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や行の本

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 人が物語を好む理由―――それは、物語りするという行為のそもそもの発端が、失われた愛する者たちの面影や思い出を心に刻みつけて共に生きたいと願う、強い祈りにあるからではないのか。命あるものが闇彦の存在によってモータルなものとされたことで、人類は語り継ぐことでしか永遠を手に入れられなくなってしまった。しかし、だからこそ幾多の物語は生まれ、幾世代にもわたって継承され、今もなお新しい物語が生まれ続けているのではないか。物語の根本は、死を受け入れて、死者の顔を、生涯を、死者と自分が生前どのような形で関わったかを反芻する営みである。ホスセリノミコトとして生まれ、闇彦として存することとなった一柱の神が、我々に「今は亡き、愛する者たちを物語れ」とささやいてくる。現代のあまたある物語がどんなに軽佻浮薄なものになろうとも、この闇彦のささやきがある限り、決して廃れることはあるまい。
 
 
 
 君を憶えている。君を憶えているよ―――。
吾(われ)もまた、突然闇彦の国へと旅立った人々を思い出す。
 
 君の、闘病むなしく鬼籍に入ったことを聞かされたとき、君も吾もまだ小学生で、よもや級友が亡くなろうとは思いもよらなかったのだ。君が住んでいた邸の前を時おり通ることがある。廃墟となった君の邸は今ではもう、ひどく蔦まみれで…。君という愛息を失ったご両親は、何処でどうしておいでであろう。君の家の二階の窓から、小学生のままの君が顔をのぞかせることがあるのではないかと、吾はつい、蔦の隙間の窓硝子を見上げてしまうのだ。
 
 君が水底に沈んだとき、君の姉さんは悲しみをぐっと堪えていた。吾は今でも菩提寺への墓参の際に、君が沈んだ池の小道をめぐるのだ。中学生になれなかった君。青空のもと、睡蓮が清らかに咲く頃には、君の幼い顔もぽっかりと、蓮ともどもに咲いていることもあるのではと、吾はつい池の水面を、見守ることもあるのだよ。
 
 あなたが自らの身を焼いたその場所に、鉄塔が高く高くそびえていたっけ。その鉄塔は今でもあって、灰色の骨を晒しています。今も静かな山のふもとに、あなたの家も残っています。あなたが死を選ばざるを得なかった、その苦しみや悲しみの、因(もと)がその家にあったとしても、今も静かにあなたの家は、夕暮れの中に佇んでいて…。夕日が鉄塔に当たるとき、あなたを焼いた炎(ほむら)のように、赤く赤く染まるのを、吾は時折見ています。

 神戸を襲った大震災で、君はあっけなく逝ってしまった。なぜ震災の前の日に、君は神戸を訪ねたりした? ほんの一日違(たが)えていれば、君は今も吾と同じ、齢になっていたことだろう。君が神戸を訪れたとき、君の命があと一日も、残されてはいなかったことを、一体誰が知りえただろう。君が大人になって着るはずだった、仕立て上がりの振袖は、袖とおす主を失ったまま、畳まれたままに眠っている。
 
 ―――不慮の死を遂げた人々のことを思い出すたび、吾は、闇彦の国、すなわち死とは、暗渠(あんきょ)のようなものだと思いなす。この世に縦横無尽に張り巡らされた、実は我々の足元にも確実に流れている暗渠。普段はなかなか見えないが、ふとした折に、その滔々と流れる黒い水が現れることがある。全ての命を呑みこみ、溶け込ましていきそうなとろとろとした黒い水が、静かに静かに流れているのを覗きこめる時があるのだ。その黒い面(おもて)に自分の顔がくっきりと映る時、我々は心ならずもハッとする。(嗚呼、いつか吾もこの闇彦の国に、ひらりと旅立っていくのだ)と、今さらながらに認めることになるからである。
 
 関わりのあった人々が失われていくごとに、自分もまた少しずつ死んでいっているのかもしれない、と思う。あの子と遊んだ自分、あの人と語らった自分、さまざまな関係性の中でしか生きられないのが人間だから、その関係が死によって絶たれるたびに、その関係によって定義されていたはずの自分も死んでいくのだ。だから人は、物語ることによって、その失われた関係性を補っていくのに違いない。それでもそうして、自分の周囲が削られていって、最後に残った芯のような部分が死を迎えるとき、それが、自分というものの生物的な死なのだろうと思う。
 
 吾は今日も暗渠を覗く。
そして、闇彦がずいぶんと身近にいることを確かめる。
死はいつか吾をも襲う。
しかし、そのときが来たら、着慣れた着物に身を包んで、白い足袋などもう要らぬから、気持ちよく素裸足になって、パラソル片手に、滔々と流れる黒い水の中へと溶けていきたい。
自分もまた、誰かに語られ、思い出されることを夢想しながら…。
 
 
                                               平成二十三年五月四日 読了
 
 
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 『闇彦』というタイトルから、私は何かしら、神話の暗部だとか秘事だとかに沈潜していくような、追い落とされるような、そんなおどろおどろしい物語を想像していたのだけれど、実際に読んでみると、文体も展開も意外なくらいにあっさりしていて、水の上をたゆたうような印象のなかで読み終えることが出来た。
 
 日本の神話とまるで無関係なわけではない。秘事、謎といったような日本神話であまり深く語られてこなかった部分に、「海彦」「山彦」らにとっては三人目の兄弟であったかもしれない「闇彦」なるものの存在が見え隠れしており、その「闇彦」が、主人公の「私(弓彦)」の人生にも、時おり顔をのぞかせる。そして、その「闇彦」に関わる者たちは何故か皆、類まれなるストーリーテラーであり、人は、人類は、なにゆえかように物語を求めてしまうのかというテーマのもとに書かれているのが本作品である。
 
 私(弓彦)が、自分と闇彦との関わりを意識し始めたのは、物心がついて直ぐの頃からであった。双子の弟・吉彦が三歳で病死してからというもの、お守り役のお婆あが語る言葉の端々に、闇彦という名前が出てくるようになったからである。弟の吉彦は死者ではあるが私とともに同じように成長しているらしく、お婆あは「吉(よ)っちゃん、吉っちゃん」と呼びながら、死んだ弟のことを語る。時に「庭に来ている」と云い、「大きくなって、七五三でセーラー服を着ている」と云う。そして、それらのことは闇彦が教えてくれるのだ、とも。私は、眼には見えない闇彦なるものの存在があって、それは死者に関わる何かなのであろうと漠然と考えるようになる。
 
 小学六年生の時には、舟宮稲子(ふねみやいねこ)という物語の上手な女子と出会う。彼女は普段は目立たないのに、色々なお話を級友たちに話して聞かせるときだけは、皆を惹きつけてやまない不思議な魅力を発するのである。頭の中に入っている物語は数限りなく、そして人の死ぬ話が多くを占めていたようだった。そんな稲子は、学芸会で舞台に立ち、物語をするという大役を果たしてしばらくした後、不意に病死してしまう。葬儀は新潟県の海辺の村で執り行われた。私はクラスを代表して彼女の葬儀に出席し、馴染みのないしきたりに少々面食らいながらも、そこでまた闇彦の存在を感じるのである。薄闇の中で一本の蝋燭を手から手へと受け渡しながら、蝋燭を持っている者が故人について、短く静かに思い出を語る。浜辺で死者を納めた棺を筏(いかだ)に乗せ、火を点けて沖に流す。不思議な弔い方の背後で聴こえるのは、「向こうに島がある。稲子は闇彦の血だすけに」という年寄りの声だった。
 
 闇彦とは何なのだろう―――?
闇彦に関わるとされる人たちは、何故、お話が上手いのだろう―――?
なにより、人はどうして、お話を聞くことを求め、物語を読むことを好み、語られることに我知らず惹かれていくのだろう―――…?
そんなことを考えるともなしに考えながら、主人公の私(弓彦)は新潟を離れて東京住まいとなり、自らも小説家となる。自分自身も死んだ弟や同級生を通じて闇彦と繋がっているせいなのか、ごく自然にストーリーテラーになったのだ。
 
 同級生の舟宮稲子を弔って以降も、人生の其処ここで闇彦は私の前にふと立ち現れる。そして、闇彦の正体らしきものが垣間見えるきっかけとなったのは、西村夕海子(にしむらゆみこ)と舟宮糸子(ふねみやいとこ)との出会いであった。
 
 西村夕海子は劇団の女優であり、ギリシア人の血が八分の一だけ入った美しい女性。役者としての熱心さからか、自分の体内に流れるギリシアの血がそうさせるのか、或いはその両方か、夕海子は、演劇にも多大な影響を与え続けるギリシア神話に特別の関心を寄せているようである。一方、舟宮糸子は新潟生れで、血のつながらないお婆あに育てられている。昔病死した同級生・舟宮稲子と同姓だが、糸子と亡くなった稲子の間に関係があるのかどうかは分からない。だが、糸子を育てたお婆あの語る闇彦の物語がまた秀逸なのである。主人公の私は、この二人の女性から様々な刺激を受け、人間が物語りすることの本質というものを捉えていくようになる。
 
 夕海子はギリシア神話のオルフェウスエウリュディケの悲話が好きだという。竪琴の名手・オルフェウスとその妻・エウリュディケは仲睦まじく暮らしていたが、ある日、妻のエウリュディケが毒蛇に噛まれたことで突如死んでしまう。どうしても妻の死が受け入れられないオルフェウスは、冥府へと下って、冥府の王・ハデスとその后・ペルセポネの前で竪琴を奏で、妻のエウリュディケを甦らせてくれるように懇願する。オルフェウスの、涙を誘ってやまない竪琴の音色と哀願とにほだされたハデスとペルセポネは、オルフェウスにエウリュディケを伴わせ、冥府から逃がしてやることを決める。その際、王から付けられた条件が「冥府から脱出するまで、決して後ろを振り返ってはならぬ」というものであった―――。冥界の闇の中を、オルフェウスは妻を連れて地上へ戻ろうとする。行く手に光が見え始め、あともう少しで自分たちの暮らす地上へ出られるという時に…、オルフェウスは振り返ってしまうのである。妻がちゃんと付いて来ているか、不安に駆られた夫は、ハデスとの約束を破って、後ろを振り返ってしまったのであった。彼は妻の顔を一瞬見たものの、それが永遠の別れとなってしまった…。

 これと酷似した話が日本神話にもある。いうまでもなく、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)のエピソードである。イザナギとイザナミは夫婦の神であり、天地開闢(かいびゃく)以来、国産み・神産みを進めてきた。ところが、火を司る神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に火傷を負い、それが元で、妻のイザナミは死んでしまう。夫のイザナギはどうしても諦めきれず、妻を取り戻そうと黄泉国(よもつくに)に赴く。イザナギは黄泉国でイザナミを発見し、彼女を連れ帰ろうとするが、イザナミが云うには「黄泉の国の食べ物を口にしてしまった以上、私は還れない」ということであった。しかし、イザナギはなおも彼女を説得し、根負けしたイザナミは「本当に還れないのかどうか、聞いてくるから待っていてほしい。その間、私の姿を見ないように」と条件を付けて一旦、夫の前から下がる。けれども、待てど暮らせどイザナミは姿を現さない。しびれを切らしたイザナギは、彼女が下がった辺りへ足を踏み入れ、そこで床に転がっている何かを見てしまう…。床に横たわったまま動かないそれは、イザナミの躰(からだ)であったのだが、よく見れば手足には恐ろしい雷神が取り付き、おびただしい蛆が湧き、腐乱している。妻の浅ましくなりはてた姿に肝をつぶしたイザナギは、黄泉国から逃げ帰ろうとする。自分のおぞましい姿を見られたイザナミは、黄泉醜女(よもつしこめ)らを使ってイザナギを追わせるも、彼は髪飾りや櫛を葡萄や筍に変えて時間稼ぎをし、最終的には桃の実を投げつけて黄泉国の追っ手から逃れることができたのであった。しかしやはり、死んだ妻とは永遠の別れをせねばならなかったのである。
 
 これらの物語を、夕海子はこのように捉えている。どんなに願っても、どんなに嘆いても、決して肉体的には戻ってはこない死者を唯一取り戻す方法があるとすれば、それは、恋しい人をもう一度振り返り、記憶にとどめ、語り継ぐことなのだと。
 
 冥府や黄泉の世界から突きつけられる「見てはならない」という禁忌は、死の世界に、生の世界の人間が立ち入ることはできないという暗示で、その「見てはならない」約束を破ってまで、生者の側がつい一瞬見てしまったり振り返ってしまったりする展開に至るのは、失ってしまった人の死に顔を、面影を、思い出を、もう一度目に焼き付けておきたいと思う人類の願望が物語化(神話化)したからではないだろうか。妻をこの手に取り戻そうとした男たちは、一瞬だけ死の世界を垣間見るが、見たことによって、死者と生者は決定的に違うこと、そして死んだ者は決して生き返りはしないことを思い知らされる。けれども、その一瞬の垣間見によって記憶された妻の面影を胸に抱き続け、恋しい人の思い出を物語ることで、彼らはこの世には既にいない人とも、永く共に生きることができるのである。
 
 そんな死者について語ることを宿命づけられたのが闇彦だったようだ、と、私に教えてくれたのは舟宮糸子であった。彼女は、”闇彦は、神代において天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の間に生まれた神々・海彦と山彦の兄弟だった可能性がある”と示唆してきたのだ。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメには、三柱の神が生まれている。すなわち、火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の三柱で、ホデリは海の世界を支配する海彦ホオリは山野の世界を支配する山彦として『古事記』に登場するのだが、不思議なことに真ん中のホスセリについては、誕生したという以外に詳しい記述がないのである。何を司る神なのかも知られていない。糸子のお婆あは、このホスセリこそが闇彦として死の世界を支配するようになったのだと、糸子に教える。ホスセリ=闇彦ということが知られていないのは、死に関する神であるために、あからさまに語られることがはばかられたからである、と…。この闇彦の血脈が一部人間(じんかん)に伝わり、舟宮姓を名乗る人々に死者を語る能力が備わったのだ、と…。
 
 このことは勿論、作者・阿刀田高氏の創作であるが、ホスセリが死を支配する闇彦であると空想してみるのは非常に面白い。闇彦の血を受け継ぐ者に「舟」の文字が冠されているのも、「御舟入り」という言葉が死者の弔い・葬儀を意味するように、死の世界を暗示するからだろう。「舟宮」とは言うなれば、闇彦(ホスセリ)が密やかに生き続ける「死の宮殿」なのである。闇に隠れたホスセリは、もはや神話の表舞台には現れない。現れないが、しかし、確実に存在し、生きとし生ける者の命数を、その手に握っているのである。
 
 加えて、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に、死を司る神が誕生したと考えてみることがとても興味深いのである。実はニニギノミコトには、もう一人、娶るべき姫がいた。それは、コノハナサクヤヒメの姉・磐長姫(いわながひめ)である。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの父・大山祇神(おおやまつみのかみ)は姉妹二人ともをニニギノミコトに娶(めあ)わせようとした。なぜなら、イワナガヒメは、磐(いわ)が永くその姿を保つようにニニギノミコトの弥栄(いやさか)を寿(ことほ)ぐ役割を担っていたからである。ところが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを嫁入らせ、器量の悪いイワナガヒメはオオヤマツミノカミに返してしまった。舅であるオオヤマツミノカミは落胆する。そして、こういう言葉を発するのだ。「コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトの世を美しく繁栄させはするが、花の命が短いように、彼の世も永くは保てないであろう」。
 
 ニニギノミコトはイワナガヒメを拒絶したことで、コノハナサクヤヒメとの間に闇彦を生(な)すことになったのかもしれない。上記の神話は、ニニギノミコトから連なる子孫の歴代天皇が、神々ほどには寿命を永く保てなくなった、限りある生命となったということの原因譚として読めるのだけれども、もっと云えば、人間の世界にはっきりと「死」がもたらされるようになったということの原因譚でもあるように思える。ニニギノミコト以前にも、イザナギとイザナミが人間の生死に関して呪詛と寿ぎを投げかけ合ったことがあったが、ニニギノミコトの代になって、命あるものは皆ひとしなみに死ぬということが決定的になった、そんな印象だ。闇彦は、本作品における想像上の神ではあるが、その神を、永遠の生命を蹴ってしまったニニギノミコトの子としてあてがっているところに、作者・阿刀田高氏の意図が見えるのである。
 
 
 

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 『義経 上』では、木曾義仲が京の都に入って占領し、平家がその都を退去、瀬戸内海沿岸一帯に拠ったところまでが描かれている。源義経が、かつて幼少期を過ごした都へ颯爽と登場するのは、この『義経 下』からである。木曾義仲は、後白河院の住まう法住寺御所を焼き払い、あまつさえ後白河院を幽閉するなど、その行為は横暴を極めていたが、西国に拠った平家軍は大いに軍威を上げ、京都への捲土重来を期する勢いを見せていた。また、鎌倉からも、源範頼(みなもとののりより)と義経とが、義仲追討のために派兵されることとなり、木曾義仲は袋小路に迷い入った猪のごとき様子を呈していたのであった。後白河院にとって懸念であったのは、追い詰められた義仲が自棄(やけ)を起こして都を放擲(ほうてき)し、自分を北陸の地に連れ去るか、悪くすれば殺してしまわないか、ということであった。
 
 後白河院が義仲に対して、「旭将軍」と尊称を送るなどして懐柔を進めていた頃に、頼範・義経軍は近江瀬田を大手、宇治を搦手(からめて)として、いよいよ京都を望見(ぼうけん)したのであった。軍勢はさして多くない。頼範軍八千騎、義経軍にいたっては僅か千騎ほどで義仲軍を制圧し、都を院の手に取り戻すのである。搦手を請け負うは御曹司(おんぞうし)義経、うち乗る駿馬は太夫黒(たゆうぐろ)、奥州仕込みの手綱さばきと華奢な体つきによって、あたかも雲上を行くが如くの軽々とした疾駆は、どこか神彩を帯びてさえいる。彼にとっては、この宇治川の合戦が初陣であるが、この鮮やかな身のこなしと馬の御し方は、居並ぶ戦巧者(いくさごうしゃ)たちを感心させたようである。
 
 そしてさらに、味方の軍勢を驚かせたのが、義経の指揮する行軍の速さと戦術であった。通常、大将や指揮官というものは中軍に在って、首を取られぬよう周囲の武者共に守られているものだが、義経の場合は違う。彼自身が前線に立って馬を駆けさせ、他の将校らを叱咤しながら、ぐいぐいと軍勢を引っ張っていくのである。自然、義経軍の行軍は圧倒的な速度を持つ。この速度あるがゆえに、義経軍の通る道々の住人たちは、その速度を超えて噂を伝播させることが出来なくなってしまう。義経軍がどこへ参集し、どこに埋伏し、どこから攻撃を仕掛けるのか、そういった諸々の情報を平家軍が得ることを不可能にしてしまうのである。「兵は神速を尊ぶ」(魏志)とか「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを賭(み)ざるなり」(孫子)といった唐(もろこし)の兵法を、義経が知っていたかどうかは不明だが、速度を維持することの重要性と、それによって自軍と敵軍の情報をもコントロールする有益性を理解する、そういった感覚を彼は生得的に身に付けていたように思われる。
 
 それから、彼の戦術・戦法。現代人から見れば、騎兵や歩兵を戦術的に配置し、展開させることは、至極当然のように思えるが、司馬遼太郎氏の言葉によれば、義経の時代には、そういった考え方自体がなかったようである。戦はとにかく数量的な勢いだけであり、数を恃(たの)んでひた押しに押していく。兵の数が敵軍よりも劣っていれば、個々の武勇と士気を頼りに切り結ぶ。要するに、騎兵も歩兵も戦闘フィールドをバラバラに動くのであり、個人個人の戦いの結果として軍全体の勝ち負けが決まるということだ。しかし、義経は自軍を、戦術・戦法という軸によって、一個の機動力として扱った。武将ら個人の勇猛果敢さに依存するのではなく、戦場を武士(もののふ)の名誉を主体とした華麗な働き場とするのでもなく、軍勢を、勝つために有機的に動かし、戦場を、勝つためのフィールドとして措定(そてい)した。それは、源平の当時にあっては非常に画期的なことだったのである。
 
 宇治川の合戦では、木曾義仲の配下である志田義広勢を切り崩しつつ宇治川を渡りきり、本来ならそのまま、当時の流儀通りに各々が義仲の陣所へどやどやと押し寄せるはずだったのが、義経の采配で、その勢いはまず一旦とどめられた。そして彼は少ない自軍をさらに四隊に分け、四方から義仲を包囲していく戦法を採ったのである。鎌倉を発してから洛中に到るまでの進軍が速やかであったことも手伝って、木曾義仲は義経の到来予想を読み違え、包囲されたことで敗退し、結果、近江で戦死した。兵数という物量によって勝敗が決まるのではなく、迅速な進軍と情報、そして、たとえ小人数であろうとも戦術によって勝利を得ることが出来るということを、義経麾下の坂東武者たちは目の当たりにしたわけである。
 
 これ以後、源義経という若者は、一ノ谷讃岐の屋島長門の壇ノ浦へと転戦していく。一ノ谷や屋島の合戦では、難路を迂回して平家軍の背後に出現し、これを大いに破り、壇ノ浦の海戦では、戦に先立って激しい潮流の観測までも行って、どの潮が源氏にとって勝てる潮かを見極めている。速度、機動力、戦術、情報、誰に習ったわけでもないが、戦という局面に関して云えば、この武将は稀有な才能を有していた。それぞれの戦の勝敗は歴史が物語る通りである。
 
 しかしながら、義経のこの才能は、兄・頼朝の息のかかった武将らには非常に受けが悪かった。義経が新しい戦い方を持ち込んだために、先陣を切って疾駆するために、彼らは従来どおりの戦が出来ない。義経自身が誰よりも先に大将の首級を狙おうとするため、彼らは手柄を立てることも覚束なくなるのである。身分ある武将の首級が取れなければ、御家人は恩賞にあずかることが難しくなる。義経の新思想は、坂東の御家人たちの生活までをも脅かすかもしれない、極めて迷惑なものであったのである。加えて、彼ら坂東武者にとっては鎌倉の頼朝こそが主上であり、義経は腹違いの弟とはいえ、頼朝の御家人、いわば自分たちと同等の立場であるに過ぎない。そこを、義経は理解せず、鎌倉衆を家臣扱いした上、彼らにとっては呑み込みにくい戦い方を、十分な説明もなしに下知することがしばしばであった。義経を嫌う軍監・梶原景時(かじわらのかげとき)などは、戦況報告書を、あえて義経の戦功を無視した形で認(したた)めて鎌倉へ送るほどに、義経と反目しあっていたのである。
 
 合理的―――というのであろうか。義経の戦の仕方だけを見ると、作戦に冗長な部分がなく、極めて合理的な戦い方をしているのである。そして何よりも、刻々と移り変わっていく戦況を敏感に読むということに長けている。戦という主題が目の前にあれば、義経は確かに、奇才を発揮することが出来たのである。それが一旦、戦という大きな主題から離れて、例えば宮廷での人付き合いや鎌倉方面との関係構築といった政治的・サロン的な場に置かれると、その合理的精神や場の空気を読むといった感受性は嘘のように引っ込んでしまう。他人の真情を図れない、政治的配慮が出来ない、そういった無邪気すぎる子供のような男になってしまうのが、本作品の義経なのだ。この源平の時代には珍しい合理的精神を持って生まれながら、平家打倒のみが悲願、亡父・源義朝の仇を雪(すす)がねば、という直情径行型の性格も形成されたことが、義経にとっては不遇の人生の始まりだったのかもしれない。
 
 義経は孤立していく。頼朝の御家人とされながら、後白河院の覚えもめでたい彼は、頼朝の許しを得ることもせず、検非違使の太夫尉(たゆうのじょう)、俗に云う、判官(ほうがん)の位を受けてしまう。れっきとした殿上人であり、これによって彼は鎌倉の武家でありつつ、京都の公家でもあるという矛盾する立場に立つことになった。合理的性格直情的性格武家でありながら公家という二重の矛盾が、彼を孤立へと追いやるのだ。義経もまさか、あれほど憎んだかつての平家のように、自分が武家と公家との二面性を持つとは思わなかっただろう。
 
 この司馬遼太郎氏の『義経(上下巻)』では、演劇や講談で語られるような伝説的で美麗な義経というものはあまり書かれていない。書かれているのは、人間・義経である。兄との関係を好転させることも出来ず、後白河院に利用されていることにも気付けず、矛盾や破綻を抱えながら、平家打倒に没頭していくしかなかった義経の姿である。そして、源氏の血を愛し、源氏の悲願成就の大功労者であった彼が、その戦功に一切報いられことなく、尾羽打ち枯らして追い立てられていく姿に、我々読者はそっと自分を重ね合わせてみるのだ。
 
 人間・義経には、奥州を脱しての北行伝説もない。彼は衣川で自害し、酒漬けの首級となって初めて鎌倉の兄の元へと帰還することが出来たのであった―――。
 
目次
旭将軍一騎
堀川館
鵯(ひよどり)越
八葉の車
屋島へ
讃岐の海
源氏八百艘
壇ノ浦
波の上
都大路
磯ノ禅師
腰越状
堀川夜討
浦の逆浪
 
                                             平成二十三年六月十日 読了
 
 
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 源義経―――。彼ほど、華麗な逸話に彩られた武将もいないのではあるまいか。そして、華麗であるだけではなく、どこまでもひたすら哀しい。義経の名を口にのぼす時、人々は、一の谷や屋島、壇ノ浦と、数々の合戦において彼が華々しく疾駆したことを思い浮かべると同時に、兄・頼朝から疎まれて、北へ北へと落ち延びていく敗残の姿をも思わずにはいられないのだ。それは現代人のみならず、源義経と同時代を生きた人々にとっても同じことだったかもしれない。
 
 我々が源義経に対して抱く、颯爽かつ貴公子然としたイメージとは裏腹に、本書『義経』(司馬遼太郎)での彼ときたら、どうにもこうにも甘ったれで手に負えない。兄・源頼朝に向かって「兄上、兄上」とすり寄っていきそうな勢いなのである。その上、政治感覚にも疎く、平家打倒を唯一の悲願とするばかりで、源氏の同族内においても、後白河院に対しても、上手く立ち回ることが出来ないでいる。自分が源家や北条家に連なる者たちから、どのような目で見られているかの内省もできず、ゆえに空気を読むことも苦手。不器用の塊のような男なのである。
 
 疎まれても疎まれても兄を慕い続ける義経とは裏腹に、その当の兄である頼朝は、あくまでも義経に対して冷淡だ。頼朝は傍流の源氏、例えば新宮十郎行家木曾次郎義仲といった面々にも親愛の情は見せなかったが、この腹違いの弟に関しては特に警戒を怠らなかったといえる。
 
 石橋山で敗残の将となり、安房にて再起し、鎌倉の地で武家政権を発足させたばかりの彼は、妻・政子の背後にある北条氏という大族の支援によって、いわば鎌倉大本営の元帥となることが出来た。けれども当時の頼朝自身には、後ろ盾となるような濃い血縁がいなかったのである。頭ノ殿(こうのとの:源義朝)の遺児として、源氏の棟梁を務めていながらも、下手をすれば北条家に権力が移行してしまうかもしれないという危惧が、頼朝の中には少なからずあったであろう。したがって富士川の合戦の際、義経が自分のもとに馳せ参じた時には、彼はすこぶる感激したのである。だが、その兄弟邂逅におけるお互いの感激にもおのずから温度差があって、義経が兄との出会いを無邪気に喜んでいる反面、頼朝は、自分の源氏棟梁としての地位を確固たるものにしてくれる手駒として、義経の到来を喜んだ部分があるのだ。
 
 義経の着陣を配下から告げられた時、頼朝はこう強調することを忘れなかった。
「その路上の者はきっと九郎に違いない。母はいやしき雑仕女(ぞうしめ)ながら」
義経の母・常盤御前の出自をチラリと周囲にのぞかせておくことで、自分の武名を慕って参集する兄弟がいることと、その兄弟が自分よりもはるかに格下であることを印象付けたのである。これより後、義経と頼朝の意識のズレが埋まることはない。むしろ深い深い溝となっていく。その溝があるせいで、兄に認められようと義経が懸命になればなるほど、頼朝の方では、秩序を乱す行為、出すぎた真似、俺が俺がという功名心として処理されてしまうのだから、やりきれない。
 
 司馬遼太郎は、この『義経』の上下巻を通して、源氏と平氏の全体的な性格の違いを解説している。それは、端的に言えば、平氏の同族に対する情の深さに比べて、源氏のそれは浅いわけではないが、どこか手厳しく辛辣だということである。
東国の源氏武者の強悍(きょうかん)で復讐心のつよいのにひきくらべ、涙もろさは西国の平家侍の共通性であったろう。かれらはこの繊細な心情美のゆえに、のちに「平家物語」の作者に美しい主題をあたえた。
とあるように、荒夷(あらえびす)の雰囲気を濃厚に残している関東の源氏半ば公家化した京の平氏とでは、同じく武家ではありながら、決定的な性格の違いが生まれているのである。それを個人に問題に還元すれば、配流先の伊豆で成長した兄・頼朝と、鞍馬山の稚児として狭い世界で生きてきたものの京育ちには違いない義の性情の違いとして現れてくるわけだ。
 
 また、義経が鞍馬から奥州へと逃れ、多感な時期をその奥州で過ごしたことも、頼朝と義経を全く違う性情へと導いたのかもしれない。剽悍な坂東武者らの間で、この時期、「京都の公家政権何するものぞ」という機運が高まりつつあった一方で、当時、化外の地とされていた奥州では、京という圧倒的な王土をまえにして、いまだ強い憧れと遠慮と畏れとがあり、その心情が、源義経という京育ちの若者を奇貨としたともいえるのである。本書でも書かれていることだが、奥州人は京の文化を少しずつ取り入れる為に義経を歓待した。とりわけ京風の容貌を獲得する為に、奥州人は彼の血を引く落胤を欲したのである。数年の奥州滞在の後、義経は鎌倉の頼朝のもとへと参じるが、京文化の中で幼少期を送り、今また、京への憧憬を持つ奥州文化で成長した義経と、鎌倉政権を樹立させようとしている頼朝の間には、基本的な考え方において深い断絶があったのである。
 
 平家を打倒したいという悲願は同じであったろう、しかし義経が、平家を除いた後にすべきこととして、公家文化そのものの否定を視野に入れていなかったのとは異なり、頼朝は、平家なき後の世は武家が治めねばならないと考えていた。そこに、この兄弟の分かり合えない部分があったということなのだろうと思う。
 
 ありえない話ではあるが、この兄弟が、流人生活を送るにしても一つ処で過ごすことが出来ていれば、それも二人が共に関東で育つことが出来ていれば、この兄弟の結びつきは非常に堅固なものになったかもしれない。兄弟が反目せず合力できれば、それは、頼朝にとっては北条家とは違う系統の後ろ盾が出来るということであり、そこからの支援で、鎌倉幕府は三代で途絶えることなく、もう少し長く運営された可能性もある。詮無きことながら、源平の物語を読むときは、そんな「もしも」を想像してしまうのである。
 
 それにつけても、源氏と平氏の両方を手玉にとりながら貴族社会を守ろうとする後白河院の強(したた)かさ。さすが「日本国第一之大天狗」と評されるだけのことはある。そして、後白河院以下、京の並み居る公家連は、鄙(ひな)からやって来た武者達を表面では巧言で持ち上げながら、裏面ではあげつらい、指をさして嘲弄し、軽蔑するのだ。
 
 アレアレ、アノ、アヅマエビスドモヲ、ゴランジアワセヨ。ヒトトモ、オモワレヌ、オロカナ、フルマイニテ。マコト、ミヤコノ、フウモ、シラヌ、ウタテゲナル、モノドモヨ。ホホホホホ………。ヒヒヒヒヒ………。
 
 雅(みやび)の世界に住む公家は、最早、土から切り離された種族である。鄙において土を耕し、馬を肥やし、食物を育てている者にこそ、社稷(しゃしょく)の神の守護と寿(ことほぎ)があるが、鄙(ひな)の世界を捨てて雅(みやび)の世界の住人となった者は、土地と五穀とを司る神の守護と寿はもう得られない。公家たちは、耕さなくなった引け目負い目を隠蔽するように、自らが権威となることを画策する。雅が尊く、鄙が卑しいと決めてしまうことで、彼らは社稷の営みから離れてしまった自分たちを正当化しているのである。その正当化の表れが坂東武者や都風に振る舞えない者に対する嘲弄なのである。
 
 源平の戦いは、単に源氏と平氏の相克というわけではない。それは、公家から武家への実質的な権力移譲であり、京(近畿)から鎌倉(関東)へという政治の場の歴史的な転換であり、雅に対する鄙の、武力を伴う挑戦でもある。司馬遼太郎のこの『義経』は、そういったことに気付かせてくれる様々な要素に満ちている。
 
 
                                         平成二十二年九月一日 読了
 
 
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 契丹人・耶律楚材は、 自分の生まれる前には故国である遼が女真族の金王朝に滅ぼされ、今また、一家眷属をあげて仕えていた金王朝が、今度はモンゴル軍によって滅亡させられるという廻り合わせの中に生きた人物である。彼自身は若くしてチンギス・ハンに仕え、モンゴル陣営に属していたが故に、金滅亡時の大いなる混乱と悲惨のただ中に置かれることはなかったが、金王朝に仕え続けた二人の兄や母らは、金領内に留まり続けたので、彼ら身内の安否が常に気遣われる状態が長く続いた。大陸全体が千変万化の渦を巻くような時代に生まれ合わせた耶律楚材のような人物の、生涯にわたって強いられたであろう緊張に満ちた政治生活は、コップの中の嵐どころか漣(さざなみ)さえも満足に経験していない私には、なかなか想像し得ない世界である。
 
 『耶律楚材 下 無絃の曲』では、チンギス・ハンが死去して三男のオゴディが即位するあたりから、話が語りおこされている。チンギス・ハンが割りと呆気なく鬼籍に入るので、(あらら…)という感じになるのだが、耶律楚材の活躍は、大ハン時代もさることながら、二代目のオゴディの時代に最盛期を迎えるので、これは致し方ないかなという気がする。
 
 チンギス・ハンには母を同じくする子息が四人いる。ボルテ皇后から生まれた、ジュチチャガタイオゴディトゥルイがその四人であるわけだが、長男のジュチはチンギス・ハンの西夏攻撃の最中に亡くなり、チンギス・ハンが健康面での衰えを見せ始めた頃から、残ったチャガタイ、オゴディ、トゥルイのいずれが大ハンの築いた帝国を受け継ぐのかという継嗣問題が持ち上がり始めた。
 
 長幼の序とか長子相続というものに感覚的に慣れている我々日本人からすれば、長男のジュチが亡くなったのであれば次はチャガタイという風に、相続権を上から順送りに移行させるのが自然なように思えるが、モンゴル人の相続に関する考え方は少し違う。彼らは逆に末子相続であることが多いのである。兄たちが新しい領地を得、どんどん独立していく過程で、親が徐々に年老いていく。そして、親への世話が必要になった頃には末っ子が家に残っているので、必然的にその末っ子が親の領地を引き継ぎながら家を宰領していくことになるのだ。若く、体力もある一番下の子供によって老父母の面倒を見るほうが、何かと都合が良いということもあったのだろう。明文化されているわけでもなく、必ず末子が相続しなければならないというものでもないのだが、慣習としてそうなっているのである。
 
 その末子相続が一般的であるモンゴルの文化の中で、チンギス・ハンは、そのハンの位を三男のオゴディに与えることに決めていた。長男のジュチが存命だった頃から、ジュチとチャガタイが犬猿の仲であり、二人のいさかいをオゴディがよく仲裁している光景を目撃していたのが、その理由である。チンギス・ハンは、急激に膨張したモンゴル帝国を運営できるのは、調停能力に優れたオゴディだと考えており、その方針は耶律楚材にも伝えられていた。
 
 が、しかし、どれほど偉大な大ハンの意思や遺言であっても、族長会議であるクリルタイの承認を経ずして、その実現を図ることは出来ないという暗黙の了解がモンゴルにはある。それに加えて、チンギス・ハンの死後、後継者を決める為のクリルタイが開かれるまでに、二年の歳月を要しているのだが、その間の暫定的リーダーとして四男のトゥルイが選出されていることも問題を少々複雑にした。トゥルイは監国(かんごく:臨時の統治者)という立場で、大ハン亡き後のモンゴル帝国を切り盛りし、治安の悪化していた金領の燕京を回復させるという実績を積んでいたのである。ただチンギス・ハンが、トゥルイを正式な後継者として望まなかったのは、彼が少なからず激情家であり、無類の大酒呑みであるという不安要素があったからだ。
 
 当然ながら、オゴディを後継者にという大ハンの意思を尊重する人々と、績を積み始めたトゥルイをこそ後継者にというトゥルイ派の人々との間で確執が生じだす。それは、事態が悪化すれば、折角築かれたモンゴル帝国が早くも分裂し、世の中がまた戦乱の巷と化すことを意味する。楚材は、諸王朝のめまぐるしい興亡によって、不安定な社会が恒常化するのを避けるべく、トゥルイにハン位を諦めるように説得を開始するのであった。
 
 楚材はトゥルイに説く。暫定的に領有している父祖の地、モンゴル草原をオゴディに献上されたし、と。そしてその自己犠牲を、次の代、次の次の代まで皆に覚えておいて貰うのだ、と。帝国の分裂という危機を乗り越えるために、今回はオゴディをハンにしなければならない。しかしながら、次の代、次の次の代となった時、オゴディ家からハンにふさわしい人物が輩出されるとは限らない。その時には、トゥルイの、ハン位を辞退したという自己犠牲が後々のクリルタイにおいて語り継がれ、それが計り知れない恩恵となって将来のトゥルイ家に及ぶのだ―――楚材は、そう力説したのである。彼のこの根回しにより、クリルタイが開かれた時には、チンギス・ハンの後継者はオゴディであると正式に承認されるに至る。
 
 オゴディ擁立に寄与したことによって、耶律楚材は名実ともにモンゴル帝国の重鎮となっていく。彼は、様々な法制・税制を整備し、儀式の進め方を考案し、学問を奨励した。そして、多分に実利主義の気味の強い遊牧騎馬民族の性質の抜けきらないモンゴル人に対し、賂(まいない)の弊害を訴え、戦の際には屠城(とじょう:皆殺し)を禁じたのである。ちなみに、当時のモンゴル帝国では、税は必要な時に必要な分だけ人民から徴収すればよいという、きわめて大雑把な考え方しかなかったので、楚材は基本の税を糸だてで納めさせる「糸納科差法(しのうかさほう)」という税制を実施し、その実施年から「丙申歳(へいしんさい:一二三六年)の税制」と呼ばれる。この税率はきわめて軽く、人民の生活を圧迫することが無かったようである。また、楚材の提案で行われた「戊戌(ぼじゅつ:一二三八年)の選試」では、モンゴル軍との戦いで戦争俘虜となった知識人にも受験資格が与えられ、有能な人物の登用に役立っている。
 
 こうして、モンゴル帝国の安定した運営が、耶律楚材の奮闘によって図られていったわけではあるが、歳月を経るうちに、帝国内に色目人(しきもくじん)官僚が台頭してくるようになり、楚材の発言権は次第に奪われていった。主に西域人で構成される色目人官僚は、商才や財務に長けた人物が多く、后妃らの財産を増やしたり、人頭税をかけて税収を増やしたりと、モンゴルの支配者層を大いに喜ばす。アブドゥル・ラフマーンヤラワチ(マフムード・イェルワジ)らが、その急先鋒である。反対に楚材は閑職へと追いやられ、本意ではない晩年を過ごすのであった。
 
 一二四四年、楚材は五十五歳でこの世を去る。楚材の死後、彼が在任中に私腹を肥やしていたと讒訴(ざんそ)する者があり、耶律家の財産が調べられたことがあった。しかし、耶律家には琴や阮咸(げんかん)などの楽器が約十面と書画、巻物数十巻が遺されていたのみであったという―――。
 
 この『耶律楚材』の上下巻を読んで抱いた印象は、楚材自身が、なかなかスポットライトの当たりにくい人物であるために、どうしても彼についての説明が必要となり、それだけ、この作品が歴史小説というよりは伝記に近くなったようだ、ということである。よって、途中、少々退屈に思える箇所も無いではない。彼が誕生してから死去するまでの事績が丁寧に、しかしあまり大きな起伏が無く淡々と記してあり、耶律楚材という歴史上の人物を知れる良品ではあるものの、優等生的な感じがあるのはどうしても否めないのだ。ただ、この印象は、耶律楚材が文官であるために、戦続きの初期モンゴル帝国の中では、その功績が目立ちにくく、また中華世界のように三寸の舌をふるって敵国と政治的に渡り合うというような機会が、モンゴル社会においてはさほど得られなかったであろうことが原因とも云える。
 
 あまり知られていない歴史区分や王朝、歴史上の人物が現代において精彩を放つには、物語としてよく練られなくてはならないのだろうと思う。今回の陳舜臣氏の『耶律楚材』が練り上げ不足ということではなく、耶律楚材が肉厚なキャラクターになるためには、もっと多くの人の手によって、様々な耶律楚材像が練られなくてはならないのである。小説になったり演劇になったり、時には漫画になったりしながら、たっぷりと時を重ね、色々な人間によって、違った観点からも語り継がれていく。そうすることで、平面的だった楚材像が少しずつ立体的になり、時には独特の彩色も施されて、キャラクターとして成立するのだろうと思うのだ。そうなれば、最早、耶律楚材とはこういう人で、こんな性格をしていて、こんな思想を持っていて…という解説は必要最小限にとどめることが出来、彼の登場する物語は、もっと大きなうねりを盛り込むことが可能となるのではないか。無論そこに、脚色とか虚構といった色付けが入り込んでくることは防ぎようが無いのだけれども。しかし私としては、色んな作家が耶律楚材をテーマとした作品を生み出せば、この人物周辺はもっと面白くなる気がするのである。
 
 陳舜臣氏は、舞台となる国や王朝、または主要登場人物が、その当時の国際情勢や世界との関わりの中で、どう運営され、生きていったかという点に着目することが多い。一国の歴史や状況だけを追うのではなく、よりグローバルな視点から、その国の歴史を捉えなおすのである。この『耶律楚材』も、モンゴル帝国を中心として、契丹人の西遼、女真人の金、漢人の宋、そしてモンゴル軍が攻め込んで行った西域国家やヨーロッパ世界が複雑に絡み合っていたことを再認識させてくれる作品なのだ。それだけに、二巻分という決して多くはない紙数に、種々の要素を詰め込みすぎて、一つ一つの要素が薄くなってしまっているのが、かえすがえすも残念なのだが、楚材を取り巻く種々相から、ある一時期の彼の動向や苦悩を切り取って作品化することで、面白いものが出来るのではないかなと考えたりもしている。
 
 今なら、耶律楚材の帝国運営にかける情熱や、恤民(じゅつみん)の姿勢、何よりも清貧に生きたその生き様が、現代日本の政治家との比較により、一層際立つかもしれない。死後に財産を調査したら、いくばくかの楽器と書画と書物しか残っていなかったという、清清しい政治家が現代日本に一体いくたり居るであろうか。
 
                      
                                    平成二十二年九月二十一日 読了
 
 
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