなるではないか。
中島敦の作品は、中国古典に取材したものが多い。加えて、彼の筆致はとにかく高雅にして洒脱である。行儀作法の基本を弁(わきま)えている人の立ち居振る舞いが、垢抜けていて無駄がないように、そして基本を知った人が、あえてその基本から外れたことをしても、周囲に卑しさを感じさせないのと同様に、彼の文章は、幼い頃からの漢籍教育に裏打ちされた教養という、確固たる基本があっての高雅さと洒脱味を備えているのである。二・三十代の人間に、果たしてこんな文章が書けるものなのだろうかと、驚きの念を禁じえない。
早熟の天才という言葉が脳裏に浮かぶ。
この新潮文庫版『李陵・山月記』には、四篇の作品が収録されている。表題となっている『李陵』『山月記』に加え、『名人伝』『弟子』という二篇が撰ばれており、中島敦の書き遺した古代中華世界を知るのに適した一冊となっている。
『名人伝』は、天下第一の弓の名手たらんと一念発起した紀昌(きしょう)という男が、甘蝿(かんよう)老師という当代一の名射手のもとで、弓矢を用いずに的を射る「不射の射」を会得(えとく)するに至り、弓の道を極めすぎたあまりに、弓とはいかなるものであるかを忘れて果ててしまうという話。
『弟子』は、儒教の祖である孔子の弟子・仲由(ちゅうゆう)、字(あざな)は子路(しろ)の半生を綴ったもの。そして、弟子の中では異色の存在であった子路の視点から見た、人間・孔子の姿と彼の率いる儒教集団の在り方が書かれている。
『山月記』に関しては、現在通読中の『百年小説』(ポプラ社)の中の一篇として、五十番目に収録されているので、そこで改めて感想を書く心算でいる。これは『人虎伝』という逸話からヒントを得て書かれた物語である。
『李陵』の名は、古代中国史が好きな人ならば、記憶の片隅に存在を占める人物名であろうと思われる。李陵は古代中国の前漢時代、皇帝でいうと武帝(前一五六年〜前八七年)の時代の武将である。その頃の漢帝国は、匈奴による朔北の国境侵犯に頭を悩ませており、たびたび遠征軍を派遣していたのであるが、李陵は何度目かの遠征軍の司令官の一人であった。しかし作戦に不備があり、彼の率いる一軍は壊滅状態に陥り、李陵自身は匈奴の虜囚となってしまったのであった。
ここから彼の人生は大きく変わることになる。李陵は、匈奴にもその名を知られた名将・李広(りこう)の孫であり、彼自身も勇将として驍名を馳せていたために、捕われの身とはいいながらも、匈奴の単于(ぜんう:王)から厚く遇され、帷幕に加えられるほどの重要人物となったのである。彼は単于やその子息と親しく交わるようになり、ことに子息の左賢王(さけんおう)からは尊敬され、請われて武術の師ともなった。匈奴の地には、李陵のほかにも漢からの投降者が何人かおり、それぞれ兵法や戦術などを匈奴に伝授する者もいたようである。けれども李陵だけは、匈奴の、漢帝国に対する具体的な作戦行動には関わらないようにしていた。彼は、匈奴の人々に友情に近い感情をいだき始めてはいたが、それでもなお、いつの日か、漢帝国に有益な情報を持って帰還し、武帝にまみえようと心に期していたのである。単于も、漢帝国に対する李陵のそういった心情を理解し、漢侵略の戦列に無理やり彼を立たすような卑怯な真似はしなかった。
ところが、思いもよらないところで一つの齟齬(そご)が生じてしまう。朔北の戦線から命からがら逃げてきた公孫敖(こうそんごう)という男が、「匈奴には李将軍と呼ばれる捕虜がいて、その李将軍が匈奴に戦術や軍略を授けているために、漢軍が苦戦を強いられている」と報告したのである。その奏上を聴いた武帝は激怒する。そして、李将軍とは李陵のことに違いないと断定し、彼が都に残してきた老母や妻子眷属を皆殺しにしてしまったのである。この報せは半年を経て、李陵の耳にも届く。だが実は、李将軍とは李陵のことではなく、同じく捕虜となっていた李緒(りしょ)という男のことだったのである。李緒が匈奴に漢侵略についての入れ知恵をしており、それが元で生じた誤解であったのだ。ここにおいて李陵は決定的に、漢帝国と武帝に対する忠誠心を失い、絶望したのであった。
李陵の一族は代々漢帝国に仕え、漢の国益の為に必死に働いてきた。しかし、その働きの割には報いられることの少ない家系ともいえた。彼を育ててくれた祖父・李広は数々の戦功を立てたにもかかわらず、その清廉な性格ゆえに、君側の奸に昇進を妨害され、最期は自刎(じふん)という非業の死を遂げている。また彼の叔父も、ある事情で、その死の真相を武帝によってねじ曲げられた人物であった。そして今また、李陵も……。
李陵は今まで拒み続けていた匈奴の娘との婚姻を、自ら単于に申し出て、改めて妻帯した。匈奴に降服し、その地に骨を埋める覚悟を決めたのである。漢が自分を理解してくれないならば、その漢を見限り、捨てるまでという決意の表れであった。彼は、父の後を継いで新たな単于となった左賢王に仕え、右校王(うこうおう)の地位を得た。
ここに一人、李陵の心をかき乱す男がいる。
名は蘇武(そぶ)といい、李陵が捕われる一年前から捕虜となっている男である。蘇武は李陵のように武官ではなく、和平交渉の目的で漢から遣わされた使者であったが、使節団の中に匈奴の内紛に関わる者が出たために、長年、胡地に拘束されていたのである。まれに見る硬骨の士であり、彼の人格に惚れ込んだ先代の単于は、自分の幕下に加わるように説いたものの、降服を潔しとしない蘇武は、数度にわたる降服勧告を拒絶。尊敬に値する人物なので殺すことも出来ず、持て余した単于は、蘇武を北海(バイカル湖)のほとりに幽閉したのであった。それからというもの、蘇武は次第に匈奴の民からもその存在を忘れ去られ、凍てつく寒さの中で草の根をかじり、鼠を獲って飢えをしのぎ、それでも漢人としての節を枉(ま)げずに細々と生きてきたのであった。この蘇武と李陵とは二十年来の友人でもある。
そして当代の単于になってから、この蘇武の存在がにわかに思い出されるところとなり、李陵は単于の意を受けて、蘇武を訪ねて行った。再び、彼に降服を勧めるためである。李陵と蘇武は数年の時を経て邂逅(かいこう)するが、李陵の心に何か名状しがたいわだかまりが頭をもたげてくる。李陵は降服を受け入れ、匈奴で枢要な地位にもついて身なりも立派なものとなっているのに対し、蘇武は食うや食わずの生活で衣服もみすぼらしく、見る影もない。だが、漢帝国への忠誠と節度を保持し続けた高潔な志は、匈奴で厚遇されているはずの李陵の気持を暗いものにするのである。一方は豪奢な毛皮をまとい、右校王として重用せられる降服者、他方はぼろをまとい、赤貧に甘んじてはいるが、降服など夢にも見たことのない漢の忠臣。
次第に李陵は、蘇武が自分を憐れみの眼で見ているのではないかと感じ始める。蘇武は、自分の忠良の志が漢に伝わらずとも、顕彰されなくとも、そんなことはお構い無しに、ただ独り、孤高の漢臣として生きている。それに引き換え、お前は何だ。豪華な衣装を着てはいるが、要するに変節漢ではないか! 匈奴に服属することは、自分の意志で決めたことには違いない。だが、蘇武に対する葛藤の消せない李陵は、蘇武の自分を見る眼に、そんな感情があるのではないかと疑いだすのであった……。
結末から云うと、さらに数年を経て漢の武帝が崩御したことで、李陵を漢に連れ戻そうとする運動がにわかに起こった。彼を帰還させるべく、漢からの使者が匈奴の地を踏むが、結局李陵はその提案を断ってしまう。そしてさらに五年後、今度は偶然にも蘇武が漢に帰れることになった。蘇武の生存を漢室に伝えた者がおり、彼が厳しい環境下にありながらも節を持し、漢臣として生きてきたことが賞賛され、帰還の準備が整ったのである。苦節十九年、蘇武は漢に再び戻り、李陵は匈奴の地で没した。
中島敦の作品、特に『李陵』や『山月記』には、自らが決心し、その生き方を選んだにもかかわらず、どこかに拭い去れない葛藤や拘泥(こうでい)を持つ人間の姿が、非常に巧みに描かれている。その意思決定がどんなに強力で揺るぎないように思えても、人間はどこかの時点で(これで本当に良かったのだろうか)と迷う存在だということを見透かしているかのようでもある。
一体、蘇武のように想像を絶する苦境の只中にあっても、自分の志を貫徹できる人間がどれほどいるのだろう。若い頃の私は、何かを決心するということ、それ自体に重きを置いていた。けれども、大人になってからようやく分かったのは、決意や決心が難しいのではなくて、決意・決心した当初の気持や熱情をずっと保ち続けることが難しいということなのだ。
中島敦は、この問題にもきっと随分若いうちから気付いていたのだろう。彼の早熟ぶりは、ただ単に文体にのみ表れているのではない。この人間の葛藤と苦悩に気付き、描き切るという面においても、きっと彼は早熟の天才であったのだ。
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